四


「ハイ」
 それまで黙っていた男は、獅堂を見ると初めてにっこりと笑って手を上げた。
 獅堂は、戸惑って、目礼を返す。
 眼下に、ようやくノイシュバンシュタイン城の先端を見渡せる山中。
 そこで初めて合流した男は、見上げるほど背の高い欧米人だった。
 茶色の髪を後ろで括り、顎にうっすらと髭を蓄えている。澄んだブルーの瞳。むさくるしい印象の中で、そこだけが宝石のように美しい。
 どこかで見た顔だと思い――すぐに、あっと気がついた。
 レオナルド・ガウディ。
 背丈も雰囲気も違うけど、眼と――表情の感じが良く似ている。
「彼の名はラウ、細かな紹介は避けますが、私たちと同様、長官の指示を受けている人間だとだけ言っておきます」
 遥泉が短く紹介する。
 ラウ、と紹介された男。
 灰色のつなぎとごつい編み上げブーツを履いている白人は、まるで雇われた傭兵のようにも見えた。
「……信用できんのか」
 陸自の――最初に獅堂に皮肉を言った蓬髪の男、萩原が疑心に満ちた声で言う。
「彼は、長官の指示により、かねてからあの城を内偵していた。私には、それ以上のことは知らされていません」
 遥泉が答える。
 狭いジープの荷台の中、たった一つのライトだけが、集められた全員の顔を照らし出していた。
「内偵って、何をした、言っとくがあんたが俺たちの生命線だ、いい加減な情報じゃ許さなねぇぜ」
 萩原がすごむ。
 ラウは、驚いた……というより、むしろおどけたような目色になった。
「トラバーユして城主様に雇われましてね、今じゃ、助手兼警備の一人として、あの城で寝泊りしてますよ」
 そう言って、やはりどこかふざけたように肩をすくめる。口から出る言葉は、流暢すぎる日本語だ。
「冷たい人だが、頼ってくる同胞を見捨てられない、それが、ヨハネ博士の唯一の欠点かもしれませんがね」
 ヨハネ博士。
 ヨハネ・アルデヒド――姜劉青。
 そのことは、ここにいる全員が認識している。
「同胞?」
 が、萩原という男は、その部分に引っかかったらしく、嫌悪も露わに眉を寄せた。
「外人、じゃあ、あんたもベクターか」
「イエス」
 その場の空気がすっと殺気ばむ。
 皮肉な目をした外国人は、挑発するように眉を上げた。
「断っておきますが、私はあなた方在来種を心から応援しているわけじゃない、単に、ビジネスとして、ミスター青桐と契約しているだけだ」
「――なんだと」
「すぐに、城内の説明をしてもらえますか」
 遥泉が、厳しい口調でその場の空気を遮った。
「今は、互いの立場のことをどうこう言い合っている場合ではないでしょう。時間がない、夜明け前には全てのかたをつけなければ」
「オーケー、オーケー」
 ラウは楽しげにそう言うと、すぐに、手元のノートパソコンを起動させた。そして、ちらっと傍らに座る獅堂に眼をやる。
「シドーさん、最初は男の人かと思いました、個人的には非常に残念です」
「……はぁ?」
 ふいに声を掛けられて戸惑っていた。意味が判らず、獅堂はただ、眼をしばたかせる。
「パーフェクトオブジェクトの恋人はパワフルでなければいけない、あなたもハスミのように強い人ですか」
「………え?」
 蓮見さん?
 思わず声を上げようとした時、画面に図面のようなものが展開した。それが――城内の見取り図だと、すぐに判った。
 ラウの眼は、もう獅堂を見てはいない。
「地上階は、居住のためだけに使われています。一見、裕福な金持ちの邸宅にしか見えない。シークレットな部分は全て地下、まるでモグラのような趣味をした男です」
 軽口を叩きながら、長い指で器用にキーを押していく。
「地下は……何階までありますか」
 画面を覗き込みながら遥泉が聞く。
「四階まで、あなたたちがお探しの二人は二階にいる。警備員は全て地上――ただし、人員は僕を含めてほんの七名、あとは全て、コンピューターがガードしている」
「……無用心すぎやしないか」
 誰かが呟き、疑心の眼がラウに注がれる。
 ラウは意外そうに眉を上げた。
「それは僕にもわからない。とにかく彼は、ベクター以外の人間を一切信用してはいない。正確にはベクターとそしてコンピュータ以外。僕が言えるのはそれだけですよ」
「どういったガードがなされていますか」
 それを遮るように遥泉。
「レーダースキャナーと、侵入物感知装置。城の周辺50メートル範囲に近づくものは全てキャッチされる。感知装置は、体重30キロ以上のものが通過したら反応する仕組みだ。庭内には獰猛な猟犬が常に放し飼いにしてあって、警報が鳴るやいなや、侵入者の喉笛を噛み切るように訓練されている」
「いかにも、貴族の末裔らしいやり方じゃねぇか」
 萩原の、皮肉な呟きが聞こえる。
「しかし、たかが犬だ」
「まぁ、表向きは、一民間人のお屋敷にすぎないのでね」
 ラウは肩をすくめる。
「で、肝心なのは地下です。……簡単に言えば、地下は、大規模な核シェルターのような構造になっている」
 核シェルター。
 その言葉に、全員がすっと息を引く。
「この階段が唯一の出入り口」
 カーソルが、細長い四角に向けられる。
「この特殊合金の扉が閉まれば、二度と外からは開ける事ができない仕組みで、いや――中からも無理だな、多分」
「どういう意味でしょう」
「特殊なキーがいると聞いたことがある。多分それは――ヨハネ博士しか持っていないんじゃないかと思いますが」
 画面が、そこで切り替わる。
「で、ここからが重要です、あなた方は、まず、城内の警備システムをダウンさせ、夜陰に乗じて侵入するつもりらしいが」
「城内のネットワークに侵入できますか」
「それはできます、問題ない、ただ――この城は」
 ラウが、わずかに眉をしかめた。
「供給された電力で動いてるんじゃないんです。青桐には報告できなかった。私がそれを探り当てたのが、つい先日のことだったので」
 言葉を切り、こりこりと眉を掻く。
「自家発電、という意味ですか」
「いや……まぁ、自家発電といえばそうなんですが」
 唇をへの字の曲げ、ラウは軽く嘆息した。
「一言でいえば、原子炉で動いてるんです。加圧水型の原子炉。超小型だが、最大で数千キューリーの分裂能力を有している。最悪の場合、ヒロシマの原子爆弾の、……まぁ、50分の一程度の被害が出る、といえば、判りやすいですか」
「原子炉?」
 さすがに遥泉が声を荒げた。
「それは……小型の原発を、所要しているという意味ですか」
「そういうことです、スタッフは交代制で常時三名、後はすべてコンピューターが制御している」
「たった三名?」
 しん――とその場が静まり返っていた。
 獅堂にも、皆の沈黙の意味は理解できた。
 この城は、そういう意味で、非常に危険な場所―――と、いうことになのだ。
「信じられない……それを、それを、ドイツの政府は知っているんですか」
「黙認だと思いますよ。このあたりの山林は全て彼のものだし、山の裏側には巨大な格納庫と滑走路がある。あれは、私用ジェットのためのものではなく、軍用機の開発にあたって作られたものだと思う」
「……軍用機……」
「今のドイツ政府、……欧州連合にとって、彼の頭脳はなくてはならないものなんでしょうね。彼がここで何を研究してるのかは判りませんが、莫大な電気を食ってることだけは間違いない。コンピューターだけでも、NASA並のものが揃えられてる……実際、クレイジーな男ですよ。芯から気が狂っているとしか思えない」
「……原子炉の、位置は」
 眉を寄せながら遥泉が呟く。
 もう、軽口を叩くものは誰もいなかった。
「城の西側にある森林帯です。そこに地下への入り口があり、地下壕に加圧装置とタービンがある。配管が通っている通路があって、そこへもぐりこめば城内に侵入できる仕組みです。逆を言えば、それが彼の用意した脱出口でもある。僕が見る限り唯一安全な侵入路――ただし、ある程度の被爆は覚悟する必要はありますがね」
「……被爆、ですか」
「原子炉で仕事をする者は、一般人の何倍もの放射能を浴びていますよ、防御服とマスクは、最低限備えておくべきでしょう」
「貴様――そんな大切なことを今まで黙ってやがったのか」
 すごんだ声で立ち上がったのは萩原だった。
「だから、ぎりぎりまでわからなかったんですよ。この部分は、彼にとっても非常にシークレットだったのでしょう、しかも迂闊にあなた方にコンタクトを取れば、今日を待たずに僕の命はジ・エンドだ」
「てめぇの言う事なんぞ信用できるか、このベクター野郎」
「萩原さん!」
 鋭い声で、咄嗟にそれを止めていたのは獅堂だった。
「……とにかく、土壇場で、作戦の変更は危険です」
 遥泉が、苦渋に満ちた声を出した。
「そんな男の言葉を信じるこたぁできねぇ。予定どおりでいきましょうや、遥泉さん、俺らは、何度もシュミレーションしてきたんだ」
 萩原が言い、周辺の者達も同意するように頷いた。
「やはり、最初の予定通りにしましょう。……ラウさん、城内の警備システムをダウンさせることは出来ますか」
「だからできますよ。それくらいはね。―――ただ、ヨハネは間違いなく、僕よりは頭がいいと思いますが」
 ラウはひょいっと肩をすくめる。
「十分でいい、その隙に侵入し、二人を救出します。第一段階で使用が許可できるのは催涙弾と採光弾のみ、各自マスクを着用、危険だと思ったら退避すること。これは時間との戦いになる」
 遥泉の言葉に、ラウをのぞく全員が、狭い車内で敬礼する。
「覚悟してください――これは、今後の世界地図を書き換えてしまうかもしれない、重要なミッションであることを忘れてはいけない」
 

                 五


――――今……何時だろう……。
 ベッドに頭を預け、うとうとしていた楓は、ぶつぶつと聞こえる呟きで覚醒した。
 はっとする。顔を上げる。ベッドに放り出された嵐の手を握り締める。
 熱は――少し引いた気もする。
 けれど、見下ろした嵐の顔は、すでにかつての弟のものではなくなっていた。
 虚ろな眼は空を見上げ、乾いた唇が、何かをひっきりなしに呟いている。
「役目の終わった自己防御組織は、自然に死に絶えなければならない。そうでなければ、そもそも防御する必要のない有益な組織まで攻撃してしまうからだ。生まれてくる役割と、そして死。そのシステムの一連の流れが――最初から遺伝子にプログラムされていたとしたら、どうだろうか」
 もう…嵐が、危険な状態だというのは疑う余地がなかった。
「嵐……」
 楓は、唇を震わせ、ただ、その手を握り締める。
「まるで顆粒球に、最初から死のシステムが組みこまれているように」
「……ウィルスのことか」
 そう聞くと、驚くことに嵐はわずかに頷いた。
「ウィルスが、人為的に作られたとしても、でも、それも、広義の意味では、予定されたシステムの一部なのかもしれない」
「……自然淘汰みたいなものか」
 楓は呟く。
「そうであって、そうじゃない。システムだ、最初から決められた――本能によって」
 嵐は続ける。
 正直、意味は分からなかった。けれど楓は、ただ頷く。
「人類も、ベクターという特殊な能力を持つ者たちも、みな等しく地球という名の生命体の細胞のひとつなのだとしたら、ウィルスを作り出したのは、地球そのものということになるんだよ、楓」
「………」
「不用になったシステムは、その本能を司るものにとって、最早有害なものでしかないから」
 そこまで言い切り、ようやく嵐はまぶたを閉じた。
「嵐、……少し、寝ろ」
 そっと額を寄せ、肩を抱く。
 その手を、嵐は払いのけた。意外なほど、それは激しい力だった。
「嵐…?」
「君はやはり、来るべきじゃなかった」
 激しい憤りを含んだ声だった。
「まだ間に合う。獅堂さんの所へ帰るんだ。あの人と、どこか、遠くで――」
 その声が途切れる。忙しい呼吸に遮られる。
「誰も………僕たちを、追う者が、いない場所で………」
「嵐、もう喋るな」
「ああ……レオは一体何をやっている、なんのために、僕らはずっと調査を続けていたんだ、レオ」
「嵐、」
「世界の果て……本当の……」
「…………」
「……楓……君は、そこへ行け……」
 目眩を感じ、楓は嵐の横に額を伏せた。
 嵐は……、もう、嵐は。
「……嵐……」
「……大丈夫だ……俺は……」
 嵐はかぶりを振っている。大丈夫だ。渇いた唇がそう繰り返す。
 楓はその肩を抱いて、熱い胸元に額を寄せた。
「ここを出よう……、嵐。そうすれば助かる望みはある。――俺の」
 奇跡のような可能性だが、俺の身体に、もしウィルスの抗体が出来ていれば。
 しかし、嵐は、薄く笑って首を振った。
「だから違う、……俺は違うと言っただろ」
「そんなの、調べてみなきゃわからないじゃないか!」
 感情が込み上げて、初めて、苛立った声が出た。
 嵐を支えるこの自信は、一体どこから来るのだろう。それが判らないから、余計に不安になる。
「劉青が、俺たちを死なせるはずがないなんて、過信にもほどがある――どこにその、保証があるんだ」
「………これは……賭け…なん…だ…」
 嵐は笑う。けれど、もう呼吸が、乱れている。
「賭け?」
「楓、僕が……もし、本当にHBHウィルスに感染しているんなら……」
「………」
「…それは、地球の……意思なんだ……誰にも、どうすることもできない………――ああ、わかった」
 ふいに嵐は笑顔になった。
「……きっと、ドロシーだ、あんな名前をウィルスにつけた……の。あの子らしいや……」
「嵐……」
 ステージングV――譫妄 妄言。
「嵐、しっかりしろ」
 ふいに熱を増したような、燃える手のひらを握り締めた。
「頼む、嵐、……死ぬな」
 俺を一人にしないでくれ。
 その手に――自分の額を押し付ける。
 もう言葉が出てこない。
「……一人に……しないでくれ……」
―――逝かせたくない。慟哭が突き上げ、喉がつまる。
 やっと――やっと、ひとつになれたばかりの魂の半身。
「空は………」
 忙しい呼吸を繰り返しながら、嵐は突然微笑した。
「空って、どんなだろう。楓」
「そら……?」
「人としての、僕の肉体が機能できなくなっても――あの、空でなら、」
 ふっと、照明が瞬いて消えた。
「……嵐?」
 楓は、まるで唐突に火が変えたような、ふいに応答のなくなった手を握る。
 闇は――けれど、数秒後には元に戻った。


                  六


「……ブロックだ」
 ラウは、親指の爪を神経質にかりかりと噛んだ。
「どうしました」
「途中までいったところで弾かれた、……アンビリーバボー、これはトラップだ。対応が速すぎる。どうやら、読まれていたらしい」
 忙しなくキーを叩く。
 その背中を、画面を、獅堂はただ不安な面持ちで見つめていた。
「逆にこっちに侵入してくる……駄目だ」
 かしゃかしゃとキーを叩く音。
 獅堂は、隣に座る鷹宮を振り返った。
 ヘッドフォンとリップマイクをつけている鷹宮は、先ほどからずっと無言のままだった。その横顔はぴくりとも動いていない。
 車の中には、獅堂と鷹宮、そして遥泉とラウの四人しかいなかった。
 遥泉は、獅堂だけを外し、すでに残るメンバーを城内へ向かわせていた。
 遥泉が指揮をとり、その内容を、マイクで鷹宮が伝達する。その段取りの中で、獅堂だけが、何もすることがなかった。
「あなたは、この作戦の訓練に加わってはいないでしょう」
 城内への同行を申し出た獅堂に、遥泉はそう言い、厳しい眼を向けた。
「あなたを連れてきたのは、このためではない。まだ、ここにいてください」
 無論、逆らうことは出来なかった。
 自分ひとりだけ、別格のように扱われたのは不満だったが、今は、遥泉に従うしかない。
「ジーザス、やられる――お手上げだ」
 ラウはついに電源を強制的に押し、両手を上げた。
「ミスター遥泉、やはりヨハネを甘くみてはいけなかった。この場所も危険だ、探知される可能性がある」
「警備システムは」
「いったんは侵入して、ダウンさせた……多分、復旧には数分かかる。ただ、どう多く見積もっても、二〜三分程度のことだ」
「彼等はどうなりました」
 遥泉が、鷹宮を振り返る。
「今、ストップをかけました、最初のレーザースキャンだけは突破している」
 鷹宮の声は冷静だった。
「撤退を告げるんだ、鷹宮さん」
「いや……」
 耳に手を当てていた鷹宮が、初めて眉を険しくひそめた。
「レーザーが作動をはじめたらしい。今戻れば、レーザースキャンに引っかかる可能性がある、かえって危険です」
「…………」
「まだ、夜の闇がある。遥泉さん、何か別の手を打ちましょう」
 遥泉は、苦しげに唇を噛んだ。
「このままでは……城内で、袋のネズミというわけか」
「……原子炉を止める、という手がある」
 呟いたのはラウだった。
「クレイジーな手だが、不可能じゃない。警備システムどころの騒ぎじゃない、全ての電力がストップする……当然、コンピュータも動かない」
「…………」
「緊急自家発電としてイーゼルが用意されているが、五分程度なら電気もつかない、しかも、コンピューターはすぐには復旧できない、警備システムの完全復旧には20分以上かかるはずだ」
「……原子炉を」
 さすがに、遥泉も声をなくしているようだった。
「緊急停止させるマニュアルなら頭に入れてきた。最悪の事態を予想しないでもなかったんでね。ただ、僕が現場に行くつもりはない。こんなところで、無駄死にしたくはないので」
「私が行きましょう」
 即座にそう言って、リップマスクを外したのは鷹宮だった。
「自分も行きます」
 獅堂もすぐにそう言っていた。ラウの話の途中から、もうなんと言われても行く覚悟は決めていた。
「あなたは――」
 言いかけた遥泉を、意外にも止めたのは鷹宮だった。
「いえ、獅堂さんも連れて行きます。原子炉に見張りがいた場合、一人で突破するのは不可能ですから」
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