お前たちを狩ろうとしている者がいる。誰も信じてはいけない。
※
蛇の眼。
なんだろう、このイメージは。
全身の細胞が溶かされ、再構成され、自分の身体と意識が分離されてゆく感覚。
恐い………。
叫びたくても、声が出ない。
恐い、恐い、助けてくれ、嫌なんだ、こんなのはもう嫌だ。
―――お前達は、異形のものだ。
なんだ?
―――お前達は、狩られなくてはならないものだ。
なんだ?何を言っている?
全身に絡みつく何百匹もの蛇の群れ。おぞましい感覚。ぬめり、締め付けられ、息さえ出来ない。
声にならない悲鳴を上げる。
いつまでも、いつまでも、誰にも届かない悲鳴を上げ続ける。
一
洗面所で口をゆすぎ、肩で荒い息をしながら、真宮楓は顔を上げた。
中身を全て吐き出した胃が、軋むように痛かった。今日1日、ろくに食事をしていなかったせいか、どんなに咳いても胃液しか出ない。
鏡に映る顔は青白く、額には汗の玉が浮いている。我ながらぞっとするような形相だった。
―――また、あの夢か。
楓は、乱れた前髪を指で払いながら、寝室に戻った。
セミダブルの――最近は殆ど一人で使っているベッド。もともと一人用に購入したものだし、そのこと殊更どうこう思うことはないが。
腰を下ろし、そのまま仰向けに倒れこむ。
「…………」
蒼白い天井に、廊下の照明の光が滲んでいる。
最初から一人だったら、こんな思いにかられることもなかったのだろう。それを思うと、それが少しだけ腹立たしくもあるし――。
こんな自分がおかしくもある。
掛け時計は、あと少しで今日の終わることを告げている。待つまでもない、どうせ今夜も、同居している女は帰ってこない。
―――あの莫迦がいないと……へんな夢ばかり、見るな。
眼を閉じて、そして楓は苦笑した。
約一年前、二人だけの約束事としてだが、"結婚"という形で一緒に暮らし始めた女――獅堂藍。
ベクターと称される新生種である楓と、在来種と呼ばれる獅堂は、日本では、法律上婚姻することが認められていない。
現在民法審議会が改正法を審議している、という話だが、楓自身は、それを、気にしたことはない。
形にこだわることはない。むしろ、法で相手を縛るより、こうやって自由な形で結婚生活を続けていければ、その方がいいと思っていた。
嫌いになれば、別れればいい。重たくなれば……別れればいい。
かつて、犯罪者として国際指名手配までされた自分の存在が、航空自衛隊、要撃戦闘機のパイロットである獅堂にとってどれだけ負担になっているか、楓は苦しいほどよく知っている。
―――あいつに、これ以上、迷惑はかけられない。
これ以上俺のことで、何も、何ひとつあの女をわずらわせたくない。
「…………」
溜息を吐き、楓はベッドから起き上がった。
だから、今、連夜のように悪夢にうなされていることは、獅堂には話していない。
―――……狩られなくてはいけない、者、か。
苦い思いを抱きながら廊下を抜けてキッチンに向かった。
夜毎見る悪夢。
いつも同じイメージの連続で、それがとりとめもなく流れて行く。
覚醒しても、不快感がいつまでも残る。たまらない孤独と不安がいつまでも胸の底に澱み続ける。
死にたくなるほど――絶望的な夢。
こんな経験は初めてではない。似たような感じの夢を、かつて楓は、留学生としてドイツにいた頃、頻繁に見ていたことがある。
異国で長期に渡り生活していたことへの不安なのか、もしくは中国共和党時代に受けた精神的ダメージが見せる幻なのか――。
けれど帰国して少しして前から、ふと気づくと夢を見なくなっていた。偶然かもしれないが、丁度獅堂とつきあいはじめた頃が、それにあたる。
再び、この悪夢に悩まされるようになったのは、今から、三ヶ月くらい前、今年の夏に入ってからだった。
理由は、考えるまでもなく、はっきりしている。
―――……誰も、信じてはいけない……。
あれは誰の声だったのだろう、いや、誰が、あんなものを。
「……は、」
考えてもしょうがないことだ。苦く笑んで、グラスに水を注ぐ。
自分でも漠然と意識しているが、楓には――過去の記憶の何場面かが抜け落ちている。家族が殺された前後と、中国共和党時代、そしてあの――審判 の日、北京から飛び出した前後の記憶。
戦後、日米の司法に、執拗に追及され、睡眠療法まで受けさせられたが、どうしても思い出せなかったことがいくつかある。
キッチンで薬を嚥下し、使ったグラスを濯いでカウンターに置いた。
(―――あまり、常用してはいけませんよ。)
そう言ってくれたのは、かつて自分を憎んでいたはずの優しい歯科医で、今では彼が、医者嫌いの楓の主治医のようなものだった。
楓は窓辺に立ち、カーテンを開けようとして、その手を止めた。
カーテンを開けても、窓の外に広がっているのは闇だ。その闇を見るのが、怖い。
―――怖い……か。
浅い眠りで垣間見た夢のイメージ。
そして、脳裏に刻まれた、メッセージ。
バカバカしい、たかがいたずらだと思う端から、不安が足元をすくませる。
―――俺の身体………。
手首に眼を落とす。痩せた腕は、静脈が透けるほど白く頼りなかった。
苦笑が漏れた。
誰かに守られることはあっても――この腕では、誰も救えないだろう、そんな気がする。
(――一応、血液検査は依頼してみますけどね、結果しだいでは、絶対に専門医に診てもらってくださいよ)
「…………」
拭っても拭っても消えない、ひとつの不安。
多分その不安が、夢を見させる。ドイツ時代の悪夢を呼び覚ます。
同じイメージの連続。蛇――何万匹も絡み合い、わしゃわしゃと音をたて、脚から、腹から、じょじょに全身を覆っていく。
眼が…蛇の眼が、何万匹もの蛇の眼が、一様にこちらを見ている。
そして、声。地の底からもやもやと響くような、身体の奥底から聞こえてくるような。
(―――お前たちは、狩られなくてはならないものだ……)
夢の中で、――それが夢だと判っているのに、楓は叫ぶ。恐怖にかられて、恥も外聞もなく、ただ、悲鳴を上げ続ける。
そして、絶望。
誰も、この闇から救ってくれる者がいないと知っているから。
そこで、いつも目が覚める。
生温い水の底から引き上げられるような感じで――目覚め、そして、吐く。
胃の中が空になるまで吐き続ける。
「莫迦女……」
楓は呟いた。
今、この瞬間、たまらなく会いたいのに、声すら聞くことの出来ない空に、あの女はいる。
カーテン越しに透けて見える夜の闇。夜は――
(―――朝っていいよな、夜が終わったって感じがするだろ)
結婚という形に救いを求めていたわけではない。それでも、初めて二人で夜明けを見た朝、長かった夜がようやく明けたのだと思っていた。
楓は遠い眼を漆黒の空の彼方、天空の彼方を飛んでいる人に馳せる。
―――夜は………。
まだ、夜は明けてはいない。