いいね、奏―――お前は、子どもを産んではいけないよ。
 どうして?
 理由は前にも言ったろう、それはね、お前が、人とは違う、新しい種だからだよ。
 それが、どうして子どもを産んでは……?

 父は、悲しそうな顔になる。
 辛そうな顔になる。

 いいね、奏……これから言うことをよくお聞き。私が語るのはこれで最後だ。二度とこの話はしないし、したくない。
 お前の――遺伝子には、



「冗談じゃない、どうして、うちの娘がそんな……」
「落ち着きなさい、声が大きい、奏はまだ起きている」
「あなたが、子どもが欲しいと言ったから――私は嫌だったんです、私がこんな身体だからってあんまりだわ。他人の女の血を引いている挙句、……そんな、」
「……子どもが欲しいと言ったのは君だろう」
「いいえ、いいえ、いいえ」
「とにかく、冷静に話を聞いてくれ、私はあの子のことを公にするつもりはない」
「誰がそんな……冗談じゃない、この家の恥です!奏を追い出してください、今すぐに」
「……何を言うんだ、頼むから冷静になってくれ」
「あなた、本当はあの女とできてたんじゃないですか。綺麗な人でしたよ、ええ、本当に、奏にそっくりな、――傲慢で、生意気で、まるで作り物みたいな顔をした」
「いい加減にしないか、提供者を最終的に決めたのは君じゃないか!」
「それは――あなたが」



 母さんの調子が悪いんだ。
 ―――少し、心を病んでいるんだ。
 お前は病院に行かない方がいい。
 それがお前のためなんだよ、奏……。


 時がたてば、分かり合えると信じていた。
 優しかった頃の母に、もう一度会えると信じていた。
 でも、分かり合えないままに――母は病院で亡くなった。
 風邪から肺炎をこじらせて、あっけないほど簡単に。
 私が母を追い詰めたのだ。
 そして、今も――絶えることなく、父を苦しめ続けている。


 どうどうと耳をつんざく激流の音。
 手足が痺れて、もう感覚がなくなりかけている。
 ともすれば、身体を支える木の枝から、手を離してしまいそうになる。
「しっかりしろっ」
 苦しい――もう、楽になりたい。
 この手を離せば、楽になれる。
 莫迦みたいに簡単で儚い命。こんな頼りないものが人の生というものなら、もう、そんなものにすがりたくはない。
 手を離せばそれで終わる。
 もう――父は苦しまない。
 もう――父は悲しまない。
「莫迦野郎っ、諦めるなっ、人ってやつはな、そんなに簡単に死ぬようになってないんだ」
 その手が――力強く私を抱く。
 私はその言葉を反芻する。
―――人ってやつはな、そんなに簡単に死ぬようになってないんだ…………。


「事故だか、自殺だか……あんな大雨の日に、川沿いなんかに普通行くものかしらね」
「お気の毒に、……さんは、亡くなられたそうよ」
「あちらにも、まだ中学生のお子さんが居られるんですって、……人命救助も残酷なものね」

 
 涙が――止まらなかった。
 物心がついて初めて流す涙が、後から後から頬を伝った。
 死ぬつもりではなかった、でも、流されている猫を見た時、溢れる川に足を踏み入れることの危険性を――認識していなかったと言えば嘘になる。
 どこかで、何かを棄てたまま、川に入って、足を取られて流された。
 それが―――。
 見知らぬ人の命を奪った。
 簡単に死なないと、力強く言ってくれたあの人自身の命を、あっけないくらい簡単に失わせてしまった。


 人とは儚くて。
 儚くて、なのに強い。
 そんな矛盾したものなのだと、初めて知った。
 私は生きて、あの人は死んだ。
 その境界は、偶然でも。
 私には残された命があり、彼が紡ぐ物語は永久に終わった。


―――奏、お前は生きなければならない。
 慟哭の底で、父の声が私を諭す。
 お前の罪は、お前が生き続けることによって、償いなさい。
 どんなに辛くても、困難でも、お前は一人でその罪と戦い続けるのだ。
 お前の持つ宿命に克ち、お前の持つ可能性を切り開きなさい。
 究極的には、私には何もしてやれない。それは――お前の、お前という人生の戦いなのだから。
 そして、その手で――。
 お前を誰かが救ったように、お前が誰かを救うのだ。
 それが、お前のこれからの人生だと思いなさい。






「右京?あいつ女じゃねーよ、薄ッ気味悪い、いくら美人でも、あんな女はゴメンだね」
「オヤジが政治家なんだろ、すげー金持ちだっていうし、勿体ねぇよな。逆玉狙いで落とすって、お前意気込んでなかったっけ?」
「こないだ冗談で抱きついたら、思いっきり殴られたよ。ざけんなっつーの、自意識過剰なんじゃねーの、あの女。男に手を上げるなんて、何様だと思ってんだ」



「ああ、あいつか、父親の七光りで入庁した女だろ」

「美人は特よね、笑ってりゃ出世するんだもん」

「黙ってお茶でもいれてりゃ、いい女なのに、残念だな」

「女のくせに、捜査にいちいち口を出すな、目障りだ!」

「……まぁ、こっちへ来たまえ、そんなに怖い顔をしなくてもいいよ。君だって、出世の近道がどういうものかは知っているだろう、さぁ」

「同僚を殺した女だとよ、おっそろしいよなぁ」

「右京、あんたなんか、死ねばいいんだ、化け物、あんたが私を追い詰めたんだ!」

「ああ見えて、殆んどの上の連中と寝てるらしいぜ?手帳は、夜のスケジュールがぎっしりだとか」

「撃たないで、友達でしょう?ねぇ、右京、私たち、友達でしょう?」

「クソ生意気な女だよ、てめぇは、いっつもいっつも、人を見下したような眼でみやがって」

「嫌な女だ……今に見ていろ、ばけの皮を引っ剥がしてやる」



 終わりのない闇の中、私を支えていたのは、たった一人の男だった。
 私を助け、そして死んだ、見知らぬ男の命の重さだけだった。

 私は――死に場所を探していた。
 生きようと思うどこかで、無意識に楽になれる場所を探していた。
 死という逃げ場、それを求める大義名分――。
 戦争という時代の下。
 それが、オデッセイだったのかもしれない。



「警視庁捜査一課から、本日付で出向になりました。蓮見です。階級は巡査部長、今日から、右京部長の身辺警護に当たらせていただきます」

―――誰だ、こいつは?

「ドンパチやってる軍人さんの方が、よっぽど修羅場には向いてるでしょ、何も市民の味方のお巡りさんを、軍人さんのお守につけなくてもよさそうなもんだ」

 なんだ、この判ったようなセリフを吐く、だらしのない男は。

 頭は悪そうだ。
 口の聞き方もなってない。
 背だけが高いが、なんの役にも立ちそうもない。
 男性上位主義者の典型だな、―――口も聞きたくないタイプの男だ。
 というか、まともな会話さえ成り立たない。最高に出来の悪い生徒をもった教師の気分だ。
 気がつけば、煙草ばかり吸っている。桐谷さんもそうだが、自己抑制できない人間は軽蔑に値する。
 この国際化の時代、まさか、英語が理解できないとは…………。

 なのに――。


「この男を殺してしまえば、その重みを、またあんた一人が背負うんだ。あんた一人が――またそれで苦しむんだ」

 本質的なところで、この莫迦は、私のことを判っている。
 私自身が目を逸らしていたことを、正面から無遠慮にぶつけてくる。

「簡単に死にたいなんて言うな、莫迦野郎、命の重みを知ってる、それが警官ってもんだろう!」

 私の―― 一番痛い所を、容赦なく突いてくる。

 苛々するのに、何故か気になる。
 気になるのに、目の前に立たれると面白くない。
 こんな気持ちは初めてで、それを受け入れるのに多少の時間はかかったけれど。


 彼の眼差し。
 彼の声。
 彼の表情に、笑い方の癖。
 私の中で、何かが少しずつ変わってく。
 頑ななに結ばれていた何かが、柔らかく解けていくように。


 そして、私は、もうひとつの宿命と出会う。
 その出会いもまた、私という個を変えていく――。


「真宮嵐です。……えーと、……どこかで一度、お会いしたこと……ありませんでしたっけ」
 彼の記憶には、私は曖昧にしか残っていないのだろう。
 私はよく覚えていた。
 一家殺人事件の唯一の生き残りというだけでなく、父から知らされた四人の一人として。


「……あんたが、右京さん?悪いけど、しばらく静かにしててもらえるかな」
 真宮楓。
「……俺、帰りたいだけだから、……あんたをどうこうするつもりはないから」
 彼を見た時、彼と――出逢った時、その時感じた衝動を、私は今も上手く言い表せない。
 ただ、これが種としての本能なのか。
 私は理解したのだ。
 私は――彼を、守らなければならない。
 この命の種を守らなければならない。
 例え、自分の命と引き換えにしても。


「今、なんと言った?右京君」

「聞き違いでなければ、君は――自らがベクターだと、認めると言った様に聞こえたのだがね」

「ほほう……では、君が、くだんの四体の一人だと……自らそれを認めるということなのかね」

「公務員の……しかも、警察官の経歴詐称は重罪だよ。それに君のお父上が絡んでいたとしたら、最高のスキャンダルだ、そうだね、右京君」

「私が何とかしてあげてもいい、まだこの件は、私一人の胸の中にしまってある。君が、私の言う事を聞いてくれたらの話だが――」

 最後の最後で、我慢し続けていた拳を使った。
 久々に爽快な気分になった。
 まぁ、後は、どうにでもなれ、といった感じだ。

「……残念だよ、右京君、もう二度と会うこともないと思うが、まぁ、元気でやりたまえ」



「右京……」
 そして、彼が私を抱く。
 抱き締める。
 驚くほど素直な気持ちで、私はその手に全てをゆだねる。
 唇も、硬い筋肉に覆われた肩も、胸も、この一時だけは、全て私のためにある。
 見下ろしてくれる眼差し、髪の香り、息苦しいほど繰り返される口づけ。
 恐くなかったといえば嘘になる。
―――奏、お前の体には、
 父の声が。
―――お前の遺伝子には、
 でも、もう遠くて、聞こえない。
「……右京」
 彼の声しか聞こえない。
 胸が――痛いくらい愛しい。
 抱き締めて――彼の髪に、頬を寄せて、そして思う。
 生きていることの意味を。
 この一時のために、私の命はあるのだと――そう思っても、


 いいですか。
 お父さん。


 これが最後ですから――私の最後の我儘ですから。


 だから今だけ、初めて好きになった人の名前を――。


・?


・・








「……今、何か呟きませんでしたか」
 減圧された特殊ケースの中を見ながら、男は低く呟いた。
 男が見下ろす視線の先―――冷気で曇った特殊ガラス。その中から、蒼白い人型がうっすらと透けて見えている。
「まさか、PO3はそんなことが出来る状態じゃない、気のせいだ、ラウ」
 マスクに装着されたマイクから声が届く。
 少し聞こえが悪かった。男、ラウ――と呼ばれた男は、耳元に手を当て、マイクの位置をわずかにずらした。
――気のせいだ、ラウ。
 そう言った声の主は、男の隣に立つもう一人の人物。このラボの研究者の一人で、唯一日本語で会話できる中国人――リー。年の頃は四十前で、大柄な固太りの体格だ。普段は規則正しい、英会話教室通りの英語を喋る。
 ラウは彼の名を「リー」としか知らされていないし、元々の彼の所属も経歴も知らない。いや、「リー」だけではなく、このラボにいる研究者の全てを、そういう形でしか教えられていない。
 ただ広い室内、無機質な機械の音だけが響く。
 地下五階。むろん、窓など存在しない。地上の光が決して届かない世界――。
 ラウとリー。二人の男は隣り合ったまま、棺のようなガラスケースを見下ろしていた。
 すぐ隣に立ちながら、最高レベルの微生物防御服に覆われた二人の男は直接話しをすることはできない。酸素ボンベを装着したスーツ越しに、マイクを通じて会話するしかない。
「……確かに、気のせいですよね」
 独り言のように呟き、ラウという男は苦笑した。そして、苦笑しながら彼は自分に言い聞かす。そう――気のせいだ。<彼女>はもう、そういった感情を表すことなどできないのだから。
「それにしても、PO3という呼ばれ方は嫌ですね、仮にも彼女は人妻なのに」
「究極のセックスレス夫婦だがな」
 ジョークのつもりなのか、そう言ったリーは自身で笑う。
 ラウはそれには笑えなかった。
「……それにしても、急な移転でしたね、コールドスプリングハーバーはいい所でしたが」
 その代わり、ガラスケースを見つめながら呟いた。
 隣立つ男が、少し申し訳なさそうな口調になる。
「NAVIの連中が、お前の居所を探り始めている、PO3の知り合いの誰かが、レオナルド会長にコンタクトを取ったらしい。あの場所が突き止められるのも時間の問題だっただろうし――」
「…………」
「それに未確定だが、PO3に関する、上のデータベースに、何者かが侵入した可能性があるらしい」
「まさか――」
 有り得ない。ラウは苦く笑って首を振った。国防総省のデータベースに侵入するのが――いかに危険で、難解を極めるかということは、嫌という程知っている。何しろ、あそこには、米国が決して公にできない闇の部分、半世紀に渡る軍事機密がぎっしりと詰まっているのだ。
 国内に潜伏する名だたるハッカー全ての頭脳を集結しても、あのブロックを破ることは不可能だろう。 
 もし、それが出来るとしたら――。
 眉をひそめながら、ラウは呟いた。
「犯人は……NAVIですか」
「目下調査中だよ、ラウ。しかし、ホワイトハウスはあそこには手が出せない。何しろ、大統領補佐官が、ライアン元上院議員だ。NAVIの設立者の一人、ドロシーライアンの父親ときてる」
 リーの口調は苦かった。その理由を知っているラウは、少し、からかうような口調で言う。
「おまけにビックガウディは、昔からの民主党寄りで、いってみれば大統領の――資金面でのパトロンですしね」
 ビッグガウディとは、コンピューター産業の分野で成功を収め、一代で巨額の富を得た男である。NAVIの創設者、レオナルドガウディの父であり、最大のバックボーンである。
 今のホワイトハウスを信用するな。
 あそこには、ベクターの息がかかっている。
 その認識が近年のペンタゴンの常識であり、戦後、民主党が政権を取って以来、ホワイトハウスとの対立を深めている原因でもあった。
 マイク越しに、重たい溜息がかすかに響く。
 カン、と防護服の指先でガラスケースを弾き、リーは物憂げに呟いた。
「いずれにせよ、プレジデントは、我々のしていることに消極的だ。日本で騒ぎが大きくなって、人権問題に発展するのではないかとひやひやしている、一切の証拠は削除したが、いずれにせよ、用心するに越したことはない」
「日本では誰も騒いでいないのに」
 ラウは呟き、皮肉な笑みを唇に浮かべた。
「騒ぎなんて起きようがない。……そのために、彼女は結婚までしたんですから」
 自分でも理解しがたい――感情を振り切って、ラウは顔を上げた。
 リーが、つられたようにこちらを振り返る。
 もちろん、マスク越しの相手の顔も、自分の顔も――その微妙な表情の変化は互いに理解できないのだが。
「実は休暇届が、ようやく受理されましてね、来週から少し、バカンスに出かけようと思います」
 口調を緩め、ラウはリーからきびすを返した。
「よかったじゃないか、ようやくミスターサンダースもお前を信用するようになったということか」
「なにしろ、毎晩ベッドでご奉仕していますから」
「笑えないジョークはよせよ」
 リーの声にも、ほっとしたような色が滲む。
 それには答えず、ラウは薄く笑った。
「……とりあえず、妻の生まれ故郷に行ってみようと思いまして」
「ラウ」
 はっと振り向く男の声が、初めて厳しいものになった。
「判ってるだろうが、余計な気を起こすなよ。お前の立場は」
「日本で、ぜひとも会ってみたい男がいるのでね」
 ラウは笑顔で、友人の杞憂を遮った。
「妻と別れるのは寂しいですが、日本に――東京に、しばらく滞在するつもりですよ」
 
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story2 終
いいね、奏、お前は子供を産んではいけないよ。
どうして――?
お前の……遺伝子には、