六


「桜庭基地の噂……聞いてます?」
 肩を並べて歩きながら、相原が、囁くようにそう言った。
「ああ、新聞にすっぱ抜かれてたやつだろ、米軍基地に流用されるとかしないとか」
「今それで、本庁は大騒ぎみたいです。青桐さんの首も飛ぶんじゃないかって、もっぱらの噂ですよ」
「へえ」
 獅堂は眉をかきながら首をかしげた。
 漠然と記憶に残っている。松島基地で一度目にした新任の防衛庁長官、青桐要。
 さほど思い入れがあるわけではないが、クビが飛ぶとなると、さすがに気の毒に思えてくる。
「まぁ、他の基地では要撃部隊が増員されてて、あそこだけ予算の都合で撤退ってのも、なんだか筋が違う話だったもんな」
「最初から米軍に委譲するつもりで、基地を作ったんだとしたら……それは、大変なことなんでしょうけど」
 相原はそこで言葉を切り、少し寂しげに微笑んだ。
「なんにしても寂しいですね……思い出の場所がなくなるっていうのは」
「そうか?別に米軍が入るからって、基地がなくなるわけじゃないし」
 獅堂がそう言うと、相原は一瞬、唖然としたように足を止めた。
「ほんっと、政治にもセンチルメンタルにも無関心な人なんですねぇ、仮にも、楓さんと愛をはぐくんだ場所でしょうに」
「愛って……は、はは」
 乾いた笑いを漏らした途端、二人の目の前で、ラウンジの透明な自動扉が開いた。
 緊急発進待機所――アラートパッドに隣接しているラウンジには、24時間いつでも隊員がくつろげるよう、各種のドリンクがセルフサービスで用意されている。
 早朝だというのに、すでに先客が何人かいて、大声で交わされる談笑の声が、獅堂の耳にも届いてきた。その会話の中に自分の名前があったことが、ふと足を止めさせていた。
「獅堂も気の毒だよな」
「元空自のエースが、すっかりラインから外されてるからな。俺がまだ百里にいた頃の獅堂藍って言ったら、そりゃ、凄かった。正に雲の上の存在だったよ」
「それが今じゃ、国際指名手配されてた奴と一緒に暮らしてるんだろ、気がしれないぜ」
「最近、写真が専門誌に載っててよ。それがもう生唾もの、女も顔負けの美形でさ」
「一度試して見たいって?」
「よせよせ、ベクターだぜ。へんな病気移されちまう」
 哄笑が、ラウンジを賑わせた。
 怒りに肩を震わせ、飛び出そうとした相原を、獅堂は首を振って制した。
「でも、」
「かまうな」
 そのまま、何気ない顔でラウンジに入る。  
 さすがにラウンジ内は静まり返った。
「おう……今明けか、お疲れさん」
 獅堂より一年先輩にあたる、一等空尉が声を掛けた。獅堂は無言で頷き、それに応える。そして、ふとラウンジの中央を占拠している一団に眼を止めた。
 制服が――獅堂のような地上勤務のフライトスーツではない。相原と同じものを身につけている者が、三人。いずれも椅子に背を預け、腕を組んだり、頬杖をついたり――どこか挑発的な目でこちらを見ている。
 その中の一人に見覚えがあった。
「よう、獅堂」
 一度見れば忘れられない――ひときわ長身で、雪のような肌をした男。
 男はゆっくりと立ち上がった。紅い唇、色素の薄い髪を長く肩まで垂らしている。
「久しぶりだな。松島のフェーズ2以来じゃないか」
「……名波…空佐」
 獅堂は、さすがに呆然と呟いた。確かに久しぶりだった。もう――どのくらい前になるだろう。
 名波暁。
 今では三等空佐にまで上がったと聞いている。
 松島での航空訓練生時代、同期として肩を並べていた男。
 何かと対立して、事あるごとに嫌がらせをされた。それはともかく……思い出したくもない噂話が胸に蘇る。
「獅堂さん、名波さんと知り合いなんですか」
 背後から相原が囁いた。
「そう、こいつとは同期なんだ、相原」
 獅堂が答える前にそう言って、名波は薄い唇でふっと笑った。
 腰に腕を当て、ブーツの音も高らかに歩み寄ってくる。
「最も、上官のお気に入りだったお前は、訓練規定を全部クリアすることなく、あっさり百里に行っちまったがな」
 真新しいフライトスーツ。腕に光る独特の記章。おそらく、相原と一緒にピースライナーで地上に降りてきたのだろう。
「女は得だよな」
「よう、獅堂、教えろや、一体どんなテクを使ったんだよ」
 そんな声が元のテーブルから掛けられる。
「なんだ、あいつら」
 そう呻いた背後の相原を視線で抑え、獅堂はつとめて冷静に言った。
「名波空佐は……今回、オデッセイ勤務ですか」
「悪いな、お前がもたもたしている間に、今度は俺が空へ召集されたよ」
 強烈な嫌味を、わずかに眉を動かすことで受け流す。
「自分には、自分の仕事がありますから。……失礼します」
 相原を眼で促し、軽く会釈してその場を去ろうとした。その背中に、名波の声が追いすがった。
「聞いたぜ、どえらい綺麗な男と暮らしてるんだって?」
 相原の足が止まっている。獅堂は気にするな、と囁いた。
「それですっかり骨抜きか。元空自きってのエースパイロットが、落ちたもんだな」
 今にも飛び掛りそうな相原の拳が…震えている。
「どうして止めるんです、獅堂さん」
 獅堂は、ただ、首を振る。名波空佐の父親は防衛庁の要職に就いている。この基地は、もともと名波の父親が総司令を勤めていたこともあって――獅堂も、その父親の名が持つ威力を、嫌というほど理解していた。
 今、相原に、こんな所で泥を被らせるわけにはいかない。
「相手は、あの真宮楓だって?天才科学者だかなんだか知らないが、頭の配線がショートしちまった奴だろう?」
 何人かが漏らした笑いが、かすかにラウンジを震わせた。
「しかも、ゲイ」
「獅堂、お前、性別間違われたんじゃないのか?」
 そう言って、間近まで歩み寄ってきた名波が、冷たい眼で笑いながら見下ろした。
「脱がせて見れば洗濯板みたいな胸だったしな、あの時は全員、がっかりしたぜ」
「この……っ」
「相原!」
 獅堂は、背後の相原の腕を掴む。その様子を見て、名波は喉を鳴らすようにして笑い出した。
「今度はお前じゃなくて、その楓君に、お相手願おうか」
 その言葉に、さすがの獅堂も凍りついていた。
「中国のベクターの愛人だったんだろ、そいつ、弟とも出来てたっていうじゃないか」
「…………」
「どうせ誰とでもやれる奴なんだろうしな、今夜にでも」
 それが我慢の限界だった。振り返った獅堂の拳が、そのまま名波の右頬にヒットした。
「獅堂さん!」
「何すんだ、こいつ!」
「よせ、基地内での喧嘩は厳重処分だぞ!」
 怒号と荒い足音が入り乱れる。相原が庇うように獅堂を抱き、名波も背後から仲間に押さえられていた。
「獅堂!ただで済むと思うなよ」
 名波は唇の端に血を滲ませて、きつい眼で獅堂を睨んだ。獅堂は怒りを瞳に閉じ込め、それでも拳を震わせて言った。
「勝負なら空でつけませんか、名波空佐。自分の腕は少しも落ちていませんから!」
「いいだろう ただし、条件は俺が決めるぜ」
 そういう男の目に、初めて勝ち誇ったような色が滲む。獅堂は、挑発に乗ってしまった自分をようやく意識した。
「お前が負けたら、べっぴんのダンナを、一晩俺に貸すってのはどうだ?」
「ふざけんな」
 獅堂は厳しい口調でそう言うと、そのままラウンジを後にした。


                    七


「大丈夫……楓君」
 カーテン越しに、宇多田の心配そうな声がする。
 専用デスクの脇、カーテンで仕切られたロッカールーム。
 楓は、ロッカーに置いていたスペアのシャツと白衣に着替えながら、「お前、いい加減に帰れよ」と、嘆息まじりに言葉を返した。
「帰れないよ、だって……」
 心配じゃない。
 宇多田の呟くような声がする。
「俺なら、大丈夫だ」
 振り返ろうとした途端、右の頬に、針で刺されたような痛みを感じた。ロッカーに付いている鏡を見ると、指の先ほどの紅い線が頬に刻まれている。
 水と共に顔にぶつけられた花茎の先端、それがつけた傷だろう。
「あれくらい、どうってことない」
 指で、傷口を軽くこすった。
「でも……」
「いちいち気にしてたら始まらない。インターネットをのぞいてみろ、自殺してもお釣りがくる程、熱烈な愛の言葉が溢れてるから」
「……あんなもの、まともな人が書いてるわけじゃないよ、一部の人が」
 悔しげな声が返ってくる。
「そう、だから気にしてない。だからもう、いいんだよ」
 最後に、濡れた髪を再度タオルで拭い、ロッカーを閉めた。
「とにかく今日は帰ってくれ。そろそろ大学から助手が来る時間だ」
 宇多田の返事はない。その代わり、紙がこすれるような音がする。
「天音…?」
「ねえ……楓君。あなた、何の研究してるの?」
「………!」
 楓はロッカーとデスクを仕切っていたカーテンを開けた。
「勝手に触るな!」
「な…なによ、いきなり、怖い顔して」
 大きな眼をしばたかせながら、ばっと手を離した宇多田は言いよどむ。
「机の上……ウィルスや微生物の本ばかりだったから…海洋学と何の関係があるのかと思っただけじゃない」
「……いいから帰れ。取材なら、別の日にちゃんと受けてやる」
 デスクの上に無造作に置かれた書籍や書類を一気にまとめて、引き出しの中に投げ込んだ。
「そんなに怒らないでよ。帰るわよ、私だって暇じゃないんだから」
 宇多田はさすがに、少しむっとした顔をした。
「帰るけど……」
「ああ、帰れ」
「……帰るんだけど……」
 そう言いながら、まだ、逡巡したように立ちすくんでいる。先に部屋を出ようとした楓は、立ち止まった。何だか急に、その横顔が可哀想に思えていた。
「悪かったな…、ちょっと仕事のことで苛々してたから」
「ううん…そんなことじゃ、なくて……」
 首を振って、宇多田は呟く。 
「正直に……言ってもいい?」
「……?何だよ」
 女は思い切ったように顔を上げる。最近、ブラウン管でよく観るようになった顔。ア-モンド型の瞳が綺麗だった。
「今の楓君、なんだか痛々しくて見てられない。昔もそうだったけど……今、すごくもろく見える」
「……なんだよ、それ」
 苦笑を返しながら、楓はそのまま眉をひそめていた。
「誰があなたを支えてるの?獅堂さん?本当にあの人は、あなたをちゃんと支えてるの?」
「馬鹿馬鹿しい、なんの話だと思ったら」
 背を向けようとした、その背に、宇多田の声が追いすがる。
「あなたはね、誰かが常に傍にいて、しっかりと捕まえておかなきゃ駄目な人なのよ。そうでなきゃ」
 その声が不安気に揺れている。
「そうでなきゃ、どんどん自分で自分を傷つけてしまう。あなたはそういう人だから」
 揺れているのは、自分の足元かもしれない、そう思いながら、楓は部屋を出て行こうとした。
「ねぇ……嵐君は、どうしてるの?」
「嵐……?」
 思わぬ名前に、ふと足を止めてしまっていた。
「獅堂さんが帰れないんなら、せめて嵐君と一緒に暮らしてみたらどう?」
「何で……そこで、嵐なんだ」
 嘆息して、生乾きの髪をかきあげた。
「あいつなら、今年の春から日本にはいない。呑気に海外旅行中だよ」
「そう……なんだ」
 宇多田は視線を伏せ、そして何かを振り切るように微笑した。
「じゃ、帰るけど」
「ああ」
 ソファに投げてあるコートを腕に掛け、扉に向かい…そして、女は振り返った。
「……どうして獅堂さんだったの」
「え?」
「どうして最終的にあなたの傍にいるのが、嵐君じゃなくて獅堂さんだったの?私、あなたを支えられるのは嵐君しかいないからって………そう思ったから諦めたのに」
「………」
「今、あなたの傍に獅堂さんがいるっていうのが、……どうしても、私の中で違和感があるの。ごめんなさい、気にしないで」
 黙ったままの真宮に背を向け、宇多田は部屋を出て行った。
 静寂が―― 一人きりになった研究室に広がる。
 先ほどの騒ぎを、所長に報告して謝罪するつもりだった楓は、ふいに疲れを感じてそのままソファに腰を下ろした。
 頬がぴりぴりと痛む。
 その痛みより、何万倍も痛む何かが、身体の底の方でうずいていた。
(―――私の息子は、あんたのせいで死んだのよ!)
 憎悪と呪詛の混じった女の声。
 死んだのよ死んだのよ死んだのよ死んだのよ………
 耳を塞ぎ、そのまま頭を抱え込んだ。
 判っている、知っている。どんな贖罪も、謝罪も、亡くなった者には届かない。何の意味もない。許されることなどない。死んだ者は決して還ってはこないのだから。
 例えこの先、自分の力が、人類の発展にいかばかりかの助力を発揮したのだとしても、それはあの女にとって何の意味もないことなのだ。死んだという息子が還ってこない限り、怒りも憎悪も哀しみも――決して癒されることはない。
 ねぇ、お願いだから死んでよ、永久にいなくなっちゃってよ
 あんたなんか、産まなきゃよかった、ぱけもの、生まれてこなきゃよかったんだ。
―――誰か……。
 眼を閉じたまま、楓は声にならない悲鳴を上げる。誰か、助けてほしい。自分をこの世界から連れ出して欲しい。
 今夜もまた、一人きりで、悪夢の恐怖と戦いながら、長い夜を過ごさなければならない。絶望的なほど長い時間。
 宇多田の言うことは嫌になるくらい当たっている。
 一人になると、生きていることが辛くてたまらなくなる時がある。死のイメージに絡め取られ、身動きできなくなってしまう。
 もう一人ではないと知っているのに。必要とされている――そんな揺ぎない自信があるのに。それなのに――。
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