三


「莫迦な選択をしましたねぇ、僕なら間違いなくレディを選ぶところですが」
 右京の夫は、しらっとした横顔で、そう呟く。
 その声で蓮見は現実に引き戻された。
「あなたは、僕が東京でお話したことの意味を、ちゃんと理解しているのかな」
「してるよ」
 蓮見はぶっきらぼうに答え、そのまま缶を背後の簡易チェアの上に置いた。
 先ほどの胸の悪い会話のせいか、もう飲み気はとうに失せている。
「だからてめぇの言う通り、日本を出る前リスト通りの予防摂取も受けてきたよ。インド行きが決まっててラッキーだった。半分以上は先月済ませたばかりだったからな」
 ジフテリア、破傷風、腸チフス……うんざりするほどの量だった。
「……そういう意味じゃないですよ」
「もういいよ、その話はやめといてくれ」
 返事がないので振り返ると、ラウの横顔は、真直ぐ夜に向けられたまま、少し冷たくなっていた。
「聞いてもいいですか」
「……何を」
「その緊張感のなさは、性格ですか、それとも投げやりになってるのかな」
「はぁ?」
 俺から緊張感を奪ってるのはお前じゃないか!
 そう言いかけてやめた。
 基本的に、蓮見には隣に並ぶ男の真意が読めない。
 今でもよくわからない。この男の意図も、彼の背後にあるものも。
 ただ、ラウは――決して、彼一人の意志で動いているわけではない。確証はないが、それだけは確かな気がする。
「蓮見さんは理解してるのかな、……僕はあなたの大切な人を輪姦した当事者の一人で」
 ラウがふいに呟いた。
 素っ気無い、冷ややかな言い方だった。その手は、空になった缶を所在なく弄んでいる。
「ぶっ壊れた玩具みたいな女が面倒になって、あなたに押し付けようとしているだけなんですけどね」
「…………」
 胃の奥に、冷たい何かが込み上げる。
 蓮見はポケットから煙草を取り出し、黙ってそれを唇に咥えた。
「あなたと奏の結婚が正式に認められれば、僕は二重婚を理由に離婚手続きに踏み切れる。ようやく晴れて自由の身ですよ」
 それでも黙っていると、ラウが大げさに肩をすくめるのが判った。
「理解に苦しむなぁ……安定した職と美人の婚約者まで捨てて、ここまできた理由はなんですか?」
 その口調はますます皮肉な色味を帯びる。まるでわざと――挑発しているようにも聞こえる。
「あの憐れな女への同情ですか、それとも責任感?だから後戻りできないと言ったのに。誰だって胸が痛みますよね、後生大事に婚姻届を――ご丁寧に名前まで記載して、昔の女が持っていたんですから」
「…………」
「その同情は、もはや愛とは言えないでしょう。彼女のプライドを傷つけるだけだ」
 最も、傷つくようなプライドは、もうあの人にはありませんけど。
 そう付け加え、鼻で笑うと、ラウは再び空を見上げた。
「あなたにも、奏にも、明日は不幸な再会でしかないのに」
「……関係ねぇよ」
「……関係ない……?」
 蓮見はそれには答えなかった。 
「まだ、間に合いますよ」
 少し真面目な声で、男は続けた。
「今なら引き返せる。……あなたの人生を、まだ、取り戻せるかもしれない」
「お前さ……」
 さすがにこの問答に疲れを感じた。蓮見は椅子に置いた缶ビールを持ち上げ、その椅子に腰を下ろした。
「なんでそうも、俺を怒らせようとしてんだよ」
「……真実をお話しているだけですが」
 蓮見は溜息をつき、手にした缶を男に向かって投げ返した。
「俺には、お前が、俺にどうさせたいのか判らない。なんだって右京を、そんな言い方で汚そうとする」
 男の横顔が、はじめてぎこちなく強張ったように見えた。
「役者志望って言ったっけな、今、何の芝居をしてんだよ」
「…………」
 一瞬無表情になったものの、すぐに男は、普段通りの笑みを浮かべた。
「質問の意味が見えないなぁ」
 蓮見は、軽く息を吐いて立ち上がった。
「だったらいいよ、とにかく、俺は戻る気はない。片道切符だ、お前がそう言ったんだろ」


                  四


 見上げるほど高い鉄柵には、「これより先は官有地につき立ち入りを禁ず」「G&M農場試験場」「遺伝子組み替え作物につき、持ち出し禁止」などと看板が張り巡らされていた。
 むろん全て英文で、ラウがご丁寧に説明してくれたのだが。
「……ここ、かよ」
 車を降りた蓮見は茫然と呟いた。
 のどかな小麦畑のど真ん中。
 柵の中にも、外にも、延々と小麦と、そしてトウモロコシ畑が連なっている。百メートルほど先に見える、三角屋根の田舎風の建物。木造で――まるで、アルプスの少女ハイジが飛び出してきそうなほどアットホームな外観だ。大きさは、ちょっとしたパン工場くらいで、とてもではないが、そこに――国家機密が秘められているようには見えない。
 車を降りた二人の傍に、まるで「どこからきなさったんだね、だんな方」と、呑気な世間話でもするように、赤ら顔の太った男が近づいて来た。
「ハロー」
 ラウは即座に笑顔で男に向き合う。
 内容は理解できないものの、一見して、普通のあいさつを交し合っているようにしか見えない。太った男はTシャツに作業用のズボンを着用しており、まさに農作業の最中のようないでたちだ。
 やがて互いに手を上げて、ラウは蓮見を振り返り、太った男は、元来た柵の内側へ消えていった。
「おい、あのおっさん何だよ」
「見て判りませんか、最初の番人ですよ。彼のたわいない質問に答えられた者だけが、この門を通過できるようになってるんです」
「もしかして、山とか川とかいうやつか」
「今何時、キリンオレンジとか」
「…………」
 やっぱ、こいつ莫迦だ。
 そう思いながら、蓮見はラウの後を追って、柵の中に入る。
 見回す限り、警備員の姿はどこにもない。ただ、延々と穀物畑が広がっているだけの田園風景。
 正直蓮見は、これは――マジでからかわれたかな、と思いかけていた。
「すごいでしょう、ここは本当に農場試験場なんですよ。実際人を雇ってるし、きちんと農作物の栽培もしている。まさかこの地下に」
 歩きながら、ラウは楽しげに周囲を見回した。
「最大級の国家機密が収められているとは誰も想像できないだろうな。ねぇ、蓮見さん、なんだかアクション映画っぽい展開になってきましたねぇ」
「はぁ……」
 としか、言いようがない。
 が、確かにラウの言う通りだった。アットホームな建物の中に入ると、大型の器械と――そして大きなガラスケースがあり、その前を、数人の作業員が、のんびりと行き来していた。ここでは真面目な、なんらかの業務が行われているらしい。
 ラウはなんでもないように彼らの傍を通り抜け、廊下の突き当たりの扉を開ける。
 少し小さめのホール。中央にはエレベーターが備えつけられている。
―――エレベータ?
 そして、初めて蓮見は、ここには地下に――五階以上の建物があるのだと理解した。
 エレベータホールには二名の作業着姿の男がいて、そこでもラウは、蓮見を見ながら何かを説明して――通り抜けた。
「意外と簡単なもんなんだな」
「僕と一緒だからですよ、そうでなきゃあなたは今ごろ蜂の巣です」
 エレベータに乗り込み、ラウは地下一階のボタンを押した。
「ここには、猫ほどの大きさの侵入者が入れば、即座に探知されるシステムが備えつけられています。不審者が一歩でも踏み込めば、彼らが容赦なく射殺しますよ」
「……いきなり、やっちまうのか」
「正当防衛です、それがまかり通る国ですからね」
 エレベータが音もなく止まる。
「ここには、米陸軍所属の科学者が何人か召集されています」
 エレベータを降りながら、ラウは早口で説明を続けた。
「彼らは軍の階級を得ているとはいえ、みな学問にしか興味のない科学者だ。そんなに手荒な真似はしないでしょう。問題はこの階を通過できるかどうかなんですが――」
「この階……?」
 薄暗い廊下、壁にはバイオザードを警告する張り紙が貼られている。黒地に赤の×印。さすがに薄気味悪いものを感じて、蓮見はわずかに舌を出し、乾ききった唇を潤した。
「ここで働く科学者はみな、最下層の五階で暮らしているんですよ。そこに、あなたの探している人もいる」
「おい、だったらなんで直接五階に行かないんだ」
「……あのですねぇ」
 ラウは、はぁっと溜息をついた。
「なんのために、あなたは、考えうる限りの感染症の予防接種を受けたんです。ここはね、最大級の生物学的封じ込めがなされている施設なんですよ。地下にはミクロ単位を吸引しただけで死に至る危険なウィルスがうようよ培養されている。簡単にいけるはずがないじゃないですか」
 そのまま、さっさと歩き出そうとする。
「ちょっと待て、じゃあ、右京は、そんな危険な場所にいるっていうのか」
「…………」
 腕を引くと、ラウは眉を寄せ、そして冷たい眼でそれを振り払った。
「蓮見さん、その彼女が、今では最も危険な存在なんです」
「なんだと……?」
「……おいおい説明しますよ、とにかくあなたは、アイキャンノットスピークイングリッシュを貫いてください」
 それだけ言い捨て、ラウは初めて見せる緊張した横顔で歩き出した。
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