act10「二人のてのひら」






                 一


 必ずここにいるという確信があった。
 自分の靴音しか響かない、空洞のような廃屋。
 かつて――「桜庭基地」と呼ばれた巨大な施設は、今は無人の空洞と化していた。
 非常灯ひとつない漆黒の闇。手にした携帯ライトだけが、唯一獅堂の視界を導く。
「――楓!」
 何度目かのその名を、声を張り上げ、叫ぶ。
 応答はない。
 自分の声だけが、むなしく響いて帰ってくる。
―――いないのか……。
 別れ際、真宮が囁いた言葉。
(――桜庭基地……)
(――もう一回、行ってみたかったと思ってさ)
 あの時も不審に思った。楓らしくない言い方だったからだ。
 あまり――物事に拘泥せず、センチメンタルなことを言わない男が、らしくないことを口にした。
 それに、何かの意味が――自分だけに伝えたかった意味があるのではないだろうか。
 半年前に空自はここを撤退し、各種飛行機もコンピューターも、基地の維持に必要なものは何もかも撤去された。残るのは――電気の通わない空の施設だけ。
 基地の周辺に警備員はいるものの、広すぎる基地に侵入するのは比較的容易だった。
 内部には、むろん、侵入者を探知するシステムが稼動している。それも――獅堂は、切り抜け方を知っていた。夜間の基地に入る術は、夜勤を経験したことのある現役自衛官なら誰でも知っている。
 楓は、ここにいる。
 直感がそう告げていた。
 あれは、自分だけに告げたメッセージだった。そう解釈するのなら――絶対に一人で行かなければならないと思った。楓がそれを望んでいるなら。
 あの言葉は――もし、楓がマインドコントロールされているのなら、あれは、自分に対して発せられたSOSのサインだったのではないだろうか。
 そう信じて、獅堂は、最大級の軍規違反を犯す決心を固めた。戻れば、間違いなく、懲戒免職が自分を待っているだろう。
 だから、―――それなりの覚悟は決めていた。
 少なくとも協力してくれた相原、北條、大和には迷惑を掛けられない。
 楓を――見つけて、そして自分の手で……。
 連れ戻す。
 例え、憎まれても殺されても、他の誰かにされるくらいなら、自分の手で。
「楓!」
 もう一度、呼んだ。
 次第に焦燥が募っていく。
 乗ってきたフューチャーは、基地から離れた海岸、その入り江に着陸させた。
 この辺りの地形は全て頭に入っている。基地内をのぞけば、着陸可能な場所は、そこしか思いつかなかった。
 燈台の明かりだけが頼りだったが、逆に言えば全く人目につかない場所ではない。すぐに居場所は割れるだろう。そうなれば、さほど遠くない桜庭基地が突き止められるのは目に見えている。
―――いないのか。ここに、お前はいないのか………。
 時計に目をやる。
 タクシーで来たが、ここにたどり着いてから、もう十五分が経過している。
 やはり、見当違いだったのだろうか――そう、思いかけた時、
 微かな足音が――唐突に、背後で聞こえた。
 獅堂は振り返った。近づいてくる、もう一つの灯りの輪。
「楓………?」
―――それとも、警備員……?
 眼を凝らし、闇を見据える。
 淡い光の中にうっすらと浮かぶ長身の痩せた体。
―――楓……?
 そう思った途端、ばっと眩い光が目についた。
 ぱちぱち、と頭上の電灯が瞬いて灯される。
 その光の下に立つ――朝別れた時と同じ、白のヘンリーシャツと黒いシャツの重ね着。褪せたジーンズ姿。
「よう」
 それは、まるで普段通りの声に聞こえた。
「…………」
「暗かったろ、一部だけ、予備電源を回復させたから」
 顔も、姿も、聞こえてくる声も、確かに楓のものだった。なのに、――その立ち姿は、初めて目にする他人のもののようだった。
 丁度光が逆光になっていて、その表情は読み取れない。
「来てくれると思ってたよ、でも、案外遅かったな」
 ふざけたように呟く声。
 獅堂は、なんと切り出していいのか判らなかった。
 安堵、後ろめたさ、そして今、余りにも軽く見える楓の態度への―――不審のようなもの。
 そんなものが頭の中で渦を巻いている。
 何よりも、笑っている唇とは対照に、自分を見つめる男の眼に、突き放したような冷たさを感じずにはいられない。
「一人……か?」
 獅堂は聞いた。
「他に誰がいる」
 楓はそっけなく答える。
「どうして、こんなところに一人で来た」
「じゃあ、お前は、どうして来たんだ」
―――どうして?
 獅堂は口ごもる。それは、……それはお前が呼んだからじゃないか。お前がこの場所を暗示したからじゃないか。
「自分は、」
 だから、自分は、お前を追って――。
 隊の仲間に、取り返しのつかない迷惑まで掛けて――。
 黙っていた楓が、微かに、鼻で笑う気配がした。
 こみ上げてきた怒りを、獅堂はかろうじて呑みこんだ。
「ここの場所を……教えてくれたのはお前じゃないか」
 冷静になれ、そう自分に言い聞かす。
 が、楓は心底可笑しそうに冷笑した。
「俺を追っかける術なら、いくらだってあるだろ?上から指示されて、ここまで来たんじゃないのかよ」
「…………」
 獅堂はただ、呆然と楓を見つめる。
 何が言いたい?この変貌の理由はなんなんだ?
 それともこれが、マインドコントロールというものなのか?
「この場所のことは……誰にも、言ってはいない」
 苛立ちが、――少しずつ、足元から這い上がってくる。
「楓、お前にも答えてもらう。何で高速で……逃げるような真似なんかしたんだ」
「別に逃げてない」
「だったら、」
「お前らが、勝手に俺を追ってるだけだろ」
「――自分も、同類扱いか」
「………」
 無言で横顔を見せた楓は、冷笑を浮かべて肩をすくめた。
 ようやく、判った。楓は――もう、
 自分を信じてはいない。
 再び瞬いて電気が落ちる。
 お互いの持つライトが、二人の顔を浮き上がらせた。楓の冷たい、人形のような面立ちに、暗い闇が滲んでいる。
 獅堂は大きく息を吐いた。
「……何故、すぐに出てこなかった」
 冷静に言ったつもりだったが、声は、こみ上げる感情で震えていた。
「自分がここへ来たことは、判ってたはずだ。なんで、すぐに姿を見せなかった」
「………」
「探ってた、わけか。自分が一人で来るか、どうか」
 そう言った途端に楓は笑った。
 心底、莫迦にしたような笑い方だった。
「何がおかしいんだ」
「何も、……ああ、頭の悪いお前にしちゃ、よく気がついたと思ってさ」
「聞かせてくれないか――お前のとった、…今朝からの、行動の理由を」
 拳を握り締めながら、獅堂は聞いた。
 一時荒ぶった感情の波は引いていた。でも、静かに満ちてくる疑惑は、もう楓の顔をまともに見ることができない程膨らんでいる。
 信じたい。でも。
 信じられない。
 今朝、一緒に過ごした時と、まるで別人になってしまったような冷たい唇。表情を失った眼。
 会えば判りあえる、なんとかなると思っていた自分の自信が、頼りなく崩れていく。
 楓は壁に寄りかかり、腕を軽く組んだ。俯いたままの眼は、獅堂を見ようともしなかった。
「朝、携帯にさ」
 やがて、遠いものでも見ているような視線のまま、楓は口を開いた。
「男の声で、連絡が、あった」
 やはり、そうか。
 獅堂は密かに唇を噛む。
「それで?」
 あの時の楓の――平静な表情に安心していた自分が情けない。
「嵐に会いたければ、言うとおりにしろって、言われた」
 嵐に――。
 嵐にだって?
「じゃあ、その電話は……嵐を、拉致した組織からなんだな」
「組織かどうか、それは知らない。お前ほど、俺は情報に詳しくないんで」
 皮肉を含んだ口調だった。一瞬かっとしたが、獅堂はそれを呑み込んだ。
「声に……聞き覚えとか、特徴は?」
「さぁ、まるで」
「具体的に、誘拐した目的とか、そういう話はなかったのか」
「別に、何も」
「……………」
 さすがに獅堂は、黙り込んだ。
 楓は視線を薄闇に泳がせたまま、どこか人事のように醒めた口調で続けた。
「高速に入る前か後に、また電話があって……車を降りたら、別の車が用意されてた。三回くらい乗り継いだかな――結構遠くて疲れたけど」
 ふざけているとしか思えない態度。
「で……、ここに、嵐がいたわけか」
 獅堂は辛抱強く聞いた。楓は軽く肩をすくめる。
「これから、どうするつもりなんだ……」
「さあ」
 楓は、曖昧な顔で笑う。
「とりあえず、そいつの指示待ちってとこかな」
 そのまま――楓のライトが移動する。
 かたん、と音がした。
 ライトを床に置き、楓は、その傍に片膝を抱えて座りこんだようだった。
「案外、持たなかったな、電気」
 そして、独り言のように呟いた。
 何を……考えているのか、全く読めない。見えない。まるで初めて――彼の存在を知り、銃を向けた頃のように。
「なぁ、それより教えろよ」
 楓は、からかうような声でそう言い、獅堂を見上げた。
「お前の仲間さ、俺を捕まえてどうするつもりだったわけ?」
 声は静かで冷静だった。
 それに胸を衝かれ、獅堂は、咄嗟に動揺を隠せず、顔を背けてしまっていた。
 ライトに照らされた表情のない冷たい横顔。その唇が――小さく歪む。
「やっぱり、お前も知ってたんだ」
「自分は……」
 楓を捕らえようとしていることまでは、知らなかった。でも。
「電話掛けてきた奴が教えてくれたよ。お前らが、俺を狩ろうとしてるって」
「お前は、それを信じたのか」
「実際、本当だったんだろ」
 それは、――そうかもしれない。でも。
「嵐を……拉致した相手じゃないか」
 声が震えた。
 何故そんな電話の相手を信じる?――何故。
 何故、自分に一言………言ってくれなかった?
 頭に、――白いものが膨らんで弾けた。
「なんで……なんですぐに、警察に、いや、自分にそれを知らせなかったんだ!」
 事によっては、重大な手がかりになるかもしれない電話を。
「じゃあ、お前は、なんでそんな大事なことを俺に話してくれなかったんだ!」
 張り詰めた糸が切れたように、楓は声を荒げて立ち上がった。
 ライトが転がって、視界がふいに暗くなる。
「お前は――俺を狩ろうとしたんだ」
「何を……言ってる」
「俺が、異質の存在だから。……俺が、人類にとって今でも危険因子だから」
 きつい眼で睨みながら、じりじりと近づいてくる。まるで手負いの獣のように。
「楓、ちゃんと話を聞け」
 正直、これほど憎しみをぶつけられるとは思ってもみなかった。ここまで感情を露にした姿を見るのは、初めてだった。
「色々……お前のことで、周りが誤解しているだけなんだ」
 苦しい言い訳だと思った。
 でも、今は、鷹宮の言葉を信じるしかない。
「少し……検査してもらえば、誤解は解ける、それだけのことなんだ」
 獅堂が伸ばした腕を、楓は荒々しく跳ね除ける。
「検査だって?冗談じゃない。――そんなものは散々受けたよ。気が遠くなるほどね。何度も何度も何度も何度も!」
―――楓……。
「お前には所詮わからない。人間扱いされないことの苦しみとか、痛みとか――絶対に、理解できない」
「楓、」
 男は激しく首を振って、獅堂の言葉を拒絶した。
「この地上で――判ってるのは俺と嵐の二人だけだ。俺たちは魂の双子だ。あいつの苦しみは俺の苦しみで、俺の苦痛はあいつの苦痛だ」
 獅堂は黙る。胸を、鋭い牙でえぐられたような痛みが走る。
「その嵐の身に、何か起きようとしてるのに、俺が何もできないなんて、冗談じゃない!」
 怒りに燃える眼がふいに近くなる。
「楓……」
 両腕をつかまれ、そのまま壁に押し付けられていた。
「お前さ、一体何しに来たんだよ」
「…………」
「答えろよ、何しに来たっつってんだよ」
 冷たい目。
 もう――決して名前を呼んでくれない唇。
「……俺を説得しに来たって訳か、鷹宮さんに頼まれて?」
「ちが……」
 片方だけ離れた楓の手が、腰の辺りに触れている。獅堂ははっとして抗おうとした。
「鷹宮さんに抱かれたんだろ」
 まるで出会った当初のような――敵を見る様な攻撃的な眼。
 その手には、獅堂のウエストホルダーからぬきっ取った、小型の拳銃が握られていた。オデッセイで、新たに支給された拳銃。
 獅堂は声を無くして、呆然とそれを見つめる。
「俺が気付いてないとでも思ってた?随分前に言っただろ。気をつけろって」
「…楓……」
「で、何時やられた?俺が基地を出た後くらい?よかったろ、あの人。優しくしてくれた?――そりゃ、優しくもなるよな。お前のこと、好きで好きでしょうがないって眼してたから」
 拳銃は――そのまま、獅堂の掌に押し付けられた。
「取れよ、お前のだろ」
「…………」
 それを――獅堂が握ると同時に、フライトジャケットが、下のシャツごと引き裂かれていた。
「かっ、楓!」
 無言のまま押し倒される。硬い床面で頭を強打した。それでも楓の腕は躊躇なく、服を引き剥がし、下着に掛かろうとしている。
「ばっ、な、何考えてんだ、気でも狂ったのか!」
 さすがに平静ではいられなかった。全身で抗い、肘で――拳銃を持った手で、必死にブロックする。
「撃てよ」
 楓は冷たく言うと、薄く笑って獅堂から顔を背けた。
―――楓……。
「撃てよ、そいつで、お前は丸腰じゃないんだぜ」
「…………」
「俺、お前を強姦しようとしてんだよ、獅堂二尉。正当防衛、立派に成立するんだろ」
「…………かえ……で」
「さっさと撃てよ」
 自分の指が、目が、唇が震えている。
 冷たい床に、素肌になった肩が直に触れる。
「何やってんだ、とっとと撃てよ!」
 楓が、苛立った声を上げた。
 その腕が、獅堂のベルトを解き、下肢を露わにしようとしている。
「楓!!」
 獅堂は唇を噛み締めて――咄嗟に拳銃を構えていた。自分の上に乗る男の喉元に向かって。
「…………」
 無言で――自分を見下ろす男の眼差し。
 それが、みるみるぼやけて、滲んでいく。
 かたり、と拳銃が床に落ちた。
「……できない…………」
「…………」
「……お前が……好きなのに……大好きなのに」
「…………」
「そんなの……できるわけないじゃないか……」
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――生と死がぎりぎりで、背中合わせになる瞬間。
  眼を開けた時、そこが辿りつきたかった場所だと知った。
  旅行中にこじらせてしまった風邪。少しだけだるかった。
  この山中で、完全に悪化してしまったのかもしれない。
  案内役として同行してくれた梺の村の少年が――手を伸ばし、何かを指し示している。
  山間の間から溢れる朝陽。金褐色が一面に広がる空、そしてどこまでも広がる大地。
  その輝きを、その、地球の命の煌きを――
  一番に見せたいのは、ただ、一人だけなのに。
  (綺麗だな、嵐)
  声が聞こえた。――幻聴かと一瞬迷う。
  (馬鹿だな、何を驚いてる。俺たちは、ずっと一緒だったじゃないか)
  ああ、そうだ……。
  (地球に生まれたことを――俺たちが生きてるってことを、実感するな)
  そうだ、そうだな。
  俺たちは、ずっと、一緒だった。
  今も、そしてここに来る前も。これから先も――。