十一


「君の研究室……念のために、盗聴器の有無を確認した方がいいと思うよ」
 パソコンを収めながら嵐が言った。
 もう――帰るんだな、そんなことを思いつつ、楓は、湯のみをトレーに載せて立ち上がった。
「昨日の今日で、俺のところにメールが来るなんて有り得ない……考えたくないが、どこかで、監視されてるのかもしれない」
「監視はされてるよ」
 楓は、キッチンカウンターにトレーを置いて、嘆息した。
 ああ――嵐は知らなかったのか、と思っていた。
「あの研究施設そのものが、俺を監視しているようなものだから、―――このマンションにしてもそうだ。さすがに盗聴器はないだろうけど、管理人は間違いなく公安のOBか何かだし」
「…………」
「外部からの来訪者は全部チェックされている。多分――電話も記録されてるんじゃないかと思う」
「ちょっと待て、――それ、本当か」
 顔を上げた嵐の顔が、真剣にものになっている。
 楓はむしろ、その剣幕に戸惑っていた。
「なんだよ、恐い顔して」
「なんだよって……」
「だから、個人用のメールアドレスを作った。それだけは職場の連中にものぞけないはずなんだが、――例のメールが来たのは、そのアドレスになんだ」
「…………」
 嵐の眼が、恐いほど鋭くなっている。
 楓は肩をすくめ、弟の視線から眼をそらした。
「まぁ、個人用っていっても、仕事関係のメールしか来ないからな。別にやましいことをしてるわけじゃないし」
「楓、」
 嵐が立ち上がる。楓は思わず、身を引いていた。
「なんだよ、何怒ってんだ」
「君は……そんな目にあって、今まで何も思わなかったのか」
「……そんな目?」
「監視されてることだよ、そんな扱いひどすぎる、許されることじゃない」
「別に……」
 そんなことで怒っているのか、と逆に楓はあきれていた。
 溜息をつきながら、立っている嵐の対面に腰を下ろす。
「嵐、言っとくが俺は犯罪者だ。今は、執行猶予付きで社会復帰させてもらってるようなもんだ」
「…………」
「俺はいいんだ。……ただ、申しわけないと思うのは、こんな俺と一緒にいるあの人のことだ」
 嵐は、憤りを飲み込むような目になって、無言でソファに腰掛けた。
「獅堂さんは、そのことを知ってるのか」
「……?」
 何故、嵐が怒っているのか、その理由が理解できない。
 楓は、不審に思いつつ、肩をすくめる。
「マンションのことは知ってるだろ、あの人も軍の人だし、いくら鈍くても、何も知らないってことはないと思うし」
「どう言ってる」
「別に、」
「別にって、そういう問題じゃないだろ」
 さすがに楓は、少しむっとして顔をあげた。
「なんだよ、いちいちうるさいな、それが何か、今の話と関係あるのかよ」
「話してもないのか」
「いいだろ、そんなこと、どうでも」
「じゃあまだ、獅堂さんには相談していないのか」
「何をだよ、いい加減にしろよ」
 立ち上がろうとした。それより早く、立ち上がった嵐に腕をつかまれる。
「楓が、今、悩んでることだよ」
「俺が何を悩んでるっていうんだ」
「悩んでるじゃないか!」
「…………」
「君は、ベクターの死の原因が――もしかして、ウィルスなんかじゃなくて」
「もういい、やめてくれ」
 楓は厳しい口調で、嵐の言葉を遮った。
「あいつに、余計な心配はかけたくないんだ」
「余計な心配ってなんだよ、何が余計なんだ」
 嵐の口調が少し変わった。
「大切なことだろ、楓。判ってると思うけど……ベクターの死が、ウィルスが原因だとしたら」
「………」
「俺たちだってもう観察者じゃいられないんだ。感染ルートによっては今後発症する可能性だって否定できないんだぞ!」
「判ってるよ、それくらい!」
 思い切り、その腕を振り解いた。
「あいつには……、これ以上負担をかけたくないんだ」
「負担って何だよ。君たちは夫婦だろ。お互いを支えあうのは、当たり前じゃないか」
「あいつが!」
 たまらなくなって、声が昂ぶった。
「あいつが、俺のために、今まで、どれだけ自分の立場を悪くしてるのか――俺が知らないとでも思ってるのか」
「楓………」
 虚をつかれたように――嵐は黙る。
「半年前、オデッセイができた時だって……どれだけ…」
 楓は声を詰まらせた。――どれだけ空へ、帰りたかったか。
「だから……もう、俺のことで、あいつを悩ませたくないんだ」
「…………」
「もう、その話はよしてくれ、悪いが、そのことで、お前にあれこれ言われたくない」
 きつい言い方だとは思った。
 でも――もうこれ以上、嵐と言い争いたくない。
 しばらくうつむいて黙り込んでいた嵐は、やがて、静かに顔をあげた。
「君は………獅堂さんといて幸せなのか…?」
「……え?」
「俺には判らなくなった。そんな風に、お互いを……庇いあって、我慢しあって、本当にそれで幸せなのか?」
「………何、言ってんだ」
 そんな言葉の意味なんて、考えたこともない。
 一緒にいられればそれでよかった。願ったのはそれだけで、それ以上のものは何もなかった。
「君は、今、自由な翼をもがれて檻につながれている鳥も同然だ……言いたくないが、その鳥を飼っているのは」
 嵐が何か言っている。その声がふっと遠くなる。また…貧血に似た目眩。
「楓……?」
 肩が落ちる直前に、添えられる腕。
 ああ――暖かい、人の腕がこんなに温かいなんて、昨日まで――忘れていた……。
「また、気分悪くなったのか」
「悪いな……病弱なことで」
「ごめん……俺が、こんな話したせいだな」
「…………」
「俺が追い詰めたようなもんだ……悪かった」
 肩を抱いてくれる手に、このまますがってしまいたくなる。けれど首を振り、楓は嵐の腕をゆっくりと引き離した。
「疲れただけだ……このところ、仕事が立て込んでて」
「キッチンにあった薬、睡眠薬と精神安定剤だろ。いつからあんなもの、飲むようになった?」
「………」
「それも獅堂さんは知らないのか?君は………本当に、かなり痩せたぞ。少し度が過ぎてるくらいだ」
 ふいに強引な腕に、抱き寄せられた。そのまま抱えられるようにして寝室へ連れて行かれる。 
「ちょっ……おい、嵐」
「いいからもう寝ろ。俺なら適当に帰るから」
 無防備にベットに投げ出された身体。楓は呆然と半身を起こし、嵐を見あげた。
 こんな風に、力ずくで抱き上げられたのは初めてだった。
「帰るよ、メールのこと、もう少し俺なりに調べてみる。また何かあれば、連絡するから」
 ぱんぱん、と手を叩いた嵐は、なんでもないように、じゃあな、と片手を上げる。
「……そうか」
 帰るの――か。
「ついててやろうか」
「…………は?」
「素直に言えよ。ついてて欲しいんだろ、今、すっごい寂しそうな目になってたから」
「は?何言ってんだ、莫迦じゃないか、とっとと帰れ」
 さすがにむかついた。寝転んで毛布をかぶる。
―――冗談じゃない。
 頭上から、嵐のひそかな笑い声がした。
「じゃあな」
 そして――扉が閉まる。
 楓は、眼を閉じて寝返りを打った。
 夕闇が室内に落ちていた。また―― 一人の夜が始まる。
 
 
               十二


 汗でむれた髪に、熱いシャワーが心地よかった。
 タオルで、適当に髪の水気を切り、獅堂はシャワールームを後にした。
 身体全体が、水を含んだ綿のように重い。
 連日のスクランブル。午前の空中格闘戦技に引き続いての緊急発進だった。疲労は限界まで蓄積して――なのに、意識だけは怖いくらい鋭敏になっている。
 感覚的に、まだ操縦中の興奮状態が続いているのだ。戦闘機に乗った後は、いつもそうなる。
 男性バイロットなら、ここで、性的な興奮を覚えるらしいが――それはさすがに、理解できない獅堂なのだった。
 腕時計を見た――八時、少し過ぎ。今なら電話できる。
 楓が、昨夜一晩帰ってこなかったことが、胸に引っかかったままになっていた。
 もう一月近く一人にさせてしまっている。先月会った時からどこか様子がおかしかった。また……気持ちが不安定になっているのかもしれない。
 それにしても、今度はいつ帰宅することができるのか。
 こんな状況に慣れすぎて、もはやため息すら出ない。明日には、緊急待機が解けるかもしれない――なんの保証もない慰めを考えて、苦笑する。
「獅堂一尉、師団長がお呼びだ」
 背後でドアが開き、飛行隊統括官長の声がした。
 休憩所に向かって、廊下を歩いている最中だった。
「えっ……自分ですか?」
 獅堂は振り返る。疲れてるのに冗談じゃない、――と思ったが、それは顔には出せなかった。入間に異動になって半年、上官の部屋に呼ばれて、いい事があったためしがない。
 新しい任務か、叱責か、嫌味か――いずれにしても、睡眠時間が削られることだけは間違いない。
「そんな格好で行くなよ。ちゃんと隊服に着替えて来い」
 厳しい声が背中に浴びせられる。確かに――Tシャツではまずいかな、と思って、はい、と頷く。
「ボタンも全部留めておけ。いつもみたいに、だらしなく前を開けておくな!」
「はいはいはい」と、胸の中で毒づきながら、獅堂は着替えるためにロッカールームに戻った。
 電話は、また後回しになりそうだった。


                十三


「失礼します」
 と、言ったきり、しばらく言葉が出てこなかった。
 獅堂は、唖然、と口を開けた。
 部屋の中には主たる師団長はいない。
 その代り、見慣れた長身、怜悧な面立ち。日本人離れした長い脚。紺の士官服を隙なく着こなした――。
 鷹宮篤志が、師団長の席に着席していた。
 フライトスーツから一転した、優美なスーツ姿である。
「お待ちしていました」
 男は、すっと椅子から立ち上がる。
 白い手袋に包まれた手が、綺麗な曲線を描いて敬礼する。
「あ、あの……どうして……」
 獅堂は、呆然と呟いた。
 オデッセイに戻ったはずの鷹宮が、どうして今、こんな所に――。
「近い内にと、言ったはずですよ」
 目をかすかに細め、鷹宮は笑う。が、その眼差しには、普段の彼らしからぬ妙な険しさがあった。
「鷹宮さん……?」
―――もしかして、何か、急を要する事態でもあったのだろうか?
 一瞬獅堂は、緊張したが、
「いやぁ。やっと二人きりに、なりましたね」
 一転して鷹宮は、実に楽しそうに破顔した。
「………………は?」
「さ、いらっしゃい。私の可愛い獅堂さん、遠慮せずに、その高級そうなソファに、どうぞどうぞ」
 どうぞ、と言われても。
 そんな来客用のものに、隊員である自分が座ったことも触ったこともない。
 驚きを通り越して、さらに呆れも通り越して――もう声が出てこなかった。
 いや、そもそも鷹宮は、どうしてここに。
「あ、あのぅ……」
「それにしても、獅堂さんってば、結婚してから益々セクシーになりましたね。腰の当りがそう、特に」
 鷹宮は、白い手袋に覆われた指を顎に当て、首をかしげた。
「楓君も大変だな。彼の身体が人事ながら心配です。私でよければいつでも代ってあげるのに」
「………自分、失礼します」
 獅堂は、背を向けていた。
 部屋を間違えたに違いない。疲れすぎて――起きたまま夢を見ているのだろう。
 相原の奴何て言った?何が――変わったって?思いっきり昔のあの人のままじゃないか。いや、昔よりひどい。
「まあまあ、今日は、大切な伝言を預かってきたんですよ」
「いいです、もう、聞きたくないです。あなたの冗談につきあえる気分じゃない」
「辞令交付ですよ、獅堂さん」
 足を止めて振り返る。
―――辞令……?
 鷹宮は少し笑って、再度ゆったりと椅子に腰掛けた。
「……一体、何の冗談なんですか」
 戸惑って獅堂は聞いた。
「冗談に見えますか」
「冗談以外に見えませんが、」
 それには答えず、鷹宮は笑ったが、獅堂は、ふいに、かすかな不安を覚えていた。
(――あの人については、…正直余りいい噂を聞きません。最近人が変わったって、)
(――阿蘇室長の腰ぎんちゃく、それが今の鷹宮さんですよ。)
 昨日の――相原の言葉。
 獅堂は無言で、男を見つめた。
 鷹宮の笑顔が、どこか硬いような気がするのは気のせいだろうか。
 ひどく疲れを滲ませた、憂鬱そうな――そんな眼をしているような気がするのは。
 もちろんこんな時間だから、獅堂も相当疲れている。しかし獅堂が知る限り、鷹宮はどんな時でも、絶対に人前で疲れた顔など見せない男だ。
 そもそも、階級的にさほどでもない鷹宮が――何故、師団長の代わりに、この部屋で堂々と振舞っているのか。
「すいませんね、突然。別に驚かすつもりで、お呼びだてしたんしゃないんですが」
 鷹宮は、そんな獅堂の内面を見透かしたように言うと、にっこりと笑った。
「今日は、オデッセイの指揮官、阿蘇室長の代理で来ました」
「…………」
 阿蘇、洋二郎。元政務次官。
 その名前に苦い記憶が蘇る。
 獅堂は黙ったままでいた。あの男の伝言なら、多分ろくなことではない。
「獅堂一等空尉」
 鷹宮は起立し、再度、綺麗な姿勢で敬礼した。
 獅堂も姿勢を正し、敬礼する。
「本日付けを持って、中部入間基地要撃部隊第8師団編成班長兼第701飛行隊隊長から、防衛庁長官直属オデッセイ-e専属パイロットチーム、リーダー職への任命替えを命じます」
―――え…………?
 鷹宮の言葉がすぐに理解できなかった。敬礼を解くことも忘れ、ただ、今言われた言葉の意味を考えていた。
「獅堂さん」
 鷹宮は、ふっと笑った。
「辛い思いをしましたね。よく……文句も言わず、頑張りました」
「…………」
「あなたに、チームみかづきのリーダーとして、新生オデッセイへの召集命令が下りたんですよ」
 静かな声だった。
「あの……」
「パイロットチームは編成替えになります。相原君には、別のチームのリーダーを、あなたと一緒にチームを組むのは、この入間から北條累三尉と、そして小松から、大和閃一尉が、同じく召集されることに決まっています」
―――北條と、大和が。
「駐在勤務です。ご存知かと思いますが、これからは地上に降りる機会は、そんなにはない」
―――自分が……。
 ゆっくりと、鷹宮の顔を見る。
―――自分が、オデッセイに……?
 そんなはずは、ないという思い。何故なら、何故なら自分には――
 鷹宮が続けて何か言っている。でももうそれは、言葉として意味を持って響いてはこなかった
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