act9 造反

 
 

                   一


「EUR……?」
 鷹宮と共に歩きながら、獅堂はそう呟いて携帯電話を切った。
 楓は出ない。もう――何度も掛けているのに、楓は出ない。
 溜息をついて、それをポケットに滑らせる。
 今―― 一体、楓はどこにいて。
 何を考えているのだろう。
 オデッセイの連絡通路だった。
 ピースライナーを降りた獅堂は、大和や北條とは別に、鷹宮に連れられて、最上層にある室長室に向かっていた。
 天の要塞、オデッセイ。
 新たに建設しなおされたというが、構造や雰囲気は、何もかも昔のままだ。通路を踏みしめる感覚も、壁の色彩も、天井の高さも、窓に映る風景も、何もかも以前のパージョンと変らない。
「そうです、EURです」
 少し先を歩く鷹宮は、振り返らずに言葉を返してくれた。
 獅堂が知っている限り――「EUR」とは欧州連合の略称を指す。
 近年、アメリカ合衆国との対立を深め、ベクターの所有を巡って激しく争っているのは――政情に疎い獅堂でも耳にしている。
「まさか、」
 獅堂は呟いた。
「そのEURが、ベクターの死を画策し、嵐を拉致したってことなんですか」
 鷹宮は振り返らない。振り返らないままの背中が答える。
「少なくとも、NAVIはそう主張しています。嵐君のことはともかく、ウィルスを生成したのは、EUR――主にドイツ与党、改憲党が抱える科学者集団たちの仕業ではないかと」
「…………」
 何のために。
 何の理由で、新たな未来を切り開くはずの才能――ベクターを削除しなければならないのだろうか。
 答えを求め、獅堂は鷹宮の背中を見る。
 鷹宮は足を止めた。
 振り返る――その眼差しで、ようやく獅堂は、この男が今、ひどく苦悩しているのを知った。
「EURと日米政府の間には……台湾有事の脅威が去って以来、水面下で深い確執があったんです。ある、ひとつの"情報"の所有をめぐって」
「情報……ですか」
 まだ鷹宮が何を言いたいのか、獅堂には読めない。
 しばらくの間、沈黙があった。
「世界が…、先の戦争からのダメージを脱しきれていない頃は、まだ良かった……」
 鷹宮は、再び獅堂に背を向けると、呟くように続けた。
 窓の外を、演習中のフューチャー戦闘機が轟音を上げて飛び去って行く。
「――世界各地に存在する天才、NAVIの獲得を巡って、米国とEURが対立しているのはご存知ですね」
「………」
「より多くの能力を手に入れた方が、今後の世界をリードしていくことができる。が、ご存知のとおり、ベクターの大半は、NAVIを頼ってアメリカに移住する」
「………」
「ウィルスの発生以前から――実はその獲得争いのために犠牲になったベクターは少なくないんです。事故、自殺……疑わしい事例はいくつもある」
「……そんな、」
「レオナルド氏の台頭もあって、ますますベクターを自国に留めておく事が難しくなった。……米国に流れたベクターを、いや、そもそもこんな争いの元凶になる種を、滅するために……作り上げたものなのかもしれない」
 そこで言葉を切り、鷹宮は顔を上げた。
「室長室は、この奥です」
「…………」
「一人で行けますね、続きは、阿蘇室長の方からお話があるでしょう」


                  二
 

「久しぶりだな。獅堂一尉」
 室長室。
 窓際に立ついかつい体格をした男――室長、阿蘇洋二郎は、獅堂に背を向けたままそう言った。
 窓から射し込む光が逆光になって、男の体躯は、暗い影に包まれている。
 阿蘇洋二郎――オデッセイ−eの現場最高指揮官。
 防衛局電波部時代、右京の上司だった男。
――……あの時と、同じだ。
 男の背を見ながら、獅堂は思った。
 心の中から削除してしまいたい苦い記憶。あの日も、この男の身体は暗い影に覆われていた。
 それを振りきるように、獅堂は感情を押さえて口を開いた。
「獅堂藍、召集により搭乗いたしました」
 そのまま――敬礼。
 阿蘇は静かに頷いた。
「地上を離れるという意味が、わかっているかね」
 重い口調だった。
「………」
 獅堂は無言で唇を噛み締めた。
「自分は、真宮楓と――未入籍ですが、結婚しております」
 阿蘇の背中は動かない。
「全て自分の意思で決めたことです。ですから、」
「獅堂君」
 初めて阿蘇が振り向いた。
 深く皺が刻まれ、最後に見た時より随分と老いた印象が強い。
「君は空自が誇る、世界最高峰の戦闘機パイロットだ。後にも先にも、君ほど優れた能力を持つ者は現れないだろう。その評価は今でも変わっていない」
「………」
「けれど同時に、私は、君の戦闘機パイロットの資格を、未来永劫に剥奪できる権利も持っている」
 頭の中で――何かが、白く固まって行く。
「私がその権利を行使しないで済むよう、判断し、行動してくれることを望んでいるよ。獅堂君」
 どこかで……覚悟していたセリフ。最悪こんな処分もあるかもしれないとは思っていた。
 自分が再起動したオデッセイに召集されない理由――真宮楓と、結婚という形で一緒になってしまったから。
 握った拳が、抑えきれずに震えている。楓と空を比べることなど、最初から出来はしない。自分は――。
「鷹宮から、あらかたの説明は受けたと思うが」
「…………」
 思わず目を伏せる。
―――阿蘇室長の腰ぎんちゃく……。
 信じられない、信じたくない。が、今の鷹宮は――間違いなくこの男の指示で動いているのだ。
「こういった事態になった以上、もう、真宮楓を自由にさせておくのは余りにも危険だ。真宮嵐を拉致した連中の狙いは、どちらかといえば、兄の方にあるはずだからな」
「楓を……どうして、狙う必要があるんです」
 阿蘇はそれには答えず、薄っすらと笑った。
「いずれにしても、君の役目はもう終わった。拳銃の返却も許可しよう。真宮楓の身柄は、我々防衛庁が保護した上で、米国に輸送する」
「は…………」
「これが、真宮楓の処遇についての――首脳陣が下した最終決定だ」
 言われている意味が判らない。理解できない。
「彼の身柄は、今後半永久的に米国防総省で拘束する」
「そんな……馬鹿な…っ」
 獅堂は、搾り出すような声を上げた。
「何故ですか!もう、真宮にはなんの危険もない!それは、」
―――それは逐一、あなたに報告したはずだ。
 言葉を呑んで唇を噛み、顔を伏せる。
 危険人物である真宮楓を、公私に渡って監視すること。精神的にコントロールすること。
 それが――帰国の条件だと聞かされた。
 楓を日本国に帰国させるに当たって、どうしても必要なことなのだと。
「獅堂一尉、君のミッションはこれで終了だ。もう、真宮楓を監視する必要はない」
 轟然とした声だった。
「未入籍とは幸いだったな、今度は在来種と、普通の結婚でもしたまえ」
 獅堂は拳を握り、胸元へ持って行き、…また、それを下ろした。
 この憤りを、どこへ持って行けばいいのか判らない。
 どうしたらいいのか――判らない。
 その時、阿蘇のデスクのベルが鳴った。
 阿蘇は眉をしかめて電話を手にする。一瞬にしてその表情が険しくなる。 そして、上目遣いにちらっと獅堂の顔を伺い見る。
 ひどく嫌な予感がした。
「入れ、話しは、直接聞こう」
「阿蘇室長、自分は、」
 電話を置いた阿蘇に、獅堂が何か言おうとすると、男は手を上げてそれを遮った。
「とにかく、待ちたまえ、君にも判る」
「……何がです」
「君の信頼している男が、何一つ信用できないということがな」
―――え……?
 阿蘇が電話を置いてしばらくすると、獅堂の背後で電子ドアが開いた。
「失礼します」
 低音の、歯切れの良い声。
―――鷹宮さん。
 獅堂は少し驚いて振り返る。
 入室し、形良い敬礼をした鷹宮は、ちら、と獅堂に目をやって眉を寄せた。その表情の暗さに、獅堂は、はっと息を引いていた。
「ここで報告しても、よろしいですか」
 眉をしかめたまま、鷹宮は呟いた。
 阿蘇は答えない。
 鷹宮はしばらく黙り、微かな吐息と共に、それでもしっかりとした口調で言った。
「――真宮楓が逃走しました」
 獅堂はゆっくりと振りかえった。
 今、鷹宮が口にしたことの意味が、しばらく理解できなかった。
「高速に入る手前で、乗り捨ててある彼の車を発見しました。現在のところ、行方はまったくわかっていません」
「国内か」
「そのはずです。いまだ、空港でも港でも、姿が発見されていませんので」
「引き続き、厳重に包囲しろ、あの男は必ず国外に出ようとしているはずだ」
「了解」
「鷹宮……さん…?」
 鷹宮の顔に表情はない。
 その横顔は冷たく、無表情のまま動かない。
―――ああ、そうか…。
 獅堂の胸に、空虚なものが広がって行く。そうか、この人は……最初から、――最初から阿蘇サイドの人間だったのだ。
 今朝別れたばかりの楓の笑顔。
 触れた唇。
「待ってる」そう言って見せたきれいな八重歯。
 あの時――あれが、最後になるはずだったのか。
 それを、それを全部知っていて………。
「知ってて……」
 言葉がそれ以上続かない。鷹宮を見る眼に、次第に怒りが膨らんで行く。
これほどの憎しみを込めて、この男を見たのは初めてだった。
 鷹宮は眼を細め――何か言いた気に口を開きかけたが――そのまま、静かに面を伏せた。
「君は、真宮楓に深入りしすぎた。獅堂君、その意味がわかるかね」
 背後で阿蘇が、静かな口調で言った。
「確かに君は真宮楓をコントロールした。そこまでは我々の指示どおりに。――しかし今は違う。我々はむしろ、君が真宮楓にコントロールされている可能性が大きいと見なしている」
「―――だからといって、何故、今になって」
 爆発しそうな怒りを、拳を握り締めることで紛らわす。
「獅堂さん」
 鷹宮が、耐えかねたように口を開いた。
「放っておいてくれ。あなたの、」
 今一番腹が立っているのは、何故か鷹宮に対してだった。ずっと騙されていた。自分の使命も、苦しみも、何もかも知っていたはずなのに。
「あなたの顔は、二度と見たくない!」
「獅堂君」
 阿蘇の声は、どこか楽しげでもあった。
「真宮楓は、もう、かつての彼ではないのだよ」
―――え……?
「ああ、こう言えばいいのかな、君といた時の真宮君が、本来の彼自身ではなかったのだ。あの青年は、中国共和党時代、強力なマインドコントロールを受けている。それも、自分では意識できないレベルの――深層意識下で」
「……それは、」
 楓の……記憶がところどころ抜け落ちているのは知っていた。
 昔の忌わしい記憶が、ひどいトラウマになっていたのは知っていた。
 でも――それは、
「……真宮には、なんの危険も問題もありません、もう、過去のことは」
「彼はね、獅堂君、共和党科学者のリーダー、姜劉青の顔さえ、まともに記憶してはいなかったのだよ」
 阿蘇はデスクの引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。
「これが、最新の情報を元にモンタージュした、あの男の合成写真だ」
「…………」
 獅堂は、無言でデスクの前に歩み寄る。
「用心深い男でね、素顔を公の場にさらすことは滅多になかったらしい。むろん、写真は一枚もない。真宮楓は、彼の瞳を銀色だと言っていたが、実際はまるで違う」
 デスクに投げてある紙を持ち上げる。
 一目で――記憶が鮮明に蘇った。
 はっとして顔を上げると、頭上から阿蘇が、どこか曖昧な顔で見下ろしていた。
「……見覚えがあるかね」
「……一度……」
 長い黒髪、黒い穴のような闇色の瞳。頬骨のつきでた無骨な顔。
 一度見たら、忘れられない、特徴的な顔だった。
 クリスマスの朝、……マンションのエントランスの前で、楓と――一緒にいた……。
「……真宮と……一緒の所を」
 信じられない。
 信じたく――ない。
「その時、真宮楓はなんと言っていた。彼は、目の前の男が、かつての同士だと認識できていなかったのではないかね」
「…………」
 獅堂は力なく肩を落とした。何も――反論することができない。
「我々は、ここ数ヶ月で、真宮楓のマインドコントロールが、ますます強力になっていると確信した。彼はなんらかの方法で、姜劉青と連絡を取り合っていた形跡さえある」
 そう言った阿蘇は、そのまま鷹宮を振り仰ぐ。
「そうだな、鷹宮君」
「……そのとおりです」
「嘘だ」
 咄嗟に声が出てしまっていた。
「そんなこと、有り得ない、どうしてそれが――そんなことが、あなたたちに判るんです!」
 傍にいた自分にも判らなかった。―――そんなことが、どうして。
「獅堂さん」
 口を開いたのは、阿蘇ではなく、鷹宮だった。
「私は電波部通信所の人間です。通信傍受が……私の主な仕事です」
「…………」
「真宮君は、盗聴器にだけは気をつけていたようですが、いくら警戒しても、盗聴する術はいくらでもある。あなたが常備していた拳銃も、その一つです」
 何も考えられなかった。
 考える前に、拳が出ていた。
 思い切り殴ったはずなのに、鷹宮はわずかに足元を揺らしただけだった。
 収まらない感情は、もう一方の拳になって、今度は逆の頬を殴りつけていた。
 それでも――鷹宮は、立っていた。


                三


 なにを、どう考えていいのか判らなかった。
 阿蘇の部屋を後にして、――獅堂は、廊下に備えられた、休憩スペースのソファーに腰を下ろした。
 傍らに立ち、無言で背を向けたままの鷹宮は、部屋を出て以来、一言も口をきかない。
 獅堂も、目を逸らし続けていた。
 顔を見るのも、声を聞くのも不快だった。
 吐き気がする。
 この人は――最低の方法で、ずっと自分を裏切っていたのだ。
「……あなたを、見損ないました」
 それでも、何か言わずにはいられなかった。そうでなければ、このまま――涙を堪えられそうもなかった。
「最低ですね。それでも人間ですか、楽しかったですか、愉快でしたか、何も知らない自分が、さぞおかしかったでしょうね」
 鷹宮は答えない。
「……何か言ったらどうですか」
「…………」
 場内アナウンスが聞こえている。天の夕闇が――窓の外に落ちている。
「言ったらどうですか、あなたは――自分のしたことの意味が、わかってんですか!」
 立ち上がったはずみに、涙が零れた。
 何もかも、聞かれていたんだ。
 二人だけの会話も、二人だけの夜も。
 何もかも。
「最低だ……っ、嘘つき、卑怯者!」
 拳を握る――それで、動かない男の胸を叩く。
「もう二度と、自分に話し掛けないでくれ、もう二度と、その顔……見せんなっ」
「…………」
「う……っ……っ」
 涙が――もう、止まらない。
 拳を握ったまま、ずるずると膝をつく。
 こんなに悔しい感情を初めて知った。
 こんなに――誰かを憎んだのは初めてだった。
「……獅堂さん」
「…………」
 頭上から響く声。
 不思議だった。
 こんなにも、悔しくて、憎い。―――なのに、それでも、声を聞くと、どこかでほっとしている自分がいる。
「……言い訳する気はありません、ただ、これだけは言わせてください」
「…………」
 床に、自分の涙が落ちている。
 それが、みるみるぼやけていく。
「他の誰かがするくらいなら、私がしようと思いました。あなたのプライバシーを」
「…………」
「他人に覗かれることだけは、絶対に許せなかった」
「…………」
 そんなの――言い訳だ。
 言い訳しないって言った癖に、―――卑怯だ。
「……許してもらいたいとは、最初から思っていません」
「消えてください」
 うつむいたままで、獅堂は呟いた。
「……自分の前から、もう、いなくなってください」
「…………」
 わずかな沈黙の後、歩き出した足音が――遠ざかっていく。
 ぼんやりと……その音を聞きながら、ふいに獅堂は、楓のことを思い出していた。
―――楓……。
 楓。
 楓から見れば――自分は、鷹宮と同じなのではないだろうか。
 どんなに言いつくろっても、言い訳しても、楓から見れば。
 裏切っていたと、騙していたと、そう――非難されても仕方ないのではないだろうか。
 そんな自分に、鷹宮を責める資格があったのか。
 今――自分が、楓にしたいと思っている言い訳を、鷹宮も――自分にしたかったのではないだろうか。
 獅堂は唇を噛み締めて目を閉じた。
 これから――何を、どうすればいいのだろう。
 自分は――これから、どうしたらいいのだろう……。
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どうしたら。
  言葉以上に心を伝えることができるんだろう。
  身体以上に心をつなぐことができるんだろう。

  こんなにも、今。
  君を求めているというのに。