九


「しっかりしろ。今、水持ってきてやるから」
 嵐の腕で、ベットに降ろされ、楓はようやく一息ついた。
「起きんな、寝てろよ!」
 台所の方から、響く声。ガラスの触れ合う乱暴な音。――何か金属の落ちる音。
「……おい」
 別の意味で寝ていられなくなって、楓はため息をついて起きあがった。
 今日の昼。驚いた事に、今朝別れたばかりの嵐が、再び研究所に訪ねてきた。
 楓は医務室で横になり、目眩がおさまるまで休んでいた所だった。
 職員の勧めもあって、そのまま嵐に付き添われて早退した。何か話しがあるらしい嵐は、結局マンションまでついて来てくれたのだが――。
 楓がキッチンに入っていくと、嵐は驚いたように眉を上げる。
「楓、寝てろって言ってるのに……」
「もういいよ、お前みたいながさつな奴に、ひっかきまわされてたまるか」
 そう言いながら、嵐が乱した食器を、てきぱきと片付ける。嵐は、――やや呆然としながら、その仕草に見とれているようだった。
「何か作ろうか、インスタントでよけりゃ、コーヒーでも淹れるけど」
「あ……じゃあ、お茶で…」
「熱いのでいいか」
「あ、ああ…」
 気まずそうに頭を掻く嵐。獅堂と同レベルの"使えなさ"に、楓は思わず苦笑する。
 実際、獅堂と嵐は――表面的な印象もそうだが、深い部分でよく似ている。
 得意分野にかけては、他を寄せつけないほど天才的な能力を有している反面、ほかの事に関しては、信じられないほど不器用で、超がつくほど鈍感だ。
 基本的にデリカシーが欠落しているくせに、妙に、鋭いところがあったりする。
 獅堂は迷いを振り切ってから動き、嵐は迷いを解決してから動く。それだけの違いだ。そして――、
 楓は背後の嵐を振り返った。
「なんだよ……?」
「いや……そんなとこに立ってないで、あっちに行けよ、狭いから」
 苦笑して、眼を逸らした。
 何よりも、瞳の輝き。それが、とてもよく似ている。純粋で清みきった――空の光を湛えたような。
 嵐はしばらくその場に立ち、台所を興味深そうに見まわしていた。
「なんだかなぁ……いつも思うけど、楓って、ちゃんと主婦やってんだ」
「嵐、包丁が近くにある時は、言葉って選ぶもんだぜ」
「そ、そうか、じゃ、あっち行ってようかな」
 楓は笑った。
 タクシーの中、嵐の肩を借りて眼を閉じている間に、気分の悪さも、吐き気も、すっかり治まったようだった。
 何よりも今、この部屋にいるのは自分一人ではない。それが、不思議なくらい心を落ち着かせてくれる。
「あ、これっ、懐かしい、へーえ、まだ持ってたんだ」 
 と、その時、リビングの方から、嵐の素っ頓狂な声が上がった。
―――おいおい、今度は何だよ。
 ケトルを火にかけ、ため息をつきながら、楓はリビングに戻る。
 立ったままの嵐が、手にしているもの。
「あ……」
「いつの間にかつけなくなったと思ったら、やっぱ、大切に持ってたんだなぁ、獅堂さん」
「バーカ、返せよ」
「なんだよ、別に楓が怒らなくても」
 肩をすくめる弟の手から取り戻した、冷たい金属の鎖。
 楓は無言で、それを見つめた。
 手のひらに沁みる冷たさが、忘れていた思いを呼び覚ますようだった。
「それ、鎖が切れてるぞ」
「……知ってるよ、直そうと思って、そのままにしてたから」
 楓はそう呟き、銀の鎖を棚の上に、元通りに置いた。
 今、ペンダントを身につければ、自分が駄目になってしまいそうだった。
 切れた鎖、もしかしてそれは――今の自分と、そして戻らない女の未来を象徴しているのかもしれない。
 いっそ鎖のように切れてしまえば、あの人は――どれだけ自由になれるだろうか。
 感慨を振り切り、楓は何気ないように向き直った。
「で、なんだよ、わざわざ昨日の今日で尋ねてくるなんて、何の用だ」
「そっけないなぁ、昨日はあんなに、しおらしかったくせに」
 嵐はふてくされたように言い、リビングのソファに腰を下ろした。 
 そして、わずかに溜息をつく。
「楓さ、ドイツに行ってたよな」
「え……ああ、それが?」
「向こうの科学者で、ヨハネ・アルヒデドという人と……会ったことが、あるか」
「ないけど、名前は聞いてるよ」
 キッチンでケトルが鳴っている。
 そんなことを聞くのに、妙に神妙な顔をしている嵐が、不思議だった。
「ベクターの科学者だろ、確か、発生工学の分野で……」
「世界ではじめてES細胞を使った癌治療を確立した人だ。昨年、EURの科学者グループがエイズに完全に対抗しうるワクチンを開発したと発表したが、それも彼一人の功績だと言われている。ネイチャーの常連だよ。論文はやたらと出すくせに、メディアには、決して顔を出さない変わり者だ」
 嵐の声を聞きながら、ガスコンロの火を消して、棚から湯のみと茶葉を出した。
「知ってるよ、それが?」
 ドイツ時代、彼の噂は何度も聞いた。論文も読んだことがある。とりたてて――興味を持った相手ではないから、楓の中では、特に印象に残る存在でもなかった。
 楓がそう言うと、嵐は困ったように頭を掻いた。
「……ま、会ったことがないならいいよ。……つてがあれば、一度、話がしてみたいと思っただけだから、それより楓」
「ん?」
「俺が昨日教えた……プリペイド携帯のことだけどさ、誰かに……漏らしたりはしてないよな」
「は?なんだって俺が」
「……いや……じゃいいよ」
 嵐は何か言いたげだったが、首をかしげてそのまま黙る。
 その態度を不審に思いつつ、楓は急須に湯を注いだ。


                 十


 ピースライナーの発進時間が迫っていた。
 獅堂は、相原、鷹宮と共に、駐機場が見渡せるラウンジで、出発までの僅かな時間を潰していた。
 椎名は、あれからすぐに自家用車で自宅に戻っていった。
 出産に合わせ、しばらく休暇を取っているらしい。その貴重な時間を自分のために使ってくれた――それが、たまらなく嬉しいし、同時に申し訳なくもあった。
「それにしても、凄かったっす、鷹宮さん。あれで現役じゃないなんて信じられないですよ」
「いや、気分はまだ現役のつもりなんですがね」
 対面の席に座る、相原と鷹宮の楽しげな声。
 二人が――打ち解けて話しているのが心地よい。相原の、鷹宮へのわだかまりが、これで解けてくれればいいと思う。
 鷹宮に聞いてみたいことはたくさんある。でも、今は、この穏やかな空気を大切にしたかった。
「獅堂」
 ふいに背後から呼ばれ、獅堂は少し驚いて振り返った。――ラウンジの入り口に、一人の男が立っている。
 すでにオデッセイのフライトジャケットに着替えており、その表情は心なしか緩やかに見えた。
「名波空佐」
 獅堂は立ち上がった。
 勝負は終わった。同じ空で、同じ三次元の空間を体感した者同士だけが感じる――不思議な共感。
「さすがだよ、俺の完敗だ。腕をあげたな、獅堂」
「名波空佐も、……素晴らしかったです」
 差し出された、手袋に覆われた白い手を、獅堂は力をこめて握り返した。
「俺はお前が大嫌いだがな、嫌いなりに心配してやってるんだ。地上でもたもたしてないで、早いとこ上がってこいよ」
「ありがとうございます」
「それに……お前と俺とは、恋のライバルでもあるしな」
「…えっ…?」
 思わず手を引っ込めるところだった。
「本当言うと……鷹宮さんが来た時点で、自分の負けは決まっていたようなものだったが……」
 名波は、かすかに頬を赤らめてうつむいた。
――――――はい???
「――………」
 獅堂は無言で鷹宮を見た。鷹宮は素知らぬ顔で、コーヒーを口に運んでいる。
 じゃあな。そう言って、名波は静かに背を向けた。
「鷹宮さん」
 その後ろ姿が、完全に消えたのを確認してから、獅堂は言った。
「……手を、出しましたね」
「どうですかね。最近年のせいか記憶が曖昧で」
「本当に――あなたって人は、どこまで節操がないんですか!」
「いやだなぁ、昔のことですよ、昔の」
「知りませんよ! 今だって何やってるか知れたものじゃない」
 獅堂は乱暴に座りなおし、残りのコーヒーを一気に飲んだ。「あちっ」舌と喉が熱さでやける。
「あのぉ……」
 相原が眉をひそめながら、口を挟んだ。
「獅堂さんと、鷹宮さんって……ひょっとして、そういう仲だったんですか」
「はぁ?!」
「おやおや」
 二人の視線を一斉に浴びた相原が口ごもる。
「え、あ、……だって、獅堂さん、何だかすごく怒ってるみたいだし」
「怒る?自分が?――この自分が?」
「いやぁ、どうします?ばれちゃいましたね。獅堂さん」
「なっ、何言ってるんですか」
 獅堂は狼狽して立ち上がった。
「いやだなぁ、冗談ですよ」
 鷹宮は笑う。
「相原君、獅堂さんが私なんか相手にするはずないでしょう」
「………」
 何と言っていいか判らず、獅堂は憮然として席についた。
 その時、基地内に非常ベルが鳴り響く――いつもの習慣で、身体が勝手に反応していた。
 スクランブル警報。
 説明しなくても、鷹宮も相原も理解している。
 次の待機組である獅堂は、即アラートにつかなければならない。
「では」
 獅堂は、気持ちを切り替えて敬礼した。それが別れのあいさつだった。
「獅堂さん」
 背中で、鷹宮の声がする。振り返ると、不思議な微笑を湛えた目が、見つめていた。
「また、近いうちに」
「……? はい」
 頷いて、そして獅堂は駆け出した。


                十一 


「実は、今朝……メールがきてさ」
 嵐はそう言って、リュックから小型のノートPCを取り出した。
「メールか」
「……うん、」
 お茶を飲み終えた頃から、嵐が黙りがちになっていることに、楓も気づいていた。
 何の話か知らないが、あまり――よくない話なのだろう。
 ウィークディの午後三時すぎ、開け放たれた窓からは、物音ひとつ聞こえてこない。
「……気分、悪くないか?」
 PCを開きながら、嵐が、いたわるような眼で覗きこんでくれる。
「平気だ、いちいち心配すんな」
 素っ気無く言ったものの、本当は少し胃が痛みだしていた。
 嵐が、開いたパソコンにカードを差し入れる。
「これ、秋葉原で買った安物で」
「なんだよ、聞いたよ、その話なら」
「登録も偽名でしたし、……便利な世の中だよな、誰でも簡単に犯罪に手が染められる」
 そんな言葉が、かつての生真面目な優等生の口から出るとは、とても信じられなかった。
 溜息をついて、ソファに背を預けながら、楓は言った。
「嵐、俺はやっぱり、レオは今回のことに無関係だと信じたい。それにまだ、ベクターだけが早死にしてるっていう確かな情報はどこにもないんだ。僕たちが気づかない所で、在来種も、同じような死に方をしているのかもしれない」
「かもね」
「……リスクはあるだろうが、天音に……この件を調べてもらおうかと思ってる」
「ありすぎだろ、パニックになるよ、ベクターバッシングの再来だ」
「でも、知った以上、隠しておくなんて出来ないだろ」
 楓は、少し苛立って声を荒げた。
「楓、……だからそれは、今の時点では、あえて隠す必要があるってことなんじゃないか」
 嵐は、パソコンを引き寄せ、それを楓の方に向けた。
「これが、今朝方俺に届いたメールに、添付されていたものだ」
 楓は、無言で眉を寄せた。
 何か公式の報告書、その断片のようなもの。
 
 新生種を媒介とする新型ウィルスについて
 報告書・その1
 このファイルは極秘文書である。許可なくして閲覧を禁ずる


 そのタイトルに、思わず顔を上げてしまっていた。
「嵐、これは――」
「初めて来たメールだよ、誰にも漏らしてないはずのアドレスに、今朝、いきなり入ってた」
「…………」
「返信したら、エラーで返ってきた、……どう思う、楓」
「…………」
「正直言って、ぞっとした。君に来ていたメールと、同じ差出人だと思っていいんだろうか」

 所管機関 NIH/XDR
 機密種別 極秘(レベル7)
 事項   新生種に感染するウィルスに関する調査について。
 参照ファイル 新生種ゲノム解析計画。新生種医療基準計画。


 国防省の権限により、以下のファイルを抹消する。
 30008/39776/200099/ju300p99/


「……国防省か」
 楓は呟いていた。米国防総省――通称ペンタゴン。
「つまりこれは、そこから漏れたデータってことだ、漏れたか、盗み出されたか……後は記号だらけで、意味は全く分からないが」
 文章らしきものが出てきたのは、画面を随分スクロールさせた後だった。
 現時点において不明、不明、不明、調査中、調査中、調査中――
 そんな文字が、延々と継続している。
 そして、最後の1行。

  新種ウィルスHBH−1(仮称コードネーム)
      「Human beings'hope」についての報告書


―――Human beings' hope……。
 画面はそこで唐突に終わっている。タイトルの後に、なんらかの報告が続いている気配があるのに、そこで、いきなり。
「これが……ウィルスの、命名なのか」
 楓は、呆然と呟いた。
 嵐は黙ったまま、何も言わない。
「どういう…意味なんだ…?」
 人類の希望?
 ウィルスの命名が、―――人類の希望?
「お前……この単語を」
 はっきりと記憶に残っている。嵐の大学時代のノートに書きなぐられていた単語。
「以前、書いてたことがあったろう、嵐、……これはどういうことなんだ」
「とても……」
 低い声で、嵐は笑った。弟らしくない、どこか乾いた笑い方だった。
「とても、暗示的なネーミングだとは思わないか…?」
「……暗示的……?」
 嵐は無言で立ちあがった。大きな背中を向けて、窓辺に立つ。
 楓もまた、嵐の言葉と、沈黙の意味を理解した。
 この名前から――楓が、推測できることはひとつだった。
「宇多田さんに……話すのは、もう少し後の方がいいと思うな」
 嵐が呟く。
 楓に、もう異論はなかった。
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