「写真は、嫌だと言っただろう」
 いきなりたかれたフラッシュに、真宮楓は露骨に嫌な顔をした。
「あら、どうして?せっかくいいビジュアルしてるんだから、写真くらいいいじゃない」
 宇多田天音は不思議そうにカメラから眼を離すと、少し甘えたように首をかしげる。
「新鋭海洋科学者真宮楓………コメントだけじゃなくて、せめて写真入れたいのよ。だめ?」
「駄目だ」
 冷たくそう言うと、楓は椅子から立ち上がった。
 国立海洋学研究所。
 楓の専用デスクがある研究室である。デスクの周辺はパーティションで仕切られ、一応、ささやかながら休憩用のソファなども用意されている。
「ちょと楓君」
 そのソファから、天音が、慌てて立ち上がる。
 楓は、扉の方に向かって歩きながら、腕時計に眼を落とした。
「約束の時間だ」
「えーっ、もう少しいいじゃない」
「仕事がある」
 扉のノブに掛けた腕を、背後から掴まれた。
「だから、わざわざこんな朝早くに取材に来たんじゃないのよ〜。ちょっと、もう少しつきあいなさいよ。この薄情者!」
「知るか、そもそもそんな番組の解説、最初から嫌だって言ってるじゃないか」
 その腕を、容赦なく振りほどいた。背後に立つグレーのパンツスーツ姿の女は憮然とした眼をしている。
 それを無視して、研究室の扉を開け、廊下に出た。
 通行していた研究所員が何人か、楓に気がついて頭を下げる。
「だって、せっかく私の企画が通ったのよ。神秘の海洋を探る――日本の若き海洋科学者たち。どう?本当は楓君をメインゲストにもってきたかったんだけど」
「勝手に言ってろ」
「だから、コメントとパネル写真でいいって言ってるじゃないの」
 追いすがる声を無視して、さっさと歩く。天音はめげずについて来る。こういうタフな所が信じられないといつも思う。そう、そういう所は――天音は獅堂によく似ている。
「……なに、私の顔、何かついてる?」
「……いや、別に」
 足を止めて振り返った自分を莫迦だと思いつつ、楓は再び顔を背けて歩き出した。
 せわしないヒールの音が、すぐに後を追ってくる。
 「ずるいわよ。K出版社の『深海のサイエンス』には写真付きの解説載せてたじゃない。しかも1頁そのまま写真でかでかと」
「あれは勝手に載せられたんだ」
「あたしさー、あの本3冊買っちゃった♪」
「……俺と友達でいたかったら、二度とその話題には触れないでくれ」
「もうっ、そっけないなぁ、元カレのくせに」
「…………あのなぁ」
 溜息をついて足を止める。
 天音は真宮の前に回りこみ、指でカメラのシャッターを切る真似をした。
「ね、お願い、一枚だけ写真、撮らせてよ」
「判ってないな……お前も」
「あん」
 その横をすり抜けるようにして階段を降りた。
 追走するように天音がついてくる。
「あ、いいわ、その表情。影があって。白衣もよく似あってるし」
「じゃなくて……」
「なによ、何もったいぶってるのよ、今さら」
 楓の顔写真は、過去の様々な事件の折り、至る所で公表されている。
 天音はそう言いたかったのだろうが、さすがにそれ以上は口に出来ないようだった。
「報道番組で取り上げられるのと、……今回のそれとは、意味が全然違うだろ」
「……え?どういう意味よ」
「俺の顔を見たら、嫌な思いをする奴がいるってことだよ」
「……どういうこと?」
 ようやくエントランスホールにたどり着いた。
 制服を着た受付嬢二人が、立ち上がって頭を下げる。楓がそれに軽く会釈を返すと、きゃっと言う歓声が聞こえた。―――いつものことながら、このリアクションには閉口させられる。
「やっぱり、もてるのねぇ……楓君。つくづく獅堂さんって女性の敵よね」
 楓はそれには答えず、黙って玄関の自動扉を指差した。
「なによ、それ」
「帰れ、ここまで見送ってやったんだ」
「ちょっと、ひどい」
 その時、
「あんたが、真宮楓?」
 聞き慣れない声。楓は、それにつられるように振り返った。
 瞬間、冷たい痛みが顔面を襲った。
 足元で何かが弾ける。
 天音が軽い悲鳴を上げ、受付嬢二人も同時に何か叫んだようだった。
「私の息子は、あんたのせいで死んだのよ!」
「こら!何してるんだ!」
 荒々しい警備員の足音。
 濡れた髪が額に落ちる。楓は、それを払うことも忘れ、ただ黙って目の前に立つ女を見つめていた。
「すいません、ちょっと眼を離した隙に」
「こら、ここは許可なしには勝手に入れないって言ったろう」
 エントラス脇の夜間通路から駆けつけてきた二名の警備員が、血相を変えて、その女の腕を掴もうとしている。
 四十過ぎくらいの、筋張った顔をした女だった。まるで喪服のような黒のワンピースを身にまとっている。
「どうして、私の子供が死んだのに」
 ぽたぽたと顎から滴る雫が、開いた襟元から胸に流れ落ちる。楓は、自分を睨みつけている女性を、ただ、見つめるしか出来なかった。
「ちょっと、あんた、もういいだろう」
「どうして私の子供が死んだのに、あんたがここでのうのうと生きてるのよ!」
「こら!」
 警備員の一人が、強引に女の腕をねじろうとしている。
「待ってください」
 楓は咄嗟にそれを止めていた。
 踏み出した足が、砕けたガラスの欠片を踏んだ。ジャリ、と、無機質な音がする。
 散らばった白っぽい花びらと細かな葉。ホールに置いてあったガラス製の花瓶―――女は、それを掴んで、投げつけようとしたのだろう。
 女は後ろ手に腕を拘束されたまま、死神より冷たい、氷のような眼で、じっと楓を見上げていた。
「しかし、真宮さん」
 渋面を作る警備員に、楓はようやく――我に返って声をかけた。
「僕に話があるなら、……場所を変えて聞きますので」
「えらそうに言わないで、この偽善者!」
「ちょっと」
 隣にいた天音が飛びだそうとしている。楓は腕を上げ、その動きを止めた。
「雑誌であんたの顔を見て………びっくりしたわよ、ふざけんじゃないわよ」
「…………」
 この人の息子は、どういった事情で亡くなったのだろうか。
 楓は無言で目をすがめた。
 中国共和党に撃墜された旅客機に乗っていたのだろうか。それとも、海上自衛隊に所属し、戦闘海域で戦死したのだろうか。
 いずれにしても、彼女の息子は戻らない。
 なにをしても、永久に。
「犯罪者のくせに、人殺しのベクター野郎、とっととこの国を出て行けばいいんだ!」
―――この罪が許される事はない。
「真宮さん、もういいでしょう。行くぞ、こら」
「あんたは日本を追放になったんじゃなかったの?。どうして戻ってこれたのよ」
「いい加減にしないか、警察に突き出すぞ!」
「ねぇ、お願いだから死んでよ、永久にいなくなっちゃってよ」
 許されない過去は、その過去がもたらす悪夢は、決して終わる事がない。
 楓は、ただ頭を下げた。ただそれだけしか出来なかった。
「ねぇ、覚えといてよ」
 遠ざかる声が、ホールに響いた。
「他の誰が許したとしても、私は一生、絶対に、絶対にあんたを許さないからね」


                   五


「みんな…元気なのか」
 相原と連れ立って、薄暗い基地内の廊下を歩きながら、獅堂は聞いた。
 元オデッセイのメンバーたち―― 一年前に再会した者を除けば、もう随分長い間会っていない。
 相原は即座に頷く。
「ええ、変わりないです、ああ、変わったと言えば椎名さんとこが」
「椎名さん、いよいよ親父になるんだろ、知ってるよ」
 そう答えると、初めて相原は、少しだけ面白くなさそうな目になった。
「やっぱ、椎名さんとは連絡取り合ってるんですよね。同じチームだった僕らには音信不通だったくせに……」
「何言ってんだ、それは、まぁ、たまたま」
 そこまで言って、獅堂は曖昧に言葉を濁して咳き込んだ。
 椎名から電話があったのは、今年の春のことである。
 散々――周りくどい話を延々聞かされ、背後の楓が、相当冷ややかになっているのが判る獅堂が、さすがに、冷や汗をかき始めた時、ようやく――本題に入ってくれた電話。
 一言で言えば、それは「鷹宮の相手は俺じゃないからな!」という、それを言いたいためだけの、気の毒になるほど切実な電話だった。
 去年の秋から引きずっていた様々な感情が、ようやく一段落した獅堂だったが、その時、ついでのように、椎名の妻が妊娠した話を聞かされたのである。
 腕を組んだ相原は、懐疑的な目を獅堂に向ける。
「あやしいなぁ、それ、獅堂さんが都合悪い時の誤魔化しぐせじゃないっすか」
「べ、別に、自分は何も」
「じゃあ、何を動揺してんですか」
「…………」
 強いて言うなら、冷静に考えれば有り得ない「疑惑」を、秋からずっと椎名に持っていたことが、恥ずかしかった。
 くそ、何もかもあの人のせいだと思う。
 あの夜――少しだけ真面目になってしまった自分が本当に莫迦だった。
「鷹宮……さんは」
「鷹宮さん?」
 相原が、けげんそうな顔になる。
「あ、あー、最近会ってないし、元気かなー、と思ってさ」
 名前を口にした途端、懐かしさと複雑な拒絶反応が同時に押し寄せた。
 鷹宮篤志――獅堂にとっては一生忘れられない男。
 楓だけには、いや、もちろん楓以外の誰にもだが、絶対に言えない苦い秘密を、共有している男。
「……鷹宮さん、ですか」
 相原の顔から、一瞬ふっと表情が消えた。
 そして、少し遠い目になる。
「鷹宮さんのことは、みんな吃驚してましたよ。所属がオペレーションクルー室の主任なんです。……前で言えば、遥泉さんみたいなポジションですけど」
「知ってるよ、室長が……元政務次官の阿蘇さんだろ、定年退職して、オデッセイに移ったって聞いたけど」
「名前だけのね、あの人の顔を見たのは、今まで数回くらいしかありません」
 新室長に関していい感情を持っていないのか、相原の口調は冷ややかだった。
「獅堂さんには悪いけど、鷹宮さんについては、正直余りいい話を聞きません。出世して人が変わったんじゃないかって、みんな言ってますよ」
「変わった…?」
「阿蘇室長の腰ぎんちゃく、それが今の鷹宮さんですよ」
「…………」
 獅堂は眉をひそめる。
「じゃあ、鷹宮さんは……元のチームに戻ったわけじゃないのか」
 救難チーム、雷神。
 救難パイロットとして、超一級の腕を持っていたはずの鷹宮は、戦後、人事交流という名目で防衛局電波部に異動になった。
 一応、年70時間の演習時間は確保されているとはいえ、その立場に置かれたが自分なら我慢できないだろうと獅堂は思う。パイロットの資格を有しながら、事務職に置かれるくらいなら、空自にいる意味などない。
 オデッセイに異動しても、鷹宮は――まだ正式に、パイロットに戻れてはいないのだろうか。
 相原は軽く唇を噛んで頷いた。
「オデッセイでは、室長室やオペレーションルームにこもりっぱなしで、――とにかく、昔と全然違いますよ。冷たいっていうか、とりつくしまがないっていうか」
 鷹宮さんが……。
 どう変わったというのだろうか。
 さすがに微かな不安を感じる。
 あんな人だから、多少は真面目になった方がいいに決まってはいるが、相原のみせる嫌悪にも似た表情が気に掛かる。
 以前は――いつも話の輪の中心にいて、誰からも好かれ、頼られる存在だったのに。
 相原は、眉を寄せ、訴えるように獅堂を見た。
「本当のことを言えば、自分にもよく判らないんです。何のために、オデッセイが再起動され、何のために自分たちが呼ばれ、何のために演習を繰りかえしているのか」
「……欧州連合とアメリカがもめてるからだろ」
 「貿易摩擦や環境や、核の削減、イラク有事でのしこり、……確かに、前から火種はありましたけどね。それにしても、僕にはよくわかりませんよ」
「何がだよ」
「ここ数年で、急激に関係が悪化している理由が、ですよ」
「…………」
「台湾有事で……人類は、滅亡ぎりぎりの体験をしたのに、台湾有事が終わると同時に、今度はヨーロッパと揉め事を起こすなんて、……あいつらは、よほど戦争が好きなのかな」
「……好きでやってるとは思いたくないけどな」
 あいつらとは、アメリカ合衆国のことを指すのだろう。
 獅堂はかすかに苦笑して、肩をすくめた。
「ま、その話はこれくらいにしといてくれ。自分は難しい話は苦手なんだ」
「獅堂さんらしいですね」
 相原も苦く笑む。でもその声に張りはなかった。
「でも……考えてしまいますよ、昔のオデッセイのことがある、上は今度は、何の目的で僕らを招集したんだろうって」
「公務員として国策に従事している以上、あまり深く考えないことだ、空で迷うと、確実に命を落とすぞ」
「考えないなんて、無理ですよ!」
 相原の声が、わずかに苛立っていた。
「まかりまちがえば、僕らは人を殺すのに、人殺しの理由に正当性を求めるのは当たり前じゃないですか」
「相原、」
 獅堂は、厳しい声で、後輩の言葉を遮った。
「どんな大儀があろうと、人を殺すのに正当な理由なんて有り得ない、それを国策や世界情勢に求めるのはやめておけ」
「じゃあ」
「……前も、お前らには言ってたよな、最後に決めるのは自分だ、自分の信じるもののために、引き金を引けと」
 相原は、納得できない――といった顔をしている。
 獅堂にも、これ以上、上手く自分の思いを伝えることはできなかった。
 相原の葛藤は理解できる。銃を持つ者なら誰しも一度はぶちあたる壁だろう。
 そして、獅堂もまた、迫り来る暗い未来を、獏全と察していた。
 ここ半年の、台湾有事時なみのホットスクランブルの数。防衛費の飛躍的増加。各基地の要撃戦闘部隊の増設。右翼化する世論――これは、台湾有事の前年のそれに酷似している。
 暗い時代、その不満が、前の戦争では、ベクターという新種にぶつけられた。その不安の火種もまた、いたるところで噴出し始めている。
 ベクターの人権が擁護される法律が次々整備されつつある反面、根深い差別主義者はアンダーグラウンドにもぐり、インターネットや宗教教義という形でベクター追放を声高に叫んでいる。
 国内のベクターは次々と米国への移住を決めているとも言われている。北や中国、そしてヨーロッパ各地でも、ベクターがアメリカ合衆国へ集団亡命するケースが後をたたない。彼等は皆――NAVI、全米ベクター地位向上協会を頼っているのだ。
 加えてアメリカ合衆国は、唯一ベクターと在来種が法的に結婚できる国であり、かつ、就職するにも公職につくにも、なんら報告義務がない国だからである。
 ヨーロッパ欧州連合――EURは、亡命したベクター引渡しをアメリカ政府に求め、それをアメリカが拒否したことで、双方の溝は、さらに深まりつつあるとも言われている。
 領空侵犯機は、かつては北と中国、そしてソ連産のものがが殆んどだった。しかし今では、ヨーロッパで開発された機が大半を占めている。
 確かに世界は――今、何かの均衡を失いかけている。それは、下にいる獅堂にも薄々察しがついていた。
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