三


 かたかたとキーボードを打つ微かな音。
 まどろみの中で確かな日常の音を聞き分け、獅堂はふっと眼を覚ました。
 セミダブルのベッド。隣にいたはずの楓の姿は既にない。
 あれからもう一度、互いに寄り添うようにして眠りに落ちて――楓もまた、静かな寝息をたてていたような気がしたのに。
「なんだよ、起こしてくれればいいのに……」
 なんのことはない、寝入ってしまったのは自分だけのようだった。
 獅堂は、額に落ちる髪をかきあげてベットから降りた。
 この三日間で、生活のリズムが――基地の生活とは100パーセント違ってしまったせいか、まだ頭が重く、鈍い。
 日差しが、カーテン越しに眩しいまでに射し込んでいる。
 その眩しさに少し焦って、獅堂は傍らの時計を見た。
 寝坊――とまではいかないが、余り余裕があるとは言えない時間だった。
「うわ、やばいな」
 三日も休んだ上に遅刻したら、鷹宮あたりに、散々からかわれるのは目に見えている。
 オデッセイ−eへ移るにあたって、獅堂は三日間の準備休暇を与えられていた。それが昨日までだった。
 大きな荷物は、全て楓が、昨日の内に入間基地に発送してくれた。
 今日は手荷物だけ持って、基地からピースライナーでオデッセイ−eへ向かう。
 行けば――、二ヶ月、場合によってはそれ以上、地上へは戻れない。
 キーボードの音は、隣にある楓の書斎から漏れていた。
 キッチンからはコーヒーの香り。
 いつもの――いつも通りの朝の風景。
 昨年の秋、獅堂藍は内縁という形ながら真宮楓と結婚した。以来この3DKのマンションで生活を共にしている。
 どちらも仕事を持っており、獅堂にいたっては特殊な勤務形態だから、どちらが主婦で……という役割は特に決めてはいない。
 ただ獅堂は、月の殆んどを、ここから遠い――入間基地で過ごしている。だから、結局は、楓に全ての負担をかけてしまっていることになる。
 書斎を覗くと、すでに着替えを済ませた楓がパソコンに向かっていた。
 大きく開け放たれた窓からは、穏やかな風が吹き込んでいる。
 この部屋が、楓の一番のお気に入りで、結婚前に訪ねていくと、いつも――窓枠に腰掛け、一人で本を読んでいた姿があったのを思い出す。
 楓の周辺には、うず高く積まれた書類、資料、雑誌。時々掛ける薄い銀縁の眼鏡が実によく似合っていて、獅堂は、しばしその姿に無言で見とれていた。
「……起きた?」
 獅堂の気配を察したのか、振り向きもしない楓の背中がそう言った。
「うん、朝から、もう仕事なんだな」
「今朝一番が期限なんだ。お前の荷造りのせいで、三日間何もできなかったから」
 朝一番で聞く嫌味も、これで当分聞けないかと思うと、どこか寂しい。
「ちょっと待ってろ、これ送信したら終わりだから」
 そう言いながら、きれいな指先がキーを忙しなく叩いている。
 背後からのぞきこんで――閉口した。英文だ、なんで日本人なのに、英語で論文を作らなきゃならないんだろう。
 楓は、現在、国立海洋学研究所にメインスタッフとして所属している。
 雑誌の連載もいくつか持ち、国内の百科事典の監修等、すでにその世界では代表的な専門書も手がけるようになっているらしい。
 著書の依頼も数多く来ているようだ。
 もともと電子工学の世界で生きてきた男だ。いくら好きとはいえ、畑違いの自然の世界で、よくここまでこれたものだと獅堂はつくづく感心する。
 天才………か。
 それが――ベクターという種の能力なのか。
 あまり意識したことはない。でも――多分、楓は、それを常に意識しているのだろう。
「ぼやぼやしてていいのかよ」
 黙って立っていると、楓の背中がそっけなく言った。
「あ、そうだった、やばいな、高速、込んでなきゃいいけど」
「大丈夫だよ、俺が運転するんだから間に合わせる」
「…………」
 自信たっぷりの言葉だが、楓の運転の荒さを知っている獅堂には、逆に不安が募るばかりなのだった。
 楓に車を使う用事がある時――早朝、楓が運転して、獅堂を基地まで送るのが、二人の習慣になっていた。
 けれど今朝は、片道だけの最後の出勤、だから楓が送ってくれる。
「さて、終わりっと」
 立ちあがり、眼鏡を外そうとする楓の手を、獅堂は上から軽く押さえた。
「なんだよ」
「いや、まだ外さないでくれ」
「……?時間、あまりないんじゃなかったのか」
 憮然とする男の耳元にそっと両手を回し、眼鏡を外して、――くちづけた。
「……これ、なんのまじないだよ」
「悪い、一度、自分が外してみたくてさ」
「なんかそれ、やーらしー発想」
「……は?」
「ま、どうせ、何も考えてないんだろうけど」
 そのまま、どちらともなく唇を合わせる。
 唇を離し――獅堂は、楓を抱きしめた。抱かなくても判る、会った時も、口には出せなかったが、内心ショックだった。たった一月で、痛々しいほど痩せてしまった体。
「ちゃんと、食えよ」
「大丈夫……雑食だろ」
 こつん、と額が触れ合わさる。今度は楓が抱き締めてくれる。
「お前こそ、俺がいなくて大丈夫なのか」
 どういう意味だ?と思って顔を上げると、楓はいたずらめいた目になって笑った。
「あ、大丈夫か。あっちには椎名さんもいるし、鷹――っつ」
「……うるさい」
「ってーな、本気で噛むかよ、普通」
 身体を離した楓は顔をしかめ、噛まれた耳を指で触る。
「お前こそ……、どーせ、また、嵐と会ったりするんだろ」
 咳払いしながら、獅堂は言った。
 顔に浮かんだ羞恥をごまかすために、何気なく口にした言葉だった。が、楓は、少しの間意外そうに目をしばたかせ、八重歯を見せて、綺麗に笑った。
「――驚いたな、嵐にまで妬かれるとは思ってもみなかった」
「べっ、別に……なんで、男に、それもお前の弟にそんなこと思わなきゃいけないんだ」
「いやー、嬉しいな、愛されてるって」
「……莫迦、ちがうよ」
 それでも――確かに、獅堂は、嵐を意識していた。
 結婚する前も、してからもずっと。自分を見る楓の目に――無意識に、嵐の影を探してしまう自分がいた。
 四日前の晩、獅堂が帰宅した時、丁度――リュックを肩に掛けた嵐が、マンションのエントランスを出て行く所だった。
 佐々木が一緒だったから驚いたが、嵐の表情の、いつにない暗さに、思わず眉をひそめていた。
(―――楓……今、少しナーバスになってるみたいだから、気をつけてあげてください)
 ひどく翳りを帯びた横顔に、どきりとしていた。
 以前の嵐と、何か、どこか違っている。そんな気がして――もしかして、楓と何かあったのかな、と、そんな不安を感じてしまっていた。
 獅堂の沈黙を不思議そうな目で見ていた楓は、やがてくすっと楽しげに笑った。
「そんなに心配なら、早く帰ってこいよ」
「…………」
 咄嗟に、返す言葉がない。
 オデッセイに戻ることになった――帰宅した翌朝、初めてそう打ち明けた時も、確か楓は笑ってくれた。
 よかったな、そう言ってくれた。哀しいとも寂しいとも言わず、黙々と荷造りを手伝ってくれた。
「嘘だよ、そんな顔すんなって。冗談だよ、俺のことなら心配はいらないから」
 そして、今も同じ顔をして笑っている。
「帰るよ……絶対」
「判ってるって」
 心配しない夜なんて、ない。
 離れていれば――これから、しばらく会えなくなるのなら、なおさら。
 力を込めて抱きしめて、それでも何故か、もどかしさだけが残る抱擁。
 この繋がりを、楓の言葉を、信用してない――わけではないのに。
 楓と嵐との間に依然としてある、見えない絆のようなもの。
 多分、それには一生かなわないし入り込めない。判っている、判っていてそんな楓を、そのまま受け止め、抱きしめたつもりだった。
 でも、時々。
「なんだよ……?」
「あ……いや、なんでもない」
「?……いい加減、メシ食って着替えろよ、行くぞ」
 時々、――それが、独りよがりの間違いじゃなかったかと、思えてしまう時がある。
 自分がしていることは、楓にとっては。
「ん……?」
 その時、楓が僅かに眉をしかめた。
 その、どこか普通でない表情に、獅堂も、少し驚いて我に返る。
「え……何?」
「電話………俺の携帯。嵐かもしれない」
 それだけ言い捨て、楓は机の方に向き直った。積み重ねられた書類を掻き分け、多分、携帯電話を探している。
 そう言えば、部屋の何処かから微かに聞こえる電子音。
 獅堂には、初めて耳にする音のようだった。あれ、楓――珍しく、着信音変えたのかな、と思っていた。
―――嵐……ね。
 電話が鳴った刹那、ふいに真剣になった顔。獅堂は、ちょっと鼻白んで、きびすを返した。
 応答する楓の声に背を向け、書斎を出て、珈琲の香りが漂うリビングに入る。
 きちんと整理されたテーブルに、並べられた朝食が―― 一人分。
 コーヒーサーバには、やはり一人分のコーヒーが用意されている。
 いつもいいと言っているのに、楓は必ず朝食の支度だけはしてくれるのだ。
―――あいつ……ちゃんと、食ってんのかな。
 パンを一切れ、サラダを少し口に運んで、ようやく、いつまでも楓が部屋から出てこないことに気がついた。
 そういえば、声もしない。
「楓……?」
 立ち上がって、そろそろと部屋を覗く。
 こちらに背を向け、肩を落として立っている、楓の――ひどく痩せた、華奢な背中。
 何か、異様な感じがした。
「おい、どうした?」
「えっ……ああ、何?」
 けれど、弾かれたように振り返った顔は、平静で、特に変わった様子はなかった。
――………?
「ごめん、少し仕事のこと考えてた。何?」
「いや……電話、誰から?」
「うん、間違いだろ。ちょっとよく、判らなかった」
「ふぅん……」
 かすかな不安を感じたが、嘘をついている風ではなかった。

 一時の後、二人は慌しくマンションを出て、駐車場に向かった。
「やばいなー。最悪でもピースライナーの発着時間には遅れるなって、釘さされてたんだっけ」
 腕時間を見て、獅堂は空を睨んで眉をしかめる。
「大丈夫。間に合うように走るから」
 先を行く楓は、微かに振り返って不敵な笑いを浮かべる。
「い、いや、とにかく安全第一で……」
 確かに――ある意味、腕は優れているのかもしれないが……。
 それも天才ゆえなのか、それともそれが本性なのか、隣に誰が乗っていようが追い越し禁止だろうが、一方通行だろうが――。
 楓は、そういった常識に、まるで頓着しないのである。
 航空機の操縦に慣れている獅堂にとって、その運転は恐怖以外のなにものでもない。
 すでに剥奪された電子工学のあらゆる特許と同じく、運転免許が剥奪されるのも時間の問題だな……と、実は密かに思っているくらいなのである。
「まあ……つか、ぼちぼちで、いいから」
 引きつった笑顔でシートベルトを締めながら、ため息をついてそれだけ言った。


                  四


 高速を一時間も走ると、山間に入間基地の建設物の一角が、わずかばかり頭をのぞかせる。
「間に合いそうか?」
 涼しげな声で楓は聞いてくる、が、すでに獅堂に応える元気はない。
 激しいドリフトで、窓ガラスに激突した頭が、じんじんと痛んでいる。
「あ……」
 楓が小さく呟いた。
 その声と視線につられて、獅堂もふっと空を見上げる。
 太陽に機体を反射させながら、ゆっくりと地上に近づいてくる銀色のシャトル。
 ピースライナー。
「……あれ?」
「ああ」
 何も言わなくても、互いの気持ちが通じ合うようだった。
「帰るよ――絶対」
「判ってるよ」
 楓の横顔が静かに笑う。
 何度も同じこと言うなよ、と言われているようにも見える。
 基地内の、ぎりぎり外部関係者が入れるエリアまで車で侵入し、獅堂はようやく開放された。
 崩れるように助手席のドアを開け、地面に降り立った足がふらつく。
 生きていることの素晴らしさを実感していると、楓はウィンドウを下げて、軽く手を上げた。
「じゃあな」
「お、おう、電話するから」
 何気なく言葉を返すと、途端に、楓は顔を上げた。
 どきっとするような、冷たい眼。
「あ、いや、今度はちゃんと――……努力、するから」
 どぎまぎしながら獅堂は言い足した。
 何度も破ってしまった約束。職業柄仕方ないのだが――。が、楓は、、次の瞬間、驚くほど優しく微笑してくれた。
「待ってる」
 その笑顔だけで――気持ちが、暖かなもので満たされるようだった。
 ほっとした笑顔を浮かべ、獅堂も軽く手をあげる。
 その時、
「これはこれは、相変わらず、ラブラブですね」
 すぐ背後で、いやに耳覚えのある声がした。
 ぎくっと、全身の血が凝り固まるのが判る。
―――……うそだろ。
 獅堂はそう思い、――その固まった血が、一気に引く思いで振り返った。
「おはようございます、獅堂さん」
 耳障りの良い、深い低音――予想どおり、紫紺の士官服を隙なく着こんだ鷹宮篤志が、目深に被った帽子を軽く傾け、涼しい顔で立っている。
「たっ、たた、鷹宮さん……」
 四日前に続いてのサプライズ。
 どうして、こんな所に――と言いたいのに、言葉がちゃんと出てこない。
 しかし、鷹宮はその言葉を読んでいたように、白い歯を見せてにっこりと笑う。
「いやですねえ。あなたを迎えに来たに決まってるじゃありませんか」
「へ?……じ、自分をですか?」
 何のために?
「遅いから心配しましたよ。さあ、一緒に行きましょう。リニューアルしたオデッセイを、手取り足取り案内してあげますからね」
「た、たたた、鷹宮さん」
「鷹宮です、たは一回」
 怖くて――背後の楓の顔を、振りかえれない。 
「こ、困ります――楓は、ああ見えて」
 そう言いさして、声をひそめた。「……すっごい嫉妬深いんですよ」
「知ってます」
 これっぽっちも悪びれない笑顔。――だめだ、獅堂は諦めた。
「おはよう真宮君、獅堂一尉の送迎、いつもご苦労様ですね」
 鷹宮は帽子を取り、静かに車に近づくと、にこやかに微笑した。
「……どうも」
 楓は、冴え冴えとしたきつい眼差しで、じろっと鷹宮を一瞥する。それから、呆れたような眼でその背後にいる獅堂を見上げる。
「んじゃあな、獅堂さん」
「お、おう」
―――獅堂さん、て……。
 最後がそれなんて、少し寂しすぎやしないだろうか。そりゃあ、まぁ、確かに永遠の別れってわけでもないが。
 ゆるゆると後退した車が、そのまま向きを変えて、基地の通用門に向かっていく。
―――あ……、と、思わず手が出てしまいそうなほど、未練がましい別れになってしまっていた。
「……鷹宮さん」
 振り返り、脱力しながら獅堂は呟いた。
「はい」
 鷹宮はけろっとしている。
「……すいません、これ、一体何の嫌がらせなんですか」
「いやぁ、まいったなぁ、私もうかつでしたよ、まさか楓君がご存知だとは思ってもいませんでしたので」
「ご存知って」
「あれ? 知ってるから、あんなに怒ってらしたんですよね。私と獅堂さんが、かつて」
「わーっわーっ、わーっ」
 大慌てで両腕を振る。頼むから――それ以上は口にしないでくれ。
「も、もういいです。これ以上構わないで下さい、遅刻の罰なら、このへんで勘弁してください」
 歩き出そうとする。その腕を――ふいに掴まれた。
「楓君、門の所で止められているみたいですよ」
「え……?」
「車に通行証がないようでしたから、念のため、身分証を確認させられているようですが」
 は、として振り返る。
 五十メートルほど向こう、通用門で、確かに楓の車が止まっている。
 門には拳銃を携帯した警備担当が、二名、常時待機している。外部の車が入る際は、通行証をフロントガラスに貼られるのが常だが、先ほどは獅堂のIDで素通りしたから、通行証はもらっていない。
 いつもは――そのパターンで、何も問題ないはずだったのだが。
 警備兵が車に近づき、窓ごしに何か言っている。
「行ってあげたらどうですか、まだ、時間は大丈夫ですので」
「あ……は、はい」
 楓が車から降ろされている。獅堂は駆け出しかけていた。その背中に声が掛かる。
「もう少し別れを惜しんでいらっしゃい。当分会うこともないでしょうから」
―――え……?
 その言葉に、単に地上と空に別れるだけでなく――もっと、深いものがこめられているような気がした。
 獅堂は足を止め、少し眉をひそめて鷹宮の顔を振り返る。
 整いすぎた顔は、笑っているのか、真面目なのか、いつにもましてつかみどころがなかった。
―――鷹宮さん……?
 鷹宮は綺麗な所作で帽子をかぶった。
 四日前と同様、どこかいつもと、その表情が違って見える。
「少し……事態が悪化しましてね」
 その口調も、妙にそっけない。
「当面は予定された休暇なんて取れそうもないってことです。事情は後で説明しますよ、さぁ、急いで」
 それには応えず、獅堂は走った。
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