「右京奏(3)」


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                   一



「おはようございます」
 そう声を掛けると、体温計を手にしていた女は、少し驚いたように顔を上げた。
「お元気ですか、すいません、御無沙汰してまして」
「あなたは……」
 それを元のケースに戻し、女は表情の判り難い眼差しを向けた。
「日本語が話せたのか」
「はい、実は」
 ラウはおどけたように肩をすくめ、「座っても?」と、ベッドの傍らの簡易チェアに手を向けた。
「どうぞ」
 やはり、無表情としか思えなかったが、その眼に、初めて微かな温かみが滲んだ気がする。
 綺麗な人だな――。
 あらためて、ベッドに半身を起こした女、日本から来た三体目のパーフェクトオブジェクトを見下ろしながら、ラウは椅子に腰を下ろした。
「食事はもう済まされましたか?」
 まだ、顔色が冴えないな。
 そう思いながらも聞いてみる。
「タイムスケジュールを無視すると、リーに散々嫌味を言われるのでな」
「ノーノー、気にしない。あいつの嫌味はジョークの域に入ってますから」
「そうなのか」
「嫌な顔をされるのが、笑われるのと同じレベルで好きな男」
「変わった人間だな」
「ここにはそういうヤカラしかいません」
「……本当に、日本語が上手いんだな」
 女の目に、感嘆とも望郷ともとれる――何かの色が浮かんだ気がした。
 そのきれいな首筋に、まだ消え入らない縫合の跡がのぞいている。
 ラウは、わずかな息苦しさを感じて頭を掻いた。
 本当は――自分だけではない、彼女の担当であるリーも、自分と同レベルで日本語を習得している。が、あえて英語しか口にしない。
 この被験者と、心理的に親しくなることを避けているのだ。ラボで唯一の東洋人であるリーが、彼女の処遇について、内心相当苦々しい思いをしていることを、ラウはよく知っている。
「それで、私に何の用なんだ」
 女は静かな眼差しを下に向け、わずかに乱れた掛け布を直す。その――蝋のように透けた腕からは、蒼白い静脈さえ、痛々しく透けて見えていた。
「……ま、僕にも何の用で来たんだか」
 ラウは、指を唇に当てて、わずかに上を見て、そして困ったように笑って見せた。
「夫が妻の見舞いに……といえば笑いますか」
「いや」
「素っ気無い人だなぁ、僕にとっては初めての結婚なのですが」
 ふざけてそう言うと、女は初めて、唇に笑みを浮かべた。
 それはまるで、柔らかい否定を意味しているように、ラウには取れた。
「実は」
 まいったな。
 そこで言葉を切り、ラウは、大げさに肩をすくめた。
 やはり今まで、親しく話さなくて正解だった。死ぬまで悔いが残りそうだ。―――いや、こうして話した以上、もう手遅れかもしれないが。
「計画がどうも、変更になったようでして」
「計画……?」
 女の目に、不審気な色が浮かぶ。
―――何をやってんだ、僕は。
 自分のバカバカしい役回りに、思わず笑い出してしまいそうだった。
「日本から、サンダースと同レベルの変態が来たようでして、……そのせいかどうかは知りませんがね、あなたと僕は、どうも人口的にではなく、自然受精という形で、ベビーを作らなければならなくなったようです」
「…………」
 その綺麗な眼差しに、特別な変化はない。
「最悪なことに、あなたの月齢は今日がヒットで、そして妊娠に適した体質であることも医師が確認している。つまり、今日我々は」
「…………」
「まるでマウスかアカゲザルのように、モニターで監視されながら、セックスしなければいけないというわけです」
「なるほど」
 嫌なくらい冷静な声が返ってくる。
 ラウは――半ばうんざりしながら言葉を続けた。
「そしてご覧のとおり、僕は顔だけが取り得の優男で、あなたは武術をたしなんでいる」
「…………」
「現場には僕以外の者も同席して、あなたが抵抗すれば――驚くことに彼らが幇助してくださるそうです」
「合法的な強姦だな」
「それを合法的と言うのなら」
 ポケットから――用意していたものを取り出して、ラウはそれを、女の枕元のテーブルに置いた。
「睡眠薬です。普段あなたが用いている物よりは……少しばかり、いや、相当ハイレベルな」
「…………」
「何も記憶したくなければ、一錠で、……でも僕なら二錠飲みますが」
「夢さえ見ずに眠れそうだな」
「そう、悪夢はもう、二度と見ません」
「…………」
 綺麗な眼がわずかにすがまる。その意味を理解したのだろう。
「……ここに来られて、どのくらいになりますか」
 ラウはそのまま、女から視線をそらして立ち上がった。
「さぁ……カレンダーくらいつけてくれと、いつも言っているんだが」
 閉ざされたカーテンを開ける。外は闇だ。地下のここには、飾り窓はついていても、外の景色は決して見えない。
「父親の葬儀に出ることさえ許されず、……元総理のお嬢様で、かつて日本の顔として戦争の指揮をとっていたあなたが……今のような非人道的な扱いを受けていることを、どう思っているのですか」
「こんなものを無断で持ってきて、後であなたはどうなるんだ」
「そんなこと、もうどうでもいいでしょう!」
 少し声が大きくなっていた。
 女は――意外そうな目を向ける。
―――何やってんだ、僕は。
 ラウは再度溜息をついた。
「この施設で、あなたを女性として、いや人間としての尊厳を持って扱っている者は誰もいませんよ、あなたは知っていますか、誰もがあなたの身体の特徴を――挨拶代わりのジョークのように口にしている」
「だから、マウスかアカゲザルなんだろう」
 静かに返ってくる言葉。女の目は、わずかも動じてはいなかった。
「研究者というのはそう言う者だ。私はここでは、人間ではなく被験者なのだから」
「…………」
「ありがとう、気持ちだけ受け取っておく。これは持って帰ってくれないか」
―――この人は……。
「では、せめて一錠飲んでもらえませんか。僕の方が精神的に耐えられそうもないので」
 女は何も言わなかった。
 ラウはテーブルの上の錠剤ケースを一錠、掴みあげようとして、やめた。
―――僕なら、生きてはいられない。
 苦い思いで、ただ暗いだけの窓ガラスを見つめる。
 この施設に彼女が移されて半年あまり、白人優位主義者の典型のようなサンダース大尉の監視の下、この人がどれだけ――女性としては屈辱的な、残酷な扱いを受けているか、ここで、彼女と同じように被験者として扱われているラウはよく知っている。
 そして自分と違い、彼女には、おそらく永久的に自由はない。ここまで非人道的な扱いを受けた女を、米国防総省が解放するはずがないからだ。
 自由どころか――受胎したあかつきには。
「………あなたは、どうしてそんなに強いんです」
「強い……?」
「僕には理解できないな。……ケチなハッカーで、司法取引と引き換えにこんな莫迦な役回りを受けた僕には」
 わずかな沈黙。
 ラウは苦い思いを抱いたまま、背後の女を振り返った。
「……私は、別に強い人間というわけではない」
 そう言って笑った女の顔は、胸にしみるほど美しかった。
「ただ……信じているのかもしれない」
「何をですか」
 そう聞くと、彼女は少し遠い眼になった。
「……世界は、希望に満ちていて、」
「…………」
「―――その中で、私は……誰かに必要とされているのだと」
 希望。
「Human beings' hope、人類の希望ですか」
 一瞬の感慨を振り切り、ラウは皮肉をこめて繰り返した。
「……あなたも、それを知っているのか」
「そんなものありはしない。希望なんて――我々ベクターの未来にありはしない」
「…………」
「なんのために僕らは生まれたのか。時々、何もかも嫌になる、全てを捨てて逃げ出したくなる」
「…………」
 女は黙っている。静かで、そして透明な眼差し。
 ラウは初めて、この女に――憐れさ以外の感情を感じた。それは、怒りにも似た理不尽なものだった。
「いずれにしても、今だけは選択肢はあなたにある」
 それだけ言い捨て、ラウは女に背を向けた。ここに来たことに、確かな後悔と憤りを感じながら。
「待ってくれ」
 呼び止められたのは意外だった。ラウは、眉をひそめたままで脚を止める。
「あなたに、頼みたいことがある」
 振り返ると、女はベッドサイドの本棚から、黒表紙の分厚い本を取り出した。
「……この男に迷惑が掛かってもいけない、これを焼却しておいてもらえないだろうか」
「…………」
 本は聖書のようにも見えた。間に挟まれている、折りたたんだ薄い紙切れ。
 ラウはそれを受け取り、何か、と聞こうとして、やめた。
「僕は信頼に足る男ではありませんよ」
 女は、わずかに目を細くしただけだった。
 黙ってそれを、ラウは胸の内ポケットに収める。
「ありがとう、ミスター、」
「アンディ・ラウ」
「……そう、最高の香港スターだ」
 ラウは今でも――最後に見たその笑顔を、その時感じた胸が痛むような思いと共に、今でも――苦しいほど鮮明に覚えている。

                 ※

 人生最悪の経験だな。
 目の前で繰り広げられる――吐き気がするような光景を、ラウは腕を組んだままで見つめていた。
 莫迦じゃないのか。
「最高の見世物だな」
 カメラを持った男が隣で囁く。
「僕は気がすすみません、これは犯罪行為ですよ」
「気にするな、相手はどうせ人間じゃないんだ」
 なんで、ここまで抵抗するくらいなら、最初から薬を飲まなかったんだ。ここには、彼女の味方は誰一人いない、声はどこにも届かない。逃げることは――死以外の方法を持ってでしか不可能なのに。
 殆んど半裸になった状態で――うつぶせに組み敷かれた女の両腕に手錠が絡まる。
 その刹那、ラウの目を、確かに女は見上げていた。
 その目に宿る――何者にも服従しない焔のような闘志の色。
「…………」
 胸の底から、どす黒いものが滲み出る。
「おい、ラウ、どこに行く」
「すいません、どうも緊張するとトイレが近くなるもので」
「なんだ、びびってんのか」
 野卑た笑い声が室内に響く。
「せいぜい、一人で発射オッケーにしとけよ」
「こっちは俺たちに任しときな」
 それには答えず、扉を閉めて廊下に出た。
 頑丈に作られた扉を閉ざせば、声はもう届かない。
―――ふざけんな。
 なめるな。
 人間のくせに。
 ただの――人間のくせに。
 何にぶつけていいか判らない憎悪が溢れ出た。
―――莫迦だ。
 あの女が莫迦なんだ、何が希望だ、バカバカしい――くだらない。そんなものを信じて、それが、この結果なのか。
 ドン、という空気が弾けるような音がしたのはその時だった。
 ふわ、と、一瞬床が持ち上がり、足元が揺らいだ気がした。
「…………?」
 間違いなくその震動は、ラウの背後――今出たばかりの室内から聞こえた。
 振り返った途端、照明が一度に消えた。
 そして警報。
 同時に頭上から、冷たい水が降り注ぐ。
「っ……??」
 何が起きているのかすぐに理解できた。非常事態時に備えた全てのシステムが一斉に稼動しているのだ。けたたましい警報は、意味不明のアナウンスと共に入り乱れる。
”――二階のフィールドが破損しました。”
”――火災発生、ただちに避難してください。ただちに避難してください。”
”――気密室の防御シールが破損しています。非常事態、非常事態、感染予防レベルを最大級にあげてください。”
 どうなってんだ?
 何があった。
 部屋だ――あの部屋、今までいたあの部屋で、きっと何かが。
 ラウは、顔にかかる水を手で拭い、元来た廊下を駆け戻った。
 扉の前に立ち、はっと息を呑んでいた。
 薄暗がりでもはっきり判る。特殊合金の扉が、内から、何かで持ち上げたように膨らんでいる。
「おい、どうした、何があった!!」
 声を荒げながら扉を叩く。
 破損した扉は、押しても引いても戻らない。中から返ってくる声はなかった。
『――ラウ、すぐにその階から非難しろ』
 廊下のスピーカーから、リーの声がはじけたのはその時だった。
「リー、今のはなんだ、一体何が起こってる」
『説明している暇はない、そこはすぐに封鎖される。早くしろ、死にたいのか!』
『これは、なんの騒ぎだね、何が起きたんだ』
 リーの声に、誰かの鮮明な日本語が被さる。
『ミスターアソ、とにかく避難を』
 再び、リーの声。
 何もかもが混乱している。ここだけでなく、モニタールームがある上層階までも。
「くそっ……」
 再度扉を思い切り引っ張り――びくとも動かないそれを確認して、ラウは諦めて駆け出した。
 何か――予測不可能な、恐ろしい事態が起きたのだ。
 今判るのはそれだけだった。


                 二



「……結局、その階に」
 ラウは、黙ったまま立っている男の反応を伺いながら言葉を続けた。
「ラボの連中が踏み込む事ができたのは、それから五時間も後のことでした」
 時計を見上げる。あとわずかで――永久の別れの時間が迫っていた。永久、そう、奇跡でも起こらない限りは。
「僕はすでに隔離され、減圧された部屋に閉じ込められていた。……ですから、これは後で聞かされたことですか」
 男の目は動かない。
 また、僕は莫迦な役回りをしているな、とラウは思った。あの日と同じだ。あの女に――右京奏に、睡眠薬を渡そうとした時と。
「何か大きなエネルギー波が、あの一瞬、ラボの全ての設備をダメにしたらしい。無論、発信源はあなたの大切な奥様で」
「…………」
「そして、その瞬間から、あの人は人間ではなくなったんです」
「……部屋にいた連中はどうなったんだ」
 初めて沈鬱な声がした。
「全員死にました」
「その時の衝撃でか」
「いいえ」
 それなら――まだいい。
 ラウは冷静さを装って首を振った。
「四十六時間以内に、激烈な感染症で」
「…………」
「亡くなったのは彼らだけじゃない。あのフロアにいた半数が――、高熱が続き、翌朝から翌日の午後にかけて、結局全員死亡しました。解剖したところ、彼等の内蔵の殆んどは溶け腐り果てていたらしい」
「…………」
「そのような症状を起こすウィルスは、現在地上の何処にも確認されていない。わかりましたか、蓮見さん、彼女が――最大級の微生物危険封じ込めの対象として」
「…………」
「地下深く封印されている理由が、決して――誰にも、助ける事ができない理由が」
「あいつが……そのウィルスの発信源だと、どうして断定できる」
「お会いになれば判ります」
「判る……?」
「………そして、絶望だけがあなたの残す最後の感情になる」
「…………」
 時間が――迫っている。
 莫迦なことをしている、そう思いながらラウは続けた。
「あなたはそれでも行きますか、まだ――最後に、あなたには道がある、可能性は少し低くなりますが、僕と共に逃げるという道がある」
「…………」
「蓮見さん、」
 ブザーが鳴った。
 蓮見が――わずかに顔を上げる。
「んじゃ、行って来るよ」
 まるで銭湯にでも行くような、気楽な声だった。
 ラウは、溜息と共に諦めた。結局は似た者同士だ。全くお似合いの二人だよ。そう思いながら。
「…………蓮見さん」
「悪いな、お前のことを、最初は嫌な奴だと思ってた、礼を言わなきゃな」
「僕は嫌な人間ですよ」
 自嘲の笑みが漏れた。
「政府や軍の機密を盗んではそれを売って小銭を稼ぐ、莫迦な小悪党です。いつも何かから逃げている。自分からも逃げている」
「……自分から?」
 それには答えず、ラウは苦笑して顔を上げた。
「本当は、彼女が好きになった男がどんな人間なのか知りたくて、ただ興味本位で日本へ行ってみたんです。……結局、こういうことになってしまったのは、ハッカー時代の取引相手に居所をつきとめられてね……依頼されたんですよ。僕がここから逃げ出した後の……金銭援助と引き換えにね」
「そいつは誰なんだ」
 元刑事というだけあって、薄々何かの裏があることは気がついていたのだろう。蓮見の目が真剣になっている。思わずその名を口にしようとして、やめた。
「……生きて、戻れることがあれば、いずれ判ると思います。その男も、結局は貴方方と同類だから」
「同類……?」
「有り得ない奇跡と希望を信じてるってことですよ。さようなら、蓮見さん。結構好みでした、言い忘れましたが、僕は同性愛者なので」
「はい………?」
 男が凍り付いていてる。
 ラウは初めて、心の底から、笑顔になった。
「またお会いできることを祈っています、今度こそ、僕らは敵同士になっているかもしれませんがね。――では」
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――私は、別に強い人間というわけではない。
 そう言って笑った女の顔は、胸にしみるほど美しかった。

――
ただ……信じているのかもしれない。
 何をですか、そう聞くと、彼女は少し遠い眼になる。

――
世界は、希望に満ちていて、
――
その中で、私は……誰かに必要とされているのだと。