act13  「空」





                 一


 波の音……?
―――海の音がどこかから聞こえる。
 海が呼んでるって感覚、判るか。
 あの時の儚い声。
 月灯りを背負ったきれいな横顔。
 楓……。
 海が――楓を……。


 水の底から浮き上がるような、ゆるなかで静かな覚醒だった。
「…………」
 獅堂は、ゆっくりと眼を開けた。
 金褐色の空――海に沈む太陽が織り成す自然の煌き。
―――天国……かな。
 ゆっくりと起き上がる。
 視界いっぱいに広がる海。
 絶え間なく繰り返される波の音。指に触れる、冷たく乾いた砂の感触。 
 目の前に広がる景色の美しさに、獅堂はしばらく我を忘れて黙り込んでいた。
「眼が、醒めましたか」
 鷹宮の声がした。
 まるで夢の続きを見ているような気持ちで、獅堂はぼんやりと振り返る。
「そろそろ、陽が沈みますね」
 普段通りの口調でそう言うと、男はわずかに微笑した。
 鷹宮は、海岸沿いの大木に、身体を預ける様にして座っていた。
 微笑したまま獅堂を見て、そして再び遠い眼を海に向ける。
 額の蒼痣――唇の傷。腕には、無造作に巻き付けられた包帯。その白さが痛々しく眼に刺さる。
 ようやく獅堂は気が付いた。
 ここは、天国などではない。現実の世界なのだ。
 鷹宮の背後には造船工場のような建物が並んでいる。が、いずれも朽ちた廃屋のように、静まり返っている。
「ここは………」
 獅堂は呟いた。
 あの時。
 あの時、網膜を焦がすほどのまばゆい光が閃光のように現れた。
 そして、身体が背後に吹き飛ばされるような衝撃があった。身体と同時に、意識も飛んで――それでも。
 それでもあの一瞬、何が起きたのか獅堂は理解してるつもりだった。
―――莫迦……。
 莫迦楓、余計なことしやがって。
 周辺の木々の下には、萩原をはじめ、あの場にいた自衛隊員たち全員が、呆けた眼をして座っていた。
 目覚めた時の獅堂同様、何が起きて、そして今、自分がどうしてここにいるのか、まるで判らないような眼をしている。
「ここは沖縄ではないかと思いますよ、飛行機以外の手段で来たのは初めてですが」
 鷹宮がそう言い、冗談めかした苦笑を浮かべる。
―――沖縄………。
 獅堂は無言で海を見つめた。
 風の冷たさ、波の音、染み入るような潮の香り。
 楓と一緒に見つめた海――さらさらと、指の間を滑り落ちていった砂の記憶が蘇る。
―――あれ、いつのことだっけ。
 わずか10日ほど前の出来事だった。でも、今は――もう永遠より遠い過去に思える。
(藍――10年後の俺たちって、想像できるか?)
 振り向いた楓の顔。きれいな八重歯。
(子供とか、いたりして)
 手に寄せられた唇。その冷たい名残が、まだ指先に滲んでいる。
(お前と会ってから――ずっと、熱があるみたいだ)
 まるで――前世の記憶のように、遠く、とても儚く聞こえる。
「鷹宮さん、楓は……」
 獅堂は聞いた。
 視線だけで鷹宮はそれを示す。
 鷹宮が見つめる先――海岸線の彼方に、逆光を浴びて立つ二つの影。
 楓と嵐の姿があった。


                  二


 最初に振り返ったのは嵐だった。
 獅堂の姿を認め、嵐は静かに微笑した。
 獅堂は少し、眼を細める。
 記憶の中の嵐より、随分大人びたような気がした。
 微笑には、逞しさすら漂っている。あれだけ衰弱していたのが嘘のように、まっすぐに背筋を伸ばし、大地に足を踏みしめて立っている。
 真直ぐな瞳で、澄み切った瞳で、ただ静かに、獅堂を見つめている。
―――嵐……。
 何故か自分がひどく安堵しているのを、獅堂は不思議な気持ちで感じていた。
 傍らの楓に何か囁き、嵐は静かに背を向ける。
 楓は微動だにしないままだ。
 先ほどからずっと、黙って――獅堂を見つめ続けている。
 楓の傍に歩み寄りながら、獅堂はわずかに笑顔を浮かべた。
 そんな顔をするなよ、最後くらいは。
 そう言ってやりたかった。
「…………」
「…………」
 波の音だけが響いている、繰り返し、繰り返し。
 この世の果て。
 波音だけが、今、世界の全てになっていく。
「……行くのか」
 獅堂は聞いた。
 どこへ――それは判らない。でも、そんな確かな予感があった。
「………」
 楓は、無言のまま頷く。
 風が少し強くなる。楓の額に、髪が落ちて揺れている。
「嵐と、……一緒に行く」
 小さく呟き、そして楓は、ゆっくりと顔をあげた。
 優しい顔。透き通った黒い瞳は、どこか笑っているようにも見えた。
 すぐに獅堂から目を逸らし、楓は冗談でも言うように肩をすくめた。
「ひとまず消えることにした、この若さで懲役くらうのも嫌だしな」
「逃亡って、罪が重くなるんじゃないか」
「つかまらないよ、絶対に」
「…………」
「それとも、ここで獅堂さんが、掴まえる?」
 獅堂は無言で首を横に振った。
 おそらく鷹宮も同じ思いなのだろうと思った。鷹宮だけではない、多分――ここにいる全員が。
「どっかで………上手く、生きていける保証があるのか」
「…………」
 楓の髪が風に巻き上げられ、頬に掛かる。
 それを払いながら、楓はゆっくりと視線を空に向けた。
「……嵐は、もう、……今の肉体のままでは、生きてはいけない」
「…………」
「いちかばちかの賭けみたいなもんだけど……俺も、一緒に行くって決めたから」
「……そっか」
 言いたいことも聞きたいことも、言葉としては何も出てこない。
 これが最後になると判っているのに、もう、何を言葉にしていいのか判らない。
 楓も黙ったまま、どこか遠くを見つめている。
 夕刻が迫っていた。
 今、この瞬間にも、世界は終焉に向けて動き始めているのだろう。
 再び起きた奇跡は、地上の人々全ての目に焼き付けられた。おそらく今、世界中が嵐と楓――二人の行方を追っている。
 獅堂にも判る。二人がこのまま、どこかへ行こうとしているのは、決して保身だけが理由ではないということを。
 もう、こうするより他に、彼らが取るべき道がないから―――。
 争いの火種をなくすには、もうこうするより他ないから―――。
 辛くなって、獅堂は視線を伏せていた。
 何も――できない。
 自分には、楓の手を掴んで、護ることも、引き止めることさえもできない。
「劉青は生きてるぜ」
 微かに笑って、ふいに楓が口を開いた。
「……ベクターが人を許さなければ、人がベクターを受け入れなければ、俺たちがいなくても、また、同じことの繰り返しだ」
 その目は、嵐と同じ、確かな強さと揺るぎない輝きを秘めている。
 楓の決意の固さを、それをもう、誰にも止められないことを、獅堂は理解するしかなかった。
「努力するよ……約束する」
 獅堂がそう言うと、楓は無言で、自分の首の後ろに手を回した。
 その手のひらに載せられ、差し出された銀の鎖を見て、獅堂は――楓の顔を見た。
「……今まで、ありがとな」
 やがて、楓が静かに視線を逸らすまで、獅堂はその顔を見続けていた。
「んじゃ、行くよ」
 そして楓は、何気ないように、また明日にでも会えるように、ひょい、と軽く手をあげた。
「おう」
 同じように片手を上げて、そして、獅堂はうつむいていた。
 最後は笑顔で別れたかった。
 だから今だけは、自分の顔を見られたくなかった。
―――なんで……。
 なんで、楓だったんだろう。
 どうして、楓じゃないといけなかったんだろう。
 普通に出会って、普通に一緒にいたかった、これからもずっと、十年でも、二十年でも。
「……………」
 少し躊躇った後、楓がそっと腕を伸ばす気配がした。
 獅堂の肩に手がかけられる。何か言いかけた唇が止まり、楓はそのまま苦しげにうつむく。
 肩に置かれている手が、わずかに震えているような気がした。
「……藍………」
 それだけで、もう十分だった。
 楓の気持ちが、――あの朝別れた時からの気持ちが、全部伝わってくるようだった。
 うん。
 獅堂は頷いた。
 うん――判ってる。
 お前は、あの海で、きちんと別れを言ってくれてたんだよな。
 最初から、あれで最後にするつもりだったんだよな――。
 誰のためでもない、自分のために。
 だから、お前は。
 やがて楓の手が静かに離れる。ぬくもりが、香りが、影が、遠ざかっていく。
―――さよなら……。
 獅堂には、もうその背中を見る事ができなかった。




                  三


「……奇跡だ……」
 腰をついたままのドクターケリーは呟いた。
 警報音が、まだ煩く鳴っている。
「……彼らは……私の、子供たちだった」
 窓辺に立ち、空を見上げていた女が呟いた。
 傍らに立つ男に体を預け、抱きかかえられるようにして、かろうじて両足で立っている。
 上着だけを羽織った背中。
 綺麗な人だとは知っていた。でも――目覚めた姿は、想像していた以上だった。
「出来るものなら、救ってやりたかった……助けてやりたかった……」
 静かな口調で女は呟く。
 その透き通った頬に、透明な雫が静かに伝う。
 黙ったままだった傍らの男が、その身体を包み込むように抱き締める。
「……報告、しないと」
 その様を呆けたように見ていたケリーは、ようやく、慌てて立ち上がった。
 そうだ、報告だ、この吉報を誰よりも待っていた人に、ほんの数十分前、ようやく意識を取り戻したあの人に。
 ミスター蓮見とミセス奏。
 二人にとっての平穏はまだ遠い。当分苦難の日々が続くだろう。
 いったん引き下がった米軍が、再びやってこないとも限らない。彼女の疑いが完全に晴れるまで、まだ、しばらく時間はかかるだろう。
 そして――間違いなく。
 この先、ベクターと呼ばれる新種には、厳しい冬の時代が待っている。
 医師は最後に振り返った。
 まるで、それ自体が奇跡のように美しい二人。
 抱き合う二人の背後に、眩しい――光が、一瞬かすめて、そして永遠の果てに飛び去っていったように見えた。
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 これが、地上であなたと話す、おそらく最後の言葉になります。
 なのに、もう、言うべき言葉が何も見つからないのです。

 さようなら、さようなら、さようなら―――