五
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「ぶっ、ま、マジかよ、それ」
思わず、飲みかけたコーヒーを吹き出しかけていた。
対面のソファに座っている男は、その反応を見てあきれたように眉を上げる。
「まぁ、僕も驚いた、人体の神秘だ、まさかあの女が、妊娠するとは夢にも思っていなかった」
「そりゃあ……」
真宮嵐は、唖然としたまま、飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置いた。
「ドロシーも女だったわけだ、相手は同じ研究所の職員で、普通の人間だ。……まぁ、ババを引いたようなもんだな、僕に言わせれば」
昨日――成田空港で、中年女性にきゃーきゃー言われながら、手を振っていた男―――レオナルド・ガウディは、珍しく渋面を浮かべて眉の端をこりこりと掻く。
素っ気無い言い方をしているものの、その実――子供の頃からの幼馴染、NAVIの共同創設者でもあるドロシー・ライアンの結婚に、寂しさを感じているのだろう。その真情がよく判り、嵐は思わず苦笑していた。
「ま、なんにしてもおめでとうと言わせてもらうよ」
「僕に言ってどうする、なんだかショックだ、ハニーだけでなく、ドロシーまで、僕の傍を離れていくなんて」
―――ハニー……。
それが、嵐の、血の繋がらない兄――楓のことを指しているのは明らかだった。
さすがにその表現には失笑がもれるものの、内心穏やかではない嵐なのである。
「……普通の人間なんて何処がいい、僕には理解できないよ、自分より頭の悪い配偶者なんて」
「自分より頭の良すぎる配偶者も、嫌なもんじゃないのかな」
「…………」
それには無言で、レオは背後のソファに背を預けた。
都内にある、VIP御用達の高級ホテル。その最上階のスィートである。
一人で泊まるのはどうか……というくらい広い空間、嵐が普段使っているベッドの三倍はあろうかという真紅のソファに、レオは当然のように手足を伸ばしてくつろいでいる。
風呂上りなのか、純白のローブを素肌に羽織り、陶器を思わすような白い肌は、ほんのりと薄赤く染まっていた。
「みんなハッピーで幸せだ……そして僕は、孤独だよ、何のために生きてるのか、なんだか判らなくなってきた」
「何言ってんだよ」
「嵐、お前だってNAVIに入らないと言う……いいさいいさ、嫌われ者は僕一人だ」
子供のようにぐずぐずと言う。
レオとはこういう男なのだ。人前では必要以上に気取っているくせに、その実ロマンチストで、子供じみた癖が抜け切らない。そのチャーミングさが、彼の魅力であり、何をしても憎めない所でもある。
が――。それでもレオは、やるべきことは、断固としてやり遂げる男だ。その強靭な精神力は、とても嵐には真似できない。
「……NAVIに入らなくてもいい、でも、これからどうするつもりなんだ、嵐」
ルームサービスで頼んだワインをクーラーから持ち上げ、レオは器用にコルクを外した。
「……さぁね、色々……考え中。アジアをあちこち、回ってみようかと思ってる」
「……ま、それでいいかもな、お前たちは」
何故か曖昧に微笑すると、レオは二つのグラスに、赤い液体を注ぎ分けた。
「いいよ、車だって言ったろ」
「泊まってけよ。間違っても襲ったりしないから」
「ばっ……誰が、そんな莫迦な心配」
苦笑しながら、嵐は、この心地よい時間を楽しんでいた。
レオと会うのは、本当に久しぶりだ。いつからか、気がつけば疎遠になっていた。
嵐の方から避けていたのもあるし――同時に、レオも、明らかに自分と距離を置こうとしているのが判ったからだ。そしてその理由を、嵐は嵐なりに理解しているつもりだった。
「……ここに来るまでに、三回もボディチェックを受けたよ。ものものしい警備だね」
薄く開いたカーテンの向こう――灯りの消えた街並を見ながら嵐は呟いた。粉雪が舞っている。この雪が、クリスマスまで持てばいいな、とふと思う。
「カリスマアイドルと呼んでくれ、熱狂的なファンに、二度も命を狙われかけたんでね」
レオは軽く肩をすくめる。
「気がつけば、かつての友達は超重要人物になってたってことか。……レオ、君は、一体何者になろうとしているんだ」
「嵐には理解できてるはずだよ」
レオはなんでもないことのように言い、グラスの縁に唇をつけた。
嵐は眉をひそめ、その横に腰を下ろす。
「確かに、マイノリティーであるベクターには、何らかの後ろ盾が必要だ、でも君のやってることは、ベクターの才能を利用した、単なるビジネスとも言えるんじゃないか」
「そう思っている連中は確かにいる。だから僕は、ベクターにも在来種にも同じように嫌われているんだろ」
レオは薄く笑って立ち上がり、カーテンを勢いよく引いた。
「ほっ、ビューティフル、いいねぇ、日本は叙情豊かで」
「レオ、話を逸らすなよ」
「……嵐は、僕に巻き込まれない、僕は嵐を巻き込まない……それでいいじゃないか、そして、それ以上干渉するな」
口調は冗談でも言うような優しさがあったが、その横顔は厳しかった。
「僕がしなくても、遅かれ早かれ、ベクターの才能はビジネス面で悪用される。もう、その時代は始まってるんだ。NAVIは所属ベクターを管理する。そして、NAVIの許可なくては、誰もベクターを自由に雇用することはできない、僕が目指しているのはそういうシステムさ」
「それが今、」
嵐は、わずかに苛立った声を上げた。
「政治的に利用されているのを、君はどう思ってるんだ。ベクターの亡命を巡って、各国が緊張状態にあるのをどう思ってるんだ。君が、米国に流れてきた世界中のベクターを管理している。それはつまり――君の意志ひとつで」
「世界地図は簡単に書き変わるだろうね」
レオはあっさりとそう言った。
「それもベクターを迫害してきた在来種のツケのようなものだ。迷える子羊は僕という拠所にすがっている。僕は彼らに、手を差し伸べているだけだよ」
「レオ……その考えは、危険だ」
嵐は、嘆息しながら呟いた。
「僕らは、同じ地球に共存している、それを忘れたところに、進化なんて絶対にない」
「ナンセンス」
降り返る――ガラス玉のような冷たいまなざし。
「在来種と新生種。僕らの同胞は、誰しもこの共存を不愉快に感じている。そうだろう?」
「……レオ、」
「ひとつの餌場に、二つの異なる種が共存している。争うのが種の本能だ。それは誰にも止められないさ」
「レオ、それは」
「悪いが僕は、君のお父さんの、共存的進化論を、全く信じてはいないのでね」
それがレオの――本性であることを、嵐はよく知っている。彼の心の中には、まだ――先の戦争時、徹底的に同胞を迫害した、在来種へのわだかまりが抜け切ってはいないのだ。
その危険な思想に同調できないからこそ、楓は、嵐のNAVI入りに反対していたのだろうし、―――嵐自身、レオと距離を置くべきだと思った理由でもある。
「僕は、その争いの中で、僕らの同胞を守ろうとしているだけだ。金はいくらでも必要だ。そのためなら僕は、西にも北にも優秀なベクターを送り込む。やがて在来種どもが気づいた時、もう、NAVIという牙城は、世界中のどの国家にも従属しない――完全なる中立、独立国として、括弧たる地位を築いていることになる」
ベクターのカリスマと言われた男は、凛とした口調でそう言うと、真顔になって嵐を見上げた。
「どういう理由であれ、僕のすることに口を挟む奴は許さない。それが嵐、お前でもだ」
「…………」
嵐は黙った。自分の背後から――音もなく大きな波が押し寄せて、そしてあっさりと通り過ぎていくような――そんな感覚を覚えていた。
これが時代の流れなら、もう、自分には――見守ることしかできないのかもしれない。
「何も言わない、でも、忘れないでくれ」
窓越しに降りしきる雪を見ながら、嵐は低く呟いた。「何をだ」ガラスに映る男が、微かに眉をしかめるのが見える。
「僕は君の、……友達だってことをさ」
「……は、」
ようやく、美貌の男は破顔した。緊張の糸が解けたように笑うと、そのままおどけたようにソファに倒れこんだ。
「完璧な僕にも、実はひとつだけ、先の見えない不安要素がある」
そして、ふざけた口調で言うと、首をかしげて嵐のいる方を見た。
「なんだよ、」
「君さ……君と楓、そして後二人、例の四体のトランスジェニックヒューマンの存在だ」
「…………」
「君らの存在が……今後、どう世界に絡んでくるのか……それによって、僕の描く絵も、大きく変わってくるんだろうな」
「………変わるって、」
戸惑って嵐は繰り返す。今となっては、何一つ通常のベクターと変わる事のない自分。特別の能力もなければ、特に変わったことができるわけでもない。
「君らの存在は――今の時点で、世界の均衡を守るキーだからさ」
「……キー?」
「ま、もう二度と、あんなおかしな光に変化しないことだ」
僕が言えるのはそれだけさ。
そう言って、男は一気にグラスをあおった。
「飲もうぜ、嵐、二人の失恋記念日だ」
「莫迦、お前と一緒にすんな」
それでも――数分後には、嵐もまた、芳醇な香りとアルコールに酔いしれていた。
冗談を交わしあいながら、嵐は何度か――TFを作り出したプロジェクトのことを、右京のことを、レオに聞いてみようかと逡巡した。
けれどまだ、その時期ではないと思い直した。今のレオに、右京のことを打ち明けるのは、少し危険な気がしたせいもある。
今のレオは、昔の彼とは少し違う。この件に――これ以上、NAVIを係わらせることは、賢明な選択ではないのかもしれない。何か調査に進展があれば、レオの方から話を切り出してくれるだろう。
「人はなんで結婚するんだ?」
そのレオは、酔いが回っているのか、無防備にへらへらと笑っている。
「知るかよ、一人じゃ寂しいからだろ」
「じゃあ、人はなんで争うんだ」
「……おい、酔ってんだろ、頼むから絡むなよ」
さすがに辟易して止めようとしても、レオは仰向けに倒れ、嵐の膝に頭を乗せる。
「教えてやるよ、互いの存在が邪魔だからさ、自分と違う存在が、ただただ目障りだからさ」
「話せば分かり合えるじゃないか」
「あははは、お前らしいよ、嵐」
ひとしきり笑って、レオはそのまま目を閉じた。
唇を閉じて――動かなくなる。
「おい……このまんま寝るなよ、おい」
「寝てないよ」
薄く目を開ける。その眼が――まるで氷のような冷ややかさを持っていたので、嵐は思わず言葉を無くしていた。
「人類は、地球という宿主に救ったウィルスだ……昔からよく言われている例えだが」
「宇宙規模で考えたら、そういう見方もできるんだろうね」
「ウィルスは増殖して、宿主を殺す。エボラやコレラ、出血性大腸菌、新型のインフルエンザ。殺傷能力にすぐれたウィルスは、この地上にいくらでもある。……でも、知ってるか、宿主を殺すようなウィルスは、真に優秀なウィルスじゃない」
「……だな」
「真に優秀なウィルスとは、宿主を殺すことなく共存していくウィルスだ。宿主が死ねばウィルスも生きてはいられない。つまり、宿主を殺すウィルスは――自ら自殺行為をしているのも同然なんだ。だから凶悪なウィルスどもは一定以上繁殖しない、やがて、ワクチンが作られ、徹底的に狩り尽される。かつての結核菌や種痘のように」
「…………」
嵐は眉をひそめていた。むろん、その理屈は知っていた。この地球には、はるか古代から大量のウィルスが生息している。そして人は、何億という時間をかけて、そのウィルスに耐性を持つ身体を作り上げた。長い時間をかけ、ウィルスと共存することに成功したのである。
新型インフルエンザなど、人が耐性を持たないウィルスが出現すると、信じられないほど沢山の人間が死に至るのはそのためだ。やがて過渡期を経て――人も、ウィルスも、都合よく共存することを覚えるまでは、新型ウィルスは常に人を殺し、人はその都度、目に見えない敵との戦いを強いられる。
「……その度に、人は勝つ……いや、いつまで勝ち続けられるか判らないが」
レオは、囁くように呟いた。
「それが人の身体の持つ、自己防衛本能だ、人は――自然に身体を変化させ、環境に適応させていく」
「レオ……何が言いたいんだよ」
それには答えず、レオは再び眼を閉じた。その唇が、薄っすらと笑っている。
「……在来種と……ベクターが争うとして」
ふいに言い知れない不安を感じ、嵐は呟いていた。
「レオ、君は一体……どっちが勝つと思ってるんだ」
「だから言ったじゃないか」
眼を閉じたまま、レオは言った。笑うような声だった。
「勝つのは宿主なんだ……僕らじゃない」
―――レオ……?
「地球だよ」
その言葉には、言外の意味が含まれているような気がした。
漠然とその意味を理解し、嵐は何も言えなくなった。レオは眼を閉じたまま、そして微かに笑った気がした。
「嵐、……お前に、話しておきたいことがある」
「え……?」
「色々迷いはしたが、お前だけは知っておくべきだろう。間違ってもハニーには漏らすなよ、―――右京奏という女性のことだ」