五


 冷たい眼をした男だった。
 髪は五部刈りに近い。あまりに短すぎて、金髪なのか白髪なのかわからない。年は五十すぎくらいだろうか。目は濁った青で、鼻は俗に言う鷲鼻というやつだ。
 深みのある焦茶の軍服に、肩と胸に光る勲章。
 彼の態度や周辺の者の態度で、男が――相当な身分の者であることだは、理解できた。
 その男の前で、ラウが何かを説明している。時折蓮見を振り返り、そして笑顔を交えながら話している。
 聞いている男は無表情だ。そして、その無表情の眼で、時折――やはり、蓮見を見る。
―――嫌な男だな。
 即座にそう思っていた。人間の感情の基本的な何かが欠落している、そんな感じだ。
 やがて五部刈りの男は、ラウの言葉を手で遮り、そしてかつかつと革靴を鳴らし、蓮見の傍まで歩み寄ってきた。
 ちょっと後ずさりしたくなるほど間近に立たれ、そして手を差し出される。
「ヘロー」
 口からは、何かの薬品の香りがした。口もとは笑んでいるのに、目だけが無表情なままである。
 仕方なく――蓮見はそのまま手を伸ばし、冷えて骨ばった男の手を握り、握手を交わした。
 男の薄い唇から漏れる言葉は、全く意味が判らなかったが、声は意外に甲高く、そして、カナデ、ハズバンド、という言語だけが聞き取れた。
 それから背後にいるラウに一言二言声をかけ、そして男はきびすを返した。
「彼がサンダース大尉、このラボの責任者ですよ」
「えらそうな男だな」
「だから実際、えらいんです」
 ラウは苦笑し、そのサンダ−スが消えた扉の方に眼を向けた。
「……さて、何を考えているか判らない人ですが、間違っても善人ではありませんので」
 それは、なんとなく判る気がする。
「お前、俺をなんて説明して回ってるんだよ」
「ありのままに、日本の警察官で、右京奏の法的配偶者だと」
「…………」
「日本で居所を知られ、このままでは訴訟を起こされかねないと」
「…………」
「日本警察が優秀だというのは世界の常識ですからね。あなたが組織を通じて僕の居所を突き止めたと、まぁ、そういったことを説明しました」
 とんでもない嘘をつく奴だ。
「……警察は、辞めちまったよ」
「知ってます。すぐに警視庁に照会が行くだろうし、右京奏の戸籍も確認されるでしょう。まぁ、いずれボロはでます」
―――婚姻届は……。
 間に合っているのだろうか。
 蓮見は無言で眉をしかめた。
 ラウに指定された日時が急だったので、自分で手続きに回ることができなかった。遥泉に全てを託すしか、あの時の蓮見には選択肢がなかった。
「せいぜい2〜3時間の時間的余裕しかない。けれど、あなたは、少なくとも奏に会うことだけは許可された。ラッキーなことに、今からサンダース大尉が下に降りられるという、あなたもご一緒にということだそうですよ」
「…………」
「そして、対面を果たした後、よほどのことがない限り、あなたはその場で消されるでしょうね。警視庁の後ろ盾がないと判った時点で。……それは僕も同じなんだが」
 なるほどな。
 蓮見は思わず苦笑した。
「……永遠のお別れってのは、そういう意味か」
「後悔してますか」
「いいや」
 即座に出た言葉だった。
「それよりお前は大丈夫なのか、無事に逃げる算段はあるんだろうな」
「……僕のことは……」
 ラウは、初めて苦いものを噛むような笑みを浮かべた。
「とにかく先を急ぎましょう。途中までは僕が案内します。まだ、お話することも残っていますのでね」


                 六


「ここで、衣服を全部脱いでください」
 連れて行かれたのは、狭い通路のような細長い密室だった。
 壁には、警告文とおぼしき張り紙が何枚も貼られている。
 壁の下側には四角く切り取られた金属の扉があり、それを押すと、奥は、ダストシュートのような真っ暗な闇だった。
「全部です、下着も時計も――携帯も、指輪も、お財布もね。あなたの身体から全ての微生物を取り除く必要がある。これからあなたは、バイオシャワーを浴びて、低レベルの放射線を受けることになります」
「……俺の荷物はどうなる」
 上着を脱ぎ捨てながらそう聞くと、ラウはわずかに眉を上げた。
「上でクリーニングされて保管されますが、あなたの場合、それを二度と身につけることはない。気にする必要はないでしょう」
「は、なんとも素っ気無いことで」
 溜息をつき、多分―――これで見納めになるであろう衣服の全てをダストシュートのような穴に投げ込んだ。時計も外し、財布と免許証、そしてビザも投げ入れた。それが最後の持ち物だったし、失えば、確かに二度と、日本に戻れないことを意味していた。
「あと十分もすればブザーが鳴ります。そうしたら、次の扉をくぐってください。僕とはここでお別れです」
 ラウは壁に取り付けてある制御版のスイッチを押しながらそう言った。
 電子機器が唸るような音がして、頭上から灰色の布のようなものが降りてくる。
 手にして広げると、それはまるで、病院で着せられる袷のような着物だった。
「人間ドッグってのは、こんなもんかな」
「さぁね、ここを無事に生きて出られたら、僕も一度試してみることにしますよ」
 衣服を羽織って、ぶら下がっている紐を締める。
 ラウはまだ、所在無くそこに立ったままだった。
「……まだ、何か話が残ってんじゃなかったのかよ」
「………あの人は」
 言いさして、ラウは再び困ったような笑みを唇に浮かべた。
「間違いなくあなたが認識できませんよ」
「もうそれは判ってるよ」
「会えば絶望しか残らない、そしてあなたは――その思いを抱いたまま殺されるんだ」
「そんなことは、会ってみなきゃわかんねぇだろ」
 今さら――過去に起きたことなど、どうでもいい。自分の人生の最後の三時間。それをもう、一秒も無駄にしたくはない。
「あの人が、何故こんな施設で、ここまで厳重に隔離されているか、ご存知ですか」
「…………」
「あの人が、ただのベクターとも違う、異種の存在であることはご存知ですか」
「うるせぇな、それが何か特別な意味でもあるのかよ」
 こいつは何が言いたいんだ?さすがに苛立って声を荒げていた。
「僕は――あなたが理解できない」
「はぁ?」
 肩を抱かれ、だん、と壁に押し付けられた。
 その力の強さと口調の激しさに、蓮見はただ驚いて、抵抗することさえ忘れていた。
「あなたは、どうしてそんなにも強い、何故、愛する女を壊されて、それでも平然としていられる」
 恐いほど真剣な面持ち。蓮見には、まだ、目の前の男の変容が理解できないままだった。
「……別に……平気じゃねぇよ、実際最初は、」
―――気が狂うかと思ったくらいだ。
 言葉を途切れさせ、無言で視線を逸らす。
 あの刹那に爆発した感情は、さすがに二度と思い出したくない。
「そう、あなたは取り乱していた。でもそれは最初の一日だけだった」
「そんなこと、もうどうでもいいだろ」
「憐れみですか、同情ですか、過去の女への未練ですか」
「…………」
「くだらない、どうしてそんなことに命まで賭ける必要がある」
「それがなんだよ、お前に何か関係あるのかよ」
「関係がないと思いますか!」
「…………」
「……関係ないと、思いますか」
 蓮見は黙って、少し眼上の男を見上げた。
 相変わらず何を考えているのか判らない。が、何故か心の中では――男の葛藤が、判っているような気もしていた。
「じゃあ、言ってやるよ」
 ラウの手を振り解き、蓮見は乱れた服を合わせた。
「右京は壊れてなんかいないからだ」
「…………」
「お前らが何をしようと、何があろうと、あの女は壊れたり諦めたり、そんなことは絶対にしない女だからだ」
 再び視線を合わせた男は、時を失ったような目をしていた。
「俺は、右京に同情もしてないし憐れんでもいない、ただあいつが闘ってるのが判ったから」
「…………」
「俺も戦おうと思った、それだけだ」
―――嵐……。
 それでも、あの一言がなければ、蓮見は――今のような気持ちになれていたかどうか、自信がない。
(―――僕は感じたんだ、あの人の絶望や――それに負けまいとする不屈の闘志みたいなものを。)
「……闘う……?」
 ラウは、意外そうな顔で茫然と呟く。
「あいつは戦っている。お前がどう思おうと、あいつは一人で戦っている、右京って女は、そういう奴だからだ」
 ただ、愛とか未練とか――そういった甘い感情だけでは思い切ることはできなかった。自分を信頼し、幸せにしてやろうと誓った女を、自分に大切な一人娘を預けようとした人たちを、仕事を、人生を。
「……は、」
 ラウの顔がふいに緩んだ。
「は、はは……」
 額を手でおさえ、何かに耐えかねたように笑い出す。
「まいったな……、これが、……夫婦の絆ってヤツなのかな」
「ふざけんな、茶化すなよ」
 ようやくラウは顔を上げる。口元は笑んでいたが、その眼はどこか哀しそうだった。
「あなたの言う通りですよ」
「……何がだよ」
「あなたの言う通りだ。あの人はね、最後の最後まで闘うことを諦めなかった。誰もあの人の身体に、指一本触れてはいない、触れようがない」
「…………は?」
 なんだと?
 さすがに、愕然として顔を上げていた。
「僕はあなたを試したかったのかもしれない……いや、あなたではなく、あの人を」
―――あの人……?
「あの人の強さを、信じているものを……徹底的に否定して、踏みにじってやりたかったのかもしれない」
「……右京のことか」
 ラウは無言で微笑を浮かべる。
 けげんに思いながらも、蓮見は茫然と呟いた。
「じゃあ……あれか、お前があれこれ言った話は、あれは、もしかして、全部嘘か」
「役者の次に、官能作家になろうと思っていたので」
「ばっ、」
―――莫迦か、てめぇは!
「ただ、ある意味、その方がまだマシだったのかもしれませんがね」
「何?」
「……精神を閉ざしても人としては触れ合える。体が傷ついたとしても、それはいつか癒える時がくる」
「……何が言いたいんだよ」
「ベクターが、どうしてこの世界に誕生したか――そのプロセスを知っている者はね、蓮見さん、ベクターの、しかも殆んど未知の遺伝子を持つ、パーフェクト・オブジェクトと寝るようなチャレンジャーは一人もいない」
「………パーフェクト、オブジェクト……?」
「三人目の完全体、PO3。彼女はラボではそう呼ばれていた。真宮楓、真宮嵐に続いて確認された、三人目の……実験体として」
「実験……体か」
「そう、それはまさしく実験です。彼女は唯一の女性体だ。つまり、完全体で、唯一受胎できる存在」
「…………」
「そして、僕が選ばれた。同じベクター種である僕が、彼女への精子提供者として選ばれた」
「…………」
「あの人は、人口受精を条件にそれを受けた。多分……その時、あの人は同時に、二度と日本に戻れないことを覚悟したのに違いない」
―――右京。
 蓮見は拳を握り締めた。
 最後の電話の女の言葉が、今では、全く別の意味を持って蘇る。
(―――お前のおかげで、私は人を愛するということを知った。)
(―――ありがとう、最後にお礼を言わせてくれ。)
 莫迦野郎。
 なんだって、それを―― 一言俺に言ってくれなかったんだ。
「…………右京は、」
 それだけは、はっきり耳にしたくはなかった。
「右京は、妊娠してたのか」
「…………僕の作り話は」
 それには答えず、ようやくラウはエレベータのボタンを押した。
「半分は嘘でも、半分は真実です。あの人は今、女でもなければ、人でもない」
「…………」
 どういう……意味だ?
「あの日は………」
 ラウは苦しげに眉をひそめた。
「日本から、アソという役人が視察に見えていた時だった……忘れもしない。僕も直前まで聞かされてはいなかった……それが、結局彼女を救ったのかどうか、今でも僕にはわかりませんけどね」
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