〜エピローグ








                    一



「鷹宮さん」
 思いもよらない場所でふいに自分の名を呼ばれ、少し驚きながら、鷹宮篤志は振り向いた。
 日本人ではない――どこか独特のイントネーション。
「レオナルド……会長?」
 声の主を認め、鷹宮は思わず呟いていた。
 廊下の向かい側、別棟の病棟から、車椅子に乗って近づいて来る――金髪碧眼の痩せた男。
 その変わり様に、鷹宮はわずかに眼を細めた。
 防衛庁電波部時代、阿蘇の下にいた時、一度だけ対面している。
 NAVIの創設者にして、世界中のベクターの実質的な指導者である男――レオナルド・ガウディ。
 かつて、輝くばかりの美貌に溢れていた男は、今、病床にあることを隠しようのない容貌に成り果てている。
 雲の上の存在のような男が、まさか、一公務員である自分の名前を記憶してくれているとは思ってもみなかった。
 鷹宮は驚きを隠せないまま、車椅子の傍に歩み寄った。
 別人のように頬のこけたレオナルド・ガウディーは、微かな笑みを浮かべて会釈する。そして車椅子を器用に押しながら、ゆっくりと鷹宮の隣に肩を並べた。
「意外なところで、お会いしますね」
 穏やかな、そしてどこか癖のある声。それだけは鷹宮の記憶にあったものと変わらない。
「私をご記憶とは驚きました、もう――職場は変ってしまったのですが」
「知っていますよ、ミスター。私は好みの男性は決して忘れない性質なので」
「…………」
 それはどうも――。とここで返事をすべきかどうか。
 鷹宮は面食らって、美貌の青年を見下ろした。
「しかし……あなたのような方が、こんな場所でお一人でいてもいいのですか」
「こんな場所とは失礼だな、ここは、僕の作った病院ですよ」
 レオは、困ったように苦笑する。
 確かにここは、NAVIの設立したメディカルセンターである。世界一優秀なスタッフが揃っている施設。会長であるレオが、この病院にいても何ら不思議はないのだが――。
 が、日本では、厳重にガードされ、声を聞くにも何重もの許可がいる超BIPと、何気に病院の廊下で再会できるとは、夢にも思ってもいなかった。
「まだ、入院されていたのですか」
「いや、そうものんびりしていられなくて」
 レオは笑う。金色の髪はどこか褪せて、肩も、首も、痛々しく痩せている。
「なにしろ、ずっと寝たきりでしたからね」
 が、声だけは、意外なほどさばさばとした明るいものだった。
「身体のあちこちが弱ってるんです。今は、職場と往復しながら、リハビリの真っ最中ですよ」
 そう言って、男は優しい目で鷹宮を見上げた。
「日本でも、色々大変だったと聞いています、ミスター青桐は退任されたそうですね」
「自ら、……経歴詐称を公表されましたから。優秀な方でした、日本は、かけがえのない人材を失ったと思います」
 鷹宮が眉を寄せながらそう言うと、レオはわずかにいたずらめいた目になった。
「確かに日本にはいないタイプの政治家でした。ああも見事に私を欺いた在来種は、後にも先にも、あの男だけだ」
「……え?」
「いえ、彼が若い頃、まさかクマのような髭を生やしていたとは、思いもしなかったということですよ」
「……すいません、それは」
 何の話だろう。
 戸惑ってそう聞くと、レオはにっこりと笑って視線を他所に向けた。
「パワー&ブレイン、彼はその使い方をよく心得ていた人だった。日本では、ようやくベクターの公務就任が認められるようになったらしいですね」
「ええ、――確かに、」
「ベクターに関しての経歴詐称も、刑事罰の対象から外されたと聞いている。ミスター青桐に、後悔はなかったと思いますよ」
 レオナルド会長は、青桐さんと面識があったのだろうか――。
 不思議に思いながら、痩せた横顔を伺い見る。レオはただ、楽しそうな眼で窓越しの空を見ているようだった。
「……今日は、ミセス奏のお見舞いですか」
「ええ、ようやく休暇が取れましたので」
 車椅子の人は周囲を見回し、そして、もう一度鷹宮を見上げた。
「よろしければ、そこの椅子に掛けませんか………少し、あなたと話がしたい」
 

                  二


「あれほど猛威を振るっていたウィルスが、今は、終焉に向かっているらしいですね」
 鷹宮は、レオにカップコーヒーを差し出しながらそう言った。
 レオは軽く頷き、湯気の立つカップを口元に近づける。
「僕のように――運良く生き延びた者も含め、結果として三分の二弱のベクターが生き残った計算になる」
「……今、色々調査されているそうですが、自殺種子というのは、そんなに効果が不確定なものなのですか」
 鷹宮は、立ったままでそう聞いた。
 窓から見下ろせる長閑な風景。
 病院の庭園で仲睦ましく寄り添う老夫婦。車椅子の子供とそれを押す母親。見舞いに来たらしい家族連れ。
 この光景が、ぎりぎりの所で守られたことを、一体世界の何人が知っているのだろう。そして、未だに、本当の意味で危機が去っていないことを。
 真宮兄弟の失踪と、ベクターの大量死がきっかけとなり、ぎりぎりまで高まった緊張は回避された。けれど、問題の根源は、まだ何も解決されてはいない。
 姜劉青。
 ヨハネ・アルヒデド博士。
 彼はあの時、破壊された城内で大怪我を負った。しかし一命を取りとめ、現時点ではいまだEURの代表の一人だ。EURは、アメリカ合衆国の警告を拒否、劉青の身柄引渡しには一切応じない構えだという。
 幸い、原子炉は破壊を免れ、周辺環境への放射能汚染は最小限に留められたというが――。
 レオは静かに笑った。
「あのウィルスは、本当に自殺種子だけが原因で発生したものなんでしょうか。正直、僕にはわからないんですよ」
「………と、言うと?」
 意外な言葉に、鷹宮は思わず眉をひそめた。
「確かにウィルスは、ベクターの中に存在していた……しかし、去年まで、誰一人発症しなかったのは、一体どういう理由なんでしょうね」
「…………」
 鷹宮は黙った、確かにそれが――この件に関して、唯一残された謎だった。
 急速に増えた発症者の数は、年が明けると共に急降下をみせはじめている。
「……ウィルスが体内でリンパ球と結びつくのに個人差がある。そういう結論で締めくくられそうですが、僕は、そうではないと思いますね」
「………組替え時にミスがあった、後から、担当した科学者が手を加えた……様々な憶測が流れていますが」
 鷹宮がそう言うと、レオは笑った。
「ねぇ、鷹宮さん、人はそんなに優れた種なんでしょうか。生命とは、そんなに簡単にいじってしまえるものなんでしょうか」
「…………」
 鷹宮には判らなくなる。
 だとしたら、ベクターだけに猛威を振るった、このウィルスとは、なんだったのだろうか。
「このウィルスを最初に発見――分離に成功したのは、ドロシー・ライアンでした。ウィットに飛んだ彼女は、最初からこう言っていた」
「…………」
「ねぇ、レオ、私たちこれで、自然淘汰されちゃうのかしら」
「…………」
 ドロシー・ライアンの死亡は、すでに公式に発表されている。鷹宮は眉を寄せて、レオから眼を逸らした。
「半数近くが死に絶えたベクター。この構成比が――今の地球にとっては、丁度いいのかもしれませんね」
 レオは笑った。静かな、そして、何かを悟りきったような口調だった。
 鷹宮には、何も言えない。
 沈黙の中、レオはそっとコーヒーを口に運んだ。
「まだ………あの二人が、どこかで生きているような気がしませんか」
 低い呟きだった。
 鷹宮は応えなかった。
「巨大なエネルギーの集合体が、天空に飛び去っていくのを、あの日、世界中の衛星が観測している――以来、どの衛星も地上監視システムも、彼ら二人の姿を発見していない」
「………」
「楓は、頭のいい奴だから」
 寂しげな微笑を浮かべ、レオは顔を上げ、遠くを見た、
「どんなシステムでも、侵入できるし、突破できる。ひょっとして、二人はどこか――この地上のどこかで、ひっそりと生きているのかもしれない」
「…………」
 そうであれば本当にいいのか。
 正直に言えば鷹宮には判らない。少なくとも人類の意識が劇的に変化しない限り、二人に真の安らぎの場所は――ない。この地上にいる限り。
 レオは何かをふっきるように笑い、振り返った。
「獅堂さんはどうしてます」
「普通です、無事に職場復帰も果たしまして」
 表面上は……と、鷹宮は心の中で付け加える。
「今、休暇を取って旅行に出てます。落ち着いたら、こちらにも顔を出すと思いますが」
「……ミスター蓮見は日本に帰りました。ついていなくていいのかと聞くと、もう必要ねぇよと、それは実にそっけなく」
 レオはそう言って肩をすくめた。
「ミセス奏は、それを見送りもしないんだ。なんなんでしょう、あの二人は」
「さぁ」
 二人らしいな、と鷹宮は思わず苦笑する。
 今回の事件では、彼等のことだけが唯一の救いだった。
「……あの二人は、離れていても大丈夫だ。獅堂さんと楓は、いつも痛々しくて、危なっかしかった。……彼女に」
 額にこぼれた髪を払いのけ、レオは鷹宮を見上げた。
「蓮見が持っていたような根拠のない強さがあればよかったんでしょうか?今さら言っても、仕方のないことですが」
「どうでしょう……それは多分」
 言いかけて、口をつぐんだ。それは多分――獅堂自身が、一番よく判っているのではないだろうか。
「……ソーリー、そろそろ点滴の時間だな」
 じゃあ、また。
 と、言って、レオの痩せた腕が車椅子をたぐる。
「レオナルド会長」
 鷹宮はその背中に声を掛けた。
「人類は、自らの手で光の力を手放してしまった。我々は、」
「………」
「人類は、これから一体、どこへ行ってしまうんでしょう」
 レオは振り向いた。冷たく、儚い表情だった。
「鷹宮さん、所詮人は地上を離れ、どこへも行くことはできない」
 そして、どこか夢見るような遠い眼で、窓に広がる空を見上げた。
「でも、彼らは人類の枠を超え、過ちを超え、――あの空の彼方に行くことができる……」

                
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