十六
「死にたくなければ、全員ここから退避してもらおう」
冷たく冴え渡った声だった。
「……劉……青」
楓は、絶望的な思いで顔を上げた。
背後から髪を掴まれ、うつぶせに床に組み伏せられているため、首の自由がままならない。
おぼろな視界。
血に染まった白衣を着た男が、普段と変らない顔で、扉の前に立っている。
日本から来た兵士の銃口が、一斉に劉青に向けられる。
「私を撃ってどうする。自衛隊の諸君、大変な国際問題に発展するぞ」
そう言う劉青の右腕は、だらりと力なく垂れている。その肩から、まだ新しい血が床に滴り落ちている。
「下にいるお嬢さんも動くな、少しでも君が動けば」
劉青が左手をあげる。
楓ははっとした。
劉青が左手に持っているのは拳銃ではない。何かの――リモコンのようなもの。
ふいに激しい爆音が、殆んど間近で鳴り響いた。
隣室で何かが爆発したのだと、――それが、劉青のリモコン操作で行われたのだと、咄嗟に楓は理解した。
噴出した煙が、室内に流れ込む。警報が激しく鳴りだす。
「貴様、……正気か」
背後から楓を押さえつけていた蓬髪で大柄な男が、うめくように言った。日本からきた兵士。獅堂がさっき、萩原さんと呼んでいた男である。
「この城には、ほとんど全ての部屋に爆薬が仕掛けられている。その意味がわかるか、優秀な自衛官どもめ、この城が原子力で動いていることを忘れたか」
劉青の声は冷え切っていた。
「スイッチひとつで、半径一キロは死の大地になる」
誰も、動かない。
ただ、ゆっくりと、楓の方に歩み寄る、劉青の足音だけが響いている。
「そんなことをすればお前も死ぬぞ」
萩原がうめく。
「私を貴様ら在来種と一緒にするな」
冷え切った、ぞっとするような声だった。
「助かるのは、私と真宮兄弟の三人だけだ、我々は貴様らのような下等生物とは違うのだ」
全員が――その意味を理解したのか、じりっと後退する。
「力は必要ない、わずかな震動でスイッチは入る、全員、銃をこちらに向かって捨てたまえ、そうだ――全てだ」
焦れるような沈黙の後、がちゃがちゃと銃が床に投げ捨てられた。
「原子炉は、いったん暴走すると人の力では止められない。ここにいる全員が、放射能に脳をやられて即死だよ。その意味を理解したら、そう――真宮楓を私に渡してもらおう」
劉青は、ひょい、と右手を上げた。
どこかで、もう一度爆音がする。
室内はこもった煙で薄暗くなりつつある。
「……行け、」
楓は背中に掛けられた圧力から開放された。
立ち上がり、睨むようにして劉青を見上げる。
「……やってくれたな、真宮博士」
低く呟き、劉青は蒼白い顔に、初めて死の微笑を浮かべた。
「裏切りは許さない……相応のことはしてもらう」
どこかから、モーターが回るような低音が響いてくる。
はっとして、咄嗟に楓は振り返っていた。
扉が――地下への扉が閉まろうとしている。
「獅堂さん、上がって来い!」
本能的な不安を感じ、思わず楓は叫んでいた。
「だめだ、上がる事は許さない。女が上に出れば、原子炉を爆破する」
劉青の声。
楓は――信じられないものでも見るような眼で、五メートルほど先に立つ劉青を見上げる。
「……何を、考えてんだ」
「判らないかね、真宮博士」
「獅堂さん、上がって来い、こいつのはったりなんか、真に受けんな!」
男を睨みながら、背後に向かって叫ぶ。
ただ、聞こえるのは無機質なモーター音だけ。
「獅堂さん!!」
音が止む。扉が――完全に閉まったのだと判る。
―――あの、莫迦……。
楓は唇を噛んで劉青を睨んだ。
右肩を貫いた銃弾は、間違いなく大動脈を傷つけているはずだ。
動けるはずがないと思ったのは甘い観測だったのだろうか。
が、劉青は、みるからにひどく出血していた。多分、利き腕はもう使えないし、このままでは出血多量で死ぬだろう。これで――動いているのが不思議なくらいだ。
壁際に寄った自衛隊員たちは退却しない。おそらく、劉青の容態を見極めようとしているのだろう。このまま自然に、力を失うのを待っているのかもしれない。
嵐は、床にうつぶせに倒れたままになっている。
「……弟を見殺しにすると決めたのか、彼を治せるのは私だけだと言ったのに」
楓をじっと見つめたまま、劉青は低く呟く。
この男が今、はじめて――人間らしい怒りの感情を抱いているのが楓にも判った。
楓は、じりっと後退しつつ、劉青を睨んだ。
「お前の言葉など信じない。……お前が本気で嵐を治すなんて、信じられない」
「……どうしてだ、嵐君は、我々の、大切な同志じゃないか」
「嵐は俺とは違うからだ」
楓は吐き捨てるように言った。
「嵐は死んだって、お前みたいな男に服従するような人間じゃない、俺の命がかかっていたとしても、嵐なら、自分の信念を貫き通す」
「…………」
「仮に嵐が生延びたとしても、いずれ必ず、お前は嵐が邪魔になる、それが判っていたからだ」
「その信念とはなんなんだ、在来種と共存することに、一体何の意味がある」
劉青は、心から理解できないという風に眉を上げた。
「……同じ、人間だ」
楓はうめいた。
「同じ?彼等は決してそうは思っていないのに?」
「思う奴もいる、それを信じなきゃ、始まらないこともある」
「信じる?在来種どもを?」
乾いた哄笑が室内を揺らした。
「だったら、教えてやろう、真宮博士、我々を蝕むものの正体がなんなのか」
―――蝕む、もの……?
苦しげに笑いを抑え、劉青はくいいるような目になった。
「君の言う通りだ、嵐君は私の手では治せない。ウィルスは私が作り出したものではないからだ。ワクチンなど、この世の何処にも存在しないからだ」
「…………」
「君に投与したのは、ちょっとした大腸菌だよ。ワクチンで中和されたから害はないが、ワクチンなどなくても、多少の胃腸の痛みでおわっていたはずだ」
「…………」
そこで言葉を切り、劉青はにっと笑った。
「ウィルスは自然発生したものでも、外宇宙から持ち込まれたものでもない。あれは、自殺種子なのだ」
「……自殺、種子?」
漢字がすぐに頭に浮かぶ。どこかで聞いた言葉だった。遺伝子関係の――何かで。
楓は戸惑って、眉を寄せる。
「そうだ、その名のとおり、自殺種子だ。ウィルスとは、自殺種子を応用して造られたものだ」
「…………」
どういう意味だろう。
判らない。
ただ、無言で劉青を見上げると、男はうっすらと微笑した。
「2020年の初頭に禁止になったターミネーター技術というのを聞いた事がないかな。かつて遺伝子組替え穀物に多用された悪魔の技術だ。開発した新種の穀物、それを農家に勝手に栽培されないよう、一世代で自動的に死滅させるよう、その遺伝子にあらかじめ毒素を組み込んでおく技術のことだ」
「…………」
「ターミネーターとは、英語で終わりを告げるもの、という意味を持つ。バイオテクノロジーの分野では、それは遺伝子の読み終わりをもたらす塩基配列を意味する」
「…………」
終わりを告げるもの。
楓は、その言葉の無気味な響きにわずかな身震いを感じていた。
「穀物に組み込まれた自殺種子は、発芽と同時にブロックを解かれ、穀物の体内に蓄積されていく、そして――新たな種を生み出すことなく、自然に枯れる」
「……もう、いい」
思わず呟いていた。これ以上聞きたくなかった。
劉青の言おうとしていることが、その先が、もう楓には判っていた。
「判るだろう、真宮博士」
劉青の声は冷静だった。
「在来種にとって、ベクターとは遺伝子組替え穀物と同じだったのだ。我々がTHと影で称されていたのは知っているだろう。トランスフェニック・ヒューマン。遺伝子組替え人間。これほど単純で皮肉に満ちたネーミングがあるだろうか。―――そう、我々はマウスやサルと同一の存在だったのだ」
「もういい、もう判った」
首を振る――もう、いい……。もう、聞きたくない。
「危険な新種が交雑で増えては困る。自然界で勝手に増殖されては困る。だから、女性は妊娠時に、男性は第二次成長時に、自殺種子――組み込まれたウィルスが発芽する仕組みになっていたのだよ」
「…………」
眩暈がした。
楓は膝をついていた。
「……ウィルスは発芽しても、体内で蓄積される時間に非常な個人差があったようだ。私にも全容は判らない。第一世代の殆んどは、発芽して発症するまで、実に十年以上かかっている、発症しないケースもある。その間、確実にベクターは増殖を続けた。最悪のパイオハザード、ペンタゴンは、その事態をそう称していた」
―――俺たちが、何をした。
うなだれたまま、楓は絶望を感じていた。
何のために造られた。
神に許されない存在は、その存在ゆえに死滅する定めなのか。
嵐が何をした、レオが、ドロシーが、一体それほどの罪を犯したというのだろうか。
「特に、彼等が恐れたのが、喜屋武博士が生み出した我々四体だ。完全なる遺伝子ゆえに、自殺種子が効かない可能性がある――しかしそれは、彼等の杞憂だったようだ」
「…………」
「嵐君が発症している以上、私も、そして君も、均しくウィルスの洗礼を受ける可能性があるわけだ――絶望、それを、その言葉以外の何で言い表そう」
劉青が楽しそうに笑う。
その笑いは、けれどもう虚ろにしか聞こえなかった。
そう、この男は、出会った最初の日から、常に何かに絶望していた。楓はぼんやりと、劉青に初めて会った日のことを思い出していた。
自分は本当に、この男を憎むことができるのか、空虚な思いで、ただそう考えていた。
「あれは感染などで広がるものではない、私たち一人一人が生まれながらに持っているものなのだ。在来種自らが作り出した死のウィルス。なのにその罪の全てを――アメリカ合衆国は、我々四体の完全体に背負わせようとしている」
「…………」
楓は、よろめいて立ち上がる。
今、自分が何をなすべきなのか、もう自分でも判らなかった。
「……父さんを、何故、殺した……」
掠れるような声がした。
嵐―――!
劉青の元に歩み寄ろうとしていた楓は、はっとして足を止める。
うつぶせに倒れていた嵐が、苦しげに顔をあげていた。
「お前は、父さんを……どうして、殺したんだ」
「真宮博士は、罪を償いたいと言っておられた」
劉青は肩をすくめた。
「自殺種子のことを公表すると、彼はそう言ったのだ。ベクターに警告するために――少なくとも女性は、妊娠をしないようにと、そう警告することが、彼なりの贖罪だと考えたようだ」
「……何故、それを止めた」
「何故?そんなことをすれば、ベクターはたった三世代で死滅してしまうじゃないか」
吐き捨てるように言うと、劉青は初めて激しい怒りを目に浮かべた。
「在来種どもが作り出した死のウィルスだ。感染はしないだろう、が、ベクター……運び屋とはよくいったものだ。ベクターが在来種と交雑する、生まれた子供は、確実に自殺種子の遺伝子を受け継いでいる」
「…………」
「かつて隆盛を誇ったターミネーター技術が、結果的に廃止されたのは、自殺種子が、自然界に深刻な打撃を与える可能性が高かったからだ。新種との交雑により、もともとあった種にも自殺種子が広がっていく。終わりを告げる遺伝子が――広がっていく。やがて、世界に、この地上の全体に」
一気に言うと、劉青は、蒼白な微笑で部屋にいる者全てを見回した。
「……違う……」
嵐が呟いた。
「それでも……人は、やがてウィルスに勝つだろう……共存……していく」
「そうかもしれない。嵐君、君の死はそのための、貴重な礎になるだろうね」
皮肉に満ちた声だった。
「……楓、意味は……あるんだ」
楓は、唇を震わせながら、嵐を見つめた。
「……俺たちは……生まれたことに……確かな、意味がある……見えないところで……」
「嵐、頼む、もう……」
喋るな。
お前が死ねば、俺は多分生きてはいけない。
もう、この絶望を抱いたまま、この世界で生きてはいけない。
嵐は微笑する。ゆっくりと首を振る。
「……どこかで……確実に、何かが……進化している……、それは、……今は、眼に見えない」
「……嵐……」
「人の心だ……楓……君は、たくさんの素敵な人たちと出会っているはずだ……彼等は君に影響を与え、」
「…………」
「君もまた、彼等に影響を与えている……それでいいんだ……生きてることに、それ以上の意味なんてない、」
―――嵐…………。
「今は目に見えなくても、やがてそれが……大きな力となって、風を起こす……そんな日がきっと来る」
「…………」
ああそうだな。
父さんが、そんな莫迦なことを言っていたっけ。
俺たちの名前には――風という文字があって。
そんな馬鹿げた話、今の今まで忘れてたよ、嵐。
楓の表情の変化を読み取ったのか、嵐の表情が安堵したように緩んだ。
「そのために…………信じろ……絶望なんて、……この世界のどこにも、ないから」
横顔を床に伏せ、嵐の眼が力なく閉じられる。
「絶望はある。今から君にそれを教えよう、真宮博士」
冷たい声が背後でした。
楓は唇を震わせたまま、黙って背後の男を振り返った。
十七
病室に――――ばらばらと駆け込んでくる白衣の男たち。中には女性も混じっている。
蓮見は信じられないものでも見るような眼で、彼らの姿を見上げていた。
彼等は、この病院のスタッフだった。長い入院生活で、顔見知りになった者たちばかりだった。
兵士が銃で威嚇している。
それでもバリケードを組むように病室の扉の前に立つ彼等は、もう動こうとはしなかった。
「彼女は、感染の元凶なんじゃない」
ドクターケリーが、そう繰り返した。
「我々の身体には、あらかじめ特殊なウィルスが組み込まれていたと――その可能性があると、日本の防衛長官が、CCBテレビで発表した、我々も、ミセス奏がウィルスの流行とは無関係だと、そう何度も報告したはずだ」
どういうことだろう。
理解できずに、蓮見はただ、睨みあう病院のスタッフと軍人たちを見上げる。
「彼はいくつかの証拠文書と共に、自らの前歴も公開し、辞意を表明した。今、国防総省と日本政府はマスコミの猛攻で、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている」
「我々はどかない、ベクターの誇りにかけて、ミセス奏は、貴様らに渡さない」
蓮見は、ぼんやりと立ち上がっていた。
彼等は前日まで、申し訳なさそうな眼で蓮見を見ては、ただ眼を逸らしていたばかりの人たちだった。
仕方ない、今はあきらめろ、そんな目をしていた者たちばかりだった。
「断っておくが、身柄引渡しを了承したのは、君らのボスだ、それをもう忘れたのかね」
黒人の兵士が言う。
ライフルが、威嚇するように向けられる。
「我々のトップは病床にいる、それに私たちは、組織のいいなりで動いているんじゃない」
ドクターケリーが、先頭に立ち、拳を握った。
「民間人は気楽でいい」
兵士は、厚い唇をゆがめた。
「しかし我々は、組織の命令が全てなのだ、かまわない、抵抗する者は拘束しろ、運び出すんだ、すぐに!」
十八
「獅堂さんと言ったかな、こちらの声は、君のいる地下にも聞こえているはずだ」
劉青が、ふいに獅堂の名を呼んだ。
楓は――恐ろしい不安を感じ、はっとして顔を上げていた。
「ふざけんな、その女は関係ないっつったろ、もう俺とは、なんの繋がりもない女なんだよ!」
「壁にスイッチがあるだろう。それを入れたまえ、そうすれば、君の声もこちらに届く」
それには構わず、劉青は楽しげに続ける。
ふいに微かなノイズが、室内に響きわたった。
短く鳴っては繰り返される、警報音のようなもの。
―――なんの、音だ……?
楓は眉をひそめていた。
『スイッチを……入れた』
獅堂の声がした。
スピーカーを通じて、それがわずかにくぐもって聞こえる。
「その扉は特赦合金だ。核爆発でもびくともしない。そして、地上の開閉装置は私があらかじめ破壊している」
劉青がそれに答える。
楓は、呆然と劉青を見上げていた。
「そこはね、私が作った私のための棺なのだ。外からは決して開かない。そして、内側のキーを動かすには、私自身の指紋が必要だ」
『……知っている』
獅堂の声。
その背後で、最初に聞こえた警報音が、さらに音量を増している。ひっきりなしに鳴っている。
「つまり君は、永遠にそこから出られないわけだ。どうだろう、それを君は、絶望とは思わないかね」
戻ってくる返事はない。
「素敵な音が聞こえているじゃないか、それは、君が付けている放射能アラームだね、君はスーツとマスクを持っていた、わずかな間なら、生延びることができるだろう」
「り……」
楓は、唇を震わせながら、振り返った。どういうことだ?
それは――一体、どういう意味なんだ?
「原子炉の汚染された空気が、空調を通じて地下に流れ込んでいるのだよ、真宮博士。私が安らかに死ぬために考案したものが、このような効果的な役割を果たしてくれるとは、思ってもみなかった」
―――莫迦な。
そんな――莫迦な。
「さぁ、どうする、真宮博士」
「…………」
楓は打ちのめされ、そのまま、よろよろ、と後退した。
「助けられるのは、君だけだ。君の持つ、あの、莫大なエネルギーだけが、この扉を壊し、彼女を救う事ができるのだとしたら?」
「…………」
振り返る。硬く閉ざされた扉を見る。
「やってみたまえ、真宮博士、時間はない。およそ200ミリシーベルトが職業人の限界だ。それを超えると、急性障害が起きる。眩暈、吐き気、白血球減少、三シーベルトで生存確率は50パーセントを切る、助かったとしても、白血病やガンなどの後遺症は免れない、妊娠など、決してできない身体になってしまうだろう」
「…………」
楓は全身の血が凍りつくのを感じた。
させない、
そんなことだけは絶対に、でも。
できるのか――?
もう一度あの力を再現させることが?
俺に――本当に、そんな途方もないことが、できるのか?
「さぁ、博士、自由の翼を広げたまえ!我々が選ばれた存在だということを、世界の奴らにみせつけてやるのだ、もう一度!」
―――もう、一度……。
震える足を踏み出そうとした。
「……楓、だめ、だ」
それが、嵐の声だとすぐには判らなかった。
這うようにして顔を上げている嵐が、苦衷の眼で、じっと楓を見上げていた。
「……いけない……絶対にいけない……それだけは、駄目だ」
「どうしてだ、嵐、だってお前は」
言ってたじゃないか、もう一度、あの姿になることができると。
「駄目なんだ、楓……俺たちの……あの力は、永遠に使ってはならない、……永遠に、封印しなくちゃいけないんだ」
握り締めた嵐の拳が震えている。
今、嵐が、どんな思いで自分を止めようとしているのか――嵐と獅堂の関係を知っている楓には、苦しいほど良く判った。
「俺たちは、二度と、あんなものにはならないし、なれない。それが世界の均衡を護る鍵なんだ……楓」
「……わからない、どういう意味なんだ」
「あの力を生物兵器に利用しようという動きを、もう止めることができなくなる……争いが……起こる。均衡が破れて戦争が起こる。――そして、君は……この先永久に、恐れられ、……人類に狩られることになる」
力ない拳が床を叩いた。
声もなく、嵐が慟哭しているのが判った。
「……まだ、俺たちの存在は……早すぎたんだ、楓」
「…………」
「判らないか、楓。あんなものになったら最後、君は、この先、地上で生きていく事ができなくなるんだぞ……!」
―――嵐……。
その意味は、恐ろしいほど理解できた。
そうなれば自分だけではない、嵐も――ここにいる嵐もまた、同じ運命を辿ることなるということを。
「……どうすればいい……」
愕然として楓は呻いた。
「……嵐、俺は、どうすればいいんだ」
「ノズルを開いて五分たった。……もう、放射能は20シーベルトを超えているな」
劉青の声が、それを現実に引き戻す。
「劉青、そんなことをして、何の意味がある」
眩暈を堪え、無駄だと思いながら、楓は問った。
「この女のために、俺がそんな莫迦な真似をすると……お前は本気で思ってんのか、俺を裏切ったこんな女のために」
劉青は薄く笑って時計を見る。
「君はフューチャーを奪わなかった。その理由が、答えではないのかね」
「運転に自信がなかっただけだ、無駄だ、劉青、俺はそこまでお人よしじゃない」
「30シーベルト、防御服はどこまで持つかな。そろそろ吐き気を感じている頃だろうか」
「…………」
「35シーベルト」
「劉青!!」
もう、我慢の限界だった。
どうなってもいい。
今、この瞬間だけが――全てになっても構わない。
「頼む……開けてくれ!」
楓は絶叫した。
力の限り、声を張り上げた。
拳を握り、頭を床にすりつける。
「頼む、劉青、ここを開けてくれ!!なんでもする、お前の言うことならなんでも聞く!!」
「……無駄だ、開閉装置は壊したと言っているだろう」
「頼む、……頼む、その人を、その人を助けてくれ……」
慟哭が突き上げる。楓はそのままの姿勢で握り締めた拳を震わせた。
「……頼む……」
『よせよ、楓』
優しい声がした。スピーカーを通して響く、場違いに優しい声。
『みっともない、そんなのが最後に聞く声だなんて、がっかりだ』
楓はゆっくりと、顔を上げた。
―――何……言ってるんだ……?
声の背後に流れる警報音は、もうMAXを示している。
はっきりとした獅堂の声が、再びスピーカーから流れ出た。
『楓、もういいんだ。自分は、もう覚悟を決めている』
先ほどと違い、音声がクリアになっている。
―――あの、莫迦!
獅堂はマスクを外している。楓はそう直感した。
「莫迦野郎、何やってんだ!マスクをつけろ!」
『それに、自分はさ、』
「聞こえないのか、マスクをつけろっつってんだ!!」
『今まで一度も、お前のことを本気で好きだと思ったことはないんだ』
「…………」
『お前の言う通りだよ、お前は、本当に忠実なペットだった』
「………なに、言ってんだ」
『後ろめたかったし、責任も感じた。一緒に暮らそうと決めたのはそのためだ。でも、自分にとって大切なのは、それでもやっぱり任務だった』
「…………」
『最初の再会も、偶然なんかじゃない、自分は最初から最後まで、お前の行動を追っていただけなんだ』
「……ざけんな……」
それがなんなんだ、それが―― 一体、なんだというんだ。
『だから、もういい、本当にもういいんだ、楓』
警報音が激しくなる。
もう――女の声が聞きとれない。
『愛したことなんて、一度もなかった』
―――俺は愛していた。
『やっかいなミッションだった。何で自分がって思った。ずっと思ってた』
―――もう、言葉にできないくらい。
いつからだろう――考えられないくらい、深く。
『早く別れて、自由な生活に戻りたかった。自分には、お前なんて邪魔なだけだった!』
「60を超えたよ、真宮博士」
「だめだ……藍…」
楓の頬を、涙が伝った。
「そんなこと、今更、どうやって信じろっていうんだ………」
自分の中に、何かが静かに満ちてくる。
――波の、音だ。
鼓動のように、規則正しく、果てしなく。
永遠の過去から、そして未来へ続いていく波動。
(楓…………)
―――嵐……?
どこかで嵐の声がした。
どこかで――意識の底のさらに深いところから。
(………君は、全てを捨てるつもりなんだね)
―――ようやく判ったからさ。
楓は、かすかに苦笑して呟いた。
―――俺がどうするべきか、今、ようやく判ったからさ。
(……本当にそれで………後悔しないのか)
―――嵐、お前も一緒だぜ、力を貸せよ、やっと判った、俺一人じゃ無理なんだ。
(わかってるよ……)
姿は見えないのに、何故か嵐が笑っているような気がした。
―――俺にできるかな。
楓は、嵐の意識のイメージに問ってみた。
(できるさ、さっき二人で、心を開放しただろう、あの時と一緒だよ)
―――劉青はどうなる、本当に、変体は連鎖するのか。
(無駄だと思う。――彼は、多分なにもわかってない。いや……きっと、誰にも判らない、人の力では、永遠に解き明かせない謎なんじゃないかな)
―――奴は、……自分が生まれた意味を探していたのかもしれないな。
少し寂しそうに――嵐は笑った。
(彼も、この時代が生み出した異端者の一人だ。…いつか、自然に淘汰される時がくる)
―――そうだな………。
青い光が――意識の底から覚醒していく。
楓は目を閉じ、全ての意識を開放した。
(行こう、楓)
行こう――嵐……。
十九
病室は騒然としていた。
悲鳴と怒声。
威嚇射撃が、天井の電球を打ち抜いた。
カプセルは数人の軍人によって持ち上げられ、もう――運び出されようとしている。
「蓮見さん、止めるんだ!」
兵士のライフルと格闘しながら、ドクターケリーが叫ぶ。
その顔は青黒く腫れ、口から血が滲んでいる。
「くそっ」
蓮見はうめいた。
背中を、複数の男に押さえ込まれいてる。這うようにして前に進もうとする。その頭を押さえつけられる。
「どけ!邪魔だ!」
殴られたケリーの身体が壁に飛んで激しくぶつかる。
女性看護士の悲鳴。集まる人の輪を、銃を振っておしのける兵士たち。
右京が納められたカプセルは、すでに病室を半ば出ている。
無駄なのか、―――駄目なのか。
絶望を押し殺し、蓮見は渾身の力を込めて腕を伸ばした。
「―――右京!」
その時、
―――?
「うわっ、」
「なんだ」
網膜を焼く閃光。
蓮見は思わず眼を閉じていた。
がたん、と激しい音がする。
ふいに背中を押さえている力がなくなった。
「た、退避!!」
「危険だ、このフロアを閉鎖しろ、いや、まず退避だ」
「どっちなんです」
「知るか、ガッデム、だから、こんな役目は嫌だと言ったんだ」
落下して、薄くケースが開いたカプセルが床に投げ捨てられている。
ほのかな光が、残光のようにカプセル全体を包んでいた。
「……これは、なんなんだ」
ケリーが呟く。
―――右京。
蓮見は、ようやく自由になった足で、カプセルの傍に駆け寄った。
予感がした。本能のような予感だった。
この女は、今――行こうとしている。
「右京!」
カバーを開け、冷えて固まった、蒼白い体を抱き上げる。
生きている人の体温ではない体を、抱き締める。
蒼白く発光する肉体。内蔵まで透けて見えるほど、まばゆい。まるでそれは、深海で蒼白く発光する、生物のように見えた。
いったん弱まった光が、ふいにまぶしく輝き出す。
すでに病室には、蓮見と右京、そして壁際で尻餅をついている、ドクターケリーだけになっていた。
「右京、行くな」
蓮見は叫んだ。
あの日のように。
何もかも振り切って、今――こいつは、人である自分を、本当に捨てようとしている。
「行くな、ここにいろ、お前の居場所はここなんだ」
届かないかもしれない声で、蓮見は必死で訴え続ける。
「ここなんだ、右京、ここにいろ、戻って来い!」
無駄な事なんて、この世界にない。
人は無力で、弱くて汚い。それを俺は――警察をやめて、嫌って言うほど思い知らされたけど。
「この世界も、そう捨てたもんじゃないんだぜ、……右京、戻れ」
光が――視界を奪っていく。
「右京!!」
蓮見は、声の限り絶叫した。