一
憂鬱なコンピューターのノイズ。
気が――滅入る。闇の底に身体ごと沈んでいそうだ。
楓はソファに深く背を預け、嵐の肩越しに見える、PCの画面を見つめていた。
「これを見ろよ、今年に入ってからのベクターの死亡者を整理したものだ」
嵐の声が、今はひどく遠くに聞こえる。
正直に言えば、どうでもいいような気がした。今は――ただ、楽になりたい。
「ベクターの人権に関する法整備が敷かれた今、ここまでデータをそろえているのはNAVIしかないからな」
嵐は、そう言って、持参したノート型PCを、楓の方へ向けた。
「去年の今ごろは、この程度だ。事故、自殺…そして、自殺」
嵐の指が、キーボードを叩く。
「これが、今年に入ってからのデータ。月単位で…倍以上に増えてる。やっぱり、年の初めの死亡原因の第一位は――」
「自殺、か」
少し拍子抜けして、楓は呟いていた。
意外な気がした。そうか――自殺……。
「そう、ベクターってのは、自殺しやすいみたいだね。……肉体的には完璧に見えて、その分、精神がもろい種なのかもしれない」
何気ない嵐の言葉に、楓は、かすかに眉を上げていた。
まるで――弱い自分のことを、そのまま言われているような気がしたからだ。
「ここまでは、まぁ、人口比率から言えば、正常と言えないでもない数値だ。死亡者の数が異常になるのが今年の夏頃から、―――丁度、君がかおかしいと気づいた頃だが……」
楓は無言で、嵐の示すグラフに視線を凝らす。
右肩あがりに急カーブを描いている折れ線グラフ。
七月から九月にかけて、二倍、四倍、八倍とその数値が跳ね上がっている。
公式な死亡理由はどれもみな、一様に、心不全か腎不全。あるいは自殺。
「……現時点で、世界のベクターは一世代、二世代、三世代、そして四世代目のベビーを合わせて7500人弱、これはあくまでNAVIが捕捉した数字だが」
「…………」
「つまり、総人口の約10パーセントが、月単位で死んでいることになる。内9パーセントが腎不全だ。ベクターの最高齢は、まだ32歳かそこらだぜ。年に換算してみろ、楓。このままでいけば、俺たちの種は、あと数年で死に絶えることになる」
「……嵐は……どう思う」
楓は強張った指を組み合わせながら呟いた。
―――君たちを狩ろうとしている者がいる。
―――誰も、信じてはいけない。
頭の中で、あの声がする。
無機質な文字が――ぐるぐると回っている。
「もちろん、偶然じゃないことだけは確かだと思う」
嵐は顔さえ上げずに、人事のようにあっさりと言った。
「まぁ、次を見てみろ、ベクターの死に方に疑問を持っているのは、何も楓や俺だけじゃないってことだ」
画面が展開し、動画ソフトが起動した。真っ暗な画面が瞬き、すぐに画像が流れ出す。
「……なんだ、これは」
その薄気味悪い映像に、楓は眉をしかめていた。
「まるで宇宙服みたいだろ。これは、微生物危険レヴェル4、最大級の危険があるウィルスを扱う場合に用いられる代物らしい」
嵐が説明してくれる。
「ごく最近の映像だ。……多分、ここはNAVIの附属病院だ。ここから外部に、遺体が運び出されている様子を撮影したものらしい」
画面の中に――全身黄色い作業着とフルフェイスのヘルメット、背中から伸びた酸素チューブ――不気味な様相でうごめく者達が映し出されている。彼らが囲んでいるのは白い布に覆われた人型。布の端からだらりと垂れた、白茶けた腕。
「このロゴが読めるか」
嵐は、一瞬アップになったヘルメットのサイド部分で、映像を固定させた。
「彼等は米国が世界に誇る、ウィルスバスターたちだ。米、国立衛生研究所の特別チーム」
「……ウィルス、か」
楓は再び吐き気を感じた。
「そう、このチームが動員される時、それは100パーセント、人類にとっては未知の、そして非常にやっかいなウィルスが媒介していることを意味している」
「ウィルス……」
楓はその言葉を反芻した。
「君も、その可能性は考えていたんじゃないのか」
「確かに、考えた……でも」
楓は、うめくように呟いた。
「でも、ウィルスなら、感染するのはベクターだけとは限らない。俺たちの知らないところで、在来種にも広がっているかもしれない。そんな危険なものが広まりつつあるのに、じゃあどうしてNAVIは……、米国は、その事実を発表しない、レオはこそこそ逃げ回るような真似をしてるんだ」
「それは俺も考えたよ」
嵐の声は冷静だった。
「ひょっとしてそのウィルスは、ベクターだけに感染してるんじゃないだろうか」
「……え……?」
―――ベクターだけに?
「そうでなきゃ、考えられない。未知の感染症は今でも人類にとって最大の脅威だ。21世紀の初め、SARSの封じ込めに失敗して以来、WHOは世界中の感染症に神経を尖らせ続けている。国立衛生研究所の特別チームまで動いているのに、WHOが沈黙している――それには、何か裏があるはずなんだ」
「……ベクターだけを、襲うウィルスか」
楓は呟いた。
「そんな都合のいいものが、ふいに出てくるものなのか」
「不思議でもなんでもない、ウィルスにも宿主の好みがある、ある特定のカテゴリーを狙うウィルスというのは、自然界にいくらでも存在する、―――しかも」
嵐は、そこで少し眉を寄せた。
「可能性のひとつとして、そのウィルスが、人口的に造られた……と、考えることもできる」
「…………」
楓は黙った。自分の心臓が――嫌な風に高鳴っている。
「どこのどいつがそんな物を作り出したのかは判らない。WHOが黙っているというなら、間違いなく絡んでいるのはアメリカ合衆国だ。―――でも、NAVIが……今のように情報をひた隠しにしているとすれば、NAVI自体が、何らかの形でそれに関与している可能性も……捨てきれないかもしれない」
「まさか」
―――まさか、レオが。
楓の抗議を、嵐は首を振って遮った。
「楓、あくまで可能性だ、もともと……ベクターだけに有効な、何かの治療に役立つようなウィルスを精製しようとして、それが失敗した可能性だってある」
嵐は少し難しい顔になって口をつぐむ。
「ただ……今年の春から……NAVIは、ペンタゴンに眼をつけられる……ある事情を抱えている、それがどう関係しているのかは判らないんだが」
「……どういう意味だよ」
「……ごめん、このことは、はっきりしてから言わせてくれ」
嵐はそれ以上聞くな、とでも言うように立ち上がった。
暗い画面に残像のように滲む、担架に乗せられ運び出されている、肉体の残片。
「楓、……とにかく、こう結論づけてもいいんじゃないかと思う」
「…………」
「ベクターだけに感染する、新種の、それも非常にやっかいなウィルスが、水面下で流行している。……そういうことなんじゃないだろうか」
暗い声で、けれどはっきりと嵐は言った。
二
「………ベクター以外に、」
しばらくの沈黙の後、楓は、ようやく言葉を口にした。
パソコンをしまい終えた嵐が、いたわるような眼差しを向けてくれる。
「感染しないと、言い切れるのか」
言った自分の声が、わずかに震えているのが判る。
「ウイルスは進化する、常に成長して、突然変異を繰り返すことは……楓だって知ってるだろ」
「…………」
鳥同士の病気が、やがて家畜に伝染し、そして人へ移っていくように。
「ベクターだけでなく、在来種に感染する可能性は、もちろんあると思う。ただ」
嵐は眼をすがめ、軽く嘆息した。
「例えば、エイズウィルスだ、あのウィルスが、二つのタイプに別れ、それぞれの好みの人種を宿主にするのは知っているだろう?」
「……ああ」
統計的に、そういったデータがあることは聞いたことがある。
「耐性と、相性の問題だ。ウィルスは、全ての人間に平等に襲い掛かるとは限らない。いまだ原因は判らないが、たとえばSARSは、二歳以下の乳児には感染しにくい。今回のウィルスが――それが、もし、最初からベクターを狙って、作られたものだとしたら」
楓が黙っていると、嵐は、ひょい、と肩をすくめて明るい口調で言った。
「まぁ、いずれにしてもだ、はっきりウィルスが原因だって決まったわけでもなんでもない。今、NAVIと衛生研で、そういった調査が進められてるだけかもしれないしな」
「……なんか、楽天的だな、お前」
「俺たちが考えても仕方ないことだろう。NAVIにしたって、いつまでもこの情報を隠しきれるわけじゃない、マスコミが騒ぎ出せば、いずれ公にせざるを得ないだろう。その時、またベクターへの風当たりがきつくなるような気もするけど」
「…………」
「今、くよくよ悩むなよ。死亡者は全て海外在住だ。日本から出られない楓が、感染する心配なんて、今の時点でする必要もないしさ」
「本当に、NAVIが絡んでいるのか」
楓は呟き、空になったカップを持って立ち上がった。
「はっきり言えば、俺には信じられないんだ、レオが、NAVIが発生源だとは……どうしても思いたくない、いや、思えない」
「だから、……まだ、ウィルスかどうかは」
「作ったのはNAVIじゃない、むしろ……ペンタゴンか、米国の衛生研そのものじゃないのか?」
「……楓、悪い方に考えすぎだ、君の悪い癖だぞ」
そうじゃない。
楓は力なく首を振った。
「そこに……誰かの悪意を感じるのは、……何も俺の性格のせいだけじゃないんだ」
楓は嵐の傍をすり抜け、デスクに座ってパソコンを起動させた。
「どうして俺が、ベクターの死に疑問を持つようになったか教えてやる」
「…………」
「俺には、お前みたいに自由に情報を集める術もない、職場と家を、ただ判でついたように往復してるだけの俺が――おかしいとは思わなかったか」
嵐が無言で背後に立つ。
「おかしなメールがくるようになった。七月の終わり頃からだ。週一で、差出名もアドレスもその都度違う、返信すれば、必ずエラーになる」
「心当たりは」
「まるでない、最初はレオのいたずらかと思ったくらいだ」
「…………」
ネットワークに繋ぎ、メールソフトを起動させる。
楓は、フォルダに保存しておいたメールを開いた。
おまえたちを狩ろうとしている者がいる。誰も信用してはならない。
「これが最初だ、次からは、これだ」
ローランド・スミス、第一期ベクター、生年月日 死亡年月日 死因 腎不全
「死亡者の名前が、履歴書付きで週一で送られてくる。最初の頃だけ、助手に頼んで照会してもらった。この情報自体は本当だ。……最初は、ベクターが、何者かに毒殺でもされてるんじゃないかと思ったが」
「…………」
「でも、誰一人事件にはなってない。間違いなく病死なんだ、それで……少しずつ、情報を集めるようになった」
「……楓」
「世界のあちこちでベクターが次々に死んでいく……正直、ぞっとした、次はお前の番だって、そう予告されているような気がした」
「…………」
「確かに、レオには連絡する術がなかった。悪い……お前に……お前しか、話す相手がいなかったから」
莫迦――。
頭を、くしゃっと叩かれる。
楓は、うつむいた顔を上げられなくなっていた。
「早く言えよ、こんな薄気味悪いものもらって、……一人で抱え込んでるなよ」
「自宅のメールには……」
嵐の声は、どうしてこんなに耳障りがいいんだろう。
どうしてこんなに、安らいだ気持ちになれるんだろう。
感慨を振り切り、楓は、嵐の腕を払って、顔を上げた。
「どこで調べるのか、悪辣なメールが山のようにくる、まぁそれに比べたら、こんなもの、たいした内容じゃないけどな」
画面を閉じ、パソコンの電源を切った。
その途端、急にせきあげるものが、胸をついた。
「悪い、」
画面が落ちると同時に、口を押さえて立ち上がっていた。
ひと口だけ口にしたコーヒーのせいだと、すぐにわかる。
胃が、締め上げられるように、むかついている。
「楓……?」
心配そうに手を差し出す嵐。その腕を振りきって廊下に出ると、サニタリーに駆けこんだ。洗面台に着いた途端、咳くように――黒ずんだ胃液を吐いた。
苦しかった胸が、吐くと同時に、少しだけ楽になる。
「楓、まさか………」
声がして、顔を上げると、鏡越しに背後に立っている嵐の姿が見えた。
その――形良い瞳がさらに見開かれて、口元が緩んでいる。
別の意味で嫌な予感がして、楓は嘆息して額を押さえた。
「その先は言わないでくれ。悪いことに予測がつくから」
「え、言いたいんだけど。――楓、まさか、妊娠……」
「するか!莫迦!」
「冗談だよ」
嵐は笑ったが、眼は笑っていなかった。
「マジで、……大丈夫なのか」
「ああ」
差し出されたハンカチを受け取り、濡れた手と口を拭う。
「会った時から顔色が悪いとは思ってたけど…」
「平気だ。少しナーバスになってただけだ」
そう言って振り返ろうとした時――目眩がした。
足の力がふわっと抜けて、そのまま、差し出された嵐の腕に抱きかかえられていた。
「悪い……」
目眩と、動悸、息苦しさ。眉をしかめ、腰にまわされた腕をきつく掴む。
「少し、気分が悪いだけだ……休んでれば治る……」
「とにかく、今日は帰ろう。悪かったな、体調悪い時に、へんな話をして」
その肩を支えながら嵐が言った。
「お前、今夜は何処に泊まるんだ」
「ホテル取ってるから、心配すんなよ」
――――こいつの腕って……。
重い頭で、楓は、ぼんやりと考えていた。
――――何時の間に、こんなに大きくなっていたんだろう…。
三
「楓…?」
部屋の中は真っ暗だった。
冷えた空気は、部屋の主が何時間も留守にしていることを示している。
判っていて…それでも、獅堂は、声を掛けずにはいられなかった。
手探りで電気のスイッチを入れる。
またたく電灯の下、きちんと整理され、掃除された部屋が浮かび上がる。
その――余りの生活の匂いのなさに、獅堂は思わず眉をひそめていた。
―――あいつ…ちゃんと、メシ食ってるのかな。
おそらく、最近では、寝るためだけに帰って来ているのだろう。そんな気がする。
軽く嘆息して、獅堂はソファに腰掛けた。この時間、いつもなら必ず部屋に戻っているはずなのに、どうして帰っていないのだろう。
その理由を色々想像してみる。
しかし、考えをまとめるより先に、午前中から溜まっていた猛烈な睡魔が襲ってきた。
高速を車で飛ばして、ようやく茨城まで帰ってこれた。丁度、道路の込み合う時間で、早めに基地を出た割には、結局この時間になってしまった。
疲れが――身体の芯まで蓄積している。明日の朝はまだ開け切らない内に起き出して、再び車を走らせ、基地に戻らなければならない。
楓に会えたとしても、一緒に過ごせるのはわずか数時間。そもそも最初は、睡眠時間を確保するため、今夜は基地に残るつもりだった。
なのに――。
楓を、ずっと一人にしておく不安が、睡魔に勝ってしまった。
今夜を逃せば、またずるずると基地に据え置きになるかもしれない。
楓は、精神的に、まだまだ不安定なところがあって放っておけない。何かあれば、容易に傷つきやすく、壊れやすいと知っているから。
―――サイテーの奥さんだよな、自分。
ソファに仰向けになりながら、獅堂は、眼を閉じた。
何故、そんな楓の傍に、ずっといてやれないのだろう。
何故、空を捨てられないのだろう。
それは自分のエゴであり、意地かもしれない。
組織が、自分に、退職届を出させようとしているのは知っている。過酷な任務も上司の冷たさも、全てそのせいだろう。
こんなことで負けたくない。その意地と、パイロットとしてのプライドだけが、今の獅堂を支えていた。正直――楓のことを、振り返る余裕さえ、そこにはなかった。
―――ごめん、楓……。
―――いつも、傍にいてやりたいのに……。
―――ごめん……。
獅堂が現職に就いている限り、それは出来ない。楓が茨城を出て基地内の家族宿舎に入るという手段もあるが、それは楓が絶対に納得しないだろうし、複雑な許可も必要になる。
獅堂は両手で眼を覆った。闇が…回っている。目眩を感じるほど眠かった。
―――ああ、そっか……携帯……連絡…しなきゃ…
身体は、それ以上動かなかった。
そのまま――深い闇に飲み込まれていた。