―――空に、少しでも近づくことが幼い頃からの夢だった。
  死んだ母にも、いなくなった父にも、空に行けば会えると信じていたのかもしれない。
  あの雲の上、天の彼方に、自分が夢見ていた場所がある。




                    二



「こちら第701飛行隊、1番機。ただいまより着陸態勢に入る、許可願いたい」
”―――こちらタワー、現在緊急輸送機が着陸態勢に入っている。当機はエンジェル一万フィートでホバリングして待機せよ。”
「了解、ファイナル・アプローチの修正、願います」
 そう言って獅堂藍はリップマイクを口から離した。
―――緊急、輸送機…?
 聞きなれない応答に、首をかしげる。
 新型フューチャーX機のコックピット。キャノピーには、青空のパノラマが広がっていた。
 早朝の澄み切った空には、雲ひとつ浮かんでいない、鮮やかな秋晴れの一日になりそうだった。
 午前四時にホットスクランブル――緊急発進が発令された。
 転寝していた獅堂は、けたたましいベルの音に跳ね起き、全速力で乗機に駆けつけた。五分以内に全てのシステムをオペレーションさせ、オールチェックする。
 旧フャーチャーを改良した、新型フューチャー対応機は、基本的に離陸前の滑走を必要としない。コックピット内の動力装置をマニュアル通り稼動させれば、そのまま垂直上昇が可能である。
 しかし、基地からの離陸には従来どおり滑走路を利用するのが常だった。万が一の長時間フライトに備え、エネルギーの温存を図るためである。
 暗い滑走路を滑り出て、獅堂は、無限の闇が広がっている空へと打ち上げられた。夜のフライトは――余り好きではない。
 一瞬ではあるが、闇に呑まれそうな恐怖を常に感じる。
 東シナ海、領空侵犯ぎりぎりのポイントまでフライトし、国籍不明機を確認、領空から排除するのがその朝の獅堂の任務だった。
 相手が攻撃をしかけてくれば、その時点で戦闘機同士の戦いとなる。それは、ほぼ確実に、2分の1の死を意味する。
 現代における要撃型戦闘機同士の戦いとはそういうものだ。性能が逼迫していて――接近戦にもつれこめば、まず逃げ切れない。どちらかが撃墜されるまで、戦闘は終わらないのである。
 だからスクランブルの警報を聞いた瞬間、パイロットたちは、命はないものと覚悟を決める。地上への一切の未練を断ち切る。緊急発進待機任務――アラートに就いている者なら誰もが、生と死のぎりぎりの一瞬を体験している。それは敵機のパイロットにしても同じことだ。
 幸い、航空自衛隊が発足してから一世紀余り、領空侵犯機と僚友機が戦闘ステージに突入したことはない――とされている。
 が、獅堂はそれが、あくまで表向きの発表だと知っていた。
 国には、軍には、決して公表できない機密が常に存在する。それは、軍人である獅堂個人にしても同じことだ。
―――ああ、眠いな……。
 獅堂は目をすがめ、生あくびを噛み殺した。
 今週はまともに眠っていない。仮眠、仮眠、仮眠の連続。
 こんなことは、通常アラートにつくパイロットの処遇としては考えられない。
 獅堂は、この四月、古巣の百里基地から入間基地に新設された要撃部隊にに異動になった。
 もともと要撃戦闘機部隊がなかった入間基地、その第一期として、第九航空師団、第701飛行隊長として配属されたのである。
 相変わらずの講習と演習、ひっかりなしのアラート待機。新設基地にありがちな人手不足のため、連日のように動員され、基地に留め置かれている。
 男のプライドが激突する世界である。人間関係が難しいのは毎度のことだが、この基地では、上司の当たりさえ最低だった。この――嫌がらせとしか思えないタイムスケジュールは、まるで獅堂が大きな失敗をするのを、待ちわびているように取れなくもない。
 最初の頃は、それでも三日に一度は帰宅することもできていた。
 車を飛ばして二時間余り、疲れはするが、それでも楓と過ごす時間はあった。今は――二週間に一度帰れればいい方だ。
 明け方から休みに入り、その夜にはアラートに組み込まれているから、実際、基地で寝るだけしかできない。
 昨夜も仮眠明けにアラート待機が待っていて、結局、朝の四時にスクランブル発進となった。
―――頼むから、早く寝かせてくれ。 
 計器パネルの中の時計を見る。午前七時少し前。溜息が漏れた。
 まだ――タワーからは、着陸許可の通信がない。
”―――こちら2番機”
 背後の2番機から、ヘルメットに装着されたヘッドフォン越しに声が届いた。
「こちら1番機、どうぞ」
”―――緊急輸送機ってなんっすか。着陸待機なんて、珍しいっすね”
 聞きなれた低音の声。
 百里から、獅堂と共に異動になった新人OR、北條累のものである。
 元上司、後藤田のごり押しで決まった人事だが、実際、北條が一緒にいてくれることで、獅堂は随分助けられていた。
「おおかた、本庁のおえらいさんでも乗ってるんだろう」
 獅堂は、白い手袋をはめた指で、ヘルメットからこぼれる髪を払った。
「どうせ夜にはまたアラートに就くんだ。着陸ならこっちを優先させてほしいのに……」
”―――獅堂さんの愚痴なんて珍しいっすね”
 笑いを含んだ声が返ってくる。
 それに言葉を返すのもおっくうなほど、実際、今朝の獅堂はつかれきっていた。
”―――ああ、あれみたいですね”
 北條の声がして、獅堂は青空の一点で眼をすがめた。
 澄み切った青空に、光り輝く点が見えた。
 一瞬きらめいた光はすぐに角度を変え、ぐんぐん大きくなっていく。
 尾翼、胴体、その模様まで肉眼で認識できる近さになっていく。
「あ……」
 思わず呟いていた。
 銀色に輝く巨大なシャトル。
―――それは、かつて獅堂がよく知っていた飛行機だった。
 

                    三


 ようやく着陸を許された入間基地の駐機場。
 まだ早朝で、昼間のような賑わいはない。
 がらんとした空間に、朝の日差しだけが眼に眩しく差し込んでいる。
 秋の終わり、空気は冷たく肌に沁みた。その静けさの中、着陸したばかりの二機のために、整備員四名がばらばらと駆けつけてきた。
 あと一時間もすれば、基地全体が慌しく活気づくだろう。しかし今は、静けさの方が圧倒的に勝っている。
 獅堂はヘルメットのチンストラップを外し、大きく深呼吸した。
「お疲れさんっす」
「任務ごくろうさまです!」
 その中に、
「獅堂リーダー!」
 懐かしい声が混じっている。
 コックピット内でシステムの終了作業をしていた獅堂は、少し驚いて顔を上げた。
「獅堂さん、僕です、相原ですよ!」
「相原……?」
 声は、少し遠くから聞こえてくる。
 眼をすがめ、声のする方を見る。
 駐機場の向こうから――朝の日差し――その逆光を背に、少し駆け足で近づいて来る長身のシルエットがあった。
 獅堂にもようやく判った。元チーム<みかづき>の相原連太郎だ。
 端整でクールな面立ち。いわゆる美男子なのに、子供のような頼りなさがあって――オデッセイ時代、獅堂が同じチームとして共に空に出て、誰よりも信頼していた相棒の一人だ。
 相原は機体のフラット部分に近づき、少し離れた場所で立ち止まると敬礼した。
 引き締まった唇に抑えきれない再会の喜びが滲んでいる。
「驚いたな、なんだってお前が……」
 獅堂は、点検作業を終えると、梯子を登ってくる整備員に軽く敬礼し、入れ違いに機を降りた。すぐに相原が駆け寄って来る。
「獅堂さん!」
 約一年ぶりの再会。
 露骨に喜びを顔に出している相原に、さすがに少し照れてしまっていた。
「着陸態勢に入る機が見えて………あの強引なアプローチは、絶対獅堂さんだと思ってましたよ」
 向かい合うと、相原は、少しはにかんだように微笑してそう言った。
―――ああ、そうか。
 獅堂にはすぐに合点がいった。
 相原は――あの<緊急輸送機>に乗っていたのだ。
「いやぁ、ちょっとイラついてたから」
 まさか、その相原が乗っていた機に苛々していたとは、とても言えないが。
「…本当に……久しぶりですね」
 相原は懐かしそうに眼を細める。
 メタリックブルーに、紺のラインが入ったフライトジャケット。白のスカーフ、胸に光る真新しいマーク。
―――なんだか急に凛々しくなったな、こいつ。
 少しその眼差しがまぶしくなり、獅堂は、軽く男の肩を叩いた。
「元気だったか」
 はい。と、相原は嬉しそうに頷く。
「今朝は……?アラートですか」
「まぁな」
 アラートとは、緊急発進に備え、戦闘機が基地で警戒待機することを言う。
 獅堂は常にアラート要員であり、その中でも最も過酷な五分待機任務についていた。
 緊急事態が起これば五分以内に戦闘機を離陸させなければならないため、24時間フライトスーツ、Gスーツを装着したまま、待機所で過ごすのである。
「ここ三日間、立て続けのホットスクランブルだ、きっついきつい」
「確かに、新婚にはきついですよね」
 からかうような眼。獅堂は少しだけ唇を歪めてそれに抗議を示した。
 相原も、去年の秋、松島で行われた獅堂と楓の結婚式に出席している。あの時の莫迦騒ぎの首謀者の一人である。
「っす」
 二人の横を、ヘルを抱えた北條が無表情で通過していったのはその時だった。。
「北條、悪い」
「いいっすよ、後のことは俺がやっときますんで」
 大きな背中から、声と片手だけが返ってくる。
「感じ悪い奴だなぁ、……なんであいつが獅堂さんの相棒なんだ、大丈夫ですか、あんな奴で」
 それを見送る相原は、露骨に嫌な顔をしている。
「ああ見えて気のいい男だ、随分助けられてるよ」
 獅堂は苦笑し、再度相原の背を叩いて促した。
 静かな駐機場を、二人は肩を並べて歩き出した。
 身長169センチの獅堂は、女性の中では背が高い部類になる。相原は172センチで――その目線は、丁度楓と同じくらいだった。
「なんすか」
「……いや、いつも北條みたいな大男と一緒だから、お前が妙に小さく見えてさ」
「ひどいなぁ」
 北條は190以上あるから、その感慨もあながち嘘ではなかったが、実際は――相原の目線に、もう一月近く会っていない、楓のことを思い出していた。
 それを気づいてか、それとも偶然なのか、相原は、ふと楽しそうに眉を上げた。
「そういや見ましたよ、例の雑誌」
「えっ」
 その――例の雑誌とは、去年、写真週刊誌を騒がせた、獅堂自らの写真が載ったそれではない。
「結婚式以来、久々に楓さんの顔見ましたけど、相変わらず綺麗ですね」
「そ、そうか」
 本人は激怒してたんだが。それは――言わなかった。
「写真の掲載は本人も知らなかったらしい。あの後、相当機嫌が悪くてさ」
「振り回されてるのも相変わらずですね」
 あっさり切り返される。
「………」
 獅堂は、溜息をついて肩をすくめた。
 どうもあれ以来、立場が弱いよな、自分……と思うが、仕方ない。
 元オデッセイのメンバーに祝福――というか、殆ど玩具にされながら、真宮楓と結婚してから一年近くたとうとしている。
 月の半分を基地で過ごす獅堂には、まだ、一年という月日の重みは感じられない。
 新婚とからかわれるのは冗談以前の問題だが、確かに気分はまだ新鮮なまま、楓と一緒に暮らしている。離れていれば、――正直、恋しい。
「最近、スクランブルが嫌に多くてさ」
 獅堂は呟き、天を仰いだ。待機解除は伸び伸びになったまま、もう一月近くも基地に足止めをくっている。
 ふと駐機場の一点に眼を止めた。
 陽射しに機体を煌かせながら、ゆっくりと移動して、格納庫に向かっている銀色のシャトル。
―――あれは……。
 空にいた獅堂の目の前で着陸態勢に入った、あの――懐かしい……。
「あれに、乗って来たんだろ」
 視線を固定させたまま獅堂は呟き、相原は頷いた。
「ピースライナーって名前がつけられましたけど、基本仕様は以前と変わってません」
 地上とオデッセイを結ぶ、不定期便のシャトル。
―――あれに乗って……時々地上に行ってたよな。オデッセイにはあまり美味しいものがないから、下に下りるたびに、何か買いに行かされたっけ。
 懐かしい思いでいっぱいになる。
 移動していく銀の光を見つめながら、獅堂は聞いた。
「向こうの様子はどうなんだ?」
 本当は随分前から、そのことばかり気になっていた。
「なんか…何もかも、前のままで…」
 相原は、言いにくそうに言葉を濁した。
 オデッセイ。
 かつての戦いの終盤、撃沈された、空の要塞。
「召集されたメンバーも、基本的には変わってないですし、…何だか、昔に戻ったみたいで」
 元の設計に改良を加えた上、オデッセイ−eとして再起動され、再びその姿を日本上空に現した――それが、今年の春のことである。
「自分たちパイロットチームは新型フューチャーの訓練ばかりです。特に、みかづきは…」
 相原はそこで言葉を切り、わずかに唇を噛んで獅堂から顔を背けた。
「メンバーが、変わってしまったから…チームワークが悪くて、大変です」
「何を言ってんだよ」
 獅堂はわざと元気よく叱咤し、相原の背中を叩いた。生真面目な元相棒が、自分に気を使っているのは判っているつもりだ。
「今はお前が、みかづきのリーダーだろ。しっかりしろよ」
「でも……」
 オデッセイ−eで、新しくエースの座を託された、端正な男の表情は硬い。
「自分は、あくまで獅堂さんが戻るまでの、仮のリーダーだと思ってますから」
「お前は自分なんかより、ずっと戦術を理解してフライトできる。自信を持てよ」
「自信ならありますよ!」
 初めて相原は声を荒げた。
「でも、リーダーは獅堂さんじゃなきゃ駄目なんだ。獅堂さんがいないみかづきなんて、みかづきじゃない」
 そして男は首を振り、眉根を寄せる。
「判らないですよ、どうして獅堂さんだけがいつまでたっても地上勤務のままなのか。椎名さんも、鷹宮さんも、小日向も……ロバートや八重垣まで召集されてる。それだけじゃない、空自の精鋭たちも続々と集まりつつある…なのに、どうして獅堂さんだけが」
「相原、上には上の考えがあるんだ」
 獅堂は、厳しい口調で言った。
「そして自分には自分の、地上で果たす仕事がある。それだけのことだ」
 相原は何か言いたそうに口を開いたが…やがて静かにそれを飲み込むと、視線を逸らしてうつむいた。
 獅堂は思わず苦笑していた。
「ホント、相変わらずだよな、お前も」
「何がですか」
「短気ってことだよ、すぐにかっかくるんだから」
「だって、それは」
 少しムキになった眼が見返してくる。
―――自分のことでもないのにさ。
 その気持ちが嬉しかった。
「まだ、時間はあるんだろ?基地でコーヒーでも飲んでいけよ」
 獅堂は微笑して、その肩を叩いた。
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