五


「楓!」
 獅堂は叫んだ。
 楓を囲むようにして歩かせていた警備兵が振り向く。
 先ほど、車を通した時、確かにIDを見せた相手である。獅堂はさすがにむっとした。
 警備兵といっても、新卒の平隊士である。その顔が――自分たちの上官でもある獅堂の姿を認め、少し吃驚したように歪んでいる。
「すいません、……一応、規則ですので」
「もういいだろ、こいつは自分の家族なんだ」
 息を切らしてそう言うと、さすがに驚いた顔で立っている、楓の腕を強く引いた。
「何やってんだよ、こういう時は拒否しろよ」
「まぁ……別に、やましいことがあるわけじゃないし」
 戸惑った顔に見下ろされる。
 獅堂は、胸が――きゅっと痛むのを感じた。
 元来プライドの高い男が、こんな――犯罪者でも扱うような、無礼な対応をされて、傷つかないはずがない。
 でも、ここでもめれば、多分、自分に迷惑が掛かると思ったから、それで諾として車を降りたのだろう。
 さっき、別れたばかりで――もう、あれで、当分会えないと思っていたのに……。
 手を繋ぐ。
 冷たくて、暖かいてのひらを強く握る。
 楓は黙っている。黙って――視線を周囲に走らせ、そして、身体をわずかにかがめてキスをしてくれた。
 触れるだけのキスは、すぐに離れ、お互いに、手だけを強く握り締めた。
「……悪い」
 楓は呟く。獅堂は、少し照れたまま、視線をそらして頷いた。
「うん……」
「体、気をつけろよ」
「うん……」
「浮気すんなよ」
「うん………」
 離したくない。
 獅堂は思った。
 離したくない、別れたくない。
 こんな思いは初めてだ。触れる手の熱さ、髪の香り、華奢な肩……苦しいくらい、全部が愛しい。
「桜庭……基地」
 囁くような楓の声が、ふいにした。
「え……?」
―――桜庭基地……?
「そういや、もう一回、行ってみたかったと思ってさ」
「…………」
「思い残した事、今朝、お前が言ってたじゃないか」
 獅堂は、ゆっくりと楓の顔を見た。楓は、笑っている。
 ほっとするような――優しい笑顔を浮かべている。
「行こう、行けるよ……休みが取れたら、連れてってやるよ」
 楓はそれには答えず、その微笑を口元に残したまま、緩やかに手を離した。
「じゃあな」
 車に乗り込み――いったん切ったエンジンを回し、発進させる。
 窓越しに、最後に片手を上げる横顔だけが見えた。
―――楓……。
 視界から遠ざかって行く車体を見ながら、獅堂はどうしてこんなに胸が痛むのか、苦い記憶と共にその理由を考え続けていた。
 楓、自分は――。
 自分は、お前に、ひとつだけ………。
 背後に、鷹宮が近づく気配がした。
「あまり、時間がありません」
 静かな声だった。
「す……すいません、すぐ行きます」
 感慨を振り切って、鷹宮に向き直る。
 仰ぎ見た男は、疲れたような――どこか曖昧な笑みを浮かべた。
「あなたに……お話しなければならないことが沢山ある」
―――え……?
「行きましょう、獅堂さん」
 男は獅堂の肩を叩き、そして先に立って歩き出す。
 妙な不安を感じ、獅堂は再度、車が去った方角を振り返った。
 もうそこには何もない。
 薄く翳った午後の日差しが、どこか不気味にアスファルトに反射していた。


                      六


「………」
 防衛庁十階。
 定例の記者会見を終え、秘書室を抜けた奥――時勢上、通常以上に厳重に警備された執務室に戻った防衛庁長官は、デスクにつくとすぐに鳴り出した電話を取り、ただ、無言で頷いた。
「仕方ないな」
 簡潔な報告を聞き取った後にそれだけ言い、眉をしかめたまま、受話器を置く。
 チェアに背を預け、額を押さえると、ようやく全身に滞っていた泥が飽和したように溶け出してくるのを感じた。
 そして、自分に言い聞かす。まだ――全ての希望が消えたわけじゃない、諦めるな。ここで諦めたら、なんのためにここまで来たのか判らない。
 ここ数ヶ月の泥沼のような騒ぎで、疲労が頭の芯まで蓄積している。
 秘書課を通さない直通電話が、再度鳴ったのはその時だった。
「…………」
 相手は判っている。このタイミングで掛けてくる、性格の悪い男は一人しかいない。
『やぁ、青桐君』
「おはようございます、阿蘇室長」
 青桐は、受話器を持ち替え、それでも微笑を浮かべてそう言った。
 受話器の向こうで、煮ても焼いても食えない男が微かに笑ったのが判る。
『青桐君、随分姑息な事をしてくれるじゃないか、うちの者が機転を利かせてくれたからいいようなものを、あれは一体、なんの真似だったのかね』
「さぁ……なんのことでしょうか」
『米軍への基地譲渡密約で引責辞任する君の、それが最後の悪あがきかね』
「……あなたの時代の協定ですよ」
『知っている、だが証拠は何もなく、私は退役し、君は現役だ』
 くぐもった笑いが受話器から響く。
『君の後ろ盾はもう何もない。レオナルド君がああいうことになったのは、不運以外のなにものでもなかったな。NAVIも愚かな真似をしたものだ。あんな女を引き取るから、こんなことになる』
「…………」
『それを裏で後押ししたのは、君だろう。もう誤魔化しもおべんちゃらも結構だ。君の正体はわかっているよ、青桐君、君は』
「では、辞任する私から、せめてもの忠告ですが」
 青桐は爽やかに、男の饒舌を遮った。
「……真宮楓を、甘く見ないことだ」
 言いながら、受話器を持つ自分の手に緊張にも似た力がこもるのがわかる。
 実際、青桐は、戦慄にも似た不安を感じていた。そう――あの翼はもうすぐ、解放されようとしている。
『真宮楓……ほう、あの貧弱な青年を、かね』
 阿蘇が愉快気に笑う気配がした。
『心配する必要は何処にもないよ、青桐君。国内全ての空港、港には完全な包囲網が敷いてある。逃亡は不可能だ、彼は何処にもいけやしない』
 青桐は受話器を握り締めた。
「いいですか、彼は、今の世界にとって、最大級の危険因子だということを忘れてはいけない。ある意味、レオナルド氏より危険な存在であることを」
『判りかねるよ、青桐君、負け犬の遠吠えにしか聞こえないな』
「……彼は、あなたの包囲網など、簡単にくぐりぬけますよ」
『真宮楓は、最後の完全体をおびき出す絶好の囮であり、それ以上でもそれ以下でもない。米国とも協議して、今まで彼を自由に泳がせていたのはそのためだ。君が先回りしなくても、今回のミッション終了後、あの男の身柄は防衛庁で拘束し、即座に国防総省に引き渡す事になっている』
「…………」
『そのための手段は、幾重にも用意されている……君もよく知っているだろう?』
「……右京、奏ですか」
 それには応えず、男は含んだような笑いを返してきた。
『予想通り、ついに、最後の一体が動き出した。人類にとって、最も危険なベクターがね。今が、絶好のチャンスなのだよ』
「…………」
 莫迦な男だ……。
 青桐は嘆息して、ただ視線を空に転じた。
『真宮楓が危険な人物だということは認識しているよ、……ただし、君の言う意味ではなく、自分の意志をもたない操り人形のような男だから――と、いう意味でだがね』
「阿蘇さん、最後に忠告しておきますよ」
『まだ何か言うことがあるのかね、君もアメリカの退役軍人よろしく、どこかの養蜂場でも紹介してやろうか、青桐君』
 一年近く前、アメリカの、とある農業試験場で起きた異変――それに伴う人事異動。旧知の男の顛末を揶揄した笑えないジョークを、青桐は無言で聞き流した。
「阿蘇さん」
『なんだね』
「確かに基地の通用門で、真宮君の身柄を確保しようとしたのは私です、が、それに失敗したことに――今は、むしろ感謝している」
『……なんだと……?』
「足元をすくわれないように、阿蘇室長、権勢とは、時にシフォンのようにしぼんでいくものですからね」


                 七


 ピースライナーが、入間の滑走路から離陸した。
 隣席に腰掛けた鷹宮は、しばらくの間無言だったが、機体が安全圏内に入るとシートベルトを外し、少し苛立たしげに窓辺に立った。
 獅堂は無言でその広い背中を見つめる。
「獅堂さん」
 先に乗り込み、後部座席で大和と喋っていた北條が、眉をひそめながら傍に歩み寄ってきた。
「おう、悪いな、なんか待たしちゃったみたいでさ」
 結局、定刻より10分遅れでの発進となった。獅堂は片手を上げて北條に謝る。
「それは……いいんすけど」
 北條は、ちらっと視線を動かし、そしてまた獅堂に戻した。
「……何か、あったんすか、二人とも、妙に深刻な顔してますけど」
「あ……ああ、別に」
 別に――何があったというわけでもない。
 なのに、なんだろう、すごく嫌な――胸騒ぎが収まらない。
「ふぅん……」
 大柄な男は腕を組み、疑念に近い眼差しを窓辺に立つ鷹宮に向ける。
「こら、北條、余計なマネすんなって言っただろうが」
 大和閃が駆け寄ってくる。
「獅堂さん」
「おう、大和、これからよろしくな」
 獅堂は慌てて立ち上がった。鷹宮の言葉に気を取られ、久しぶりに再会した、大和と挨拶を交わす事さえ忘れていたことに、ようやく気づく。
「こっちこそ、もう、昨日は、妻が赤飯炊いてくれて」
 童顔のくせに子供が二人もいる男は、そう言って相貌を緩めた。
 オデッセイ勤務は、空自のパイロットにとって最高の栄誉であり、最大の出世コースとみなされている。獅堂は微笑ましい気持ちで、この気のいい同僚を見上げた。
 四月に小松に戻った大和とは、半年ぶりの再会になる。つもる話は沢山あった。でも――。
「悪い、……少し、鷹宮さんと話があるんだ。ちょっと、席をはずしてもらえるか」
「ああ、それは」
 大和は即座に頷き、隣の北條に目配せする。
 北條がしぶしぶそれに従ってきびすを返す。
「じゃ、獅堂さん、また後で」
「おう」
 獅堂は意を決して、鷹宮の背後に立った。
 空から見下ろす地上が、急速度で遠ざかって行く。鷹宮は黙ったままだった。耳にはイヤホンを繋いでいる。何か――連絡を待っているようでもある。
「鷹宮さん、」
 あれから、鷹宮は一言も口を聞こうとしない。獅堂の問いかけにも「ピースライナーで説明します」と、そう繰り返すだけである。
――― 一体……何の話があるんだろう。
 今……何が起きようとしているんだろう。
 漠然とした不安が、地上が遠ざかるごとに濃くなっていく。
―――楓に……何か、関係していることなんだろうか……。
「鷹宮さん、いい加減に口を聞いてもらえませんか」
 焦れるような思いで、獅堂はもう一度鷹宮の名を呼んだ。
 ようやく鷹宮は振り向いて、耳のイヤホンを外す。その眼差しは、静かで、そして――厳しかった。どきっとして、そのまま言葉を失うくらいに。
「獅堂さん、今、世界の各地で――ベクターと呼ばれていた新種が、次々と変死しているのをご存知ですか」
 そしてふいに、そう言って鷹宮は口を開いた。
「え……?」
「あなたは、そんなことも知らなかったのですか。楓君は、あなたに何一つ肝心なことを話してはいないんですね」
「…………なんの、」
 なんの、話だろう。
 ドキドキする。
 判らない。
 この、突き放したような鷹宮の冷たさは、一体どういうことだろう。
「彼は、そのことでずっと悩んで、体調さえ崩していたのに、救いを求めて、異国の嵐君に初めてメールまで送ったのに」
「あの……鷹宮さん」
「彼がどうして、そんなに苦しんでいたか判りますか?彼は、ベクターの大量死に、なんらかの感染症が関係しているのではないかと考えていた。自らの体調を疑い、それが――あなたに感染する可能性を考え――、そのことでずっと思い悩んでいた」
「…………」
―――楓が?
―――そんなことで……本当に?
 ああそうか。
 今さらながら、佐々木が、―――あの夜、楓を訪ねた理由に思い至る。検査結果、風邪、移しちゃ悪いと思ったからさ、何でもないように、そう言った楓。
「……楓は……」
 自分の声が震えている。なんで――それを、一言、自分に。
「彼は、帰国した嵐君と共に、情報を収集しはじめた。そして、その調査のために、嵐君はドイツに渡った」
 鷹宮が何を言っているか判らない。
 どうして何も言ってはくれなかったんだろう。
 そんなに――自分は頼りなかったのだろうか。
 嵐には頼れて、自分には――。
 狼狽していたのは、それでもわずかな間だった。獅堂は、唇を噛んで顔を上げた。
「……教えてもらえませんか」
「……何をです」
「本当にベクターは、そんなに死んでるんですか、それは……楓には無関係なことなんですか」
 少しの間、眉根に深い皺を刻んでいた鷹宮は、やがて静かにため息をついた。
 窓辺に広がる空へ――遠い視線を送る横顔は、以前会った時より一層研ぎ澄まされて見えた。
「新生種――ベクターの死者は、今年に入ってから、公人、私人合わせて世界各地で200人を超えています。」
「そんなに、ですか」
 その数が異常だというのはすぐに理解できた。
 総人口もそうだが、まだ――ベクターと呼ばれる人たちの最高年齢は、30かそこらのはずだからだ。
「風邪のような症状から始まり、それが十日前後続きます。譫妄、妄言、痙攣等の症状が起こり、やがて意識障害、脳内出血に見舞われます。この段階まで行って助かった人は、今の時点で一人もいません」
「…………」
 楓はどうだったろう。
 体調は悪そうだった。去年の今ごろは、確か熱もあったはずだ。でも――あれはもう、一年も前のことだし、以来、知る限りでは熱を出したことは一度もない。
 一緒に過ごした三日間、確かに不眠のきらいはあったが、健康に問題があるようでもなかったし……。
「発症すれば1ヶ月前後で死に至り、生存率は10%――つまり、罹患すれば、ほぼ助からない。死亡率で言えばマールブルクやエボラ級。………それが感染症だとしたら、まさに史上最悪の感染症です」
 背筋が凍りついていた。
 感染症――それが、もし人から人へ感染していくと、いうのなら。
 そして今の時点で、すでに200人近い被害者が出ているというのなら。
「それは……本当の話なんですか」
「本当です」
「だったら、なんで……それが、全く表に……」
「……こういう言い方をすれば、あなたは憤るかもしれない、理由は、在来種に一人も感染者がいないからです」
 鷹宮はガラス窓に手を当てた。
 その横顔に、暗い影が落ちている。
「……一人も、ですか」
 どういうことだろう。
 獅堂は呟いて眉をひそめる。
「加えて言えば、感染ルートがまるで特定できないのです。各地で――全く接触のない、しかもベクターだけが発症している。どこかに発生源があるのは間違いない、が、人を介して感染するのかしないのか――それさえも未確定。感染している確率は半半で――判っているのはそれだけなのです」
「……人を、介して……感染しないんですか」
「今の時点では、家族や接触した医師に、はっきり感染したと断定できるケースはありません。ただ、感染が疑われるケースもある……全ては調査中なのです」
―――じゃあ、
「……何が原因か、全く判らないということなんですか」
「判りません、そして、今このような未確定な情報を発表すれば、間違いなくベクターバッシングという恐慌が起こる。……各国政府は、ベクターを国内から逃がしたくない。この時期の公表を、誰も望んではいないのです」
 獅堂は眩暈を感じて、うつむいた。
 じゃあ、楓も――そして嵐も、国府田も、いずれは感染する可能性が、捨てきれないということなのか。
「……ただし、いずれ、マスコミもこの事実に気づく時が来るでしょう。いつまでも隠し通すことはできませんから」
 鷹宮は、そこで言葉を切って嘆息すると、ようやく元の席に腰を降ろした。
 獅堂は――動けないまま、ただその場に立っていた。
「現在、米衛生研特捜チームが、感染ルートの確定にやっきになっています。NAVIも独自に調査している、獅堂さん、――ここからが、肝心なことなんですが」
 鷹宮が、ひどく疲れているのが、獅堂にも判った。
 この人は――今まで、そして今、一体――なんの仕事に従事しているのだろうか。
「今から約二年前のことです。ペンタゴンが管轄する研究所で、七名の死者を出す事件が起きました」
「…………」
「それは、台湾有事以降、人類に起きた最大の危機だったと噂されています。レベル4の危険なウィルスを有する研究所で、原因不明の爆発事故が起きた。その直後、全く未知の症状を起こし、七名の職員が四十六時間以内に全員死亡しました」
「危険な……ウィルスが、漏れたということですか」
 それが、今までの話と繋がりがあるのだろうか、そう思いながら獅堂は聞いた。
 鷹宮は頷く。
「……ペンタゴンでは、それを、宇宙から飛来した未知のウィルスが突然変異を起こした結果、発散されたものではないかと結論付けた。施設は封鎖され、―――原因となる……」
 初めて、その横顔が苦しそうに歪んだ。
「……獅堂さん……」
「……はい、」
「……右京室長が……真宮楓君や、嵐君と同じ……特殊な能力を持つベクター種であることは、……ご存知ないでしょうね」
「…………」
―――え……?
「その施設で、まさに肉体を突然変異させたのは室長なんです。危険なウィルスの発生源とされ、地下深く封印されたのはあの人自身なのです」
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