act8 別離




                 


 蛇の眼、だ。
 冷たくて、生気のない、爬虫類のそれ。
 ただ――見つめられる。未来永劫、果てることなく。
 その眼に絡め捕られて逃げられない。声すら出せない。
 冷たい指が、身体を舐めあげ、割って入る。
 全身の細胞が溶かされ、再構成され、身体と意識が分離していく。
(………お前達は、異形のものだ。)
 男の声が、脳髄に直接響いてくる。
(――……お前達は、狩られなくてはならないもののだ。)
 ざわざわ。
 わしゃわしゃ。
 また、――蛇の群れに覆われて行く。


              一


「……楓、――楓?」
 肩を揺さぶる柔らかな力。現実の――ぬくもり。
 真宮楓は眼を開けた。深い水底から唐突に引き上げられたような、急激な覚醒。
「…………」
 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息苦しかった。
 全身が冷たい汗にまみれている。
 ようやく焦点が定まった視界に映る、影の落ちた端整な顔。
「……なんだ、……もう朝か」
 ほっと息を吐き、自分を抱いている女の手に掌を重ねた。
 部屋のあちこちに、朝の光がゆるやかに射し込んでいる。朝――いつもの夢から解放される瞬間。
「……また、夢か」
 獅堂藍の呟きが聞こえた。
 いつも嫌になるくらい早起きの女だが、この三日間は寝坊ばかりだったのを、苦いような愛しさで、思い出す。
「お前にぎゅうぎゅう押しつぶされる夢」
「は?」
「あー苦しかった、筋肉つけるのもたいがいにしといてくれ」
「なんだよ、それ」
 獅堂は憮然とする。
 その頭を胸元に引き寄せて、そのまま髪にくちづけた。
「……昨日も、うなされてたじゃないか。……一体、何の夢なんだ」
 楓はそれには答えず、女の髪に頬を寄せる。
 何と聞かれても説明のしようがない。見ている自分自身にも理解できない不思議なイメージの連続。
 冷たい眼。濡れた指。絡みつく蛇の感触。声――。
 いつもなら、目覚めてすぐに、悪寒に耐えきれずに吐く。胃の中が空になるまで吐き続ける。
 でも、今は違う。隣に――この女がいてくれる今は。
 こうやって抱いているだけで、癒されていくのが判る。やわらかな香り、規則正しい心臓の鼓動、滑らかな肌の温もり。
「いつも、こうなのか?」
 不安にくすんだ獅堂の声に、「いや、たまたまだよ」とだけ答えて、そのまま腕を枕に、仰向けになって目を閉じた。
 獅堂と過ごした、この三日間の休日。
 いつもの夢から、結局逃れることはできなかった。――でも、それを言うつもりはない。
「……楓」
 柔らかな重みが胸に被さる。
「何だよ」
 薄目を開けると、自分を見下ろす顔があった。
 髪に、優しく絡んでくる指。
「まだ、眠いのかなと思ってさ」
「まぁな」
 そう答えながら、頭を抱いて、唇を合わせていた。
 言えない。――今日、
 今日、空へ旅立って行く愛しい人には。
「……思い残す事、ないか」
 唇を離し、女は囁くような声で言った。
「なんで俺が、」
 意外な言葉に、楓は少し苦笑する。
「あるとしたらお前の方だろ、今から空の住人になるってのに」
「休みが取れたら楓を色んなとこにつれてってやろうって、色々……自分は考えてたけど、結局、何もできなかったような気がするから」
「別に、行きたいとこなんか何処もないよ」
「そう言うなよ、お前は知らないだけなんだ、春には花見に行きたいし、夏には海に行きたい、秋は……旅行とかに行きたいし、冬はスキーか温泉か」
「…………悪い、考えただけで頭が痛くなりそうだ」
 本気でうんざりして目をそらすと、獅堂はむきになって乗りかかってくる。
「せっかく日本で暮らしてるんだ、楽しいことはいっぱいある、自分は、お前にそれを知ってもらいたいんだよ」
「はいはい、暇になったらな」
 そして――殆ど密着していた女の頬に、軽くキスする。そのまま腰を抱き、身体の位置を入れ替えた。
「な、なんだよ」
「朝から、刺激するからさ」
「し、してないっ、なんだよ、急に」
「してんだよ、さっきから」
 やがて――その唇から、吐息と共に自分の名前が囁かれる。
 震える身体を抱き締めて――、最後に楓は囁いた。
「楽しかったよ」
「そっか、」
「この三日で、初めて結婚したって実感できた」
 冗談めかしてそう言うと、一瞬笑った女の唇が、少し寂しそうに閉じられた。そして呟く。
「……ごめんな」
「なんで」
「……今まで、ごめん、これからも…………ごめん」
「いいんだよ、最初から判って、一緒になったんだから」
「…………うん……」
 髪を撫でて抱き締める。
 今日離れて、当分触れることの出来ないぬくもりを、今はただ、身体に刻んでおきたかった。


                二


 黒い髪が、乱れてもつれ、頬に零れ落ちている。
 つややかで、まるで黒い宝石の光を紡いだように見える。
 その髪にそっと指を絡め、楓は、指間を流れる光を見つめていた。
 カーテン越しに緩く射し込む朝の日差し。それが、眠る女の肌を薄く彩っている。
―――きれいだな……。
 思わず微笑し、閉じられた濃い睫に指先で触れてみる。
 いい意味で、女には見えなかった。女ではなく、まるで――少年のようにあどけない寝顔に見えた。
 規則正しく上下する胸。滑らかな肌。
 何よりも好きな――この、独特の香り。
 休暇の最後の朝が終わり、今日の午後には、遠い空へ行ってしまう人。
「………」
 いつまでも尽きない感慨を振り切り、楓は、足音を忍ばせてベットから降りた。
 獅堂が起きる前に、朝食の支度を済ませて、――たまった仕事を片付けなければならない。
 オデッセイへの異動に備え、獅堂が得た三日間の休暇にあわせ、楓もまた、仕事を休ませてもらっていた。
 期限が今日までの原稿が二本、10時までに電子メールで送る約束になっている。
 デスクに座り、パソコンを起動させてから、眼鏡を掛けた。
 すぐに、一着のメッセージが届いていることに気づく。
―――新着メール……?
 今起動させたアドレスに、仕事以外で、電子メールが来ることなど、滅多にない。
 まさかな、と思った。
 例のメールは、自宅PCのアドレスには入ってはこないはずだ。
 キーを叩き、メッセージウィンドウから切りかえる。



 件名: すぐに削除すること  差出人: R



―――嵐………?
 件名もさることながら、楓は眉をひそめていた。
 四日前、この部屋で最後に会ってから、携帯も不通で――どうしても連絡が取れなかった嵐。
 気まずい別れ方をしただけに、ずっと気になっていた。
 微かに嫌な予感がして、――少しためらってから、クリックした。
 添付ファイル付きの文書である。



 君と獅堂さんの休暇を無駄にしたくないから、このメールが君のところへ届くのを少しだけ先延ばしにしておいた。
 重要なリークがあった。俺は、今からドイツへ飛ぶ。



―――ドイツ……?
 何故か奇妙な胸騒ぎがした。
 メールの作成日は四日前の深夜――最後に、二人で会った夜。
 ドイツ。
 最後の夜、嵐は、何か言っていた。なんだったっけ、あの時―――俺が、ドイツに留学していた時がどうとか――。



 ひょっとしたら、ウィルスの正体を知っている者と、接触できるかもしれない。君は動かないで、俺の連絡を待っていろ。



「莫迦、嵐」
 思わず呟いていた。
―――1人で、行ったのか。
 四日前だ。では、もうとっくに入国を済ませているはずだ。ドイツといっても広い、一体、何処へ行ったというのだろう。



 あれから、もう一度、例の名無しさんからメールが来た。
 添付書類だけ転送する。
 危険だから、ファイルは必ず削除しておくように。

 PS.何かあったら、とにかく獅堂さんに相談しろ。絶対に一人で抱え込むなよ。




 微かに――戸惑う指で、添付ファイルを開く、をクリックした。
 画面が、たちまち展開する。
 楓は無言で、眉をひそめた。
 すぐに、それが何か理解できた。
 これは――『続き』だ。先日、嵐に送られてきた謎の文書の。



新種ウィルス「HBH−1」に係る報告書
                 
[生物危険レベル ]
[感 染 レ ベ ル ]  現在のところ不明。
極めて弱との報告を再調査中。
[潜  伏  期  間] 概ね10日。
微熱、風邪に似た症状の継続。眼底痛。嘔吐感。
[感染後の死亡率] 7日後25パーセント。
30日後90パーセント(現時点)


 

 90%――つまり、感染したら、10人の内、9人は確実に、死ぬ。
 楓は生唾を呑みこんだ。
―――嘘だろう。
 これで、この致死率で、レベル2だとは信じられない。
 動揺を抑え、さらに下までスクロールする。




[性質]  レトロウィルス 遺伝物質RNA
          伝染性感染症?
予想以上の遺伝的変異が見られ、複製周期のバリエーションにより、悪性度が増す傾向にある。
[発症後の経緯]
ステ―ジングT 発熱 38度以上
3日――ないし、10日前後継続。
ステージングU 眼窩の異常鬱血。譫妄。妄言。痙攣の兆候あり。
7日〜10日程度。
ステージングV 意識障害、脳内出血(この時点で、致死率は100%)
ステージングW 脳死状態。
腎不全ないし、心不全により、死亡。
[感 染 経 路 ]  現時点で不明
[抗体とワクチン] ウィルスの除去、及び中和は極めて困難と予測される。
[感染者分布図 ] 補足不可能。ただし、現時点での感染者は
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  あの美しい天使は
  いつ、自分の背中にある透明な羽根に気づくのだろう。
  
  その時地上に残された鳥は
  折れた翼を、誰の手で癒されるのだろう。