一



 一面の小麦畑――。
「……小麦アレルギーだったら、死んでるな」
 くすんだ車の窓から外の景色を眺めながら、蓮見黎人はぼやくように呟いた。
「おい、マジでこんなところにその、」
「この一帯は全て官有地です。この小麦もね、ただの小麦じゃありませんよ」
 運転している男。
 アンディ水城。なのにラウと名乗る香港映画マニアの男は、そう言って楽しげに微笑した。
「遺伝子組み替え小麦の試験場ですよ。一見のどかな農業地に見えて、ここには数億ドルの国家予算が組み込まれているんです」
「はぁ……、なるほど」
 それにしても広い。
 見渡す限り同じ色、同じ景色が続いている。日本では、まずお目にかかれないパノラマだ。
「蓮見さん、CD変えてくださいよ」
「知るか、お前のCDって、香港映画のサントラばっかじゃねぇか、もう聞き飽きたよ」
「だって、好きなんだもん」
「…………」
―――この男は。
 時折、がくっと腰を砕かれる。
 間違いなく許せない奴で、殴っても殺しても飽き足りない奴だと――頭では理解しているのに、話していると、どうにも憎めなくなる時がある。
「お前初めて見たときさ、どっかで見た顔だと思ったんだが」
 煙草を取り出しながら、そう言うと、ラウの横顔が、ふっと緊張したような気がした。
「今判ったよ、よくお笑い番組に出てくるヘンな外人、あれだよ、あれ」
「なんですか、それ」
「実は、結構莫迦だろ」
「………………」
 火を点けた煙草を渡すと、ラウは嬉しげに唇に挟んだ。
「僕たち、なんだかチームみたいですねぇ」
「チーム?」
「ほら、アクション映画でよくあるじゃないですか、乱暴者の刑事とちょっといかした犯罪者がコンビを組んで、」
「……一生言ってろ」
―――何やってんだか、俺も。
 蓮見ははぁっと溜息をついた。
 サンフランシスコの空港に降り立ち、ここ、ネヴァダ州の北西部まで、飛行機とレンタカーを乗り継いで来た。そして、シスコの空港から、ラウとはずっと道中を共にしている。
 最初は殺意を我慢するのが困難なほど、嫌な相手に思えたが、二人きりの道中、ずっと無視を貫くのは不可能だった。ラウは男にしては相当お喋りな部類で、しかも。
「しかしあれですね、もしかして蓮見さん、火星の人?」
「……どういう嫌味だよ」
「英語がからっきしダメで、よくまぁ、この国際化の時代に生きてこられたなぁと」
「…………」
 しかも蓮見は、英語が全く理解できないのである。
「…………悪いがよ、今までの俺の人生に、日本語以外の言語は、全く必要なかったんだよ」
 開き直ってそう言うと、あはは、と声を立てて男は笑った。
「それはね、蓮見さん、あなたが知らない間に、誰かが助けてくれてるんですよ」
 皮肉たっぷりの言い方にも、ぐっと言葉を飲み込むしかない。
 実際、たどり着いた異国の地で、蓮見は、この嫌味な外国人に助けられてばかりだった。悔しいが、ただ後をついていくしか術がない、というのが、本音である。
「……お前さ、犯罪者だったのか」
「え?」
 ただっ広い一本道。見晴らしのいい晴れ渡った空。
 行き交う車は、いつのまにか途切れ、前後の車の影も見えない。
 人っ子一人ない……死んだような静寂が広がる小麦畑。時折、ぽつぽつとかまぼこ型の建物の屋根が垣間見える。
 こののどかな風景が、蓮見は次第に薄気味悪くなっていた。
「さっき、自分で言ってたじゃねぇか、いかれた犯罪者だって」
「…………いかした犯罪者です」
 こちらの空港で再会して驚いたが、ラウは髪の色も眼の色も、全く別人になっていた。髪はカラスのような漆黒で、目は淡い茶褐色。髭もそり、髪も短く刈り込んでいる。
「どうです、これ、アンディラウ風にイメチェンしてみたんですが」
「知るか、似あってねぇから心配すんな」
 と、交わした第一声がそれだった。
 そして思った。こいつは、変装し慣れている。偽名を使ったビザといい、他にもいくつかの名前を使い分けているに違いない。
 アンディ・水城という名前の持ち主―――それが右京の結婚相手だということは知っている。が、それが本当にこの男なのか、今さらのように、蓮見は疑わしく思っていた。
 一言で言えば、右京の相手にしては莫迦すぎる。
 今思えば、渋谷でぶつかってきた時もそうだった。
 絶対に、わざわざあんな芝居をする必要なんてなかったはずだ。
 多分、あれは、この男が楽しんで仕組んだに違いない。
「今夜はモーテルに泊まります。どっかで食事でもしましょうか」
 黙っていると、男は楽しそうにそう言った。
「ここまで来て、何も明日まで延ばすことはねぇだろ」
 まだ日は高い。そして最初に地図で教えられた目的地に――多分、あと数キロの所まで迫っている。
「僕にも、色々都合があるので」
 そう答えるラウの横顔が、少しだけ冷たくなっていた。
「片道切符は蓮見さんだけですよ、僕に、つきあう気はさらさらない。撃ち殺される前に、上手く逃げなきゃいけないのでね」
「逃走ルートの確保ってわけか、用意周到だな、逃げ慣れた犯罪者は」
 それには答えず、ラウは皮肉めいた微笑を浮かべた。
「どうですか、あと数キロ先に、あなたの探していた人がいる……今の気持ちをぜひお聞きしたいものだけど」
「別に……何もねえよ」
 蓮見は呟き、すがめた目を延々と続く憂鬱な灰色の穂先に向けた。


                 二



―――雪って、掴まえたら溶けちゃうんだよねぇ……。

 ベランダに立ち、ぼんやりと煙草を吸っていた蓮見は、「蓮見さん、ビール買ってきましたよ」という、場違いに明るいラウの声に、少しうんざりしながら振り返った。
「お、センチメンタルな顔してますねぇ、望郷の刑事ってとこですか」
「…………どこで覚えたんだ、そんな言葉」
「日本で生活してたこともあったんで、犯罪者には住みやすい街だから」
「…………」
「ポリスは優秀でも法がぬるい、ベクターへの締め付けは厳しいのに、不思議な国ですよね」
 煩い男だな、と思いつつ、差し出された缶ビールを受け取る。受け取って――ふと、昼間見た延々と続く小麦畑を思い出していた。
「これってあれか、遺伝子組み替え小麦が」
「今さら気にしてどうするんです」
 隣に立ち、プシッとプルタブを切る男はそう言って笑った。
「今の時代、組換えた穀物を100パーセント除去するなんで不可能ですよ。日本は小麦の殆んどを海外から輸入している、流通の過程で組換えた新種がそうでないものに紛れ込んでも、一体誰が、それをチェックできるんです?」
「ま……そりゃそうだがよ」
 今まで特に、遺伝子組替えを意識したことはない。が、あの灰色のパノラマを見た後だけに、妙な薄気味悪さが後を引いていた。
「知らない内に、誰もが遺伝子組替え穀物を口にしている。今はそういう時代です。人体に害がある?あるかもしれない、でも、それはもうどうしようもない」
「どうしようもないって、無責任だな、お前も」
「弱い人間は淘汰される、そして強い者だけが生き残る――こういうことですよ、蓮見さん。環境の変化に、人が自分の肉体を順応させていくしかないんです。ダイオキシン、増加する二酸化炭素、強烈な紫外線、新種のウィルス……自然の環境は刻々と変わっていく。遺伝子組替え作物の増加も、その変化のひとつにすぎない」
「……よせよ、小難しい話は」
 頭では理解できても、妙に腹立たしい理屈のように思えた。
 つまり、こういうことだろう。組換え作物を食べて、死ぬような人間は――もともとこの時代を生き抜く能力がないから仕方ないのだと。
「あの素敵なレディに、なんて言って説明されたんですか」
 蓮見が黙ったままでいると、缶ビールを片手に持ったラウは、少しおどけた口調でそう言った。
「……できねぇだろ……普通、」
「ま、そうですね、知らない方がいいこともある」
「…………」
 蓮見は目をすがめ、褐色の闇に視線を転じた。
 ポケットの中にあった二枚の婚姻届。
 あの時――出してしまったのは、その日、小雪と二人で区役所に取りに行ったものではなかった。
 いや、もう最初から、そうすることは覚悟していたのかもしれない。
 成田空港で、ラウから「チケット」を渡された時から。
 開いたそれに、二年も前に書いた自らの名前と、そしてその隣に並ぶ――忘れられない女の名前を見た時から。
「最低な話のもってき方だった。殴られても、訴えられても仕方ないことをした、……なのに」
 あの夜のことは、今でも――昨日のことのように思い出せる。
 娘以外の名前が記された婚姻届。あっけにとられたような眼をした叔父は、しばらく言葉を失っていた。
 その場に――土下座した。
 すいません、申し訳ありません。
 それしか――言えなかった。
 どういうことなの、黎君、あなたは、うちの娘じゃなくて、ここに書いてある女の人と結婚するって、そういうことなの?
 一番取り乱していたのは小雪の母親で、それは当たり前の反応だった。
 むしろ、何も言わない叔父と――小雪の方が、蓮見には理解できなかった。
 すいません、どんなことをしても償います、訴えられるのなら構いません。
 それだけを――繰り返して、ただ頭を床にすりつけるようにして謝り続けた。
 そんな……何があったか、知らないけど、今、いきなりそんなことを言われても……ねぇ、お父さん。
 叔父は一言も口を聞かない。
 顔を上げる勇気も、また、その資格もないと、その時の蓮見は思った。
 黎君、とにかく冷静になってちょうだい。まだ式まで時間があるんだから、二人でじっくり話し合って、ね。
 それにも――蓮見は頷くことができなかった。
 僕は明日、辞表を書くつもりです。時間がなくて――そのまま、東京を離れなくてはいけませんので。
 うつむいたままでそこまで言った時、頭上でぐつぐつと煮えていた鍋の音が、ふいに止んだ。
 煮詰まってるわよ、お母さん。
 小雪の声は、普段と全く変わってはいなかった。
 いいよ、行きなよ、黎君。
 蓮見はようやく顔を上げた。
 その言葉が――すぐには信じられなかった。
 何も聞かないし……言わなくていいよ。どっかでこうなるような気がしたし、心の準備はできてたから。
 鍋の蓋を開けて、あちっと、耳に手を当てる。その横顔も仕草も、いつもの小雪のままだった。
 お礼なら、遥泉って人に言っといて。最初に聞いてなきゃ……やっぱり、納得できなかったかもしれないし。取り乱しちゃったかもしれないし。
 顔を上げたままの蓮見に向かって、小雪はにっこりと微笑した。その眼だけが、初めていつもより潤んで見えた。
 そして、女は、冗談でも言うように呟いた。
―――雪って、掴まえたら溶けちゃうんだよねぇ……。
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