十三
―――え……?
何が起きたのか判らなかった。
暗転――死?それにしては、リアルな硝煙と血の匂い。
腕を掴まれ、引き起こされる。
ものすごい力だった。そのまま走り出す相手にひきずられるように、獅堂もまた走っていた。
闇だ。
どこもかしこも――真っ暗だ。
配電盤の灯りさえ消えている。一面の闇。空気が止まっている。多分、空調が止まったからだろう。
闇の中から、きしるような呻き声が聞こえた。
そしてそれを聞いた時、獅堂は全てを理解した。
「お前を許したわけじゃない」
耳元で冷たい声がした。
足を止めかける――それを強く引っ張られる。
―――楓、
「今は嵐を助け出すのが先だ、お前の手が借りたい」
―――お前が、劉青を撃ったのか。
その言葉は飲み込んだ。
「嵐は……大丈夫なのか」
手が借りたいというのは、どういう意味だろう。
楓に手を引かれるまま、いくつかの部屋を駆け抜ける。そして、ようやく楓は足を止めて膝をついた。
扉が、床にあるのだとすぐに判る。
一メートル四方の空洞が、ぽっかりと床に空いている。
―――ここから下が、例の核……シェルターってやつか。
獅堂は、ラウに見せられた城内の見取り図を思い出していた。
空洞の壁面には鉄の梯子がついている。
「閉まってたらお手上げだった……ラッキーだな」
楓は低く呟いた。
「電源を落としたのは、お前の仲間か」
「楓がやったんじゃないのか」
「いや、違う」
「…………」
鷹宮さんだ。
多分――そうだ、躊躇して獅堂は頷く。
もしそうだとしたら、まるで奇跡のようなタイミングだった。劉青は銃を持っていた。反撃されていたら――楓も、自分も、無傷ではいられなかったような気がする。
「嵐は、この下にいる。もう、奴は自分一人では歩けない」
先に梯子を降りながら、楓が言った。
「怪我でもしてるのか」
「……病気だ、早急な手当てが必要だ」
――――病気……。
梯子を降りる。
ようやく闇に眼が慣れてきた。
暗闇の中で向かい合う。楓が、自分を見下ろしている。
「……悪い、少し、かすったな」
一瞬なんのことだか判らなかった。耳元に――伸ばされた楓の手が、途中で止まった。
楓は顔を逸らし、少し厳しい横顔でうつむいた。
「嵐は病気だ、可能性はわずかだが、俺の体内に抗体ができていれば、助かる可能性もある」
「……それは、もしかして」
嫌な予感が胸をかすめる。
楓は眉をひそめて、暗い通路の向こうに視線を向けた。
「とにかく急いでくれ、時間がないんだ」
十四
「残念ですが、ミスター蓮見」
軍服を着た男は、そう言って申し訳なさそうに銃を抜いた。
黒い肌に、厚い唇。どこかたどどしい日本語だった。
「我々は、法に乗っ取って、カナデ・ウキョウの身柄引渡しを要求している」
「知るかよ、そんなもん」
保冷カプセルを背に、蓮見は取り囲む者たちを見回した。
カーキ色の軍服にブーツ、帽子には星条旗。一目で米軍の人間だと判る。
―――あんたに言われなくても、わかってるよ、防衛庁長官さん。
蓮見は笑みを浮かべる。自分でもそれが強がりだというのは判っていた。
こいつは、俺が守る。そう決めたんだから――。
「あなたの態度は、もはや、法の保護に値しないのです、ミスター、残念ですが」
「こいつは、俺の女房だ、それを、俺の許可なしにどこに連れて行くってんだ」
「我々は、大統領の許可証を得ているのです、ミスター」
「それがなんだってんだ、大統領だか蜂の頭だが知らないが、俺には何も関係ないね」
―――無駄なことだよな。
カプセルの冷たさを背に感じながら、蓮見は苦い気持ちでそう思っていた。
判っている。素手で、組織の援護もない自分に――何ができるというわけでもない。
NAVIの代表者たちは、すでに右京の引渡しを決めてしまっている。
今朝までついていてくれたドクターも看護士も、全員逃げるように部屋を出てしまっている。
右京が、唯一の同胞にも見捨てられた以上、ただ、抵抗するだけ無駄だということは、よく判っている。
「ミスター、下には騒ぎを知ったマスコミが押し寄せている」
軍の男は辛抱強く繰り返した。
「知ってるよ」
「誰もが今、目に見えない敵をおそれ、不安に感じている。ミスター、これは、人類全ての平穏を守るためなのです」
昨日、NAVIの連中にも同じことを言われたな。
蓮見は思わず苦笑していた。
どいつもこいつも――ウィルス、ウィルスだ、一体、どこのどいつが、右京から感染したっていうんだよ。
「こいつは、ウィルスとは無関係だ」
「それは、我々専門家が判断することです」
「もっとよく調べてみろ、右京と接触したベクターで、発病した奴がどれだけいる?俺が知る限り殆んど無事だ、右京が日本にいた頃はどうなんだ、あいつが――おかしな光に変化して」
「あなたには、理解も説明もできはしない」
「日本で誰かが発病したのか?そんな話は聞いてない、いいか、よく聞け、こいつは――無関係なんだよ」
だん、とカプセルを叩く。
溜息をつき、軍の男はほっと肩をすくめた。
「ではあなたは、彼女の身体から結合前のウィルスが検出されたのを、どう説明するわけで?」
「知るかよ、それこそ、てめぇらが調べてみろよ、他のベクターは調べたのか、サンダースの所にいたベクターの身体は調べたのか、―――こいつが、ウィルスの根源体だって、きちんと証明できるのか」
「あなたは、素人だ、何も判ってはいない」
「どうせ俺はド素人だよ、だから、このド素人にでもわかるよう、きちんと説明してみろって言ってんだよ!」
「……残念ですが」
男は、嘆息まじりにベレー帽に手を当てた。
ばらばらっと、銃を携帯した兵士が病室になだれ込んでくる。
最初に腕を取ろうとした男を殴って、―――でも、蓮見の抵抗はそこまでだった。すぐに、背中に、そして腹部に、激しい衝撃が走る。
英語で飛び交う言葉が、差別的な口調だということだけは理解できた。
床に腹ばいに組み伏せられ――顔上げた視界に、運び出されようとするカプセルが映る。
「離しやがれ、莫迦野郎っ」
腕の伸ばす。その腹部に、激しい蹴りが入る。
咳き込んだ口から、血まじりの泡が溢れた。
「……ざけんなよ」
蓮見は、渾身の力で起き上がった。押し付ける腕を跳ね除け、一瞬怯んだ若い兵士の首に腕を当て、そのまま壁に押し付けた。
「正義の味方の軍人さんよ、自由な国、人権の国の、それがてめぇらの正体か!」
背後に銃が向けられる。
「手を離せ!」
「撃つぞ、ジャップ!」
それには構わず、蓮見は、目の前の兵士の首を締め付けるようにして顔を近づけた。
「あんまり、人を、舐めんじゃねぇ!」
若い兵士だった。その――緑がかった眼が蓮見を見上げ、わずかに迷うように揺れている。
「…………」
思わず、蓮見は腕を緩めていた。
その刹那、後頭部に、鈍い一撃が振り下ろされる。
悶絶して――うめいた時、頭上で慌しい足音がした。
―――誰だ……。
白い衣服を着た若いドクター。ここで、ずっと右京の身体を調べていた専属医師。蓮見は彼を、ドクターケリーと呼んでいた。白い肌と栗色の髪を持つ彼が、早口で――何かを訴えている。
一瞬足を止めた軍の男は、けげん気な顔をしたものの、すぐに肩をすくめて右京のカプセルに向き直る。
「蓮見さん!」
日本語が流暢な医師は、必死の目を蓮見に向けた。
「今、日本で、防衛庁長官の緊急記者会見が開かれているんです。大変な事実が明らかになった。この女性はウィルスの流行とは無関係だ、早急に――別の観点から、彼女のウィルスを調べてみる必要がある」
「なんだと?」
十五
「……嵐、大丈夫か」
声を掛けると、意識はあるのか、力なく頷くのが判る。
その身体の熱さに驚きながら、獅堂は、楓と共に、嵐を――左右から支えるようにして歩いていた。
まだ、電気が復旧していないのか、どこかもかしこも暗い。
空気が、少しずつ温度をあげているのが判る。
楓は何も言わなかった。
時折垣間見える、その――悲壮な横顔が、今の楓の心境を物語っているようだった。
楓は劉青を撃った。
マインドコントロールは、もう解けた。
―――自分を助けるためじゃない、
獅堂は思った。
楓は、嵐を助けるために――そのために、己との戦いに打ち勝った。過去の呪縛を振り切ったのだと。
足元さえおぼつかない闇の中、殆んど一人の力で嵐を支え、眼を光らせて走る楓は、まるで一匹の、美しい獣のようだった。
―――これが、お前か……。
獅堂は、寂しさと共に、その現実を噛み締めていた。
―――今のお前が、きっと、本当の……。
「電気はいつまで落ちてるか判るか」
早口で楓が問う。
原子炉のことは、嵐を助け出す傍ら、簡単に説明しておいた。
「せいぜい十分くらいだって聞いた。急ごう」
獅堂はそう返しながら、劉青は――どうなったのだろうかと、ふと思っていた。
あの暗がりで、楓はおそらく、後のことまで確認できなかったはずだ。
ようやく、最初に降りた梯子にたどり着く。
楓が、足を止めて振り返った。
何か言い出す前に、先に口を開いたのは獅堂だった。
「お前が先に行け、自分が嵐を支えるから、上から引っ張ってくれ」
わずかに躊躇し―――、しかし、「わかった」即座に頷き、楓はさっさと梯子を上った。
「嵐、少し、我慢できるか」
獅堂は、声を掛けながら嵐を支え、梯子に手足を掛ける作業を手伝ってやる。
「……獅堂さん……」
嵐の呟きが聞こえた。
「……楓を……頼みますね」
何言ってんだ、と言おうとして、何も言えなかった。
「莫迦、早く元気になれよ、こんな図体のでかい病人、病院も迷惑だからさ」
明るくそう言い、腰を抱くようにして身体を押し上げてやる。
「嵐――!」
上に昇った楓の声が届く。伸ばされた楓の手が、嵐の両腕を掴み上げた。
「……迷惑かけるな……」
「何言ってんだ、気にするな」
嵐と楓。
獅堂は無言で、しっかりと繋がれた二人の手を見つめた。
言葉ではない確かな絆で結ばれた二人を、もう――傍観者として見守ることしかできない自分を、その時確かに感じていた。
やがて、嵐の足が、完全に引揚げられる。
「獅堂さん、早く!」
叱責するような楓の声が、即座に響く。
一瞬忘我していた獅堂は、慌てて梯子に手を掛けた。
「早くしろ、時間がないっつったろ」
楓の手が――伸ばされる。
「楓!」
嵐の怒声と、そして一発の銃声が響いたのはその時だった。
十六
「真宮楓、そこから動くな!」
最悪の事態を想像した獅堂は、その声を聞いて、ほっと肩を落としていた。
―――萩原さん……
ばらばらと駆け寄る重たいブーツの音。
「下にいるのは誰だ」
穴の上から銃口がのぞいている。
「自分だ、萩原さん、獅堂だ」
梯子に手を掛けながら獅堂は声を張り上げた。
返事はない。
獅堂はそのまま梯子を上ろうとした。電源が落ちている間に、すべては好転したらしい。これで――楓も、嵐も助かる。
「獅堂、お前はしばらくそこを動くな」
しかし――突きつけられた銃口は動かなかった。
獅堂は言葉を失って、たった二メートル先の頭上を見上げた。
「真宮楓を確保する、お前はそこで待機していろ!」
「萩原さん!!」
乱暴な靴音が乱れている。
「嵐を離せ、汚い手でそいつに触るな!」
楓の激しい声がした。
―――楓、
「押さえろ!」
「抵抗すれば、射殺するぞ!」
格闘する気配。獅堂はたまらず梯子に足を掛けた。
「萩原さん、いい加減にしろ!何を考えてんだ、あんたは!」
「獅堂、こっちも命がけなんだ!貴様は動くなと言ったろう!」
「…………」
獅堂は激しい怒りを飲み込んで頭上を見上げた。今、おそらく、自分よりさらに怒っているであろう楓の気持ちを考え、胸が軋むようだった。
どんっと地響きのような震動がした。
「―――?」
突き上げるような衝撃。
たまらず獅堂は梯子から手が離し、床に腰をつく。
見上げた頭上に――瞬くように電灯が灯った。