十四


 照明を落とした寝室は薄暗く、淡い月明かりだけが、カーテン越しにほんのりと射し込んでいた。
「寝たか」
「……いや」
 嵐がいてくれる。
 同じベッドに仰向けになって、同じように天井を見上げている。
 昔のように――まだ、両親が生きていて、幸せで――こんな重い十字架を背負うことになるとは、夢にも思っていなかった頃のように。
「桜庭基地にいた頃、こんなだったよな」
 天井を見上げたまま、嵐が小さく呟いた。
 帰るよ、そう言った癖に、結局夕食の買い物までして戻ってくれた弟の好意を、楓は素直に受けることにした。
「そういや、そうだな……」
 楓は低く呟いた。
 闘いの終結後、処分が正式に決定されるまでの間………嵐と一緒に同じ部屋で生活した、苦痛と安堵が同居していた日々。
「ベット、いっこしかなくてさ――狭かったよな」
 嵐が、懐かしそうに呟く。
 ああ、と楓は頷いた。
 確かに狭かった。でも、その狭さが、妙に心地よかったのを思い出す。
「俺が、楓と同じ部屋にしてくれって頼んだんだ。悪かったな、狭いとこに閉じ込めるような真似してさ」
「いいよ、どうせ、滅多に同じ部屋で寝ることもなかったんだ」
 互いに――交互に呼び出されては、拘束され、検査を受けさせられていたのだから。
「桜庭基地……なくなるんだろ」
 楓は、ふと、テレビで耳にしたニュースを思い出していた。
 もう何ヶ月も前から、あの基地は無人の施設になっているらしい。
「らしいね、自衛隊は撤退して、施設だけが残ってて……そのまま、なし崩しに、米軍に委譲されるんじゃないかって噂になってるけど」
「最初から、そのために建設された基地だったのかもな」
 楓は、そう言いながら、目をすがめた。
 嫌な思い出もあったが、いい思い出も沢山ある場所だった。もう一度――あの場所に、空が綺麗で、幻聴のように海の音が聞こえる、あの場所に戻りたいと、ふと思う。
 そして、連想するように、それまで忘れていた、ある女性の面影を思い出していた。
「なぁ、……あの人、元気になったのか?」
「……あの人?」
「右京さんっていただろ、病気だって……前、聞いたことかあったんだが」
「……さぁ、もう民間の人だから」
「民間?退職したのか、右京さんが?」
 嵐は答えないまま、顔だけをこちらに向けた。
「嵐……?」
 嵐の顔が――うっすらと闇に浮き出したそれが、すぐ目の前にあった。
 その、思いつめたような、何かの――意志を抱いた眼差しに、それ以上、言葉が出てこなくなる。
「無防備だな、楓」
「は……?」
「忘れてるだろ、俺は、君を襲った事があるのに」
「…………」
 楓はわずかに眉を上げる。
 嵐が、表情を崩して笑い出したのはその刹那だった。
「あはは、急に緊張しなくてもいいよ、大丈夫だって、もう、そんな感情はなくなったんだ、マジで」
「ざけんな、いい加減にしろよ」
 怒って背を向けながら、――ああ、そうか。
 やっぱりな、と楓は思った。
 どこか、態度も雰囲気も違う嵐には――きっと、もう。
「好きな奴でも、できたのか」
「……好きっていうのかな、そんな言葉では片付かないほど、愛してる人がいる」
 嵐は、照れもせず、悪びれもせず、淡々と答える。
 楓は眼をすがめた。今の刹那感じた思いを、どう言い表していいのか判らなかった。
「まさか……男じゃないだろうな」
 それだけ聞くと、一瞬の間。
 そして、嵐は――本当にいきなり、爆発したように笑い出した。
「な、なんだ、お前、おかしいぞ、さっきから」
 楓は、本当に唖然として身体を起こした。
「だって……いや、ごめん」
「悪いか。別に同性愛がいけないとは思わないが、身内にはまっとうな道を進んで欲しいって思うのは、兄として当然の感情だろ」
「いや……それは、もう、ごもっとも」
 嵐はまだ、喉の奥で笑っている。
 楓は、本気でむかついていた。
「もういい、好きにしろ、母さんが生きてたら、どう思うか考えてみろ」
 そう言うと、ますます嵐は、苦しそうに笑いだす。もう――知るか、そう思って、ベッドから降りかけた時、
「だから、誰も相手が男だとは言ってないだろ」
「……女か」
 見下ろすと、ようやく苦笑を浮かべ、嵐はゆっくり頷いた。
「旅の間、ずっと、一緒だった」
「………」
 ほっとする――言葉のはずなのに、溢れた感情はそれとは全く別のものだった。
 胸に、ぽっかりと穴が空いたような虚しさ、これを――どう表現していいのだろう。
「すごく、ショックって顔してるね」
 嵐の声。その、少し愉快そうな響きに、かっとした。
「ふざけんな、なんで俺が」
「俺もそうだったよ、楓と獅堂さんがつきあってるって気づいた時」
「……知るか、お前と一緒にすんな」
 嵐も身体を起こす。同じように座ると、体格の違いが顕著になって、楓は見下ろされる形になる。それが――不思議と違和感がなかった。
「なぁ、楓」
「なんだよ」
「俺と、どこかに行かないか」
「…………」
「どこか……遠くにさ……誰もいなくて、男とか女とか、そんなのまるで関係ない世界に」
「世界の果てか」
「世界の果てだ」
「……本当にあるならな」
 楓は再度、ベッドに倒れこんだ。天井に――月明かりが差し込んでいる。
 嵐の声だけが、静かな部屋に響いていた。
「そこでは、君は、もう重い過去なんかに囚われることもない。いわれのないことで誰かに頭を下げたり、苦しんだりする必要もない、自由に、……自然に生きていけるんだ」
「いい感じだな」
「いい感じだろ」
 それは――暗に死を指しているのだろうか。そう思ったが、口にはしなかった。嵐の性格からして、そういう発想が出てくるはずがないからだ。
「……昔、ウサギ飼ってたこと、覚えてるか」
 楓が黙っていると、片膝を抱いて座ったまま、嵐が呟いた。
「ウサギ?……お前が拾ってきた野うさぎのことか」
「そう、あれ、いつ頃のことだっけ、研究所から逃げたものかもしれないから、離してやりなさいって母さんが言ってたのにさ」
「そうそう、お前が強引に飼いはじめたんだ」
 なんだってこんな話になったんだ――?と、思いながら、楓もまた、懐かしさに目をすがめていた。
「楓も反対してたよな、野生の生き物は、生まれた場所に返せってさ、なのに俺は、手放したくなくて」
「自分にも弟が欲しいっていつも言ってたからな、お前」
「……一冬、もたなかった。大切にしてたのに、ある朝起きたら、檻の中で冷たくなってた」
「…………」
 そうだっけ。
 ああ、そうか――嵐が泣いていた。俺が、土に埋めてやって――寒い朝だった。霜が降りて、吐く息だけが白かったのを覚えている。
「本当は判ってた。最初元気だったウサギが、檻の中で、だんだん動きが鈍くなっていった。……窮屈だったんだ、帰りたかったんだ、ここは自分の場所じゃないって、あいつ、ずっとそう訴えてたんだ」
「…………」
「判ってて……可愛くて、大切で、手放したくなかった。俺のエゴで、あるべき場所から、そうでない場所に、閉じ込めてしまったから」
「嵐、」
 ようやく――嵐が何を言いたいのか、楓は理解した。
「俺は……ウサギなんかじゃないぜ」
「そう、ウサギじゃない、それ以下だ、檻の中で死を待つだけのいくじなしだ」
「…………」
「飼い主だって、それは薄々わかってるはずだ、わかってて、お前を縛り付けてるのは」
「いい加減にしろよ!」
 跳ね起きる。その肩を掴まれる。
「このままじゃ、君は駄目になる、それくらいもわかんないのか!」
「うるせぇな、そもそも俺たちを強引にくっつけたのは、お前だろうが」
「こんなになるなんて知ってたら、渡したりはしなかった、今の楓はぼろぼろだ、どうしてこんなに弱くなった!」
―――こんなに、弱くなった……?
 俺が?
「なに、言ってんだ。俺は」
 忘然と――言いかけた言葉は、首を振って制止される。
「もし、獅堂さんと別れなきゃならない日が来たら」
「………」
「君は、一人で、この世界で……生きていくことが、できるのか…?」
―――藍と……別れる、日。
「……あの人が、君を弱くさせている……」
 嵐はうめくように囁き、うつむいた。
「嵐……」
 それは――
 そんなことは。
 言葉を繋ぐ前に、チャイムが鳴った。
 エントランスホールに、来客が来たことを知らせる音。
 楓は顔をあげ、振り切るように、嵐の手を払いのけた。


              十五

 水滴が――
 びたっ・・・びたっ・・
 等間隔で、落ちてくる。どこから?
 ここは、どこだ?
 深淵の中。暗黒の闇。前も後ろも、足元さえも吸い込まれそうな闇の中。
 水滴が――
 びたっ・・・びたっ・・
 額に当っては、砕けて行く。
 いつまでも、いつもでも、永遠に単調なリズムを刻んで。
 自分は何時からここにいるのか。もうそんなことすら忘れてしまった。  
 そして何時までここにいるのか。 
 あの男が――自分の身体に厭きる時まで。
 突然、恐怖に駆られて悲鳴を上げる。誰か――ここから、解放してくれ。
 誰か――。
 誰にも届かない悲鳴を、いつまでも上げ続ける。


「はっ……」
 一気に荒い息を吐き出して、楓は唐突に覚醒した。
 夢………?眠っていたのはわずかな時間だと思ったのに。
 夢か、それとも、現実にあったことを思い出してしまったのか。
 身体がまだ震えている。生々しい――そして、気が狂いそうにリアルな夢。
「…………」
 仰向けになった視界に写るのは、見慣れたリビングの天井だった。
―――ああ、そっか。
 嵐が来客と出て行って――そのまま、疲れて、ソファに横になっていたのだ。
 リビングには煌々と灯りがついている。薄く開いたカーテンの外は闇。
 一人になってから、そんなに時間はたっていないはずだ。今、一体、何時だろう。
 楓は、もう一度目を閉じた。
 色んな思いが交錯して――ただ、今は眠りたかった。何ヶ月ぶりに、今夜だけはぐっすり眠れそうな気がする。
 あんな悪夢など、気にもせずに。
 誰かの暖かな手が、自分の肩にそっと触れる。――嵐……?また、戻ってきてくれたのか。
「悪いな、嵐、」
 その腕を払い、顔を上げた。
「…………」
 そこに、獅堂藍の顔があったことが、しばらく楓には信じられなかった。
「楓……?」
 心配そうに翳る黒い瞳。眉をひそめて、じっと楓を見下ろしている。
 無造作に着た長袖のシャツにジーンズ。一月前に出て行った時と、同じ服装で。
「…………」
 楓はちょっとの間ぽかんとして――それから、何を言っていいか判らず、ただ黙って眉をひそめた。
 獅堂は、その胸のあたりに、額を寄せるようにして、がば、と、いきなり頭を下げた。
「悪い、遅くなった!」
「…………」
 たったそれだけのことなのに、もう、ふわっと暖かな気持ちに包まれている。
「……マンションの下で、さっき、嵐と、それから」
「ああ、佐々木先生だろ」
 言い訳がましく口を開く女を押しやり、楓は、ソファから起き上がった。
 ここで、すぐに笑ってやれないのが、自分の性格だな、と思いつつ。
「佐々木先生、お前のこと……時々診てくれてるんだってな」
「いつか八重歯を抜かせてくれってしつこいんだよ」
 コーヒーカップが出しっぱなしになっていた。それを片付けながら、この部屋が――ようやく、普段の暖かさを取り戻していることを、不思議な気持ちで考えていた。
 獅堂は、慌てて、その後からついてくる。
「……先生さ、お前に、なんか、検査結果を渡しにきたって言ってたけど」
「もらったよ」
「何の検査だったんだ」
「歯槽膿漏」
「…………」
(―――特に変わったところもなかったです。全て正常値。やや貧血のきらいはありますが……血液に炎症反応もない。君が言うような激症型のウィルスに感染している可能性は、まず、ないと思いますよ)
(―――君の場合は、精神からきてるものじゃないかな。最近……ここ数ヶ月、過度なストレスや悩み事でも、重なっていたんじゃないですか。)
「ふざけないでちゃんと答えろよ、大丈夫なのか?……帰ってみたら、呻き声が聞こえたから、心臓止まるかと思ったよ」
 獅堂は、キッチンに立つ楓の横に立ち、不安気に顔をのぞきこんでくる。
 黒い、闇をまとった瞳。形良い鼻、唇。
「何か、また悪い夢でも見てたんじゃないか?」
「ああ、そう言えば」
 楓は素っ気無く顔を上げた。
「お前が帰ってくる夢をみてた、それでうなされてたんだな、多分」
「……あのなぁ」
「もういいだろ、見てるだけならあっちに行けよ」
 ざーっと乱暴に、カップを濯ぐ。
 正直言えば、照れくさかった。こんなに嬉しくて、すぐにでも笑ってしまいそうな自分が。
「………やっぱ、怒ってる……のか?」
 それでもキッチンから出て行かない女の、おそるおそる……と、言った感じの声がした。
「なんで?たかだか、一ヶ月、電話ひとつなかっただけのことなのに」
「…………すいません…………」
 冷たくするのも限界だった。 
 楓は振返り、女の腕を捕らえ、引き寄せて額を合わせた。
「おかえり」
「うん………」
 ようやく、ほっとしたように獅堂は笑う。
 頬を寄せる。一月ぶりに触れる、暖かくて、滑らかな感触。
 背中に手が回される。その前に、腰を抱いて引き寄せる。
 触れているだけで、心が穏やかなもので満たされていくのが判る。
「今日は……いいのか」
 ふと顔をあげ、女が、照れたような目で呟いた。
「何が」
「何って……楓、ここんとこずっと」
「風邪移しちゃ悪いと思ってさ、でも、もう大丈夫だから」
 その身体を包み込み、軽く唇を合わせて、抱き締める。
「楓……」
 吐息のような、囁きが聞こえた。
「悪い、俺、もう」
 その声だけで、乱されている。
「抱きたくて――気が狂いそうだ」

            
                  十六

 
「楓……」
 どうしようもなく乱れる――呼吸を堪え、獅堂は小さく呟いた。
「ん…?」
「今日――……っ…」
「なんだよ、言いかけたんなら、ちゃんと喋れよ」
「だ……だって」
 薄明かりが、男の裸体を照らし出している。
 獅堂は顔を背け、思わず目を閉じていた。
 いつものことだが、恥ずかしくて、まともに楓の顔が見られない。
 そして、そのままの姿勢で呟く。
「……やっぱ、怒ってんのか」
「どうして?」
「だって……」
「こっち向けよ」
 言葉が、もう出てこなくなる。
「あ……っ」
 その刹那、声を殺して、肩にすがる。
 今ほど、心細くて――同時に、しっかりと抱いてくれる腕が、愛しく思える時はない。
「や……かえ、で」
「怒ってないよ」
「ん……ん、」
 こくこくと頷く。判ってる。でも、そういう表現しか思いつかなかった。
 恐いほど余裕をなくした男に、求められることへの戸惑いが、そんな言葉を口にさせていたのかもしれない。
「藍……」
 名前を呼んでくれる声が愛しい。
 唇が重なる、求め合う深さだけのキスを重ねる。
「もっと、声出せよ」
「……ん、」
「我慢しなくていいよ、してる顔も可愛いけど」
「ば、……ばか」
「乱れた顔も、もっと好きだからさ」
 こんなことを平気で言える男だとは――。
「今日、何?」
「……え……」
「……何か話したかったんだろ」
「…………」
 首を横に振り、獅堂は、楓の肩に腕をまわした。
―――明日、話すよ……。
「楓……」
「なんだよ」
「大好き、……大好きだから」
「…………」
―――なのに、
「これ以上、こんなに誰かを好きにはなれない……楓だけだ」
「…………」
「楓だけだから……」
 なのに、自分は空を選ぶ。
 指を絡め、激しい愛を受け入れながら――獅堂はこみあげる感情に耐えていた。
―――ごめん、楓。
 それでも自分は、この腕を離れ、自分は――空を選ぶんだ……。
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