十


「試してみたらどうかな、真宮博士、光の巨人に変化することによって」
 嵐を抱き支えたまま、楓は、はっとして振り返った。
 劉青――。
 姜 劉青が、黒光りする拳銃を構えたまま、扉の向こうに立っている。
「君たちの肉体の劇的変化は、遺伝子レベルで未知の進化の可能性を秘めている。変身によって、大気圏を脱し、低代謝状態で生き長らえることは、理論上、十分可能だ」
 黒い空洞のような眼が、不気味な静けさを湛えていた。
「地上で生きていても、君らは永久に檻の中のモルモットだ、……もう、君らの居場所は、この地上には、どこにもないのだよ」
 楓は、劉青と視線を合わせる辛さから、眼を逸らしていた。
 楓に代わり、力なく口を開いたのは嵐だった。
「俺は――二度と、あんなものには変化しない……楓も、だ」
 そして、うつろな動作で首を振る。
「お前が俺たちに、あんな妙な要求をした理由は判っている。………俺たちの結びつきを強めて――何をするつもりだ」
 くくくっと劉青は笑う。本当に楽しそうな笑い方だった。
「結びつき――絆。そう、それが、光量子学よりも、DNAの塩基配列の分析よりも――何より有効な手段だと、私は判断したのだよ、真宮博士」
 そして劉青は、口元に笑みを残したまま腕を組んだ。
「かつて私は、真宮博士に実に色々な実験を試みた。博士がどのような精神状態に陥れば、あの光の力は蘇るのか……それを解明するのが、私の研究の最大のテーマであり、求めていた答えだった」
 楓は眼を閉じる。その声を聞いているだけで、動悸が激しくなっていく。
 自分の身体が受けた苦痛。――思い出すだけで、全身が冷たく凍りついく。
「肉体を責めるだけでは、博士の意識は真に光を求めない。そう思った私は、博士の深層意識に、あるイメージを送ってみたのだ」
―――イメージ……?
 うつむいたまま、楓は眉をひそめていた。
 まどろみの中で見た、悪夢の風景が、ゆるりと脳裏に蘇る。
「博士の親しい人を、死に追いやるイメージだ。その時初めて、真宮博士は光の力を求めようとした」
 そう言って劉青は腕をほどき、ゆるやかに楓と嵐の方へ近づいてきた。
「けれど、それだけでは、駄目だった。何かが………何かの力が、決定的に不足していた。そして、私はそのイメージの中に、ひとつの光を挿入してみた」
 嵐が、よろめきながらも劉青と楓の間に割って入ろうとする。
 劉青はその腕を掴み、まるで子どもを相手にでもするように、押しのけた。
 嵐は、あっけなく膝をつき、そして苦しげに肩で息をする。
「やめろ!」
 楓は叫んだ。嵐に触るな。そっとしておいてくれ。
 しかし叫んだ楓が、今度は劉青に腕を取られ、引き寄せられていた。
 近づく顔。思い出したくもない香りに包まれる。
 それだけで、身体が竦んで、動けなくなる。
「いい子だ……」
 掴まれた腕が、背中でやんわりとねじ上げられる。
「――っ…」
 楓はうめく。苦痛と恐怖で、気が遠くなる。
「その光とは、真宮嵐」
 耳元に唇が近づく。
「雌体である君の本能が求める、唯一の相手」
「…………」
「そして、君は理論上、変化できるレベルまで精神を高調させた。私には判った。真宮博士は――弟の嵐と極限まで心をシンクロさせることによって、初めて変化を可能にできると」
「……やめろ、ヨハネ」
 嵐の声。叫んでいるのに――力ない声。
「真宮博士、君の弟は、間違いなくHBHを発症している。そしてこの地上で、彼の病を直せるのは私しかいない」
 楓ははっとして顔を上げた。
 咄嗟に、すがるような目で劉青を見上げていた。
「私の望みは……」
 劉青はそう言い、満足そうに薄っすらと笑う。
「真宮博士、君に、あの日の状況をもう一度再現してもらいたいだけだ。あの奇跡を――もう一度世界の前で再現してほしいだけだ」
 そんな。
「無理だ……そんなの」
 深い絶望を感じ、楓はうめいた。
 不可能だ。できるはずがない。
「できなければ、嵐君は助からない」
「無理だ、できない、そんなもの……したくても、できない……」
 嵐は出来ると言っていた、でも――そんなの、俺には無理だ。
 ふと耳に手を当てた劉青が、わずかに不思議そうな顔になった。
 それが、すぐに満面の笑みに変る。
「……真宮博士、どうやら別れた君の妻が、面会に来ているらしい」
「………………」
 自分の身体が、恐いほど冷たくなっていくのが判る。
 楓は無言で、劉青を見上げた。
「始末して来たまえ、君自身の手で」
「…………」
「約束しよう、それで嵐君の命は助ける。なんとも素敵な交換条件じゃないか」
―――嵐の、命を……?
「……だめ、だ、」
 背後で嵐の呻き声が聞こえた。
「そんなのだめだ、信じるな、楓」
 楓は無言のまま――手渡された冷たい拳銃に視線を落とした。
「楓、判らないのか」
 焦燥したような嵐の声。
 ただ、薄く笑ってそれを見下ろしている劉青の眼差し。
「……こいつは、君から……この世界への未練を全部、断ち切らせようとしてるんだぞ、どうして、……どうしてそれが判らない!」
―――未練なんか、
 振り向かないまま、楓は眉をしかめていた。
「さぁ、どうする、真宮博士」
「…………」
「それが君がなすべき最初の選択だよ。真宮博士、在来種への未練を断ち切れ」
「…………」
「そして、薄汚れたこの世界を壊しに行こう、私と共に」
 自由の国へ――。


                十一


「駄目だ、完全にロックされています。……制御棒を動かすことは不可能だ」
 キーを叩きながら、鷹宮は通信機に向かって声を荒げた。
 途中まで順調に進んだ作業は、最後の最後――原子炉を止めるための、制御棒を動かす段階になってストップされた。
『――こちらの動きを読まれて、先にロックをかけられたのかもしれないな』
 通信機の向こうから聞こえるラウの声にも、緊張がみなぎっている。
「……向こうが、一枚も二枚も上手、というわけですか」
 呟いて、念のため鷹宮は、再度背後を振り返った。
 壁際で、ずっとうめいていた男は、諦めたのかもう静かになっている。
 頑丈に縛り上げた縄は自力で解かれることはないだろう。
 男から奪った防御スーツとマスクをつけた獅堂は、すでに地下の配管路を通って城内に侵入を試みているはずだった。
 室内の放射能アラームは、まだ、一度も鳴っていない。
 それは、獅堂のスーツにも装着されている。鳴った時点で引き返すようにと言ってはいるものの、おそらく獅堂は戻ってはこないだろう。
―――ミスったな、私としたことが。
「他に方法は、」
 配電盤を睨みながら、鷹宮は言葉を繋いだ。
 なんとしても――。
 獅堂だけは、無事に城中に入れなければならない。なんとしても。
『ない、後は地震でも起きて、機械が自動に止まるのを待つくらいだ』
 ラウも焦燥しているのか、早口の返事が返ってくる。
「…………」
 鷹宮は、無言で、再度、同じ動作を試みた。
 コンピューターは、その指示を受け付けない。
 事務的なエラーメッセージが繰り返される。
「地震以外で、機械が自動停止する場合はなんでしょう」
 鷹宮は聞いた。
「どのような事故が起これば、止まりますか、具体的に教えてください」
 通信機の向こうから沈黙が返ってきた。
『……君も、相当なクレイジーだな、ミスター鷹宮』
「誉め言葉と受け取ります。指示してください、ミスターラウ。どうしたら――この原子炉を止める事ができますか」


               十二


 口をぴったり覆うマスクのせいで、呼吸がしづらかった。
 暗闇の中、それでも、ようやく長いトンネルから出たことが獅堂には判った。
 咳き込んで、マスクを外し、喘ぐように新鮮な空気を求める。
 腰についている放射能アラームは一度も鳴らなかった。
 鷹宮に、無理に着せられた防御スーツだが、原子炉で作業に当たる鷹宮の方が――むしろ、それが必要だったのではないだろうか……。
 かすかな不安を抱きつつも、足音を忍ばして、壁際を進む。
 冷たい空気。その感じで判る。相当広い場所に出たのだろう。
 足元が硬い。リノリウムの床だろう。壁には、ときおり凹凸がある。配電盤のようなものにも手が触れる。
 恐いくらい静まり返っていた。
―――停電……しているのだろうか。
 では、鷹宮は、上手く原子炉を止められたのだろうか。
 だとしたら、すでに先発した仲間が、城内で救出に当たっているはずだが。
 ぱっと、照明が瞬くようにして点いたのはその時だった。
「…………っ」
 その余りのまぶしさに、獅堂は一瞬、動きを封じられ、そのまま立ちすくんでいた。
 眼をすがめる。灰色の壁――それが、音もなく静かに広く。
 見渡す限り、配電盤が張り巡らされているような室内だった。
 それら全てが――正常に稼動しているのが、刹那に獅堂にも判っていた。
「罠にかかったネズミだな」
 声がする――咄嗟に拳銃を構えていた。
 開かれた扉から出てきた人影――二人。
「……全てのシステムは正常だよ。原子炉にまで手を出すとはおそれいった。ただし、ガードは万全だ、君らには、どうにもならない」
 初めて聞く声――低い、掠れた、何かがきしるような。
 けれど、その顔は、確かに一度観た事がある。
「……ヨハネ・アルヒデド博士」
 拳銃を構えたまま、獅堂は唇を噛んで呟いた。
 姜劉青。
 長身黒髪の白衣の男は、まるで手遊びでもするような様子で拳銃を手にしていた。
「外のお仲間は、黙っていても忠実な猟犬どもが始末してくれる。天下の自衛隊が、朝まで地人の敷地内でうろうろ――生き恥はさらしたくはないだろうしね」
 皮肉な声。
 獅堂は拳銃を握り締めた。
 視線は――もう、とうとうと喋る白衣の男ではなく、その背後に立つ男に釘付けになっていた。
 実戦経験のない獅堂より――おそらく確実に照準を定め、冷静な眼で拳銃を構えている男に。
―――楓……。
 眩暈がした。
 楓の表情の虚ろさに、その視線の冷たさに。
 別れた時と同じ服。同じ髪、同じ唇。
 なのにまるで、初めて見る赤の他人のようだった。そして楓もまた、見知らぬ女を見るような眼で自分を見ている。
「……莫迦じゃねえの、あんた」
 わずかに眼をすがめ、呆れたような呟きが聞こえた。
「わざわざ、こんな所に何しにきたんだ、方向音痴もここまできたら末期だな」
 次の瞬間、轟音がはじけた。
 足元すれすれに打ち込まれた弾丸。
「っ……」
 獅堂はあとずさり、たまらず腰をつく。
 そして、拳銃を構える。安全装置を外す。
「……あんたに俺が撃てるのかよ」
 無感動な声と共に、二発目が発射された。それは――床に腰をつく、獅堂の耳元をかすめて床に打ち込まれる。
―――本気だ。
 恐さはなかった。哀しいのとも違う。ただ、やるせない気持ちだけが全てだった。
 獅堂は、黙って引き金に指を掛けた。
 楓は、本気で自分を殺そうとしている。
 マインドコントロールされているのか、自分の意志なのか――もう、獅堂には判らない。
「撃てないよな、あんたも一応人間だろ、人並みの心くらい持ってんだろ」
「楓……自分は、確かに」
「うるせぇな、もう言い訳はうんざりなんだよ!」
 歩み寄る楓。額に合わされた照準。即座に理解した。今、撃たなければ、確実に殺される。
「――――楓!」
 銃声が弾ける。髪が跳ね上がる。獅堂は、反動で吹き飛ばされ、そのまま壁に背中から激突していた。焦げ臭い音。鋭い痛み。
 生暖かいものが――首を伝う。
 耳か、顔を打ち抜かれたのだと思った。鼓膜が破れるほどの衝撃だった。
 死んだかな、とも思った。
 それでも――それでも、獅堂は、自分の拳銃の引き金を引く事ができないでいた。
「……何やってんだ、その拳銃は飾りかよ」
 冷たい足音が近づいてくる。
「撃てよ、最も、俺を撃っても、劉青が即座にあんたを撃ち殺すだろうけどな」
 獅堂は体制を立て直し、もう、威嚇にさえならない拳銃を構えなおした。
 指も手も震えていた。
 体ごと――震えていた。
「真宮博士、早くけりをつけたまえ、それから余り室内を傷つけてもらっては困るよ」
 出入り口の傍に背を預け、劉青は楽しそうに拳銃を手のひらで弄んでいる。
 それには答えず、楓は獅堂の傍まで歩み寄り、無言で銃を頭につきつけた。
「謝れよ」
「………何をだ」
 その顔を見つめながら、同じように銃の照準を楓の額に合わせながら、獅堂は言った。
「謝罪しろっつってんだよ、とぼけた顔してやってくれるよな、あんたもさ」
「謝ることは……ない」
「俺、サービス上手いだろ、劉青に鍛えられたからさ、あんたにも随分ご奉仕したよな、ご主人さま」
「…………」
 楓――。
 噛み締めた、自分の唇が震えている。
 引き金にかかる指が震えている。
 今、撃たなければ、二度とチャンスはない。判っている。判っているのに。
「撃てるのかよ?忠実なあんたのペットだった俺を。……なぁ、獅堂さん、このままあんたに死なれたんじゃ、俺、腹のムシが納まんないんだよ」
 冷たい銃口が額に押しつけられた。
 撃てない。
 獅堂は――やはり、同じ思いで、そう判断するしかなかった。
 駄目だった。自分はやっぱり――駄目だった。
 自分を信頼して、ここまで連れてきてくれた遥泉、鷹宮――その姿が脳裏に滲んで揺れる。
 すいません。
 なんと言って謝っていいのか判らない。
 自分は――撃てない。
 でもそれは、恋とか愛とか、そんな未練や憐れみから思ったことじゃない。
「―――聞いてんのかよ!」
 髪を掴まれ、壁に頭ごと押し付けられる。
 獅堂は拳銃から手を離した。
「……聞いている、……すまなかった」
 眼を開いて、楓を見上げた。真直ぐに見上げた。
 表情のない男の目を、多分、この世で最後に見ることになる愛しい顔を見つめた。
「ようやく判った。お前を撃てる資格がある奴なんて、この世界には誰もいない」
「…………」
 一体誰が、この寂しくて……悲しい命に手をかけることができるのだろう。誰に、それを裁く資格があるというのだろう。
「謝って済む事じゃない、でも、謝らせてくれ」
「…………」
「自分のしたことも含めて――お前が受けた全てのことについて、謝らせて欲しい」
「なんだよ、それ」
 笑いを含んだ冷たい声。
「さっき謝らないっつったばかりで、もう命乞いか、安いもんだな」
「…………」
 楓の心に、もう自分の声は届かないのだろう。そう思いながらも獅堂は続けた。
「ずうずうしいお願いだが、自分を殺して、それでお前の気が済むなら、お前に――もう一度、許して欲しいと思っている」
「死んだあんたには、許されようとどうなろうと関係ねぇだろ」
「自分じゃない」
 獅堂は、楓の眼を見つめた。
「自分じゃない……この世界に、生きている、全部の人たちを許してやって欲しい」
「…………」
「みんな……生きているだけだから、……」
 本当の意味で、悪人などどこにもいない。人は、人を裁けるほどえらくはない――誰も、
 過ちを抱えたまま、
「それぞれ、幸せになりたいと思っていただけだ……そうだろ……?」
「…………」
「すまなかった……」
 楓の眼は動かない。ガラス細工のような人口的な瞳。無機質な輝きは、揺らぎもしない。
「真宮博士、そろそろいいのではないかね」
 劉青の声がする。
 楓は、ゆっくりと立ち上がった。
「言いたいことは、それで全部か」
「……全部だ」
 本当はもうひとつあった。
 でも――今、それを言うのは、本当に卑怯なことのように思えた。
 頭上で、拳銃ががちゃりと鳴る。
「……じゃあな、獅堂さん」
 じゃあな、楓。
 心の中で、そう答えて目を閉じた。
 耳をつんざく銃声がしたのは、その直後だった。
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