三
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「なんだって、時計や携帯まで置いてかなきゃなんねえんだ」
先を歩く男に蓮見は聞いた。
すでに肉声は届かない。
全身を消毒され、目がちかっとする白い光を浴びさせられた後、窓さえない小さな部屋で、トンネルのような細長いホースをくぐらされた。
その先に――空気で膨らんだプラスチックとビニルで出来た全身を覆うスーツがあり、蓮見がその中で手足を伸ばすと、トンネル部分のホースが取れて、自動的にロックが掛かった。
―――宇宙服だな、まるで。
この奇妙な姿を、鏡で一目見てみたかったが、そんなものは何処にもない。
いくら軽くても、さすがに歩きにくいことこの上なかった。出入り口のホースは取れたが、それとは別の細長いホースが、腰の辺りからぞろぞろ果てしなく伸びている。おそらくここから――酸素が供給されているのだろう。
蓮見の問いに、ラウと入れ違うようにして現れた、バイオシャワー室から一緒だった男が振り返った。
「それらの物は、完全に減菌されにくいからです。ミスター」
男の声は、頭にかぶっているヘルメット状の――それにしては、まるで存在を感じさせないほど軽いそれの、耳元から直に響いてくる。おそらく内部に、スピーカーとマイクが内蔵されているのだろう。
「貴金属は持ち込み禁止ってことなんだな」
「……そうですが」
リーと名乗った、大陸系の顔をした骨格のよい男は、けげんそうな声を上げる。
「いや、今度来る時、女房にプレゼントでも持ってこれないかと思ってさ」
「………上に伺ってみますよ、ミスター」
気の毒そうな声が返ってくる。多分、伺う必要がないことを、この男はよく知っているのだろう。
「それほど厳密に身体や持ち物を消毒する理由はなんなんだ。危険なのは、その部屋に閉じ込められている女で、俺たちじゃないだろう」
「最もです、ミスター」
それ以上、返ってくる答えはない。
最初のゲートが開いて、それが閉まる。同時に腰についていたホースもなくなっていた。
「それくらい教えてもらってもいいだろう、どうせ俺だって、もう、ここから出られないんだろ」
「……この施設には、研究のために様々なウィルスが培養されています。外部から菌が持ち込まれることによって、それらが突然変異を起こしたり、増殖するのを防ぐためです」
「ラウはどうして助かった」
「……なんの話しで」
「内蔵が溶けただかなんだか知らねぇが、沢山の人が死んだそうじゃないか、どうして同じフロアにいたのに、近くにいたはずのラウが助かった」
「わかりません、結局、原因となるウィルスは特定できなかったのです」
「発生源の右京は、そのウィルスとやらに感染してはいなかったのか」
「それもノーアンサーです。ミスター。原因となるウィルスは、発見できませんでした。それだけです」
「その施設にも、ここと同じで、沢山のウィルスが培養されてたんじゃないのか」
「……その通りです」
「そのどれかが漏れ出したり――、もしくは、何かが原因で突然変異を起こしたり、そういう可能性もゼロじゃないだろ」
二つ目のゲートが開く。そこは狭い通路で、目の前には新幹線の扉のような黒金色の扉があった。
リーは壁の制御盤を開き、そこから新しいチューブを取り出し、自分の腰部分に器用に取り付ける。それを終えると、今度は蓮見の傍に膝をつき、同じようにホースを装着してくれた。
「無論、可能性はゼロではないです、ミスター」
そして、立ち上がる。特殊なプラスチックに覆われた目は、義眼のように無表情に見えた。
「ただ、残念なことに、ゼロではないという、それだけの意味でしかありません」
これ以上話す気はない、そんな風にも取れる言い方だった。
しゅっと、空気が抜けるような音がして扉が開く。それが最後のゲートで、その先に、大きな銀色の扉があった。
「現時点で、カナデ・ウキョウが最も疑わしいと判断されている理由は」
扉が開く。中央に、淡いライトに照らし出された寝台のようなカプセルが浮かび上がっている。
「彼女をご覧になればご理解いただけると思います、ミスター」
蓮見は息を呑み、最初の一歩を踏み出した。
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四
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―――右京……。
内部の温度が低く保たれているのか、寝台を覆うガラスの壁は、水蒸気で曇り、中に眠る女の輪郭を滲ませていた。
―――莫迦だな、お前も。
そのケースに指で触れ、蓮見は顔を近づけた。どんなに近づいても、決して触れることの出来ない女。
もう――何年ぶりになるだろう。
素肌を見せて抱き合って、心ごとひとつになったのが、つい昨日のことのように思い出せる。
―――こんなになるまで、一人で頑張りやがって。
恐かっただろう、心細かっただろう。
抱いた腕の中、最後に見上げてきた――どこか心もとない目が忘れられない。
強い女だが、その心根まで鉄で出来ているわけではない。本当はもろくて、臆病で――。
―――右京、お前は何を守りたかったんだ……。
こんなになるまで、一体、何を。
「ミスター、蓮見」
ガラスが軋るような声が耳元で響いた。
蓮見は顔をあげ、立ち上がった。
「非常に残念だが、あなたの妻は、このような状態で、とても引渡しに応じることはできない」
扉の前。リー以外に、二つの宇宙服があった。
毒々しいオレンジ色。自分も、あんな醜悪な格好をしているのだろうと思ったら寒気がした。
「日本語で喋ってもいいってことかよ」
蓮見は言った。
耳元で含んだような笑い声が聞こえる。
「幸いなことに、私の元上司が日本人で、しかも部下には母国語でしか指示しないという変わり者だった。多少なら会話はできるよ、ミスター」
妙に甲高い声でそれと判る。最初に握手を交わした、サンダースと呼ばれた男だ。
オレンジのスーツを着た男は大げさに肩をすくめ、蓮見の対面から右京が納められた――棺のようなカプセルの傍に歩み寄ってきた。
「彼女のことは、非常に心苦しく思っている。……判るだろう、蓮見君。君は彼女の特異な体質のことを、どれだけ知っているのかね」
「目の前で変身シーンを見せられた仲だからな、ある程度は」
それを言うと、ふいにその場の空気が緊張するのが判った。
「それはそれは……滅多にない体験をされたものだな」
「ぶったまげたよ、奥様は魔女ってやつだ」
笑う者は誰もいなかった。
「実は君に、頼みがある。これは――純粋に、学術上の要望なのだが」
「俺の身体を調べたところで、鼻血も出ないぜ」
「それは、君が思っているだけのことかもしれない。蓮見君、彼女の遺伝子には、宇宙の神秘がそのまま継承されている。この姿を見たまえ、人が、このような変態を遂げた記録はどこにもない。例えて言うなら、昆虫のそれに似ている。彼女は本能で原始の遺伝子を活性化させたのだ」
「…………」
「クマムシという生物を知っているかね」
「あいにく、文系だったもんで」
「節足動物で、南極から北極まで、地球上のどこにでもいる、ごく小さな生物だ。彼等は環境が悪くなると、樽状と呼ばれるクリプトバイオスの状態になる。いわゆる冬眠状態で、高熱にも高温にも放射能にも耐え――、そして百年近く生きていられる」
蓮見は黙って聞いていた。
―――右京、待ってろ。
「クマムシは、環境の一時的な悪化には、いわゆる樽状になる前提として、厚い細胞壁を持った包のう状態に変化する。生命代謝を最低限に留め、仮死状態で環境の悪化をやりすごす。この――彼女の症状は、まさにそれに擬似していると言ってもいい」
―――このおっさんの声は聞こえてないよな、今、なんの夢を見てんだよ。
「けれど残念なことに、宇宙から飛来した原始の遺伝子には、未知のウィルスが含まれている可能性も捨てきれないのだ。外宇宙には、いや、この地球を取り巻く大気圏には、はるか太古から存在しているウィルスがうようよしている……それらは全て、人類にとって未知のものだ。未知のウィルスが、いったん地上に拡散すれば、どのような悲劇を生むか……君に、それが想像できるかね」」
「……だから、文系だっつったろ」
「NASAでも、探査衛星の回収時には、厳重に検疫手続きをするくらいなのだ。……そして、この女性の肉体には、外宇宙から飛来した生命の遺伝子が眠っている、いや、眠っていたのだ。今、それは、明らかに覚醒された状況にある」
サンダースは両手を広げ、少し大げさに肩をすくめてみせた。
「理解していただけるだろうか、安全が証明されるまで、彼女の身柄を、決してここから出すわけにはいかないことを。――そして蓮見君」
「…………」
「君が彼女と性交渉を持ったことがあるなら、ぜひ君の身体を調べさせてもらいたい。これは人類のためでもあり、君自身のためでも」
「なぁ、二ダースか、三ダースかしらねえが」
「…………は?」
「ちっとは、病人に綺麗な空気でも吸わせてやれよ、ここには窓さえないじゃないか」
目の前に立つ男に、明らかに苛立ちが滲むのが判った。
「……蓮見君、ここにいる限り、彼女が外の空気を吸うことはない、永遠に」
「…………」
薄ら笑いを浮かべているのが、プラスチックのへル越しにもはっきりと判った。カン、と男は、右京が収められたケースを指先で弾いた。
「この減圧されたケースの中の空気ですら……汚染されている可能性があるのだよ、蓮見君。なぜならウィルスは、間違いなく空気感染していたからだ」
「それが右京が原因って証拠でもあるのか」
そう言うと、サンダースは冷たく肩をそびやかした。
「君に何ら後ろ盾がないことは先刻承知だ。ここはフリーズと言って手をあげない異国人を射殺しても、なんら罪に問われない国なのだ。それを忘れてはいけないな」
「そうかい」
―――今、自由にしてやるからな。
今、
蓮見は、元来た扉に向かって歩き出し、それを見たサンダースはきびすを返した。
待っていたのは、その瞬間だった。こいつらが――武器を携帯していないことは、知っている。
ダッシュして、背後からサンダースの肩を掴み、周囲の者がわっと動くより早く、渾身の力で、その頭を覆うプラスチックのヘルメットを引きちぎった。
どすん、と派手なしりもちをつき、髪より白い――恐怖に打ちのめされた顔が現れる。
手を離すと同時に、蓮見も自分のヘルを引きちぎって、そして床に放り投げていた。
ガンガンと耳元で響く英語のわめき声が途端に消えて、スーツ越しのくぐもった声と、入り乱れた足音だけが室内に響く。
近寄る者は誰もいなかった。蓮見はそのまま、右京の身体を覆うケースに手を掛け、ロックごと強引にこじ開けた。
「が……、ガ、が、」
視界に、床で後ずさっている男の姿が入ってくる。意味不明な言葉を発しながら、恐怖に歪んだ顔が、涎さえ垂らさない形相で見上げている。
くぐもった悲鳴と共に、ばらばらと全員が退避する。扉が閉まる。
その扉の前で、部下に見捨てられた老人が、ただ、呆けたように唇を震わせていた。
―――右京……。
抱いた身体は氷のように冷たくて、ゴムのような奇妙な弾力と、蝋のような硬さがあった。
その全身は、頭から爪の先まで、薄い――蒼白い膜で覆われている。溶けた蝋に包まれたような、そんな感じだった。
―――絶望なんて、安いぜ、ラウ。
冷たい頬に、蓮見は自分の額を寄せた。
この女は、まだこうやって生きてるじゃないか。
「ヘイ、ミスターサンダース!」
蓮見は、右京を抱いたまま、這いつくばる男を指差した。
「これであんたも同類だな、まずはてめぇの身体を調べてみろよ、俺とあんたが生延びたら、この女の安全は証明される、つまりはそういうことだよな!」