三
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一瞬、頭の中が、真っ白になっていた。
―――は……?
こいつは、何か……性質の悪い冗談か、それとも何かの聞き違いなのか?
男は、そんな蓮見を上目遣いに見上げ、にやにやと楽しそうに笑っている。
「彼女とは、夜の相性がいまいちで」
そして男は、冗談でも言っているような気楽な口調で続けた。
「実は離婚を考えているんですよ。魅力的な女だが、今となっては邪魔なだけの存在になりまして」
「…………」
なんの話だ?
「正直、日本女性に魅力を感じたことはなかったのですが」
そこでふっと言葉を切った男は、髪に指を差し入れ、何かを思い出すような眼差しになる。その動作のひとつひとつを、蓮見は――茫然と、ただ無意味に見続けていた。
「彼女は特別でした。美人で……頭がいい、そして強気だ。非常にセクシャルな興味をそそられた。これは男なら必ず持つ、征服欲というやつですよ、蓮見さん」
「……………」
「初めて彼女を抱いた時は、感激でしたね。相当抵抗されましたが、その分楽しませてもらえましたから」
「……………」
「言い忘れましたがね、僕らは恋愛で結ばれたわけではない。互いの利害の一致とでも言うのかな……まぁ、あれだけの女の身体を自由にできるんだ、僕に否やはありませんでしたけど」
テーブルが倒れ、コーヒーカップが床ではじけた。
「きゃーっ」店内で悲鳴があがり、店員が慌てて駆け寄ってくる。
「……だから最初に言ったでしょう」
男は血の滲む唇に、それでも笑みを浮かべながら起き上がった。
「あなたに拳銃の携帯の有無を聞いたのは、このためですよ。まいったな、話はまだこれからなのに」
「ふざけんな」
蓮見は――身体を起こしかけた男に掴みかかろうとした。
「お客様、警察を呼びますよ!」
「うるせぇ、それなら間に合ってる」
警察手帳を取り出して床に叩きつける。
「レディが見ている、それでもまだ続きをやりますか、蓮見さん」
じっと見上げている青い双眸。
蓮見ははっとして拳を止めた。小雪のことを、すっかり忘れてしまっていた。
店内の人間の殆んどが、遠巻きに二人の騒ぎを見守っている。多分――その中には小雪もいる。
男は優雅に立ち上がり、ぱんぱんと膝のほこりを手で払った。
「……右京は今、どこにいる」
はじめて生々しい実感を持って、蓮見は、嵐の言った言葉を思い出していた。
(――僕が感じるに、右京さんは酷い目にあってるような気がします。)
(――僕は感じたんだ、絶望と……そして、)
「言え、―――あいつは何処にいるんだ!」
「……あなたの、決して手の届かないところに」
男は、襟首をつかまれたまま、どこか曖昧な笑みを浮かべた。
「右京は……てめぇみたいな、」
そんなに簡単に、―――そんな女じゃ。
「彼女は強い、でも、万能なわけじゃない」
「右京が――てめぇなんかに、」
「無論、僕一人では無理でしたよ」
男はなんでもないように呟いた。その意味が、上手く咀嚼できないまま、蓮見は茫然と立ちすくんだ。
「残酷な話ですが、僕らには彼女に、何が何でも受精させる必要があったので」
「…………」
それは。
それは――どういう。
「彼女に……何ができたと思います」
男は、憐れむような口調になった。
「身体中のいたるところにメスを入れられ、殆んど薬で寝たきりだったあのかわいそうな日本人に、人種の違う女性に尊厳の欠片さえもてない連中が大勢でよってたかって」
「…………」
「一体どんな抵抗ができたと思いますか?」
「………やめてくれ」
蓮見は、男から手を離した。眩暈がした。
「幸いなことは、やがて彼女もその環境に馴染んだということですがね。あの人はね、自分が――右京奏という存在であることを」
「もういい、聞きたくない」
「人間であることを放棄したんです。もうあの人は、あなたの顔さえ識別できない、ただの」
「やめろ、」
「セックスの奴隷」
「やめろっつってんだろ!」
渾身の力で椅子を押しのけ、それが壁に当たって鈍い音を立てる。
「お客様!」
店員の悲鳴。
男はにっこりと笑い、背後の彼らに手を振った。
「大丈夫。ささいな喧嘩です。ソーリー、ソーリー」
そして、拳を震わせたまま動けない蓮見の傍に膝をつき、倒れたテーブルを片付け始める。
「そんな女に、あなたはまだ未練がありますか、蓮見さん」
膝をついた男から、囁くような声が聞こえた。
「自分の人生と引き換えにしてまで、会いたいという意志がありますか」
―――え……?
思わず、男の背中に目を向けていた。
「方法はたったのひとつで、それを逃すとあなたにも彼女にも、多分永遠にチャンスはない」
「………ひとつ…?」
「そして、会えたとしても、すぐに別れが待っている、今度は間違いない、永遠のお別れがね」
「…………どういう、意味だよ……」
男は、ゆるやかな所作で蓮見の腕を振り解いた。
「今夜の便で、僕は本国に帰ります。空港まで見送りに来てもらえれば、再会に必要なチケットをお渡しますよ」
そう言ってポケットから取り出したのは、先ほど男が見せた、この店のポストカードだった。
「時間と場所はここに」
それを蓮見のポケットに滑らせながら、男はかすかに目をすがめた。
「くれぐれも、拳銃は持ってこないでくださいね。入管への通報もごめんです。僕が死ねば、多分そこで全てが終わる、ジ・エンドです」
―――こいつ……。
瞬きさえ忘れ、蓮見は男を凝視した。
「それから、あなたと僕は、そこで会うのが初めてということになる。あなたは僕を職務質問でもするつもりで、やや強引にどこかに引っ張っていってください」
それだけ言い捨て、男はサングラスで眼を覆った。
「多少は抵抗しますが、それも芝居です。あなたも刑事らしく、かっこよく凄んでくださいよ」
照明が反射したサングラスが、男の表情を隠している。
判らない、右京にとって――こいつは敵なのか、味方なのか。
「何が目的だ、……何を狙ってる」
「……なにもかも、再会した時に」
男は薄く微笑した。
「ただ、私なら、そんな誘いにはのりませんがね。汚された挙句頭のネジが緩んだ女に、人生を賭ける価値なんてないでしょう」
もう一度拳を振り上げかけていた。
「黎君!」
小雪の声が、はっと理性を呼び戻す。
男は蓮見の肩を抱き、そして耳元で小さく囁いた。
「……チケットは渡します。でも受け取れば、多分あなたは後戻りできない」
――――どういう、意味だ……?
「それは片道切符で、あなたの人生がその先どうなるかは僕には全く判らない。そして間違いなく言えるのは」
「…………」
「あなたが彼女と会ったとしても、何も意味がない。何一つ、何も状況に変化はないということです」
手を離し、男はようやく最初と同じ――優しげな笑みを浮かべた。
「それでも彼女に会いたいなら、……その覚悟があるのなら、今夜、もう一度会いましょう、ハンサムなお巡りさん」
・
・
四
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「黎君、」
玄関を開けると、すぐにエプロン姿の小雪が飛び出してきた。
「おかえり、よかった、案外早く帰れたんだ」
「………ああ」
玄関には見慣れない靴が並んでいる。島根から上京してきた、小雪の両親のものである。
部屋の中は、暖かな家庭の香りに満ちていた。
「今ね、すき焼きの用意してたとこ、うちのお母さんの特製タレだから、いつもより上手く出来てるわよ」
「……悪かったな、外で食うつもりだったのに」
「いいよ、仕事なら仕方ないもん」
蓮見が急に「用事ができた」と言ったことを、小雪は今日の午前、店内で騒ぎを起こした外国人と――何か関わりがあることだと、そう察しているようだった。ただし、あくまで警官としての職務のうちだと、そう思っているらしい。
普段から、仕事の内容に決してクビをつっこまない女は、それ以上何も聞こうとはしない。
「黎君、おかえりなさい、お仕事お疲れ様ですねぇ」
リビングに入る前に、そんな優しい声がかかってくる。
「すいません、……せっかく来ていただいたのに、失礼しまして」
キッチンに立つ小雪の母――蓮見にとっては叔父の妻にあたる女に、そう言って頭を下げた。
「まぁ、男は仕事第一だ、そんなことでいちいち謝らなくていい、黎人」
テーブルにつき、新聞に眼を落としていた男が顔を上げる。
叔父の正信。
郷里で学習塾を経営していて、両親が共働きだった蓮見は、子供の頃、その塾に殆んど預けられるようにして育てられた。
長身強面で、生徒からは赤鬼と呼ばれて恐れられていた男である。蓮見は――子供の頃、この叔父が大の苦手で、正直今でも頭が上がらない。
「予約取り消して正解よ、こうやってみんなでご飯食べる方が美味しいもん」
母親と並んでキッチンに立つ小雪が楽しそうに言う。
「小雪、お皿、そろそろ並べて」
「うん、黎君、お父さん、ビール飲むでしょ」
蓮見は無言で壁に掛けてある時計を見上げた。午後九時少し前、こんな時間まで――彼らは、食事の時間をずらして、待っていてくれていたに違いない。
「黎君、この子、ちゃんと料理作ってますか?」
「もう、だから作ってるって言ってるじゃない」
「なんだかんだ言って、ただで居候してるようなものなんだ、家事くらいはちゃんとしろよ」
「だから、してるって」
彼らの家族仲がいいことは、郷里時代からよく知っていた。
蓮見は立ったまま――暖かで穏やかな、あるべき家庭の姿を見つめていた。
テーブルの上にコンロが置かれ、鎮座した鍋が、ぐつぐつと美味しそうな音をたてている。
「ねぇ、黎君、なんとか言ってよ、私、いい奥さんやってるよね」
「………ちょっと小雪、黎君困ってるじゃないの」
ひどいなぁ。
笑顔がこちらに向けられる。
「……黎君?」
大きな眼が、不思議そうな瞬きを繰り返す。
「黎人、どうした、そんなところに立ったままで」
叔父が、眉を寄せて立ち上がる。
蓮見は――何を口にしていいか判らなかった。
お、そうだ。と、叔父が、何かを思い出したような目になった。
「忘れない内に、先に渡しておこうか、頼まれていた戸籍抄本だが」
大きな背中がかがみこみ、傍らにおいた旅行鞄から、B4サイズの封筒を取り出す。
「しかし、本当にいいのかね、入籍をそんなに簡単に……まだ式までには間があるのに」
「だからいいんですよ、お父さんは古いんだから……、気にしないでいいんですよ、黎君、二人のいいようにすればいいんだから」
母親が、皿を重ねた盆を持ってテーブルに戻ってくる。
蓮見は、叔父の傍らに歩み寄り、その封筒を受け取った。
(―――彼女はね、蓮見さん)
頭の中には、先ほど空港で聞いた話が、悪夢のように渦を巻いている。
(―――もう、人であることを放棄してしまったんです。彼女をそこまで追い込んだのは、僕であり、あの研究所のメンバーであり、……そして、日本政府なんでしょうね)
「黎君……?」
は、と現実に引き戻される。
気がつけば、小雪が不安そうな眼差しで傍らに立っていた。
「……どうしたの?おかしいよ、さっきから」
「あ……ああ」
今、自分がどんな顔をしているのか、蓮見にはもう判らなかった。
自分がこれから――何をしようとしているか判らないでいるように。
(―――あなたが愛した女は、今では売春婦と代わらない)
(―――いや、それ以下の存在だな、意志さえもたずに誰にも抱かれる玩具のようなものだから)
「ねぇ、婚姻届、持ってるでしょ」
―――俺は、
「お父さんに、今書いてもらおうよ、保証人のとこ」
―――今まで、
「ねぇ、黎君?」
一体何を見てきたんだろう。
あれだけ判った気になっていながら、結局は何も――判っていなかったのだろうか。
あの女のことは、何も。
(―――僕があなたなら、行きませんよ)
(―――莫迦げてますよ、会ったところで、彼女にはあなたが判らない。あなたという個が、彼女にはもう認識できない――多分、永遠にね)
考えろ。
―――何を?
蓮見は自分に自問する。流れるように空回りしていく思考。
嵐の言ったことだ。
嵐は――あいつは、何を言っていたんだっけ。
「……婚姻……届だけど」
小雪の不安気な声がする。
蓮見ははじかれたように顔を上げた。そして、呟く。
「……チケット……」
空港で、男が最後に渡してくれたもの。
「ねぇ、どうしたの、絶対へんだよ、何があったの?」
「小雪、黎人は疲れてるんじゃないか、話は後でもいいじゃないか」
「さ、とにかく席についてちょうだいな」
黎君、座って。
背中を柔らかく押されて――促される。
暖かな食卓。平凡な幸せ。
蓮見はゆっくりと、自分を取り囲む人々の顔を見回した。
このまま年を取って、毎朝、同じ女の顔を見て目覚める。悪くはない未来。やがて子供もできるだろう。笑いの絶えない家庭――とまではいかないだろうが、そこそこ幸せにはなれる気がする。
自分を信頼して、一人娘を託そうとしている夫婦。
自分一人を頼って、信じて、この東京で生活している女。
「……名前は、」
蓮見は呟いた。
自然に口が開いていた。考えるより先に、言葉が溢れ出てしまった。
「……婚姻届……、名前は、もう……書いてあるんで」
「え、そうなの」
小雪が吃驚したような眼を向ける。
蓮見は、内ポケットから折りたたんだ用紙を取り出して、椅子に座っている叔父に渡した。
もう、歯車は動き出してしまった。
たったひとつの終局に向けて。