八
「楓さんのこととなると、簡単に切れる訳ですか」
相原の声が、心なしか険を帯びているような気がした。
基地の地下にある喫茶ルームに場所を変え、ようやく落ち着いてコーヒーを口にした時だった。
まだ店内には誰もいない。むろん、店も開店前だから、自販機で紙カップのコーヒーを買って、テーブルだけを借りていた。
「何が短気ですか、すぐかっかくるのは獅堂さんじゃないっすか。我慢した自分が莫迦みたいですよ」
どうやら、普段温厚な後輩は、本気で怒っているらしい。
獅堂は片眉だけ上げて相原を見たが、言葉は何も出てこなかった。
相原の言うとおりだ。自分でもこの短気さが情けない。今にして思えば、間違いなくあれは、意図した上での暴言だったに違いない。
―――名波さん、何をするつもりなんだろう……。
薄気味悪くはあるが、勢いとはいえ空の勝負を口にしたのは獅堂の方だ。一度口にしたことを撤回する気はないし、あの場で元同期生を殴ったことについては、後悔はない。
「それより、名波さんとの勝負………マジですか」
コーヒーを飲み干した相原の目が、少しだけ真剣になっていた。
「今、名波さんが上にかけあってるらしい。どうせ演習の延長みたいな感じで、ドッグファイトをすることになるんじゃないかな」
「性格悪いけど、あの人、腕は凄いですよ。僕も何度か相手をさせられましたけど」
「知ってるよ」
「……心配だな。わがままな人だし、……何を言い出すか判ったもんじゃありませんからね」
なんとかなるさ。獅堂はそう言って残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「それよりお前、地上に降りたんだから、何か用事でもあったんだろ。時間は大丈夫なのか」
「ああ」
相原は、はっと顔をあげ、少し慌てたよう腕時計に眼を落とした。オデッセイ時代、獅堂にも配給されていた通信機付きの時計である。
「そろそろ行きます。実は郷里の母親の誕生日で」
「そうか」
相原の優しさが、こんな場合にも関わらず胸に暖かく沁みてくる。
互いに立ち上がり、形どおりの敬礼を交わした。
「明日、また会えますね。明日の夕方、ピースライナーが、ここから離陸するんです。それで上に戻りますから」
「そうだな……」
そう答えながら、獅堂は、自分はいつ自宅に帰れるのだろうかと考えていた。
先月会ったきりの楓は、また体調を崩しかけているのか、機嫌も悪く、元気もなかった。それがずっと気がかりで――。気がかりに思いつつ、日々の 激務に終われ、気がつくと一日が終わっている。
電話――そうだ、せめて電話でもしなければ。
しかし今の時間、楓は研究所にいるし、仕事中に電話されるのを極端に嫌がる性格を知っているから……かけづらい。とは言うものの、夜になればなったでアラートに付いたり仮眠したりで忙しく、ついつい電話を忘れてしまう。
喫茶を出て、相原を出口まで見送るために、連れ立って歩いていた時だった。
「獅堂」
振り返ると、エレベーターホールのベンチを背に、長身の名波の姿があった。
男は、腕を組み、かすかに笑いを浮かべている。その口元には、小さな傷テープがわざとらしく貼られていた。
「勝負は、明日の朝一番ってことになった」
「わかりました」
足を止め、獅堂は頷く。
「チーム単位の空中格闘戦技だ。三機編成でな」
―――三機……編成?
「個人の勝負で、戦闘機の使用は許可できないんそうだ、後輩の指導を兼ねたものなら構わない、そういうことだ」
「それは……構いませんが」
獅堂は眉をひそめた。となれば早朝一番で六機のフューチャーが必要になる。要撃部隊が新設されたばかりのこの基地にフューチャー仕様の戦闘機はぎりぎりの必要数しか配備されていない。
入間基地にとっては貴重な戦闘機。常にテストフライトや訓練演習、アラートなどの予定がひしめき合っている。それを――いきなり、六機、使用できるものなのだろうか。
「それから乗機は、F-15Jイーグルでいく」
あっと、思った。
隣に立っている相原も、少し驚いたような視線を獅堂に向けている。
名波が笑っている理由が、ようやく得心できていた。三対三で、乗機がイーグルなら――獅堂に、勝ち目はない。
「地上で長く旧式を飛ばしてた俺たちには調度いい機だがな。天の高みで新型にばかり乗ってたお前には、少し荷が重いだろう」
旧式とはフューチャーが搭載されていないイーグル、ファントムなど従来のジェットエンジンタイプの戦闘機を言い、新型とはフューチャーが搭載された機を言う。
獅堂がオデッセイにいた頃には、新型機は国内に数機しか存在せず、それをオデッセイのパイロットが独占使用していた形になっていた。
「なめるなよ」
相原が、怒りを呑んだ声で言った。
「獅堂さんは、もともとイーグルを得意としていたんだ。お前より腕は確かだ」
「獅堂は大丈夫でも、他はどうかな」
「他……?」
相原が言いよどむ。
獅堂は無言で唇を噛んだ。
―――そういうことか……。
現在獅堂が所属している第701飛行隊は、北條を初めとして――旧式のフライト経験が比較的浅い、新卒パイロットしかいない。
獅堂の任務のひとつとして、後輩の指導という役割がある。それを踏まえた上での人員配置なのか、新設された入間基地の要撃戦闘機パイロットは、皆、一様に若かった。
そして、古くからいる者は、名波同様、獅堂に妙なライバル意識を持っている。
パイロットの世代交代が急速に進み、かつての名パイロットと称された先輩たちが、どんどん引退していった時期でもあった。
つまり――旧式を乗りこなせるパイロットで、獅堂の立場に協力してくれそうな者は、現時点で、この入間基地には誰もいないことになる。
「もう整備士や管制塔にも了解を得ている。明日の朝六時だ、逃げるなよ」
「ひとつ、確認したいのですが」
獅堂は感情を押し殺して言った。
同期とは言え、階級でいえば、すでに名波は自分の上官だった。
「勝敗を判別するのは、あくまで自分と名波空佐だけ、後の二機は援護ということでよろしいですか」
「むろんそうだ。獅堂と、俺と――先にロックオンされた方が負けだ」
わかりました。獅堂は頷いた。どちらにしても、自分から勝負を言い出し、名波に条件を託した以上、絶対に逃げるわけにはいかない。
「獅堂、お前が負けたら、俺がお前の身体を頂くっていうのはどうだ?」
「……くだらない」
吐き捨てるように言った。もう、顔を見るのも不快だった。
「明日が楽しみだな。獅堂」
獅堂は振り返らなかった。
不安気な相原と別れ、基地内の仮眠部屋に戻ろうとした時、調度ブリーフィングルームから出てきた師団長から声を掛けられた。
「獅堂、夜には一時帰宅できそうだぞ」
「えっ…」
思わず立ちすくんでいた。
「ただし、まだ緊急発進待機は解けていない。明日の夕方までに戻ってこい。それまでは自由にしてよし、だ」
「……はい」
どちらにしても、翌朝の勝負が控えている。獅堂はため息をついた。
間が悪すぎた。また今夜も楓には会えない。
九
「真宮博士、じゃ、最後の戸締りとか頼みますよ」
扉を閉める前、そう言って若い大学院生は振り返った。
「ああ」
楓は、デスク上のパソコン画面から顔も上げずに応える。
「余り、無理なさらない方がいいですよ。今日はひどく顔色も悪いみたいですし」
「ありがとう」
おそらく今朝、玄関ホールで起きた騒ぎを聞いているのだろう。
今日一日、ひどく心配そうに自分の動向を見守っていた世話好きな助手。その眼差しに、軽い疲れを感じていたのも事実だった。
「あのぉ、真宮博士、以前ちょくちょく来てた悪戯メールですけど」
「…………」
「もしかして、今日のおばさんが犯人なんじゃないですかね、あれだったら、警察に」
「いい、もう最近じゃ来ないんだ、その話は二度とするなと言っただろう」
思わずきつい口調になってしまっていた。
扉の前に立つ男が、一瞬、憮然としたのが判る。
失礼します――低い呟きと共に、扉が閉まった。
楓は深く息を吐き、画面から顔を上げた。
一人きりの研究室。コンピューターが奏でるノイズと、時計の秒針の音だけが響いている。
首が凝り固まっていた。かすかな吐き気を感じ、楓は額を抑えて、チェアの背に身体を預けた。
帰りたくない。
あの一人では広すぎる部屋に。一人をこの上なく実感させてくれるあの部屋に。
胃が、針を飲んだように断続的に痛い。今日一日、口にしたのはわずかな水だけ、食欲はまるでない。食べないと吐く時が苦しい。それが判っているのに――どうしても食物が受け付けられない。
―――どうせ、食べても吐くんだ。
―――どうせ、食べても、
どうせ……生きても、
いつかは死ぬんだ。
眼を閉じる。束の間の闇が、また静かに死へといざなう。
なんのために食べるのだろう、いや、なんのために……自分は今、生きているのだろう。
色んな人を傷つけて、大切な人を――苦しめて、何故、何のために。
かすかな足音が廊下に響いている。
楓は眼を開け、眉をひそめて姿勢を正した。
足音はこちらに、近づいてくる。
ひょっとして助手が戻ってきたのかもしれない。そう思って振り返った時、
扉が開いた。
「楓………?」
楓は――動きを止めて、目の前に立つ弟の姿を、ただ見つめた。
半開きの扉に手をかけている、見上げるほど背の高い男を見つめた。
自分が眼にしている光景が、にわかに信じられなかった。
「ら……ん…」
最後に会ったのが、去年のクリスマスイブだった。あれきり――電話で声さえ聞くことの出来なくなった嵐。もう、一年近く会っていない。
襟もとの大きく開いた黒のセーター。ストレートのジーンズ。肩に掛けたリュック。相変わらず涼し気な目元。
確かに嵐だ――しかし、最後に会った時とまるで……印象が違う。
「警備員さんと押し問答してたら、楓の助手って人が助けてくれてさ」
嵐は、普段とおりの口調で言うと、よっと、背負っていたリュックをソファの上に投げ出した。
「ここ、警戒厳しいんだな。俺の顔が売れててよかった、そうでなきゃ、絶対に入れてもらえなかったよ」
今朝の騒ぎのことがあるのだろう。
それはさすがに言えなかった。
「帰って……来てたのか」
楓は、呆然と――まだ、気持ちを落ち着ける事ができないままに呟いた。
帰国の予定は、まだ、随分先だったはずだ。
「少し前にね」
「莫迦、だったら連絡くらいしろよ」
「だから、こうして来たんじゃないか」
肩をすくめた嵐は、無造作に近づいてくる。椅子に座ったままの楓は――その大きな手に肩を抱かれ、少しだけ戸惑いを覚えていた。
いつもの嵐と――少し感じが違っていると思うのは気のせいだろうか。
「……なんだよ、妙な顔して」
「別に、手離せよ、どこ触ってんだ」
「いやぁ」
無遠慮な手は、肩、腕、腰と次々と位置を変えていく。
「吃驚してんだ、楓、お前ちょっと……痩せすぎじゃないか?」
「ダイエット中なんだよ」
その腕を振り解く。何故か圧倒されていた。体格は違っても、今まで嵐は――どこか頼りない弟でしかなかったのに。
「お前こそ、なんだよ、まるで山男みたいな面になりやがって」
初めて体格だけでない精神的な差異を感じ、楓は不安のような心もとなさを感じていた。
「山男はないだろ、まぁ、確かに思いっきり日焼けしちゃったけどな」
嵐はあっさり笑うと、そのままソファに腰を下ろす。
身体全体が引き締まり、以前より一回り小さくなったようにみえた。少し短くなった髪――いや、外見上の変化ではない、目つきが――前の嵐とは比べ物にならない。
「……なんで、早く帰ってきた」
「あんなメールをもらっちゃ、帰らないわけにはいかないだろ」
「……そんなつもりじゃ」
「楓が苦しんでるなら、早く楽にしてやりたくてさ」
微かに白い歯を見せ、いつもの弟らしい笑顔を見せる。
ようやくほっとし、楓も立ち上がって、隅にあるコーヒーサーバーに向かった。
「別に苦しんでなんかいない」
「そうかな」
「確かにメールは出したが、帰って来いとまでは、言ってないぜ」
半分ほど残ったコーヒーは、煮詰まっている。味にこだわりがないのは兄弟共通の利点で、楓はそれを、そのままカップに注ぎいれた。
「随分長い一人旅だったんだな、どこ、行ってた?」
「色々……まぁ、アジアを、あちこち……かな」
カップを受け取った嵐は、少しだけ遠い眼をした。
日焼けしたと言われるまでもなく、腕も、顔も、前より浅黒くなっているのはすぐに判る。
「痩せたのは、お前もだぜ、嵐、まるで別の奴かと思ったよ」
「ネパールで風邪引いたのがなかなか治らなかったのと……、向こうで稼ぎながらの一人旅だったから、基本的に食えなくってさ」
異国の地で一人旅を続けてきたせいなのか。確かにどこか、疲れているようにも見えた。なのに、以前にはない、不思議な迫力がその全身から滲み出ている。
「……レオのとこには、寄らなかったのか」
飲む気はなかったが、自分もカップを手にして、楓はデスクのチェアに腰掛けた。
「ドロシーが出産するとかどうとか、お前、クリスマスに言ってただろ、会いに行くのかと思ってたんだが」
「…………」
それには答えず、嵐は無言で楓を見上げる。どこか鋭さの増した目が、少し下の位置からじっと見つめている。
「なんだよ、気持ちわりぃな」
「ひょっとして、獅堂さんと上手くいってないんじゃないか」
手にしたカップを落としそうになっていた。
「なんなんだ、いきなり、なんでそういう話題になる」
「楓が激痩せする原因はそれしかない、楓といえば獅堂さん、獅堂さんと言えば楓……」
からかいを含んだ声を、頭を叩いて遮った。
「ばーか、ふざけんな、少し体調崩してるだけだ」
「ふぅん」
昔の嵐なら、ここでしつこく食い下がる。
どうしたんだよ、何があったんだよ、食えよ、と矢継ぎ早のおせっかいが始まる。
なのに――今の嵐は、つかみ所のない目をしたまま、腕を組んで、ただ楓を見つめているだけだ。
その視線から眼をそらし、楓は椅子から立ち上がった。
「なんか、感じ変わったよ、お前」
「そうかな」
「……向こうで」
何か、あったのか――と、聞こうとして、やめた。
ひょっとして恋人でもできたのかもしれない。ふと、予感のようにそう思った。
理不尽な感情だと判っていても、実際に聞けば不愉快になりそうな気がする。
勝手な理屈だとは思う、でも、自分の中でいつまでも嵐が別格であるように、嵐の一番は常に自分であって欲しい。
「ま、俺も、そろそろブラコンは卒業ってとこかもな」
嵐はそう言って立ち上がると、楓が座っていた椅子に腰掛け――パソコンを使う時だけ掛けるようになった眼鏡を、面白そうに持ち上げた。
―――俺か。
言葉使いまで変わりやがって……。
微妙な寂しさを振り払い、楓は、本題を切り出した。
「で、なんなんだ、ここまで来たってことは、藍に聞かれたくない話があるってことなんだろ」
「……まぁね」
「俺のメールのことか」
「君のメールのことだ」
「…………」
嵐はよっと身体を反転させると、そのまま腕を伸ばしてリュックを掴み上げる。その中から、小型のノートパソコンを取り出した。B6サイズの、ごくごく小さな物だ。
「帰国してすぐに、秋葉原の路上で買った。転売品で、超格安」
「随分ケチなんだな、貯金はくさるほどあるくせに」
それには答えず、嵐は取り出したカードをパソコンのサイドに差し込む。
「プリペイド式携帯からネットに繋ぐんだ、こうすれば、俺たちが割り出されることはないだろ」
「…………」
楓は無言で、嵐の横に腰を下ろした。
―――こいつ……何をするつもりなんだ……?
「心配しなくても、今、危険なことをしようってわけじゃない、ていうか、もうした」
「なんだって……?」
「侵入したのはNAVIのネットワークシステムだ、旧友を裏切るようで気が引けたが、今、世界で、ベクターのことを一番把握しているのは、NAVIしかないからな」
「ちょっと待て、嵐」
楓は唖然とした。
唖然としたまま、隣に座る弟の肩を掴み、こちらを向かせた。
「どうしてそんな真似をする必要がある、俺は――レオと連絡を取ってくれとは言ったが、そんなことまでしろとは言ってない」
「だから、レオとは連絡が取れなかったんだよ」
嵐の眼は静かだったが、どこか覚悟を決めたような色があった。
「……楓、君もそうだったんだろう?私的ホットラインは閉じられて、携帯電話も繋がらない。公式に面会を求めても、答えはノー」
「…………」
「レオだけじゃない、ドロシーにしてもそうだ。何があったか知らないが、今NAVIは、外部からのアクセスに異常なほど敏感になっている。特にレオの周辺には、蟻一匹近寄らせないかと思うほど……厳戒態勢が引かれている」
「…………」
楓は何も言えないまま、そのままソファに背を預けた。
「レオは、今の時代のベクターにとって、もはや神様のような存在だ。……なにか、やっかいなことに、巻き込まれたんじゃなきゃいいけどな」
嵐は苦く呟き、そして気を取り直したように、パソコンのキーをたたき始めた。
「楓、君からメールをもらうまでもなく、俺も……各地で、色んな噂を耳にした」
「…………」
「ベクターが、今年に入ってから、妙な死に方ばかりしている。君の言う通り、そこに、何か、偶然ではない理由があるかもしれない」