六


「真宮博士…」
 自分を呼ぶ何度目かの声で、ようやく楓は振り返っていた。
 呼ばれているのは判っていた。それでも、身体が反応してくれなかった。
「大丈夫ですか、顔色…真っ青ですよ」
 背後に席を取っていた助手が、顔を近づけてそう囁く。
「平気だ」
 研究スタッフのミーティングルーム。
 別のチームの実験結果のレポートを聞きながら、楓は、自分の意識がどんどん遠ざかっていくのを感じていた。
 周囲の声が、ひどく遠くに響く。
「博士、」
 はっと気づくと、手元の書類が、全て足元に落ちていた。
 室内の最後尾、その隅の席に一人離れて腰掛けていた。
 集まった皆の眼が一様に楓に振り返る。それが、夢の中の蛇の群れに見えた。
「構わない、続けてくれ」
 書類を拾いながらそう言った。吐き気がする。今朝から断続的に続いている胃痛が治まらない。
 今朝――嵐の部屋を出て、いったん着替えのために自宅に戻った。そして、獅堂が帰ってきていたことに気がついた。
 普段と変わらない部屋、寝室も使われていないし、置手紙のたぐいも一切ない。
 それでも判った。室内の様子がわずかに違う。テーブルに残っている使用済みのグラス。
 夕べ、獅堂は帰ってきて、――そしてまた、慌しく出て行ったのだ。
 馬鹿馬鹿しいほど滑稽なすれ違い。滅多に外泊しない自分が一晩帰らなかったことを、あの女は、どう思ったのだろう。
「真宮博士、次はあなたの報告の番ですが」
 進行役の職員が、少し遠慮がちにそう言った。
 その声で、また楓は我にかえる。
「ああ……すまない」
 が、立ち上がった瞬間、視界が真っ暗になった。すがろうと重心を掛けた椅子が、その重みで音を立てて倒れる。
「博士!」
「真宮さん?」
 大丈夫……。
 片膝をついたまま、真宮は呟いた。目眩がする。また吐き気が込み上げる。
「今日はいいから、もう帰って休んでください。昨日のこともあって、精神的に参ってるんじゃないですか」
 支え起こしてくれた助手が、そっと耳元で囁いた。
―――誰か………。
 癒されない不安と絶望感。夕べ嵐が救ってくれた孤独が、一人になるとまた押し寄せる。
(―――楓、人は、誰でも一人で戦ってる。)
 その通りだよ、嵐。
 一人で乗り越えなければならない壁、それは判っている、でも。
 時々――それが、どうしようもなく虚しくなるんだ。
 生きるのも死ぬのも恐い。
 誰か、この世界から、
 楓は眼を閉じ、意識を保とうとする努力を放棄した。
―――自分を、どこかへ連れ去ってくれ……。


                  六


「獅堂さんっ」
 基地内を一気に駆けて来た相原は、もどかしくオペレーションルームの扉を押し開けた。
 誰も振り返る者はいない。狭い室内には驚くほど沢山の人が溢れていた。
 そこに立つ全員が――ディスプレイ上に瞬く――戦闘機を示すシンボルマークの動きを固唾を呑んで見つめている。
「獅堂さんは…」
 相原は、昨日獅堂と一緒にいた柄の悪い隊員の顔を見つけ、その肩をゆすって聞いた。
「おい、獅堂さん、一人で出たって、本当なのか!」
「うるせぇな、見りゃ判るだろ!」
 怒ったような目をした男は、顎をしゃくって、四角いディスプレイを指し示した。
 赤いブロックマークが二個。青いのクロスマークが、三個。激しく上下に入り乱れて点滅している。
「これは……」
 相原は息を呑んだ。
 法律で定められた遠い演習空域で、ドッグファイトをしている戦闘機を肉眼で捕らえることは不可能だ。
 レーダーが位置を捉え、それがシンボルクマークとしてディスプレイに映し出される。赤と青。色の違いが、それぞれのチーム機を示していることは、相原もよく知っていた。
「獅堂さん……誰かと二機で出たのか」
「いいえ」
 すぐ傍にいた、フライトスーツを着込んだ若い隊員が首を振った。
「獅堂さんは、開始直後、すぐに一機をロックオンしました。それは……信じられないくらい鮮やかに」
「やっぱり、あの人は凄ぇや」
 隣にいた、別の隊員が、低く呟く。
「じゃあ、獅堂さんは誰とチームを?」
 相原は重ねて聞いた。立ち寄った基地の詰所で、獅堂が今日の勝負、仲間も連れず一人で発進したと聞かされたばかりだった。
 昨日、こうなることを予測できなかった、自分の迂闊さが情けない。
―――獅堂さん……。
 相原は固唾を呑んで、入り乱れる、三個の青いクロスマークを見つめた。
 そして思った。
 この空で――いったい、誰が獅堂を守っているのだろうか。


               七


”――獅堂、深追いはするな”
 獅堂は旋回しながら機首を下げ、降下に入った。
 高度三千フィート。空と海が逆転する。
”――敵機、後方上空、気をつけろよ ”
 耳元で、弾けるコール。その、胸に染みるほど懐かしい響き。
―――相変わらず、心配性だな、あの人も……。
 こんな状況にも関わらず、苦い笑いが口元に滲んだ。
「了解!」
 一声返すと、獅堂は、さらにきつく左旋回に入れた。
 Gメーターの指針が、6Gまで跳ね上がる。肺が焼きつき、酸素マスクを通す呼吸が荒くなる。
 名波のイーグルは、ぴたりと後方につけて追って来ていた。さすがに、あれだけのことを言うだけあって腕は確かだ。
”――獅堂さん、上の蝿は私が引き受けました。後は存分にどうぞ ”
 上空の機から、穏やかなコールが届く。
―――この人くらいだろうな。戦闘中に、こんなに呑気な声を出すのは……。
 半ば呆れながら、それでも、その柔らかな口調に、緊張がすっと解けていく。
「それじゃ、行くか」
 獅堂は機体を水平に立て直すと、操縦桿を思い切り引き付けた。アフターバーナーに点火、機体は一気に急上昇に転じる。
 一瞬の間に、獅堂には全てのことが見通せていた。
 自分を追ってくる名波機の動きが、次の、さらにその次の手まで、冷静に分析できる。そして、それを先手をとって潰していく。髪の先ほどの迷いも無い。
 そして――急旋回、再び機首を下げ、一気に急降下、流れるように名波機の背後に滑り込んだ。
 その瞬間、勝負は決した。
 赤外線シーカーが、右に、左に、未練のように逃げる名波機を静かに捕らえる。
「ロック、オン」
 獅堂は右手の親指で、ボタンを押した。


                  八


 ハーネスと酸素マスクを外し、ヘルメットを脱ぎ捨てると、ようやく人心地にかえった気がした。
 大きく息を吐いた時、駐機場に集まった整備士、パイロットたちから拍手が沸き起こった。さすがに少し驚いて、コックピットから下を見下ろす。
 たくさんの人に混じって、手を振っている相原の顔があった。
「獅堂さん」
「獅堂リーダー」
 ラダーを降りると、興奮した面持ちで、何人かのパイロットたちが駆け寄ってくる。
「これが、死線をくぐり抜けてきた本当のパイロットの格闘戦なんですね」
「自分は感動しました。旧型機で、あれだけのことができるなんて」
「お、おう、サンキュ」
 その人の輪を、戸惑い気味に掻き分けながら、獅堂は一足先に地上に降りたはずの二人を探した。
「獅堂、こっちだ」
 やはり人の輪に囲まれた二人が、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 椎名恭介と、鷹宮篤志。
 長身の鷹宮は、人の輪の中にあっても頭ひとつ突き抜けている。激しい空中戦の直後だというのに、髪の毛一筋の乱れもない。相変わらずのクールな美貌。
 椎名は、――久々に見るフライトスーツが、似合いすぎる程似あっていて、過去の懐かしい思い出に、束の間、獅堂は心を奪われていた。
「――ありがとうございました」
 獅堂は二人の傍に歩み寄り、姿勢を正して敬礼した。
 この二人が来なかったら――あの場を乗り切れたかどうか、自信はない。
「自分たちは援護に回っただけだ。さすがだな、獅堂」
「椎名さん……」
 精悍な瞳、厚い口元が、かすかにほころんでいる。椎名が、こうしてここにいる――それが獅堂にはどうしても信じられなかった。
「久しぶりだな、この間は長電話……申し訳なかった」
「そんな、……いや、あれは」
 当時のことを思い出し、少し頬が赤くなる。それを誤魔化したくて、獅堂は、思いついたように顔を上げた。
「あ、そう言えば椎名さん、お子さん、そろそろなんじゃ」
 一瞬眉を上げた椎名は、少し照れたように眼を背けた。
「実は……もう生まれたんだ。男の子でな」
「えっ、いつですか」
「夕べだよ」
「そんな……それなのに、自分のために」
「水臭いことを言うなよ、当たり前のことだろう」
「椎名さん……」
「――すいません、私のことを忘れてやしませんか」
 鷹宮が、すねたように口を挟んだ。
「そもそも、私が一報を聞いて、自宅に帰っていた椎名さんに連絡を入れたから、こういうことになったんですけどね。それはまぁ、二人の熱烈な師弟愛に比べたら、私なんて」
「いや、鷹宮さんには、何かと会ってるから、つい」
「鷹宮はおかしな所を根に持つからな。気をつけた方がいいぞ、獅堂」
「だ、大丈夫です。警戒は常にしてますから」
「椎名さん、あなたがそもそも最初に余計なことを吹き込むから」
「椎名さん、鷹宮さん!」
 相原が駆けつける。
 獅堂は、――懐かしさで胸が詰まりそうだった。
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