二
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「おかえりなさい……」
眠そうな声に、蓮見黎人は、上着を脱ぎかけていた手を止めて振り返った。
薄いすりガラスの仕切り戸が開いて、奥の――元々寝室代わりに使っていた部屋から、女が顔をのぞかせる。眠そうな目をこすりながら、あくびを噛み殺しているのがよく判る。
いつのまにか、その部屋の主になった女――子供の頃からよく知っていた年下の従兄妹。殆んどの人から、えっ、もう結婚されてたんですか、と必ず聞かれる同じ姓を持つ女。蓮見小雪。
「ああ、悪い、起こしたな」
深夜二時。音を立てないよう、気を使ったつもりだった。そのまま上着を脱ごうとすると背後に立って手伝ってくれる。
「何コレ、雪?外、雪が降ってんだ」
マフラーに残った小さな結晶、それを見て、子供のように女は笑う。
可愛いな、と思った。年下のくせに姉さんぶられるのは好きじゃないが、基本的には素直で可愛い女だと思う。
「ちょっと前からな、朝には積もってるんじゃないか」
「いやだなぁ、電車込みそう」
コートをハンガーに掛け、小雪は暖房のスイッチを入れてくれた。
「何か食べる?」
眠気が覚めたのか、ようやく声にも、動作にも張りが戻ってきている。
「いいよ、外で食ってきたし、お前はもう寝ろよ」
ネクタイを緩めながらそう言うと、腕に、柔らかい手が絡んできた。
「へへー、今夜は起きてようと思って寝ないで頑張ってた、黎君、残業ばっかだし、たまには話がしたいじゃない」
「うそつけ、目が思いっきりはれてるくせに」
「えっ、マジ??」
ばっと手を離し、背後に立てかけてある鏡に顔を向けている。淡いオレンジのパジャマに、長い髪。仄かなシャンプーの香りがした。
ふっと胸が痛くなるような――後悔にも似た何かを感じ、蓮見はそのまま目を逸らしていた。
「いいよ、無理すんなよ、明日も仕事なんだろ」
「そうなんだけど……」
「俺、明日は午後出だし、……ちょっと今夜は、仕事持って帰ってるから」
「ふぅん……」
小雪は、大きな目をすっと眇める。これも子供の時からのことだが、蓮見は――この女の前で、上手く嘘をつき通せたためしがない。
「ま、いいよ、その代わり、来週の約束、大丈夫?」
が、小雪はあっさりと追求の手を逸らしてくれた。
「ああ、親父さんとお袋さんが来るんだろ」
「うん……お父さん、一度黎君、殴っちゃったからねぇ」
ガスヒーターの前に座り、小雪は寒そうに手をこすり合わせた。
「今度はちゃんと謝りたいんだって、……うち、子供は娘の私だけだから、お父さん、本当は嬉しいのにね」
「嬉しいって何が」
手早くシャツを脱ぎ、そのまま浴室に向かいながら、そう聞くと、
「黎君が、息子になることがだよ」
あっさりと返ってくる。
―――俺、別にムコ養子に行くわけじゃ……。
そう思い、少し辟易しながら、ベルトを外す。まぁ、蓮見の場合、家業を継がないと決めた時点で、両親からは、勝手に生きろと絶縁されたも同然なので、マスオさんになると言っても反対はされないのだろうが。
なんとなく、婿養子という響きに抵抗があるのは、男の沽券、という奴なのかもしれない。
「うちのお父さん、昔から黎君のこと買ってたから……ああいう息子を産んだ兄貴が羨ましいっていつも言ってた。だから、嬉しいんだよ、ホントはね」
浴室に入ると、扉の向こうから小雪の声が届く。
「……ま、期待を裏切らないように頑張るよ」
どこが羨ましいんだ?苦笑いしつつ、それだけ言ってノズルをひねった。
堅いようで、決して堅気とはいえない仕事。今、一緒に暮らしている女にも、それは薄々分かっているに違いない。休日はあってないようなものだし、殆んど一緒にいてやれる時間なんてない。
隅々まで冷えた身体に、熱い湯が降り注ぐ。
「はぁ……」
疲れていた。何がどうしたと言うわけではない。普段どおりの日常に仕事――なのに、身体の芯から虚脱したようなだるさがある。そして、その理由を蓮見は――多分、知っていた。
―――あんな奴に、会ったのが間違いだった。
思いつめた顔をして、突然警視庁に顔を出した大学生。
あの日のことを思い出し、蓮見は眉をきつく寄せ、乱暴に髪に指を入れ、かき回した。
まだ、最後の――追いすがるような声が耳朶の奥に残っている。
(―――蓮見さんはそれでいいんですか、本当に、このまま諦めるんですか!)
―――いや、そもそも鷹宮の誘いなんかに乗ったのが、間違いだったんだ。
悔恨が胸に澱む。
あれだけ、オデッセイの連中とは会わないようにしていたのに――もう、過去には一切触れないようにしていたのに。
獅堂に――会ってみたいと思ったのだ。写真週刊誌を読み、さすがに胸クソ悪い気持ちが消化しきれないままでいた。あのからっとした女のことだから、気にはしていないだろう――そうは思ったが、それでも一言、何か言ってやりたかった。まぁ、そこそこあるじゃないか、とか。
獅堂は案の定、そのことをまるで気にしている風ではなく、それはそれで安心していたのだが。
嵐の声が――あれからもう二ヶ月以上たつのに、まだ生々しく耳に残っている。
(―――右京さんは、僕の感じた限り、相当ひどい目にあっているような気がしました。僕は感じたんだ、あの人の絶望や――それに負けまいとする不屈の闘志みたいなものを)
「……ざけんなよ」
思わず拳で、浴室の壁を叩いていた。
そんなこと、有り得ない。
そんな妄想をうかうか信じるほど子供ではない。
そうだ。蓮見は首を振る。嵐の言った事は――あいつの勝手な思い込みだ。妄想にすぎないんだ。
意識が同調してるなんて、現実に、有り得る話じゃない。
右京自らの筆跡で記された――米国の結婚証明書。蓮見はそれを直に見ている。相手の名前も記憶している。
最後の電話の冷たさも、現地で、決して会おうとしてくれなかった頑なさも――全部、昨日のことのように思い出せる。
この部屋で結ばれてから――再び、連絡を取る術がなくなった女。
遥泉や桐谷、蓮見の取りうるあらゆる手段をこうじ、右京と連絡を取ろうと――莫迦みたいにあがいていた一年。
そして、ようやく職場にかかってきた電話は――彼女の結婚を告げるそれだった。
そのまま、警視庁を退職するという最後通告にも似た連絡。
「夫の意向もあって、こちらで生活することになった。連絡が遅れて、本当にすまなかったと思う」
何を言っているのか、何を言われているのか、理解も納得も出来なかった。
「お前も知っているとおり、私はただの身体ではない。日本に戻れば訴追されることになる。そうなれば、当時の関係者に多大な迷惑がかかるだろう。もう――日本には帰らない。私はこのまま米国籍を取得するつもりだ」
ふざけんな、思わず電話で叫んでいた。
周囲の連中が振り返るのも、まるで気にはならなかった。
「ふざけてはいない。……お前は、私に、人を愛するということを教えてくれた。だからこそ、結婚という選択ができた。礼を言わせてほしい。今までありがとう」
女の声は、冷静で、一糸の乱れも感じさせなかった。
休暇届を当時の上司だった遥泉の机に叩きつけて、そのまま空港に向かおうとした。いや、その前に……。
当時の自分の熱さに、思わず苦笑が漏れていた。あの時は頭に血が上って、一から十まで冷静になりきれていなかったのかもしれない。
「……まるで、ストーカーだよな、」
区役所に駆け込み、婚姻届をもらって、自分の名前をそこに書いた。
もう、とっくの昔に自分から心が離れた女を引き止めるために――。分別のつかない、十代のガキのような真似をした。あれでは、右京でなくても驚いたろう。
もう、当時のことは思い出したくもない。自分の人生から切り取って、捨ててしまいたいような思い出だ。
浴室を出ると、脱衣所には着替えとタオルが置いてある。
小雪は、気が強くても、こういうところは気が利いている。家事もそつなくこなすし、基本的に不愉快な思いをさせない女だ。
それでも――まさか、今年の春再会した時には、こんな関係になるとは思ってもみなかった。
「黎君、」
リビングに戻ると、ベランダから声がした。カーテンが微かに揺れている。この寒いのに――と驚いたが、小雪はパジャマ一枚で、ベランダに立っているようだった。
「なんだよ、寝てろって言ったのに」
「ねぇ、外見て、雪が降ってるよ」
「……だから、俺はその外から帰ってきたんだよ」
「いいからいいから、一緒に見ようよ」
腕を引かれ、強引に横に並ばされる。
温まった体がみるみる冷えて、蓮見は思わず肩をすくませていた。
明りの消えた街。闇の中、白い雪片が舞っている。
女の長い髪が、肩に触れる。目線が――右京とまるで変らない女。
(――お父さんと喧嘩したの、東京の会社に勝手に就職決めちゃったら、もう、カンカン)
そう言って、いきなり郷里からやってきた小雪に――蓮見は最初、部屋だけを貸すつもりだった。当時は仕事も忙しかったし、どうせすぐに出て行くだろうとたかを括っていた。
男と女の関係になるなんて、予想してもいなかった。彼女は従姉妹で、年も相当下で――今まで女として見たことが一度もなかったからだ。そんな下心を持てるような相手だったら、そもそも最初に追い出していただろう。
それが、ふと、まるで出会い頭の事故のように身体を合わせてしまっていた。
今でも蓮見は悔いている。そのことで、結果的に結婚まで話が転がっていったことではなく――最初の夜、小雪の腕を引いてしまった瞬間のことを、である。
背を向けた女が――その目線の位置が、忘れかけていた右京の面影と重なって見えた。
(……嬉しかったな……)
腕の中にいた小雪が呟いて、蓮見はようやく我にかえっていた。
(私……ずっと、黎君が好きだったんだ……夢みたいだけど、これって夢じゃないんだよね)
その言葉を聞いた時、彼女への申し訳なさで胸が痛いほどだった。自分は――今、何を考えて、この女を抱いていたのだろうか。誰のことを想いながら。
憎しみや憤り、そしてそれと同じだけの激しい愛を、全て、この――まるで無関係な女にぶつけてしまったのではなかったか。
―――もういいんだ、
回想を振り切り、蓮見は目の前の景色に意識を戻した。
―――これでいいんだ。結果的には、……これでよかったんだ。
雪は、飽くことなく降り続けている。並んで立つ、二人の吐く息が白かった。
小雪は腕を伸ばし、指をすり抜けていく雪に掌をかざした。
「……獅堂さんの結婚式、素敵だったね」
「どこが!」
それには失笑と共に、血の気が引いてしまう蓮見なのだった。いや、絶対に自分の式には、桐谷を呼んではいけないと、あらためて己を戒めた日でもあった。
「素敵だったな……楓さん、きっと、獅堂さんのことが大好きなんだね」
「ま、あそこまですればな」
「……そういう意味じゃないけど」
小雪はくすっと笑って、さらに遠くに手をかざす。
「おい、もうよせよ、風邪引くぞ」
「雪って捕まらないね、どうしても逃げていくの」
「そんなもん、掴まえたって、溶けちまうだろ」
子供みたいなことを言う女がおかしくて、つい苦笑を漏らしていた。
「…………溶けちゃうんだ」
けれど、小雪は、何故か低く呟くと、そのまま静かに腕を引いた。
「いい加減、部屋に戻ろう、湯冷めしちまったよ」
その表情をけげんに思いながらそう声を掛けると、
「……黎君、お願いがあるんだけど……」
横顔を見せたまま、小雪は囁くような声で呟いた。
「ホントは、来週、お父さんに話してからって思ってたんだけど……もうすぐ私……誕生日来るじゃない?」
「ああ……そういや、そうだったな」
確か、クリスマスイブが誕生日だった。そういう意味では、後々楽だな、と思ったのをよく覚えている。
「お前、そういや、ガキの頃から嫌がってたよな、誕生プレゼントとクリスマスプレゼントがひとつで誤魔化されるって」
「そうそう、」
小雪も笑い、そしてその笑いを、どこか不自然に強張らせたままで続けた。
「でもね。そこまで一緒だったら、どうせなら、結婚記念日も同じにしたくて……どう思う?」
「……記念って……結婚すんの、来月だろ」
蓮見の仕事の都合もあって、結局は一月になった。それは、両家で話し合って決めた日取りでもある。
「うん、式はね。でも……入籍だけ……だめかな。私の誕生日に」
「…………そりゃ……」
どう答えていいか判らない。結局、籍も入れないまま、ずるずると同棲している。そう思えば、明日にでも入籍してと迫られても不思議ではない。
「……俺はいいよ、そっちの親父さんがいいって言えば」
少し考えた後、蓮見はそう答えていた。
「ホント?」
小雪は――自分から言い出したくせに、びっくりしたような目を蓮見に向けた。
「ホントに本当?」
「なんだよ、今さら、驚くようなことでもないだろ」
「……うん…………」
冷えた指が、ゆっくりと腕に絡んでくる。
「……部屋に戻ろう、俺ももう寝るから」
「うん……」
俺みたいな、抜け殻のような男でも、この女一人なら、幸せにしてやれるかもしれない。いや、してやらなきゃ駄目なんだ。
女の肩を抱きながら、蓮見はベランダの窓を閉めた。
微かな風の音がやみ、それと同時に、嵐の声も消えてしまったような気がした。