三



「もう、いい加減、帰りませんか」
 10杯目の珈琲――無料のおかわりを注文した女に、遥泉はうんざりして声を掛けた。
 いくら若いとはいえ、この子の胃はどうなっているんだろう。
 自分なら、とっくに胃痛でどうにかなっているだろう。
「え、まだ二時ですよ」
 国府田ひなのは、真から意外そうな眼差しになる。
「……いえ、もう二時です」
 正確には二時三十七分。遥泉は腕時計に目を落としながらそう言った。
 深夜のファミレス。こういったところは仕事柄時々立ち寄るが、プライベートで足を運んだのは初めてだ。
 周辺には若者客やカップル客が賑やかに談笑しており、時計さえ見なければ、今がこんな非常識な時間だとは思いもよらない。
「だって、明日お休みなのに、もったいないじゃないですか」
 と、ひなのは――夕方から、一緒に過ごしている女は悪びれずににっこりと笑う。
 延々と、途切れる事ないおしゃべりを聞くのは、さほど退屈ではないものの、社会人でもある自分が、10も年下の女子大生をこんな時間まで引きずりまわしていると思われるのは本意ではない。
―――実際は、逆なのだから。
 が、今日だけは、―――遥泉の意志で、国府田に同行してもらったのかもしれない。
「……遥泉さんが、笑ってくれたら、帰ってもいいですよ」
「はっ?」
 ぼんやりと外を見ていると、ふいに女が楽しげにそう言った。
「今夜はずっと、憂鬱そうな顔をしていますよ。そんなに辛かったですか、蓮見さんの婚約者にお会いしたのが」
「……………」
「ひなのは、それでよかったと思いますよ。……多分、二番目くらいに嫌な役回りだけど、それをやった遥泉さん、素敵だったと思います」
「なんですか、それは」
 初めて苦い笑みが漏れた。
「今でも、どうかと思いますよ……蓮見さんに言わずに、……あの、無関係な女性に打ち明けたことが、果たしてよかったのか、悪かったのか」
「いいんじゃないですか」
 ひなのはあっさり頷くと、運ばれてきた珈琲に唇をつけた。
「小雪さんが蓮見さんに言わなければ、それまでのことだと思いますよ。蓮見さんがどう動くか判らないですし……実際、」
 はじめて眉をくもらせ、ひなのは言葉を詰まらせた。
「右京さんがどういった状況にあるのか、正確には誰にも知りようがないんです。ご結婚のことは驚きましたけど……」
 遥泉もまた、眉をひそめて押し黙った。
 全てを打ち明けたわけではないが、ペンタゴンに右京の居場所の鍵があると睨んでいたこの女は――おそらく右京の身に起きている何かを、敏感に感じ取っていたに違いない。
(―――右京さんは今、コールドスプリングハーバーの、州立研究所にいます。)
 その事実を――。
(―――微生物危険レベル4。右京さんは、未知のウィルスに感染した疑いを持たれているんです。)
 伝えるべきかどうか。
 あの人をずっと思い続けていた男に、伝えるべきかどうか。
 ひなのの掴みえたことが事実であるなら、それは結婚よりも残酷な結末だった。微生物危険レベル4とは、最悪のウィルスに感染したことを意味している。エボラ出血熱、マールブルグ、史死亡率8割以上、地上にワクチンの存在しない死のウィルス。
 会うことはおろか、連絡すら取れない理由も、そうであれば腑に落ちる。
 多分――どんな手段を講じても、この先、右京と面会することはは叶わないだろう。こういった封じ込めがなされている施設に入るには、実に何重もの許可がいるし、出国前にありとあらゆる予防接種を受けなければならない。そして、どんな理由があったとしても、実質、法的な後ろ盾でもない限り、面会の許可は絶対に降りないだろう。
 ウィルスに感染したというのが、真実であるか否かは、この際問題ではない。問題は――そう言う状況下に右京が閉じ込められているということなのだ。
 自分にはどうにもできない――多分、蓮見にしても同じことだ。
(……彼に、昔好きだった人がいることは、聞いてましたけど)
 話を聞き終えた後、大きな目をした綺麗な女性は、困ったような笑みを浮かべた。
 無論、全てを打ち明けられるはずもなく、遥泉が伝えたのは、右京奏という女性が――現在、自らの意志ではどうにもならない環境下に置かれ、そこに、何らかの国家レベルの機密がからんでいるかもしれない――ということだけだった。結婚という既成事実でさえ、真実とは異なるかもしれないという――その可能性をほのめかしただけだった。
(私、どうすればいいんでしょう。それを彼に話すべきでしょうか)
―――少なくとも、僕には話せませんでした。
 彼女の問いに、遥泉には、そう言うことしか出来なかった。
―――ただ、僕一人が胸にしまっておく事でもないと、僕はそう思いました。
(……ずるいんですね、その選択を、私にしろって言うんですか)
 そういいながら、女の目には、笑いを滲ませたような温かさがあった。
(私、多分話ませんよ。……彼に話して、そして右京さんって方が助かるのなら、絶対に隠したりはしませんけど)
(……彼が苦しむだけだって、それがわかってますから。だって、どうにもならないじゃないですか)
 その言葉は、多分――彼女自身に言い聞かせているように、遥泉には聞こえた。
(……彼はただの警察官で、……一人でそんな、大きなものに立ち向かっていくなんて不可能です。そうでしょう、遥泉さん)
 遥泉は黙っていた。自分の無力さと、蓮見に無断でこんなことをしてしまった悔恨で――何ひとつ口にすることができなかった。
「遥泉さん!」
 華やいだ声で、遥泉ははっと顔を上げた。
「ね、気がつきました?雪ですよ、外、結構大雪みたいです」
「え……?」
 顔を上げる。スモークガラスの向こう、アーケードがある歩道の向こうに、白い砂塵のような粉雪が舞っていた。
「わー、いよいよ帰れなくなりましたねぇ、このままお泊りしちゃいましょうか」
「あのですねぇ……」
 溜息をつきながら、レシートを手に取った。珈琲二人分。たったこれだけの料金で四時間以上ねばったのだから、店にしてみれば相当迷惑な客だろう。
「ねえ、遥泉さん、……もう、右京さんのことは、遥泉さんの手を離れたんだって、そうは思えないですか」
 その声に、立ち上がりかけた足を止めていた。
 多分、少し恐い顔になっていたのだろう、座ったままの女が、戸惑うようにうつむくのがわかる。
「……ううん、忘れろとか、無視しろとか、そういう意味で言ってるんじゃないんです。ひなのね、思うんです。何か――この世界には、大きな意思みたいなものが働いていて」
「…………」
「ひなのが、ペンタゴンのデータベースにアクセスできたのも、偶然っていうか……有り得ないラッキーだったんです。私たち、自分の意志で動いているつもりで、大きな流れの中で生かされているだけなのかもしれない」
「…………」
「右京さんのことは、なるようにしかならないと思います。ひなのが知ってしまった事、それを遥泉さんに話したこと、それを――蓮見さんの婚約者に話したこと。それが、全く意味のないことだとは、どうしても思えない」
「…………」
「あとは、大きな流れが――行き着く場所に、運んでくれるんだと思います。その中で、遥泉さんの役割はもう終わったんです。……結果として、蓮見さんと小雪さんが、ご自身の幸せを守られる道を選ばれたとしたら、……それが一番いいことなんだと思うし、あの二人の役割も、また、そこまでだったと思うんです」
「…………」
―――役目が、終わった。
 その言葉に、遥泉はぼんやりと――テーブルの上の珈琲カップに視線を落とした。
 僕の役目は……終わったのか。
「ごめんなさい、ひなの、日本語上手くないみたい」
 その表情から何かを感じとったのか、ひなのは申し訳なさそうに指先を唇に当てた。
「……上手く言えないですけど、ひなのはこう思うんです。蓮見さんと右京さんの絆が結ばれているのなら、周りの人たちが何をしようと――小雪さんが何をしようと、蓮見さんはきっと、右京さんの所へ行き着くはずだと思うんです」
「…………」
「尋常な手段では、右京さんを助け出すことはできないです。多分……誰がどう動いても、絶対に届かない所に、右京さんはいるから。……でも」
 ひなのはそこで顔を上げた。
 頭上の照明を受けた目が、燦と輝いている。
 初めて遥泉は、目の前に座る女性を、美しいと感じていた。
「……でも、絆があるなら、……それは、誰にも、どうやったって止める事なんてできないんです。ひなのは、そう信じてます」


                 四


「なんだ、あんたか……」
 桐谷徹は、手にした箸を置いて、傍らの煙草ケースに手を掛けた。
「意外な趣味だな、空自の猛者が、甘党だとは知らなかったよ」
 向かい合わせの席から、低い、穏やかな声がする。
「けっ、ほっとけよ、仕事の後のこいつが、今じゃ一番の楽しみなんだよ」
 桐谷は、カチカチとライターを鳴らしながら、そっぽを向く。嫌なところを見られたな、というのが正直な気持ちだった。
 四十前のいい男(自称)が、深夜の甘味屋で汁粉をすすっている姿は、まぁ、自分で言うのもなんだが、ぞっとするものだと思う。
「禁酒でもしているのかな。何を願掛けしているのか、まぁ、判らんでもないがね」
 男の声は、いつもながら素っ気無い。言葉尻は穏やかだが、どんな言葉も、冷たく冷え切って耳に届く。
 汁椀を押しやりながら、桐谷は所在無く頬杖をついた。
「で、何の用だよ、わざわざこんな所にまでおいでいただいて、皮肉を言って終わりじゃねぇだろ」
 さすがに、この男の前で、煙草を吸う気にはなれなかった。火を点けないそれを唇に鋏み、横を向いたままで低く呟いた。
「遥泉の身辺は押さえてるよ、勝手な動きはしてねぇはずだ」
「……数日前、ペンタゴンの極秘データに、日本国内からハッキングした人間がいる」
「…………」
「アクセス起点は歌舞伎町、韓国人用のネットカフェで、サングラスに野球帽をかぶった十代の若い女性が目撃されている。所要時間はわずか五分。その五分で、流暢な韓国語を話すその少女は、米国の頭脳が誇る鉄壁のガードを破り、追跡が始まるやいなや、全てのアクセス記録を消去して立ち去った。心当たりはあるかね。桐谷君」
「…………一人」
「その一人は、何故か当該時間、大学の講義に出席している……ま、見事なアリバイが成立しているわけだ、表向きはね」
「…………」
「君には引き続き――国内の余計な動きを封じ込めて欲しい。今はまだ、その時期ではない」
「その時期その時期って」
 髪に指をさしいれながら、桐谷は苛立った声を上げた。
「じゃあ、いつになれば、あんたの言う時期が来るんだ、え、俺はもううんざりだ、いつまでこんな、悪役やってなきゃなんねぇんだ」
「永久にだ、桐谷君、なぜなら、それが君の役割だから」
 男の声は冷たかった。
「上に立たなければ見えないものがある。出来ないことがある。君は上に行け、右京奏を捨て、昔の仲間を踏み台にして、徹底的に高みに登れ」
「…………」
「いつかそれが、大きな流れを支えることになる、私はそう信じている」
「…………」
 男は、それだけ言うと立ち上がった。
「ここの汁粉、結構上手いぜ」
「残念だが、甘味は医者に禁じられている」
 ガラっと、クラッシックな引き戸が引かれ、カップル客が入ってきたのはその時だった。
「わー、まだやってる、ラッキー」
「寒いよな、まさかこんなに降り出すとは思ってもみなかったよ」
「桐谷君」
 その声と、立ち上がった男の声が頭上から響くのが同時だった。
「……かねてから私がマークしていた例の人物が、日本に入国した形跡がある」
「…………」
「情報が入ったのが、つい数時間前のことだ。今、日本にはレオナルドガウディが来日している。あの莫迦騒ぎは知っているだろう」
「ああ、レオ様ブームってやつですか」
「もしかしたら、その男は、レオナルド氏と、何らかの接点を持つつもりかもしれない」
「……なんだって、また」
「さぁ、それしか彼が、この時期日本に入国する理由が思いつかないのでな」
 それだけ言い捨て、すらりと伸びた背がのれんをくぐっていくのを、桐谷はそのままの姿勢で、ぼんやりと見送った。
 つまり――レオナルドの身辺を張っておけと、そういうことなのだろう。
「……は、サラリーマンは辛いねぇ」
 ようやく火をつけた煙草を深く吸い込み、桐谷は鈍い照明に滲んでいく煙を見つめた。
「莫迦右京……絶対に、生きて、戻って来いよ」
 そうでなければ、今、自分がしていることの意味がまるでなくなる。
 風が強いのか、引き戸ががたがたと鳴っていた。
 その向こう――まだ、遠い先にある夜明けを、幻のような夜明けを、桐谷は目を眇めて見つめていた。

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