七


 どこもかしこもひっくり返され、嵐が通り過ぎたような室内を見て、青桐要は、眉をしかめて嘆息した。
―――やはり、か。
「……驚いた、まさか、こんな田舎に空き巣が入るとは思っても見なかった」
 養蜂所で、助手をつとめていたという赤ら顔の太った――いかにも典型的な南部人は、そう呟いて肩をすくめた。
 ここまで案内してくれた男だった。
 男は、室内に足を踏み込むのが、どうやらひどく憂鬱ならしく、入り口のところで立ち止まったまま、入ろうとはしない。
 電気の切れた冷蔵庫は、扉があけはなたれ、中のものが散乱している。
 腐臭はそのせいで、腐った肉のまわりには虻のようなものが飛び交っていた。
 ひっくり返った戸棚。割れて散乱した食器。書類、紙切れ、むしりとられたカーテン、投げ散らかされた衣服のようなもの。
 潔癖で几帳面なはずだった男が、靴下のわずかなずれさえ我慢できずに癇癪を起こしていた男が―――。
 青桐は、赤茶けた裸電球の周りをうろうろしている蜂を手で払い、先に進んだ。
「警察のだんなの許可が降りたのが、昨日だ、掃除はなにもかもこれからだ」
 うんざりしたような南部交じりの聞き取り難い英語。
「自殺した直後に空き巣か」
 扉に手を掛けながら青桐は聞いた。
 歩く度に靴が陶器を踏み砕いていく。
「そうとしか思えない、こんな何もない蜂小屋のおやじの家に、取るものは何もなかったと思うんだが」
「…………」
 では、本当に自殺だったのか。
 本当に――この半世紀、米国の闇で君臨し続けていた男の、最後が、―――そんなものだったのか。
 小さなペントハウスのような古ぼけた家。すすけた電灯。使い古され、沁みの出来た家具。
 晩年の男の孤独と虚しさが、ひしひしと伝わってくるようだった。
 扉の向こうは、寝室らしく、その荒れ様は、リビングの比ではなかった。ベッドはひっくり返され、スプリングまで引き出されている。
 小さなテーブル……何もないそこに、わずかに赤黒い沁みが滲んでいた。
「自殺に、間違いないんだな」
 青桐は小さく呟いた。
「あんたも同じことを聞く」
 こわごわと後をついてきた男は、そう言ってうんざりしたように肩をすくめた。
「こんなオヤジの自殺に、あんたみたいな立派な服を着た人が沢山きた、聞かれることは判でついたように同じでだ、本当に自殺なのか、残したものは何もないか」
「…………」
「一体、何者だったんだ、この偏屈じいさんは」
「少々変わり者のきらいはあるが、根は生真面目な、ただの愛国者さ」
 机の沁みを指でなぞりながら青桐は呟いた。
 色々確執があった男だった。好意を抱いたことは一度もない。多分、抱かれたこともないだろう。自分でもなんのために、無駄と判っていて、フロリダくんたりまで再び足を伸ばしたのか、わからなかった。
 タイムリミットが迫っている――今日にも、右京奏は拘束され、そして世界中に――彼女の正体と共に、ベクターを襲うウィルスの感染源である疑惑が公表される。
 同時に、真宮嵐と楓の二人も、緊急手配される。危険なウィルスの媒体として――アメリカ政府は、即時の引渡しを、EURに要求することになるだろう。
―――後は……どうなる。
 その絶望的なニュースを知った真宮兄弟は、―――特に兄の方は、その時何を決断するのだろう。
「……ただの、生真面目な愛国者だ」
 青桐はもう一度呟いた。
 目前に迫った憂鬱な未来。
 でも、今はただ、青春時代を共に過ごした同士への――哀惜の気持ちしか湧いてこない。
「あんたの、友人か」
 背後の男が問う。
 そう聞かれたのは、ここに着いてから二度目で、最初、青桐はそれには返答しなかった。
 かすかに苦笑し、青桐は振り返った。
「そう――友人だ、大切な友人だった」
「そうか」
 頷いて、青桐は時計を見た。時間がない――もう、空港に戻らなければならない。
「こんな時間に悪かった。邪魔をしたな。ミスターサンダースの冥福を祈ってやってくれ」
 自分より、わずかに目線が下の男の肩を叩き、青桐はきびすを返した。
「友人に、渡すものがある」
 足を――止めていた。
 背後で聞こえた声が、信じられなかった。
「何日か前に預かった。といっても意味不明のただのメモだ。変わり者の友人が日本から来たら渡してやれと頼まれた」
「…………」
「友人はあんただけだ、そうだろう?」
 男の丸っこい指が、そのポケットから取り出した――しわくちゃの紙きれを、青桐は強張った指で受け取った。

 すべては、一世代目の完全体だけが知っている。
 地獄で会おう。


 一世代目の完全体。
「……右京奏と、ヨハネ・アルヒデド……」
 青桐は呟き、その紙を裏返した。
 そして――眉を寄せていた。
 裏側にはただ、ひとつの単語があった。

 ターミネーター


 

                  八


 じっとりと夜露で濡れた草むらを注意深く踏みしめ、獅堂は鷹宮の背中を追った。
 眼下に広がる真っ暗な谷底――空に、うっすらと光明が射している。
 夜明けが近かった。残された時間はあまりない。
 鷹宮は、しきりに右腕を耳に当てている。
 車で移動しているラウから、指示を受けながら、今――二人は、原子炉の入り口へと向かっているのだ。
 今、二人はラウの指示どおり、城の西側へ続く山中を登っている。
 暗い森林を抜けると、さほど大きくもない灰色の建物が現れた。窓ひとつない四角いコンクリートの壁。まるで、配電室か、何かのような。
「これか……」
 入り口らしい個所には、赤字で何か書かれたタグが貼り付けられていた。当然鍵が掛かっている。
 鷹宮は、腰に着けていた装備の中から器具を取りだし――簡単にそれを開けた。
「入りましょう」
 中に入ると、それはやはり配電室だった。
 無数の配管と配電盤。軽い、モーター音のような振動が、断続的に耳を揺らし続ける。
 鷹宮は、腕に着けている通信システムを耳に当て、再びラウの指示を受けた。
 そして、おもむろに室内の床――四角く切り取られた部分に、指を引っ掛け――持ち上げる。
 その下には、無数の配管が伸び、真っ暗なトンネルがどこまでも続いていた。
「地獄への入り口というわけですか」
 鷹宮は言った。
 獅堂は――その顔を見下ろした。
 あの夜別れて以来、はじめて見る鷹宮らしい笑顔だった。
「……恐くはありませんか」
「いえ、全然」
 同じように鷹宮の傍に膝をつきながら、獅堂は答えた。
 本当だった。
 身震いはする――でもそれは、恐怖とは別の感情だ。神経は――鋭く研ぎ澄まされ、わずかな異変でも敏感に察することができるような気がした。
 まるで空で、戦闘機を飛ばしている時のような。
「こんなことになるような気がしていました、あなたが同行すると聞いた時から」
 鷹宮は呟いた。
「……こんな、こととは」
「引き合う力は、止められない」
「…………」
 どういう意味だろう。
 不思議に思って目の前の男を見上げると、鷹宮は困ったように苦笑した。
「大きな力が、行き着くところへ運んでいく、これは……国府田さんが言っていた言葉らしいですけどね」
「………大きな、力……?」
「私は……それに、賭けてみることにしたんですよ」
 最後に白い歯を見せ、そして鷹宮は、地下に足を踏み入れた。


                   九


 ターミネーター……?
 空港へとひた走る車の中で、青桐は眉をしかめながら、その言葉の意味を考えていた。
 20世紀の映画だ。よくリバイバル上映される。続編が四部まで作られ――主演が、州知事として晩年を向かえた肉体派俳優。
 思いつくのはそれだけだった。
 これは、なんのジョークだろう。サンダースは青桐が知りたがっていたことが何かを明確に理解していたはずだ。過去の映画に、何かのヒントが隠されているというのだろうか。
「……ありえない、」
 それはない。
 サンダースは、間違ってもそんな気の利いた男ではない。何よりも嫌いなのがアメリカンジョークだった。堅物を絵に書いたような男が――映画?
 もしかして、あれは、彼の最後の――皮肉だったのだろうか。
 最後の最後に、自分を嘲笑うつもりだったのだろうか。
 不死の肉体、蘇り、人口ロボット、世界の終焉、核戦争。そんな単語が意味もなく流れていく。
「…………」
 しばらく逡巡した青桐は、携帯を取り出し、ある番号――登録していたものの、今まで一度も押したことのない番号を呼びだした。
 呼び出し音が何度か鳴り、少し疑わしげな声が返ってくる――『誰だ、あんたは』
 青桐は氏名と役職を名乗った。
『え……は?はぁ?』
 電話の向こうで、初めて肉声を聞く蓮見という男が、素っ頓狂な声を上げるのが判る。
「このような時間に申し訳ない。実は君に確かめたい事がある」
 青桐は時計を見ながら、早口で言った。
『な、なんなんすか、すいません、いきなり……そう、名乗られても』
「右京奏君のことだ、君は彼女と親しかった。何でもいい、彼女は――君に、何かキーワードのような言葉を残したりはしなかったろうか」
『……キー、ワードっすか』
 電話の向こうの声がくぐもっている。
 周囲に聞かれないよう、声をひそめているとすぐに判る。
―――ああ、そうか、と青桐は思った。
 この男はまだ、NAVIの病院に、右京奏の傍についているのだ。
「このままだと、今日、右京君はペンタゴンに再び拘束されてしまうことになる」
『……らしいですね、今、NAVIの連中に延々と説得されてますから、承諾書にサインしろとね』
「君はもう諦めたか」
『いいや』
 即座に返って来る図太い声。
 青桐はかすかに苦笑した。
「蓮見君、なんでもいい、何か――覚えていることはないかね。ウィルスに関することだ。私の友人の見解が正しければ、彼女は知っているはずなんだ、このウィルスの正体を」
『右京が?』
「完全体が発生源などでは有り得ない――私はそう確信している、これは、仕組まれた陰謀であり、彼らを合法的に拘束する口実だ。ペンタゴンは、間違いなく何かを隠蔽しようとしている。私が欲しいのは、その確証だ、根拠だ」
『……残念っすけど、俺に……あいつは、そんな話は』
 電話の向こうの声が戸惑っている。
―――無駄か……。
 青桐は苦く溜息をついた。
『例えばだ……ターミネーターのことで、彼女が何か言っていたことはないかね』
 電話を切ろうとして、諦めきれずについそう聞いてしまっていた。
「………………」
 初めて長い沈黙が帰ってきた。
「……蓮見君……?」
『終わりを告げるもの』
「…………」
 終わりを告げるもの。
『……そんなこと、そういや言ってました。えーと、なんつってたかな、遺伝子が……どうとか、なんとか配列がどうとか』
「…………」
 終わりを告げるもの。
 青桐は虚ろな眼を上げた。
 一面に続く灰色の小麦畑。舞い上がる種子。
―――そうか、
 そうか。
『すいません、詳しくは記憶してないっすけど、確か、あれは戦争の最後の日でした。オデッセイが、撃墜しされて、その直後に……』
―――そうか、そういうことだったのか。
 真宮博士の絶望の意味が――喜屋武博士の意味不明な行動の意味が――……。
 初めて、青桐には、背筋の寒くなる絶望と共に理解できていた。
 ぐっと、拳を握り締める。忘我していたのは、けれどほんの一時だった。
「蓮見君、ありがとう」
『……へ?』
 拍子抜けした声が返って来る。
「ありがとう、判った、これで――判った、何もかも」
 馬鹿だ、俺は。
 青桐は携帯電話を握り締めた。
 映画の印象の強さに囚われすぎていた。馬鹿だ――元遺伝子を専門としていた科学者が、一体何をやっていたんだ。
「蓮見君、時間を稼げ、何があっても、今日、右京君を米国に引渡してはならない」
『え……?』
「一度渡してしまえば終わりだ、いいか、絶対に彼女を守れ、後は――私が必ずなんとかしてみせる!」
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