五


「っす、お元気そうで」
 ふいに背中から声を掛けられ、遥泉は足を止めて、振り返った。
「なんだか忙しそうですねぇ、年末だってのに、全く因果な職業ですよ」
 廊下の向こう、書類の束を抱えながら近づいてくるのは、やくざじみた凶悪な人相にでかい図体――警護課の愛内薫である。
 会議室があるフロア。遥泉が今から向かう部屋の隣で、警備課が会議をしていたらしい。
「確かに、こう忙しいと、トラバーユしたくなりますね」
 遥泉は苦笑して、そのまま目礼して背を向ける。
 本庁主催の科学捜査担当者会議。
 主催担当課長の自分が、もう五分も遅れている。とにかく仕事が眼一杯詰まっていて、正直会議どころではないというのが本音だった。
 そうでなくても、年末というのは犯罪が起こりやすい時期である。今月に入ってから、遥泉がまともに休めた日は殆んどない。仕事はいっぱいいっぱいなのに、今年赴任してきた陰湿な上司は、ささいなミスを見つけては、ねちねちと遥泉を責める。
 この五分たらずの遅刻にしても、後で相当しつこい嫌味が浴びせられる事は間違いない。
―――トラバーユ、か……。
 数日前、桐谷徹を介して連絡をくれた、ある人物の面影が頭をよぎる。
 遥泉は、嘆息して、迷いを振り切るように歩き出した。
 いずれにしても、僕には――できない選択だ。
「あのぅ、遥泉さん」
「何か」
 が、愛内は追いすがり、低く声を掛けてきた。
 急いでるんだか……とは思ったものの、性格上、つい足を止めてしまっていた。
 少しの間、言いにくそうにもじもじしていた愛内は、やがて耳の後ろを掻きながら口を開いた。
「実は蓮見のヤロウ、昨日から無断で休んでるんですよ」
「…………」
―――蓮見さんが……?
 意外な言葉に驚き、遥泉は無言のまま眉を寄せていた。
「何かご存知ないっすか、いや、上の連中に聞いても、どうも妙な反応しか返ってこなくて」
「……妙な反応とは?」
「うーん、なんていうかな、まぁ、あいつのことは放っておけ、みたいな」
「…………」
「あいつが新規採用のペーペーで……もうちっとあれこれ悩む性格だったら、間違いなく辞表でも出しているような雰囲気なんすけどね、まぁ、いくらなんでも結婚控えてて」
 あれ、遥泉さん?
 その声を背中に聞きながら、遥泉は元来たエレベーターホールに向かって、小走りに駆け戻っていた。
 ポケットから携帯を取りだして、登録していた番号を押す。
 蓮見の携帯と自宅、それぞれに電話しても、留守番電話にさえ繋がらなかった。携帯には電源が入っていないようだ。
―――まさか。
 泥のような後悔と共に、先週――蓮見小雪の会社に、彼女を訪ねていったことを思い出していた。
 僕は、余計なことをしてしまったのだろうか。
 これからの二人を、こんな形で――無責任にぶち壊してしまったのだろうか。
「課長?」
 唖然と振り返る部下を無視して、そのままデスクに駆け戻った。
 引き出しを開け、収めておいた名刺ケースから名刺を取り出す。
 蓮見小雪の勤務先――返ってきたのは「蓮見は本日休みを取らせていただいております」という、柔らかなオペレータの声だけだった。
「くそっ……」
 額を抑え、―――何も出来ない自分に憤りを感じながら、そのまま椅子に腰を下ろす。
「遥泉君、」
 背後から、少し驚いたような声がした。刑事部長の長嶺であり、今年の春、ロス市警から帰ってきたばかりの、遥泉の直の上司だった。
「君は何をしてるんだね、もう会議は始まっているだろう」
「すいません、緊急の電話が入りまして」
「電話だと?それはどこからの電話かね」
 そう言って長嶺は腕を組む。延々と始まる嫌味の合図のようなものである。
 仕方なく遥泉は立ち上がった。
「遥泉君、今日の会議が、うちのしきりってことを忘れたのかね。ただでさえ仕事が遅れ気味なところに、遅刻かね、それで本当に、部下をまとめられると思っているのかね」
「……申し訳ありません」
「何だね、そのふてくされたような言い方は、自衛隊への派遣が長かったと聞いているが、よほど上司の教育が悪かったようにみえるね」
「…………」
「これだから日本しか知らない官僚警察官は困るんだよ、君もロスへ行ってみたまえ、日本人はそもそも」
 頭の中で、それまで我慢し続けていたことが唐突に弾け、遥泉は机を力任せに叩いていた。
「だから、申し訳ありませんと言っている!」
 しん……と、その場が凍りついた。
 部下の殆んどが、初めて見せる寡黙な課長の――激昂に、ぽかん、と口を開けている。
「な、なんだ、君は、な、な、なにさまだと思ってるんだ」
 刑事部長、今後の出世には欠かせない男の、泡を食ったような声。
 なんだかもう――、どうでもよくなりかけていた。
 俺は何をしてるんだ。
 遥泉は自分に問った。
 何のためにこの席に座り、何のために闘っているんだ?
(―――このことで、遥泉さんの役目は、もう終わったんです。)
 終わったのか。
 本当に俺には――これ以上何もできないのか。
「い、今の君の態度は問題にするよ、ただで済むと思うなよ、遥泉君」
 遠ざかる怒声を背後で聞きながら、遥泉は力なく椅子に腰を降ろした。
 永遠のように続く会議、捜査、縄張りとプライドを賭けた争い。旧態然とした縦割り社会。出世のための仕事しかしないキャリア。
―――俺は……何を、してるんだ。
 デスクに手をついたはずみで、重ねておいてあった今日の郵便物の束が床に落ちた。
 その殆んどが開封されている。送られてきた公文書は、庶務の手で全て開封されるからだ。
「…………」
 一通だけ、きっちりと封をされた封筒があった。

 親展、遥泉一課長様

 無意味に力強いその字に、忘れられない覚えがあった。
 裏返す。差出人は蓮見黎人とだけ記されている。
―――蓮見さん?
 焦燥を抑え、指で封を切った。中に入っていたのは、折りたたまれた薄い紙と、1枚の小さめの便箋だった。

 悪いがお前しか思いつかなかった。
 もう一人、迷惑を掛けても構わない相手を探してくれ。後の手続きは頼む。できるだけ早く済ませてくれ。俺を信じろ、絶対に、


 その後の文字は、もう――まともに読む事ができなかった。
 不思議なほど頼りなく感じられる自分の指で、薄い紙を掴み上げ、机の上に広げてみる。
 一目でそれが、なんのための用紙か遥泉には判った。
「…………」
 中央に躍る、活字に近い、完璧な達筆。
 その字を、遥泉は忘れたことがなかった。その人の、人柄そのものが滲み出ているような美しい字体を。

 右京奏

「……右京さん……」
 指が震え、声が途切れた。
 左上に記された日付は、もう二年も前のものだった。
 名前の下には、彼女の住所、生年月日が丁寧な字で記されている。
 隣には蓮見黎人の名前が記され、そのどちらも少しインクが古くなっているのが判る。
 婚姻届。
 それは、完璧なものだった。保証人二名の名前さえ埋めれば、そのまま区役所に提出できるものだった。
「……ど、して……」
 一体どうして――蓮見にこんなものが用意できたのか、遥泉には想像も理解もできない。
 二人は結婚の約束をしていたのだろうか。いつ――二年も前に?だったら、何故……。
「…………」
 考えて、遥泉は途方に暮れた。どういう事情があろうと、これを今提出してしまえば、二重婚という犯罪行為を幇助することになる。あるいは、公文書偽造罪か。
 右京は米国で結婚している。遥泉は、その証明書の写しを右京家で確認までしているのだ。米国が発行した正真正銘本物の結婚証明書。本人の筆跡でなされたサイン。
 そもそも、行方も知れず、連絡も取れない相手との婚姻届を提出して、それになんの意味があるのだろう。出したとしても、区役所がそれを受け付けてくれなければ……。
 いや、待てよ。
―――そうか。
「そうか、そうなんだ!」
 だん、と遥泉はテスクを叩いた。
―――そうか。
「その手があったか……」
 米国の結婚証明が、そのまま日本の戸籍に反映されることはない。証明書を持参したうえで、別途国内での手続きが必要なのだ。
 右京が――右京家の者が、もし、その手続きをしていないのなら。
 右京の戸籍が、右京家に残されたままだとしたら。
(―――お嬢様の結婚は、右京の者は、誰も認めてはおりません。)
「……二重婚、じゃないんだ」
 少なくとも日本では、この婚姻届は正式に受理される。
 無論、日付の効力では劣る。争いになれば負けるだろう。
 が、ひとまず蓮見は――彼女の正式な夫として、彼女の身柄引渡しを要請できる立場を得る事ができる。今、肝心なのはそれなのだ。
 この二年近く、防衛庁やFBIに遥泉が門前払いを受け続けていたのは、自分に彼女に面会を求める法的根拠が何もなかったからである。彼女の夫と名乗る法的代理人に、対抗する術が何もなかったからである。
「……一体誰の入れ知恵だ、あの頭の悪い人が、」
 苦笑しながら、遥泉は目の奥が熱くなるのを感じた。
 蓮見はおそらく、昨日、正式に辞表を提出したのだろう。
 働き盛りの――出世コースに昇ったばかりの職員の辞表届。いったんは受理されたものの、そのまま保留されているに違いない。理由を問いただそうにも、今、誰も蓮見と連絡が取れない状況なのだろう。
 しばらく額を押さえたまま――うつむいて、遥泉はただ、笑うことしかできなかった。
―――やってくれるよ、蓮見さんも
 あの人なら、不可能を可能にするかもしれない、そうだ、昔からあの人はそうだった。
 なにしろ。
 あの右京を、惚れさせた男なのだから。
「課長……あの」
 受話器を持った部下の一人が、けげん気な顔でこちらを見ている。
「上からです、あの、早く会議に出てくるようにと」
「もういいです」
「…………は?」
「いいんですよ。僕などいなくても会議は進む、そう伝えておいてください」
 遥泉は、先ほど出した名刺ケースを広げ、その隅に記しておいた、直通電話の番号を確認した。
 受話器を持ち上げ、プッシュボタンを押す。数度の呼び出し音で、電話はすぐに繋がった。
「はい、防衛庁長官室です」
「青桐長官を」
 遥泉はよどみなくそう告げた。
 やがて――電話に、目的の相手の声が響く。
「遥泉です。はい、あなたの申し出をお受けいたします。本日付けで、警視庁に辞表を出します。ええ、……本日付です」
 周囲の者たちが、蒼白な顔になっている。
「さてと」
 遥泉は、すっきりとした気持ちで立ち上がった。
 するべきことは山のようにある。まずは右京家に、事情を説明しに行くのが先決だろう。難航することは間違いないが、後々のためには絶対に必要なことで――だから、蓮見は、全てを自分に託してくれたのだろう。そんな気がする。
―――僕はまだ、終わらない……。
 僕の役目はまだ終わらない――終わってはいない。
 胸に残っているのは、蓮見が書き残した手紙の、その最後の一文だった。


 俺を信じろ、絶対に右京を連れて帰る。


                 六


 防衛庁の10階に設けられた記者会見室では、定例の、長官自らによる合同記者会見が行われていた。
「ようやく怪物がベールを脱いだってわけね」
 宇多田天音は周音マイクを片手に呟いた。
 今日、初めてオデッセイ−e。正式名称オデッセイ・Evolutionの実態が公に発表された。
 数年前、世界を滅亡の一歩手前にまで追い込んだ台湾有事。その終戦間際に撃墜された天の要塞。
 日本の航空自衛隊が、その命運をかけて打ち上げた、人類史上初の――空を拠点とするミサイル防衛計画。
 日本が誇る天才、真宮嵐が発明した新型エネルギーフューチャーと、そして最新鋭の設備が備えられたミサイル防衛システム。
 戦後、もう空のミサイル防衛は意味がない――との批判を受けつつも、横須賀の造船所で、ひそかに再起動の準備が進んでいることは、報道記者の間ではずっと囁かれていた。
 が、政府から報道協定の要請があり、それまでどのマスコミも取材を自主規制していたのである。
 配られた資料には、ごく簡単な処女飛行までの日程と、そして、主要乗組員たちの名前が列挙されている。
「領土が狭く、陸地にミサイル防衛基地を展開できないわが国においては」
 就任後、一年も満たない間に、すっかりお茶の間主婦の人着物になった美貌の政治家は、穏やかな語り口でゆっくりと説明を続ける。
「空の防衛計画は、まさに不可欠だと言っても過言ではありません。地上、洋上に、現在設置されているミサイル基地では、日本全土をフォローできない。それが、専守防衛に徹するわが国にとって、どのような致命的な事態を招くか――、それは、先の台湾有事で明らかになったと思います」
 言葉を切り、青桐長官が微かに笑う。その笑顔を狙って、一斉にフラッシュがたかれる。
「何故、今なのか、中国や北から、今回の計画に猛反発があったと聞いていますが」
「最終的に、アジア諸国の理解は得られたと確信しています」
 記者の問いに、自信に満ちた笑みが返される。
「ハンサムってのは、特っすねぇ、今じゃ、時期首相候補の声も高いとか聞きますけど」
「ま、テレビ映りは最高ね」
 隣に立つカメラマンと軽口を交わしながら、宇多田はにこやかに説明を続ける男を見つめた。
―――まぁ、ただ者じゃないわね。
 服も髪形も、その目配りも微笑さえも、何気なさを装いつつ、実は完璧に演出されているような気がする。
 当初は、つなぎ人事で、後任が決まり次第、適当な時期に更迭されるだろうと囁かれていた、最小当選回数で内閣入りした男。それが今では、主婦や学生層の支持に支えられ、現内閣の看板になりつつある。
 勝因は間違いなくメディア戦略だ、と宇多田は思う。
 とにかく――この青桐という男は、おしげもなくブラウン管に、その姿をさらしてくれるのである。
 若者向けの討論番組に積極的に出演し、わかり易く――なおかつ切れ味のよい持論を展開し、すっかり、成人予備軍。つまり選挙人資格者予備軍の心を掴んでしまっている。
 主婦向けのワイドショーにも出演する。そのスタイルが、時にタートルネックにジャケット、ジーンズ姿だったりと――、まぁ、視聴者サービスに余念がないのだ。
 身長百七十九、痩身でたるみのない身体は、確かに年齢より相当若く見える。切れ長の涼しげな眼に、薄く形良い唇。
 しかも、独身。
「何故、今の時期――、その疑問は、誰しも思われるでしょうし、また、誰しも、その理由を、内心ではご理解いただいているのではないかと思います」
 そして、従来の閣僚が、曖昧に濁すようなこともはっきりと口にする。
「現在、わが国最大の同盟国、アメリカ合衆国と欧州連合が、非常に微妙な関係にあることは、ご周知のことだと思います」
「再び、台湾有事の再来のようなことが――起きると思われているのですか」
「未来のことなど、誰にも予測できませんよ」
 青桐は苦笑する。
「自衛隊の役目は、その発足以来貫徹しております。専守防衛、本土防衛――我々は、そのために全力を尽くしているにすぎません」
「クルーの大半は、台湾有事時に、初代オデッセイに搭乗していた方々ですね。その理由をお願いします」
「効率的な人事配置です。彼らは間違いなく、即戦力で――私が求めているのもそれなので」
「戦争終結前、ミサイルを前に逃亡した隊員と、一部では批判がなされていますが」
「何故批判が出るのか、わかりかねますが」
 青桐は指で前髪をわずかに払って、困ったような笑みを浮かべた。
「乗組員の目的は、ミサイルを防衛することであり、無駄に殉職することではないでしょう」
 柔らかい口調だが、断固とした意思が感じられる声でもあった。
「初代オデッセイは、見事にその役割を果たしました。なぜなら、あれに搭載された防衛システムでは、端から百パーセントの防衛を想定してはいなかったからです」
―――そこまで言うか、
 宇多田は、その刹那、ぞくっと身震いが走るのを感じた。
「確立的には七割程度――それを、九割まで高めたのは、当時のオペレーションクルーたちです。オデッセイの役割は、首都の盾となって最初のミサイル攻撃の目標となること」
 ざわっと記者席にどよめきが広がる。
「彼らは、――― 一人の死者も出さずに、その目的を見事に貫徹したと思います。当時のクルーには、先駆者として、後輩の指導にあたってほしい。無論、再起動されるオデッセイ−eは、ミサイル防衛の精度では、前回のものと比べものにならないですが」
 言葉をきって、記者たちを見回す。その自信に満ちた眼差しに、口を挟める者は誰もいなかった。
「それでも、完璧なミサイル防衛システムは――この世界には存在しないとだけ言っておきましょう。そうである限り、天の要塞は、常に身体を張ってわが国を守る。そういう存在であることだけは、忘れないでいただきたい」


                  七


「あまり、勝手なことを言われては困るよ」
 入室してすぐに、渋面のまま口を開いた男に、青桐は立ち上がって頭を下げた。
「申し訳ありません。どうも――私は、物事を誤魔化すのが苦手のようでして」
「その率直な人柄が、受けている内はいいがね、政治家向きじゃないよ、青桐君」
 ばさっと新聞が、応接用のテーブルに投げられる。
 そのままソファに、横柄な態度で腰を下ろした男――防衛庁、政務次官、阿蘇洋二郎。
 今年いっぱいで定年退職することが決まっているが、現時点では、防衛庁の人事の全てを実質的に握っている男である。
「……世論調査ですか」
 青桐は眼をすがめ、うっすらと微笑した。
「首相は大喜びだ。戦後、何かと批判の矢面にたたされていたオデッセイ計画で――初めて賛成が5割を超えた」
「世相の不安を、国民も敏感に感じているのでしょうね」
 謙虚に答える男を、阿蘇は舐めるような目で見上げた。そして、ふいに相好を崩して薄い額をのけぞらし、ソファに深くもたれかかった。
「目立つ存在は、時に足元をすくわれるものだよ、青桐君」
「肝に銘じておきます」
「以前も、君のように、人を食ったような眼をした女が一人いたがね……今はどうしているものやら」
「…………」
 それには答えず、青桐は新聞を拾い上げる。
「まぁ、気をつけたまえ、人気というものは、時にシフォンのように、唐突にしぼんでいくものだ」
「ご忠告、ありがとうございます」
「オデッセイのクルーにしても、だ」
 立ち上がりながら、阿蘇は眉間を寄せ、嫌悪を露わにした。
「君の方針を首相が認めたのなら、私があれこれ言うことはないがね。しかし、パイロット連中だけならともかく、オペレーションクルーへの口出しはやめてもらおう」
 背後で電話が鳴っている。青桐は視線だけを電話に向け、丁寧に阿蘇に一礼した。
「君は私が育てた政治家だ。それを忘れてもらっては困るよ」
「お言葉の通りに」
 頭を下げたままそう言うと、そのまま阿蘇はきびすを返して退室した。
 扉が閉まるのを見計らい、青桐は身を翻して電話を受ける。
「ああ、君か、……そうか、彼は行くと決めたのか」
 コードに指を当て、青く澄んだ空に視線を向けた。
「さぁね、……後は運次第だろう。そう、この件に関しては計算外だ。さしもの私もお手上げなのでね、後はNAVIがどう出るか、だな」
 綺麗な空だった。久しぶりに、こんな空を見たような気がする。
 絶対に起こらない奇跡でも、あっさりと起きそうなほど、今日の空は輝いて見えた。
「判っている、ああ、約束は守るよ、それから」
 トントン、と扉がノックされている。
 青桐は忙しく視線を向けて、そして電話を持ち直した。
「何かあれば、今後は前言った男と連絡を取ってくれ、使える男だ――そう、桐谷という。もう、私に、直接連絡を取るのは危険だからな」
 電話を切る。これが、―――最後の綱だった。
「長官、今、細川法務大臣からファクシミリが届きました」
 扉が開き、秘書の女性が顔を出す。
「見せてくれ」
 朝から、ずっと待っていたものだった。
「政務次官とのお話が耳に入りましたけど……オデッセイの、クルーのことで」
「ああ、今は彼の言うことに従っておくさ」
 文面を眼で辿る。
 自然に――微笑が、唇に滲み出ていた。
「そんなに嬉しいことですか。初めて見ました。長官のそんな表情」
「たいしたことじゃない」
 その文面の、一言一句に眼を通しながら、青桐は微笑した。
「先進国では当然のように保障されている人権が、日本でもようやく守られる目処がたっただけだよ……レオナルド会長が、最後の後押しをしてくれたらしい」
「え……?」
「いや、独り言だ。仕事に戻っていいよ」
 やるべきことは全てやった。
 投げられる賽は、全て投げた。
 青桐は、眼をすがめ、青く翳る空をじっと見上げた。
―――帰って来い、奏さん。
 君の居場所は私が守る。
 だから帰って来い、
 帰ってきてくれ、――そして。
 そして、贖わせてくれ、私の罪を。
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