一
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「ええ、いいですよ、はいはい、では明日」
男は、軽やかに言って携帯電話を切った。
「すいませんね、たびたび」
そして、振り返って優雅に微笑う。
「ま……それはいいが」
椎名恭介は、半ばあきれながら手元のグラスに唇をつけた。数えていたわけではないが、携帯に会話を中断されたのは、これで何度目になるだろう。
「まめな男だな、お前も、一体何人とつきあってるんだ」
多少の皮肉をこめて言ってやっても、
「さぁねぇ、数えてみたことがないので」
鷹宮篤志はなんでもないようにあっさりと答える。
そして、「すいません、これと同じ物を」と、カウンター越しにシェーカーを振っているうら若いバーテンダーに声をかけた。
「わかりました」
即座に答える欧州貴族風の青年が、薄っすら頬を赤らめている……ように見えるのは、自分の勘ぐりすぎなのだろうか。
椎名は、横目でちらっと空学時代からの盟友を伺い見て、ぼそっと呟いた。
「この店……初めてじゃないだろ」
「あれ、よく判りましたね」
「…………」
―――やっぱりな。
それ以上、突っ込んで聞くのが恐ろしくなり、椎名は手元のグラスを一気に空けた。
今日、二人で飲み始めてからこの店にたどり着くまで三軒目。その間に、掛かった電話は記憶しているだけでも五回以上で――「ああ、君ですか」「あれ、久しぶりですねぇ」「やぁ、ずっと電話があるのを待ってたんですよ」「ちょっと仕事の電話がたてこんでまして」「今、僕からかけるところだったんです」と、実に多彩な言い訳をしている相手は、おそらく全部別の――人間だ。
―――こいつの場合、相手が女とは限らないところが恐ろしいんだよな。
いい加減、身を固めてもおかしくない年なのに、昔からの悪癖は、依然変っていないらしい。
「お前なぁ……真面目に結婚するとか、今まで一度も考えたことがないのか」
グラスを片手に思わず説教じみたことを口走ると、
「椎名さんみたいに落ち着くのが恐くて」
鷹宮はいたずらめいた笑みを浮かべる。
「ふん、悪かったな」
「いやぁ、落ち着きたくても、周りが放っておいてくれないんですよ」
悪びれもなくそう言うと、男は楽しそうに顎の下で指を組んだ。
実際――こうして近くで横顔を見ていると、ちょっと、くらっとくるぐらい綺麗な顔をした男である。
引き締まった横顔に、彫の深い目鼻立ち。少し色素が薄いのか、目と髪の色が自然に茶味かかっている。身長も高くて、手足が長い。骨格は男らしいが、顔だけ見れば、人形のような男である。
黙っていれば、間違いなく女の方で放って置かないタイプだろう。が、実のところ、鷹宮はあまり――女性にはもてない。というか、思いっきり敬遠されている。
まぁ、空自で鷹宮篤志といえば、もう超、ド級の、獅堂に継ぐくらいの有名人だから、それも無理はないと思う。新人自衛官が入ったら、まず鷹宮の写真入り注意書きが渡されるという――笑えない噂もあるほどだ。
そして鷹宮も、女性を自分の傍には決して近づけない。この男が好んで付き合う女性は、大抵が水商売の女か――まれに人妻だったりする。
そして、どういう付き合い方をして、どういう別れ方をしているのかは知らないが、絶対に後を引かないのがすごいところなのだ。
あれだけ沢山の恋愛をしていながら、椎名の知る限り、一度も痴情沙汰を起こしたことがない。
窓ひとつない薄暗い店内に、静かな洋楽が流れている。あまり音楽を聴かない椎名には、どことなく落ち着けない。さっき一人カウンターにいた客が帰ってから、まだ――店に新しい顔は現れない。マスターとバーテンの二人と、鷹宮と椎名――四人の男しかいない空間。
沈黙がどこか気まずくて、椎名は無理に話題を繋いだ。
「それにしても明日は、あれだな、たまの休暇に忙しいことだな、午前に二人、午後から三人か」
「たまたまですよ、いつもはここまで重なることはないのですが」
「器用だな、俺には理解も真似もできないよ、返って疲れそうだ」
「疲れますよ」
鷹宮は笑った。実際、今夜の鷹宮は、不思議なくらいよく笑う。
「椎名さん、約束した五人の代わりに、このまま一日僕とつきあいませんか。そしたら、予定は、全部キャンセルしますよ」
思わずげほげほと咳き込んだ。
「おもしろいなぁ、そこで本気になるから、あなたは可愛いんだ」
「ばっ、お、おかしなことを言うな、気色悪い」
バーテンダーの視線が妙に気になる。
鷹宮のような男と二人きりで飲んでいるのが、急に空恐ろしくなって、椎名は咳払いして、背を逸らした。
「それよりなんなんだ、さっさと言えよ、謝りたい事があるんだろ」
「ああ」
「何か知らんが、そもそも、それで俺を呼び出したんだろうが。いい加減用件を言ったらどうだ」
椎名は時計を見ながら、少し苛立った声を上げた。
もう――深夜の二時を軽く回っている。
那覇基地に所属している椎名だったが、今日は――たまたま会議のため、東京に赴いていた。鷹宮から電話があったのは出発の前日で、「会って謝りたいことがあるんですよ、夕食でもご一緒しませんか」と、誘われたのである。
早朝に那覇空港を出て――会議に出席するために来た防衛庁本庁舎。いい加減眠たかった。明日一日、移動のために休暇を取っているが、そんなにのんびりもしていられない。
「いやぁ、告白するには飲み足りなくて」
と、鷹宮はにっこり笑い、先ほどの店と同じ言い訳を繰り返す。
―――こいつ、単に俺をからかってんじゃないか。
とは思ったが、不思議と本気で怒る気にはなれなかった。
まぁ、鷹宮にだまされるのは、空学時代からの日常茶飯事のようなもので、今回の誘いの理由も、半ば、本気にはしていなかったのだが――。
いずれにしても、鷹宮という男は、私はのれんですと、顔に書いて生きているようなもので、何をされても、最初から怒る気力を無くしてしまう。それがこの男の持つ、一種独特の雰囲気なのかもしれない。
椎名が渋面を作っていると、鷹宮はくすっと笑った。
「冷たいなぁ、どうでもいいじゃありませんか、用事なんて。滅多に会えない後輩と、久しぶりに飲めるっていうのに」
「こないだ飲んだばかりじゃないか、獅堂の結婚式で、」
言いかけて、椎名は少し、口ごもった。
確かに今夜の鷹宮は、少し――いや、いつも変なのだが、そのいつもより少しおかしい。
まさか――あの場で、誰よりも楽しそうに、女装させられた生贄を見ていた(と、椎名には見えた)鷹宮が、そのことで傷心しているとも思えないが――。
「あっははは、あれは楽しかったですねぇ」
案の定、鷹宮は膝を叩いて快活に笑った。
「あの時の写真、しばらく携帯の待ち受けに使ってたくらいですよ。いやぁ、さすがは楓君。目の保養になりました」
―――気の毒な奴……。
椎名は溜息をつき、式?の間中、蒼白な顔をして座っていた真宮楓のことを思い出していた。まぁ――確かに綺麗だった。宴会芸の粋を超えて、ただ、普通に綺麗な花嫁に見えた。ただし、思いっきり、不幸のどん底にいる花嫁だったが。
「僕の心配なら無用ですよ」
椎名の心中を知り尽くしているのか、鷹宮は笑顔でそう続けた。
「辛そうなのは、僕よりむしろ、嵐君のような気がしたな。それから……宇多田女史の弟君と」
そこまで言って、鷹宮は笑いを含んだ眼を椎名に向けた。
「で、椎名さん、あなたも、そこそこ悔しそうに見えましたけど」
「な……何言ってんだ、俺は別に」
意外だったし――だからこそ動揺したのだが、それを変に誤解されるのも嫌で、少し慌てて、目を逸らした。
「大切な愛弟子の晴れ姿に、気分は花婿の父だったんじゃないですか」
からかうような声で、鷹宮は続ける。
「……花嫁だろう、それを言うなら」
「はは、確かに」
「……ま、父親というなら、そうかもな」
椎名は呟き、新しく出された手元のグラスビールをひと口飲んだ。
「……正直に言えば、俺が獅堂の父親か兄貴だったら……どうだろうな、素直に賛成できてたのかな」
「出来ていたと思いますよ」
鷹宮は即座に答える。
「そうかな」椎名は苦笑した。
「……これは、噂だがな。……いや、電波部のお前が、立場上知りえた情報を俺に漏らせないのは知ってるから、仮に俺の推測が違ってても、……黙って聞いてくれればいいんだが」
それには、鷹宮は答えない。黙っているということは、職務に関しては何も答えられない、ということだろう。
鷹宮は――今、防衛局電波部通信所に所属している。
元々がパイロットだから、記章を守るため、年間70時間のフライト時間は確保されているらしいが――それにしても、奇異な人事であることには代わりがない。
(――あれじゃないっすか、あんまり鷹宮さんの評判がすぎるから、上の方で、監視下に置こうって腹じゃないっすかね)
冗談めかしてそう言ったのは、オデッセイで一緒だった相原だが、そうでなければ、考えられないような人事だった。
人事交流の一環、と説明を受けたものの、そもそも電波部通信所は、防衛庁の中で唯一闇に閉ざされた機関である。人事交流の対象になるような部署ではない。
国際電波を傍受している――という仕事の概略は公にされてはいるものの、具体的な職務の内容は一切極秘に伏されている。
その構成員も、係も、何一つ公表されていない。それは、外部だけではなく、防衛庁内部に対しても同じことなのだ。
だから椎名は、鷹宮に仕事のことは何も聞かないし――無論、鷹宮も何一つ話そうとはしない。先日、獅堂の結婚式で再会した時もそうだった。鷹宮は――楽しそうにはしていたものの、明らかに昔の仲間とは一線を引いており、それが――仲間内では不評を買っていた。椎名は苦い思いで、あの夜のことを思い出す。
あの日集まった者はほとんど――極秘にある内定を受けていて、その真意を鷹宮に確かめたがっていたのだから。
「……俺は、来年の春には、那覇から防衛庁長官直属――オデッセイ−eに異動することが内定している」
「…………」
鷹宮は何も言わない。黙って、目の前のバーテンダーに、優しげな眼差しを向けている。
オデッセイ再生プロジェクトに、元室長右京が所属していた電波部が大きく関与しているのは有名な話で、実際――鷹宮が、この話を全く知らないはずはなかった。
溜息をついて、椎名は続ける。
「この内定をめぐって、一部のパイロット間で、熾烈な争いがあったらしい。……あくまで噂だが、空自の大物制服組が、自分の身内を内定名簿に入れようと――あれこれ画策したって話だ」
「ありがちな噂ですね」
初めて鷹宮が口を挟む。けれどそのまま、視線はバーテンダーに据えられたままだ。
「空の要塞は、一部パイロットにとっては、すでに伝説的な――存在だからな。内定イコール出世という先入観があるんだろうが」
「実際、オデッセイの皆さんは、それぞれ出世されてますよ」
「だな、俺もその一人だが」
椎名は苦笑した。そして、眉をしかめて笑いを消した。
その――当時のメンバーが、また再び、再生された空の要塞に呼び戻されようとしている。
奇異な人事といえば、鷹宮の電波部入りよりそっちの方が、椎名にはさらに理解できなかった。
オデッセイが撃沈された後―― 一年近く、当時のクルーたちは、自宅に帰ることすら禁じられ、基地に軟禁される生活を余儀なくされていた。まるで――何かの秘密を知ったものたちを、そのまま隔離するように、である。
確かに、クルーたちは軒並み、有り得ない出世を果たし、元の職場に戻っていった。その人事にもきな臭いものを感じずにはいられなかったし――そんな風に、一度は軟禁までしたクルーを、再び空の――防衛庁の最新機密が詰まった要塞に、搭乗させようというのは、どういう理由なのだろうか。
鷹宮は、何かを知っているのだろうか――。
そうは思ったが、仮にそれを聞いたところで、男が決して口を開かないことも知っている。
軽く嘆息し、椎名は話題を元に戻した。
「……その制服組の大物が、だ、内定確実な元クルーを一人………落とすために」
「…………」
「元クルーが、私生活でつきあっている人物を利用して、……まぁ、回りくどい言い方は、やめておく。獅堂のことなんだが」
「例のお宝写真ですか」
鷹宮の横顔は動じていない。
「…………簡単に言えばそうだ。噂だから、俺にもくわしいことは判らんよ。が、獅堂が、……何かの陰謀に巻き込まれて、あんな目にあったことは間違いないと思う」
「彼女自身が決めたことですから」
美貌の男は――少しだけ、眼をすがめて笑った。
「そのくらいのリスクは、覚悟していたと思いますよ。……そこに陰謀があろうとなかろうと、いずれ避けては通れない道でしょう」
「……お前は、冷めてるな」
それには答えず、鷹宮は手元のグラスを指で弾く。
椎名は、その――男の外見には似つかわしくない、どこか無骨な長い指を見つめながら呟いた。
「獅堂は、紛れもない、第一級の腕を持つパイロットだ。順調に上がれば、女性初の空将補も夢じゃなかった……。あいつの、唯一の弱点が」
「真宮楓君ですか」
カン、と、涼やかな音がした。顔を上げた鷹宮は、笑っていたが、それはどこが寂しげな笑みに見えた。
「女性初とか……空将補とか、あの人には、どうでもいいと思いますよ。空にさえ出られるなら」
「ま、獅堂はそういう奴だがな」
「……空にさえ、出られるならね」
何故か鷹宮は曖昧に繰り返し、肘をついて、頬を支えた。
「……椎名さん、雪、降ってますか」
「雪?」
何言ってんだ?こいつ――そう、けげん気に思いながら、振り返ろうとすると、
「降ってますよ、少し前からちらついてるって、さっき帰られたお客さんが」
それより早く、貴族めいた美青年バーテンダーが答えてくれる。
「ああ……いやだなぁ、外は寒そうだ、空を見るだけで憂鬱になる」
鷹宮は、頬杖をついたまま、子供のような口調でふざけたようなことを言う。
「莫迦、何言ってんだ、雪国育ちのくせに」
「だから嫌いなんですよ」
店内は――気がつけば、音楽も途切れ、しんと静まり返っている。耳を澄ませば、そのまま雪の音が聞こえてきそうだった。
「なんにしても、タクシーが捕まりにくくなる、悪いが、俺はこの辺で帰るよ」
椎名は腰を上げかけた。
「まぁまぁ、ここは五時までオッケーなんですよ」
「ばっ、何言ってる、俺は明日、早いんだ、お前の優雅な休暇に付き合えるか」
「まだ、大切な話もしていませんし、……いいじゃないですか、もう少し」
「…………」
酔ってるのかな、こいつ。
ふと、そんなことを思っていた。
こんな甘えたようなことを――ふざけても言うような男ではないのに。
「……だから、お前の謝りたい事ってなんだよ、それ聞くまでつきあってやるから、さっさと言え」
「ん?……なんでしたっけ」
「おい…………」
もうすっかり聞きなれてしまった、携帯の着信音が鳴ったのはその時だった。
「ああ、悪かったですね、ずっと電話しようと思っていたんですよ」
―――またか、オイ!
自分に背を向け、電話に向かって絶妙な言い訳を繰り返す男に、椎名は心底あきれていた。
「おい、テレビつけてくれ、交通情報が見たいんだ」
バーテンダーが、即座にカウンターの傍にあるテレビのスイッチを入れてくれる。
こんな時間にやっているのは文字放送くらいで、それは、今日のニュースを簡潔に伝えていた。椎名が知りたいのは、雪の情報と――自分が乗るはずの飛行機が、定刻通り飛べるかということだけだった。
「明日は、夜なら……そうだね、君のいい時で」
と、ふざけた会話を背後で聞きながら、椎名は上着を羽織っていた。さすがにもうつきあいきれない。今夜の鷹宮は、絶対に変だ。いや、もともと変な奴だったのが、輪をかけておかしい。
「まだ、交通規制とかはないみたいですよ」
バーテンダーがテレビを見上げながら呟く。
ただ青いだけの画面に、白い文字が流れていた。
目的とは無関係のニュースの羅列に、椎名も諦めて、目を逸らそうとした時だった。
富山県川越市。午後四時、川釣りに来ていた父子死亡。中村一清さん(36歳)と、薫君(6歳)が川に転落。一清さんは薫君を助けようとして飛び込んだ模様。二時間後、二百メートル下流で、
「おい、」
視線は画面に釘付けのまま、椎名はバーテンに声をかけていた。
「今日は――何日だ」
「は?」
けげん気な声が返ってくる。
「いや、いいよ」
椎名は首を振っていた。
そうか。
そういうことだったのか。
「………あの莫迦」
それならそうと、素直に言えばいいものを――。
「すいません、どうも今夜はひっきりなしだな」
そう言いながら、携帯をポケットに滑らす男の横顔を見ながら、椎名は立ち上がっていた。
「はは……やっぱり、お帰りですか」
鷹宮は、ひらひらと片手を振る。
その腕を掴んで、椎名は男を椅子から立たせた。
「いい加減腹がへった、出よう、メシでも食いに連れてってくれ」
「…………は」
鷹宮は――珍しく、虚を衝かれたような顔をしている。
「この辺の店はよく知らないんだよ、こんな時間までつき合わせたんだ、最後まで面倒みろ」
それだけを一気に言うと、椎名は、まだぼんやりと立っている男の腕を引くようにして――歩き出した。