八
鷹宮が……何を言っているのか、自分の耳にしたことが何なのか、獅堂はしばらく、呆然としたまま、その意味を考えていた。
右京さんは――。
室長は、病気で、
ずっと、連絡が取れなくて――。
「ど……して、右京さんが」
「…………」
「どうして、そんな所におられたんですか、意味が判らないです、そんな、変異って……どういうことなんです」
思わず、座ったままの鷹宮の肩を掴んでいた。
顔を上げた鷹宮は、それでもどこか――突き放したような眼で獅堂を見上げた。
「なんで、」
初めて獅堂は、この男が恐くなった。
どうして鷹宮が、そんなことを知っているのだろう。
どうしてそれを、今になって自分に話してくれるのだろう。
「あなたは、それを知っていて、……最初から、右京さんのことを、全部知っていたわけですか」
最初から――。
ずっと、欺かれていたのだろうか。
「右京室長の身柄は」
獅堂の手を、鷹宮はゆっくりと振り解いた。
「今年の春、レオナルド会長が強引にNAVIに移転させました。ある――非常に重要な情報をペンタゴンに渡すのと引き換えに、右京さんの身柄をNAVIのメディカルセンターに移転させたのです」
「…………」
「……HBH……ウィルスはこう命名されていますが、HBHの最初の犠牲者は、右京さんが収容された、その施設から出たとも言われています。……各地でベクターの不審死が起こり始めたのも……右京さんの移転が機になったと言われている」
「………………」
ようやく獅堂は、最初の話と、右京の話の繋がりを理解した。
それは、暗然とする符号だった。
では――それでは。
ベクターを死に至らせる、謎のウィルスとは。
「……まさか、右京さんが原因ということなんですか、そうなんですか」
「それが一番有力な線だと言われています」
鷹宮はさすがに苦しげに眉をしかめた。
「現在レオナルド・ガウディ氏も高熱を発して入院中です。そして、ドロシー・ライアン氏に至っては、すでに死亡しているとの報告もあります」
「……本当ですか」
「本当です」
獅堂は、自分の唇が震えるのを感じた。
二人の名前はよく知っていた。楓の――大切な人たちだ。
手足が…先の方から、少しずつ冷たくなっていく。
「このことで、米国では、今、国防総省とNAVIが、激しく対立しています。謎のウィルスの元凶は、右京さんなのか」
鷹宮の声は、あくまで静かに、落着いている。
「それとも、ベクターを葬るために人為的に作り出されたものなのか」
―――人為……的に……?
「この新種のウィルスは、自然界に突然発生したのではなく、人為的に生成されたのだろうというのが、NAVIの主張なのです」
「それは、つまり………」
「――ある組織が、…ウィルスを使って、ベクターの謀殺を行っている、ということです」
―――ベクターの……謀殺……?
何故、と聞こうとして、獅堂は、はっとして口をつぐんだ。
脳裏に閃くものがあった。
今――緊張を高めている世界情勢。
その原因のひとつに、ベクターの亡命、という問題が絡んではいなかったか。
獅堂の沈黙を理解したととったのか、鷹宮は小さく頷いた。
「真宮兄弟はその件に関して、独自に調査していたようです。嵐君は、その過程で、関係者に拉致された可能性が大きい」
「え?」
らち?――――拉致?
聞き間違いでなければ、鷹宮は、今、そう言った?
「嵐君は、四日前から消息を絶っています」
今日聞いた男の声で、一番沈鬱な声だった。
「防衛庁と警視庁では、嵐君が拉致されたと断定した上で、現在、捜索を続けています」
獅堂は眉をしかめた。
「拉致………?」
鷹宮の眼からは、なんの感情も読み取る事はできない。
一体、誰に?
何のために?
ただ、混乱して言葉が出ない。それより、この事実を楓が知ったら―――そう思うだけで、ほんの数十分前に別れたばかりの恋人を引き戻したい衝動にかられる。
獅堂は、はっと、眉を寄せた。
ふと、胸に閃く情景があった。
今朝の妙な電話。
あれはなんだったのだろう。迂闊だった。間違い電話にしては、楓の声が一度も聞こえなかったのに。
「鷹宮さん!」
不安が……ざわざわと広がって行く。
「楓は――いや、嵐は、」
どうすればいいのだろう。判らない、でも。
「大丈夫、おそらく、嵐君の身柄は無事でしょう」
「そんな、そんなこと、どうして判るんです!」
「判ります。拉致の目的は嵐君ではなく、あくまで楓君だからですよ」
―――は……?
鷹宮の眼が――恐かった。
獅堂は、座席の手すりを握ったまま、息を呑むような思いで、その端正な顔を見下ろした。
「嵐君を捕らえれば、彼のためなら命さえいらないと思う男が、どんな罠にも――罠と判っても、飛び込んでいくでしょう。要求があれば、国家機密を簡単に引き出し、どんな罪を犯してでも国外へ逃走するでしょう」
「…………」
「嵐君は、そのために捕らえられた可能性が高いからです」
―――楓か。
それは――楓のことか。
背を向けて駆け出していた。その腕を掴まれる。
背後の席で、大和と北條が驚いて立ち上がる気配がする。
「離せっ、戻らなきゃ――楓が!」
「もう遅いんですよ」
「何がですか!」
「この機は、自衛隊の法規にのっとって運航している、あなたに、それを止める権利がありますか?」
「……鷹宮さん……」
この人は――。
もしかして、最初から――何もかも、承知の上で。
「落ち着いてください、嵐君を捕らえた人物の検討はついている。彼を取り戻すためには、楓君への連絡を待つしかないんだ」
「…………」
―――楓は……。
じゃあ。
「あいつは……おとりですか」
「彼の身辺には、今、何重にもガードがついています。決して囮ではない、安心してください」
安心?
獅堂は――まるで見知らぬ人を見るような思いで鷹宮を見あげた。
何を信じて、何を――安心しろというのだろうか。
「嵐を拉致した目的は……本当に楓なんですか」
返ってくる返事はない。
「一体、誰なんです、それは、何のために!」
それにも、鷹宮は無言だった。
「楓は……どんな無茶でも、やりますよ」
獅堂は、唇を噛み締めた。
犯罪ですら厭わないだろう。嵐のためなら――嵐を助け出すためなら。
「そう、彼は、どんな危険でもいとわずに飛び込んでいくでしょうね。あなたのことなど振り向きもせずに」
冷たい声だった。一瞬何を言われているのか判らず、獅堂はただ、鷹宮の横顔を見つめた。
「あなたと楓君は、これ以上、一緒にいるべきではない」
表情の読めない横顔。真面目なのか、ふざけているのか。
けれど振り向いた眼は、今まで獅堂が見た中で、一番真剣なものに見えた。
「あなた方二人は、まるで檻に囚われた鳥のようだ。お互いを庇い、守ろうとして、どちらも空へ飛び立てない。――このままでは、いつか二人とも」
「………」
「自分に翼があることさえ、忘れてしまう」
真剣な――こわいものを含んだ瞳。
「何……莫迦なこと、いってんですか」
獅堂は目をそらしていた。笑おうとして、笑えなかった。
そして、思い出していた。今朝――楓と抱き合ったときに胸にかすめていった感情を。
「オデッセイに着いたら…」
到着のアナウンスが流れた。鷹宮はシートベルトをロックした。獅堂も、わずかに躊躇して座席につく。焦燥はあるが、ここまで来たら、いったんオデッセイに降りるしかない。
「あなたには、阿蘇室長からお話があると思います」
どこかぎこちない所作は、わざと獅堂から顔を背けている風にも見れた。
鷹宮はしばらく躊躇した後、低い声で――続けた。
「―――あなたが、三年前に受けた、真宮楓君に関するミッションのことで」
獅堂は、うつむいた顔があげられなかった。
時が、一瞬凍りついたような気がした。
九
何の、音だ…?
楓は眉をひそめた。エンジンの音に紛れて響く微かな――それでいて耳につく電子音。
いつから聞こえているのだろろう。規則的な発信音。電話……?
―――ああ、電話だ……。
楓は、すぐ傍の路肩に車を停車させた。
そして、気づく。―――ここは何処だろう。
俺は――どこに向かって車を走らせていたのだろう。
ぼんやりとステアリングを見る。見慣れない皮の色、差し込まれたキーも、初めて見るようなキーホルダーがついている。
―――ああ、電話だ。
はっとして振り返る。
後部シートに投げ込んでいた上着。そのポケットから携帯電話を掴み取り、通話ボタンを押す。耳に当てると、待っていた様に声が響いた。
(……どうやら防衛庁の一部が、君を捕獲する方向で動いていたらしい、危険なところだったよ、真宮博士)
―――また、この声………。
ふっと――意識が遠くなる不思議な感覚。
駄目だ――いけない。
このままでは、いけない。
(……ここで、車を降りるんだ、真宮博士、あとは私の言う通りにすればいい)
「……お前は……誰だ」
霞んでいく意識の中で、かろうじてそう言った。
電話の向こうから笑い声が響く。
頭が痛い。どうして、こんな、目眩でもするように、意識が歪んでいくのだろう。自分の意思が――砕けて流れていくような。
(……まだ、思い出せないのか、真宮博士、……私だよ、君の大切な恋人じゃないか)
通信状態が不安定で、男の声がよじれて乱れる。
「……何のことだ、……ふざけてるのか」
しかし、電話の声は可笑しそうにくっくっと笑う。
(……すぐに記憶は鮮明になる……序々に暗示は解けていくはずだから……真宮博士、どれだけ君に会いたかったろう、去年再会した時は、思わず抱き締めてしまうところだった)
「………?」
なんの話だ――?
こいつは、この声は――誰だ……?
(……その時渡した携帯電話……それを今、君は持っているじゃないか)
「…………」
(……君は、ちょくちょくメールをくれたじゃないか、嵐君のアドレスも、君が教えてくれたんじゃないか)
「…………」
(……今だって、君は、今朝私が指示したとおり、何台も車を乗り換えて――ここまで辿りついたんじゃないか)
―――判らない。どういうことだろう。記憶が……。
(あのメールは、私から君たちへのメッセージだよ、真宮博士。君たちを狩ろうとしている者がいる、誰も……信じてはいけないと)
「…か、る………?」
(……ペンタゴン、そして防衛庁の、連中)
「…………」
(……防衛庁の手先として、君を監視している女のこと)
何を、言っている……?
(まだ甘いな、真宮博士。言ったろう、女を簡単に信じてはいけないと)
それが獅堂にことを言われていると判り、楓は電話を握り締めた。意識が、その刹那だけ鮮明になった気がした。
「ふざけんな、お前、一体、なんなんだ」
受話器の向こうからは、沈黙しか返ってこない。
「誰を信じようと俺の勝手だろうが、お前に何が判るっていうんだ」
再び沈黙。
楓は――言い知れない不安を感じた。
―――こいつは、誰だ……?
(……じゃあ、誰を信じる?果たして君に、私以上に信じられる者がいるのかな)
足元が揺れている。信じていた現実が――ゆらゆらと揺らいでいる。
「……お前は誰だ」
息が苦しかった。
心臓が――嫌な感じに高鳴っている。
「言え、お前は誰なんだ!」
(彼女が何故、あの朝、黒の森で、都合よく君と再会したと思ってる)
「……は……?」
心臓に、冷たい水を流し込まれたような感じがした。
そして、楓は理解した。
俺は――こいつの名前を知っている。
そうだ、俺は――もう、もう随分前から。
「……劉……青か」
(……やっと、名前を呼んでくれた)
劉青。
姜 劉青。
足が……がたがたと震え出す。手の指が、冷たく凍り付いていく。
様々な記憶が溢れ出す。あれは――夢なんかじゃなかった。全て、全て現実に起きたことだった。現実に、この男に強要されたことだった。
(……真宮博士……あの女は君の敵だ)
冷たい――金属がきしるような声。
「……藍のことか」
(藍……はは、はははは)
乾いた笑いが受話器から聞こえる。
「何がおかしい、……なにが、言いたいんだ」
(……偶然の再会?笑わせてはいけない)
「…………」
(真宮博士、彼女はね、あらかじめ知っていたんだよ。君が、あの朝、あの場所を訪れることを)
「………あの、朝……?」
(黒の森さ、君たちは、まるで恋愛小説のように劇的に再会して、そしてその三日後にはセックスして、恋人になっていたじゃないか)
「…………」
(通信衛星を通じて、彼女は君の行動の全てを掌握していたんだよ)
「嘘だ、……何を言ってる、何を証拠に」
自分の声が揺れている。
声だけじゃない、自分の――存在そのものが揺らいでいる。
(……では君は、あんな出来すぎた偶然が、本当にありうるとでも思っているのかな)
「…………」
(……それがあの、忠実な軍人に下された任務だとは、爪の先ほども疑ったことはなかったのかな)
「やめろ……劉青……」
(甘いな、博士、この世界に偶然も奇跡も有り得ない。あるのは必然、防衛庁が彼女に下した指令という必然だけだ)
「やめろぉ!!」
ステアリングを叩く。
首を振って、否定する。
偶然という、そんな言葉では片付けられない運命。
獅堂とのことは――そう信じていた。
そんなものが、この世にもしあるとするのなら。
希望を、奇跡を信じてもいいかもしれないと。
(君は日本政府にとって最大級の危険因子だ。その君を帰国させるにあたって、君を監視し、完全に誰かのコントロール下に置くことを考えた……不思議でもなんでもないことだ)
「…………」
(……あわれな君は、まるでペットのように――愛という嘘の檻に閉じ込められて、完全に抵抗する術を失った)
「…………」
(犬のように飼いならされ、鎖につながれ、セックスまで監視され……惨めだな、真宮博士……私が君なら、とっくに気が狂っているよ)
やめてくれ、叫びは声にならなかった。
嘘だ。――嘘だという思いと、それを否定できない渦のような疑惑。
出来すぎた再会。
はにかんだような笑顔、「傷心旅行ってやつだ」声。よく眉をしかめる癖。黒い瞳。「真宮…」耳元で囁かれた掠れ声。甘いくちづけ――そして、何かを言いかけて、やめる癖。
(しかも彼女は、拳銃を常時所持して、君が何か事を起こせば、いつでも射殺する心積もりだった)
「…………」
(……センチメンタルな君と違って女は計算高くて冷静だ、彼女の荷物を開いてみたことがあるか?見慣れない黒のプラスチックケースを、目にしたことはないか)
「…………」
楓は黙る。
手荷物には――決して触れないでくれと言っていた。隊の仕事を持ち帰ることもあるからと。
(身体を張った任務の報酬が、空の要塞への栄転だ。その彼女をわざわざ基地まで送るピエロ……それが、かつて、私が誰よりも愛した君だというのが、心苦しい)
「…………」
冷静になれ、楓は自分に言い聞かせた。声を聞いているだけで朦朧と溶けてしまいそうな意識。
もっと、しっかり覚醒して、自分の意思で考えなければ。
ステアリングに頭を伏せる。
ぼんやりと、色んな記憶が蘇ってくる。
(……在来種どものことなど、案ずるな、真宮博士)
でも、今は。
この忌わしい声だけが、現実で、そして全てだ。
(……彼等が君に何をした。君は、私を釣り出す道具として、ただいいように泳がされていただけだ。君を守った右京奏が、今、どんな目にあっているか知ってるのか)
ふいに出てきた意外な名前に、楓は、重い頭を上げた。
―――右京……さん?
(彼女は私たちの貴重な同胞だ。唯一種を残せる能力を持っていた。それを在来種どもは好き勝手に切り刻み、挙句に人格まで破壊した)
――――右京さんが?あの女が?
色んな過去の断片が、頭の中で揺らいでは消える。
「あ――あの人が、どうなった、あの人はどうしているんだ!」
迂闊だった。至る所にヒントはちりばめられていたのに。
(彼女は、君を守ろうとしたのだ)
「……俺を……?」
(君の身代わりになって、ペンタゴンに身体を提供したのだ。職も、恋人も、約束された未来も全て捨てて)
「何故だ……何故、そんな」
自分の手が、おかしいほど震えている。
さほど親しくしていたわけではない。
そんなに――話をした仲でもないのに。
(……それが、種の本能だからだよ、真宮博士)
「………本……能?」
(なのに、その間、君は一体何をしていた、女への愛に溺れ、籠の中で、呑気に歌でも歌っていたか)
「…………」
(右京奏の人格、キャリア、人間としての尊厳、在来種どもは、それを玩具のように踏みにじった。それが異種の存在を決して認めず、排他しようという彼等の本性だからじゃないか)
「…………」
(我々は決して分かり合えない、どちらかを、徹底的に滅ぼし尽くすまでは)
「…………」
(……さあ、真宮博士。そろそろ潮時だ。私のところへ帰って来い。君の大切な弟が、ずっと君を待っている)
「…………!」
楓は愕然と顔を上げた。
――――嵐……?
(……最後に会っ夜からずっと連絡が取れなかった弟だ……今は私が庇護している。さぁ、返って来い、真宮博士)
―――嵐?
嵐?
「……嵐が、お前のところに?」
ドイツに飛ぶと言った嵐。
では――では、今、劉青はドイツにいるのか?
ああ、そうか。メールだ。
メールの送り主が劉青なら、嵐は――。
電話が鳴っている。
聞きなれたいつもの音。
電話が――鳴っている。
それに被さり、嘲るような声が響く。
(……さぁ、どちらを選ぶ、真宮博士、魂を分けた弟と、そして君を飼い殺しにした軍の女と)
楓は目を閉じていた。長い、長い間――そして、ようやく顔を上げる。
「……判った、劉青」
冷たく冴えた感情が――それが今の全てだった。
「お前の言う通りにする、よく判った、俺には信じるものなんて、なにもない」
(……自由の国だ、真宮博士、二人で作ろうと決めたじゃないか)
そうだったな……。
苦く笑い、頷いた。
サイドミラーに自分の顔が移っている。恐いくらい冷たい目をしている。
楓は携帯を持ち直した。
「で――俺は何をすればいいんだ」