四
「ここは……」
ようやく、意識がはっきりしてきて、楓はうっすらと眼を開けた。
薄暗い、狭い空間。驚くほど低い天井。―――どこだ?
思わず眉をしかめていた。見慣れない電灯は、自分の部屋のものでも研究所のものでもない。
「眼、覚めた?」
その声に、はっとして飛び起きた。掛け布が肩からずれて膝に落ちる。
カーテンのかかった窓。病院にも似た、無機質で飾り気のない部屋。
ひょい、とその視界に、見慣れた弟の顔が飛び込んできた。
「嵐…?」
呆然と呟く。ここはホテルの一室だ。俺は――なんだって、こんな所で寝てるんだ……?
「悪い、俺の部屋。タクシーの中で、意識がないかと思うくらいぐったりしてたから」
嵐は――眉をしかめ、心配そうにのぞきこんでいる。
暖房が熱いほど効いていた。
嵐はTシャツ一枚と、そしてジーンズだけになっている。
楓は、ようやく自分が置かれている状況を理解した。
「本当に、何も覚えてないのか?」
立ち上がった嵐が、背を向けて冷蔵庫を開けている。
「ああ……いや、」
楓は眉を寄せた。おぼろげな記憶。タクシーに乗って――降りたのも覚えている。
車の揺れのせいもあったのか、気分は最悪で、今にも吐いてしまいそうだった。力強い腕に導かれるまま、ベットに倒れこみ――そう、後は、覚えていない。
「こんな時間だ。終電もないし、泊まってけよ。俺なら床で寝るし」
ペットボトルのミネラルウォーターを投げられる。
「……いいのか、一人用のビジネスだろ」
「いいよ、フロントの人も何も言わなかったしさ」
何か食べるか?
嵐が聞く。
「いや、いいよ」
楓は静かに首を振った。
何も――欲しくはない。まだ、胃のあたりがむかむかしている。
嵐が、心配気にベッドの脇に腰掛ける。
「獅堂さんには、……連絡しておこうか?」
「どうせ、今夜も基地だよ、言わなかったっけ、あいつ、入間に異動になったんだ」
無意識に自嘲的な声になっている。いけないな、と楓は思った。
どうも嵐の前に出ると、いつもの自分でいられない。
「そっか、大変だな……色々と」
嵐は呟いたきり口をつぐみ、そして静かな視線を楓に向けた。
「今日……、何があったんだ」
「え……?」
「最初から、楓はずっとおかしかった。いたずらメールのことだけじゃないだろ。壊れそうなのを無理して頑張ってるのがよく判ったし……俺を見る眼が」
「………」
「まるで、親を見つけた迷子の子供みたいだった。そう言ったら、怒るかもしれないけど」
「……ばーか」
「泣きそうに見えた」
「ありえねーよ」
「……楓……?」
楓は額を押さえていた。
嵐の気配が近くなる。
「……頼むから、無理だけはするな」
「…………」
「お前には獅堂さんがいる、俺だっている、宇多田さんだっているんだ。もっと、周りを頼っていいんだよ」
嵐の声は、ささくれて乾いた心に、深く沁みこむ水のようだ。
そのままうつむき、楓は唇を噛み締める。
今――たまらなく自分が弱くなっていることを自覚していた。その顔を、嵐にだけは見られたくない。
「大丈夫だ」
嵐ではなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
「俺は、大丈夫だ、平気だよ。大したことじゃない。いつだって一人で乗り越えてきたし、今回もそうできる。何も、問題はない」
「………」
嵐は、何も言おうとしない。
「……大丈夫だ。確かに今日は、少しナーバスになってた、でも、お前に心配してもらうことなんて、何もない、本当に何もないんだ」
ふいに暖かな手が肩に触れた。咄嗟に顔を上げてしまっていた。
見つめている、暖かくて愛しい眼差し。
「心配しない、しても――するだけなら、それが何の意味もないことだって判ったから」
「嵐……」
「楓だけじゃない、人は誰でも一人で戦っている、……僕は、去年」
その眼が、一瞬だけどこか苦しそうになった。
「自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。……日本を出て一人で旅していたのは、そのせいもある」
「……クリスマスの、頃か」
「気づいてたのか」
「お前はおかしかった。俺に何か言いたいのに、言えない、そんな感じだった」
「…………」
嵐はわずかに苦笑して、うつむいた。
「……色々……悩んだり迷ったりしてた……でも、判ったことがひとつある。俺は強くならなきゃいけないってことだ」
「お前は強いじゃないか」
自然に出ていた言葉だった。
嵐は再度、困ったように笑い、そして両手で楓の肩を抱いた。
「じゃあ、もっと強くならなきゃいけない、……俺は非力で……今はまだ、誰かに守られるような存在だけど、」
「………誰かに?」
聞き返すと、嵐は無言でうつむいた。
「………でも、楓だけは俺が守るよ」
「…………」
「決めてるんだ……他には何もできはしない、でも楓だけは、俺が絶対に守る、それが――俺を守ってくれた人への、唯一の恩返しになるはずだから」
―――嵐……。
気持ちが、解けていく。張り詰めたものがふいに緩み、そして自分を支えるものが、何もなくなっていく。
限界だった。楓はそのまま、嵐の肩に頭を預けた。
「悪い……」
「楓……」
「………このまま…もう少しだけ……」
「………」
嵐の腕が、背中に回される。
―――まるで、親を見つけた迷子の子供みたいだった。
おかしいくらい、その言葉通りだった。
嵐の姿を見つけた時、あの刹那、今にも、声を上げて泣き出してしまいそうな自分が、確かにいたから――。
五
「獅堂さん!」
逼迫した声に、少し驚いて振り返っていた。
「獅堂さん、あんた……、今までどこに行ってたんすか!」
早朝間もない、静まり返った入間基地の駐機場に、重いブーツの音がばらばらと響く。
獅堂の部下に当たる第701飛行隊の隊員たちだった。
先頭には北條の馬鹿でかい姿がある。総勢四名、駆け足で近寄ってきたその姿が、一様にフライトスーツ、耐水服、サバイバルベストを身につけているのを見て、獅堂は、軽く眉を上げた。
「どうした、今朝うちの隊はローテから外れているはずだが」
そう言う獅堂も、すでに旧型機専用のフライトスーツを身につけている。下半身を締め上げるGスーツとブーツが重い。
「何を呑気なことを言ってんすか。夕べ一晩どこへ行ってたんです!」
声を荒げている北條は、青筋を浮かべんばかりの勢いで怒っていた。
「何処へって……」
自分を囲んで睨みつける四人の顔を見回し、獅堂は唖然と唇を開いた。
「いや、家に帰ってたんだが」
「そんな場合じゃないでしょう」
空大上がりの二等空尉が、ため息をついて、腕を組んだ。
「名波空佐のチームとの空中格闘戦技。我々も、チームとして、黙ってはいられませんよ」
「なんだ、知っていたのか」
「知るも何も、もう基地中の噂っすよ。みんな見学に集まってます!」
北條が噛み付く。
「えっ、マジか?」
「呑気だよなぁ、獅堂さんは」
緊迫していた空気が緩んだ。
「リーダーが侮辱されて、自分たちも怒っているんです。獅堂さん、自分たちも飛びますから」
「そうです、誰でもいい、編成は獅堂さんが選んでください」
口々に言い募る。みな、若い隊員たちで、四面楚歌の基地内にあって彼等が獅堂を慕うようになってくれたのは、北條が間に立って、なにくれとなく気を配ってくれたおかげだった。
「お前ら……」
獅堂は胸が熱くなり、それを誤魔化すように、少しだけ笑った。
「心配かけてすまなかった。……でも、今日は」
出された条件を聞いた時から、もう、きっぱりと決めていた。
「自分一人で行く」
唖然とした空気が、わずかな沈黙の後に爆発した。
「な、何言ってんすか、あんた」
「冗談じゃない、そんなの無茶ですよ」
「三対一なんて、勝負になるわけないでしょう」
その騒ぎを獅堂は厳しい一瞥で遮った。
「では聞くが、お前らに、イーグルでの空中格闘戦技の経験があるのか」
はっと、全員が口ごもる。
「でも……」
「無理なんだよ」
そのまま、背を向けて歩き出した。
「獅堂さん、正気ですか?」
「一人で三機を相手にするなんて…むざむざ恥をかきにいくようなものじゃないですか!」
四人の声が、追いすがる。
「大丈夫だ」
「おい、待てよ」
肩を掴まれる。こんな無遠慮な真似が出来る隊員は一人しかいない。
「あんた――俺たちが、それほど信用できないのかよ!」
北條だった。恐いほど真剣な目になっている。獅堂は立ち止まり、静かにその腕を振り払った。
「……これはな、自分と名波空佐の、あくまで私怨だ」
厳しい眼で、四人の顔を見回す。
「そんな勝負に、先のあるお前たちを巻き込むわけにはいかない。慣れないイーグルならなおさらだ。事故でもあったら取り返しがつかない」
1人で行く。獅堂は再度そう言い、そして微かに表情を緩めた。
「安心して地上で見ていてくれ。旧型機同士の空中格闘戦技なんて、こんな機会じゃなきゃ見れるもんじゃない」
「でも……」
よほど悔しいのか、北條は眉を震わせている。
「無様な負け方だけはしないよ」
獅堂はそのまま歩き出し、まだ無人のオペレーションルームに入った。
ガラス張りのオペレーションルームからは、駐機場、そして滑走路までが一望できる。
格納庫から、静かにF−15イーグルの巨体が引き出されているところだった。黒銀の機体は、駐機場に向け、そのまま滑るように移動していく。
すでに実戦では久しく使われていない、かつてのメイン戦闘機――その姿が、不思議な痛みとなって胸の底に沁みていく。
獅堂は無言で、整備士によって飛行前点検を受けているイーグルを見つめ続けていた。
「早いな、獅堂。夕べはお楽しみだったそうじゃないか」
背後で、扉がいきなり開き、名波のあざけるような声がした。
「一時帰宅か……優雅なもんだな、さんざんやりまくって、腰もたたないんじゃないか」
隣に並び立ち、名波もまた、獅堂と同じようにガラスの向こうに視線を向ける。
「お前のことだ、どうせ一人でやるつもりなんだろ?土下座して謝れば、この勝負は水に流してやってもいいんだぜ」
「………」
「おい、獅堂」
「名波空佐、」
獅堂は呟いた。名波があれこれ言うのは聞こえてはいたが、不思議な昂揚感だけが、今の獅堂の全てだった。
「イーグルは、いい機ですね」
「……はぁ?」
ついに、頭までおかしくなったか。――名波の吐き捨てるような声も、気にはならなかった。
F−15イーグル。
ジェット・フューエル・スターターのレバーを引くと、スターターが回転する。あの瞬間の、なんとも言えない緊張感。エンジンを始動させるための、ひとつひとつの細かい手作業の流れが、鮮やかに蘇る。
あれに――乗るのか。
胸が、ぞくぞくと震えている。あれで――空に、もう一度出ることができるのか。
「聞けよ、みんな」
背後で、名波の大きな声がした。
獅堂は我に返り、少し驚いて振り返った。
「元エースパイロットの獅堂様はチームの仲間すら信用してない、自分が一番、自分一人で俺たち三人と相手をするつもりだぜ」
オペレーションルームの周辺に、入間基地要撃戦闘部隊のメンバーたちが集まりつつあった。大半が噂を聞いて駆けつけてきた野次馬たちで――その中で、第701飛行隊の仲間が、重いフライトスーツを装着したまま、唇を噛んでうなだれている。
「おうおう、そこにいたのか、腰抜けどもが」
輪の中から揶揄が飛ぶ。おそらく、名波のチームの一人が発したものだろう。
「うるせえよ、てめぇら、一体何様なんだ」
さすがに頭にきたのか、北條が飛び出そうとする。
獅堂は振り向き、視線で北條を押さえつけた。
「そうだよな、獅堂。お前は誰も信用していない、昔からそういう奴だ」
名波は轟然と言いつのる。
「だから一人で飛ぶんだろ?お前が信用しているのは、お前自身だけなんだろ」
獅堂は無言で眉を寄せた。
名波の魂胆は判っていた。慣れないイーグルの操縦をしくじり、もし、万が一隊のメンバーが負傷でもすれば、それはそのまま編成隊長である獅堂の責任になる。獅堂自身の個人的な私闘であればなおさらだ。
獅堂が一人で挑んでくることを――おそらく最初から、名波も、また、この勝負を許可した上官たちも見越していたに違いない。
「素直に謝れ、獅堂。そうすれば許してやる。一機対三機の空中格闘戦技なんて、時間の無駄だ」
ざわめきが、静かにオペレーションルームに広がっていく。
「そこに手をついて謝ってみろ、女のくせに、男を殴ったんだ、それくらいですめば安いもんだ」
「始めから……」
獅堂は息を吐いて名波を睨んだ。
「まともに、自分と戦うつもりはなかったわけですか」
「だから、チームを選べと言っている」
名波は腕を組み、薄く笑った。
「それとも、仲間をまるで信用できないから1人で飛ぶか。負けると判っていて」
「それは違いますよ」
静かな声がした。
獅堂は――信じられない面持ちで、その声のする方を振り返った。