――本当に、あれは偶然だったんだ。
 

  大学も、住んでる部屋も、確かに何もかも知っていた。
  でもさ……。
  あの朝、実は、マジで道判んなくなっちゃって。
  迷い込んだあの森で、お前を見つけた。

  運命って、それをそう呼んでいいのなら。
――本当に、それはあったんだ、楓……。

  

act12  「選択」

                      
                  一


 埃を縫って進むジープ。
 その荷台の中で、獅堂は毛布にくるまって座っていた。
 運転席には黒いキャップを目深に被り、サングラスを掛けた鷹宮が、そしてその隣には遥泉が座っている。
 うとうとと眼を閉じていたら、ふいに車が止まる――ワルシャワ空港で合流し、以降、列車を乗り継いで、あとはずっと車中の旅だった。
 空路は検閲が厳しいため、陸路でドイツに入国する予定だった。
 その途中、国境で何度か車が止められたが、二重構造になっている荷台の奥、そこに――獅堂をはじめ、数名の人間が潜んでいることに、さすがに気づく者はいないようだった。
 狭い荷台に同乗しているのは、ワルシャワで初めて引き合わされた、面識がない男たちだった。
 彼等は、しかし、逆に獅堂のことは知っているようで、全員、妙に意味深な……というか、探るような眼差しを向けてくる。
「全員、元陸自の精鋭です」
 空港に出迎えに来てくれた遥泉が、彼らの名前と元の所属を説明してくれた。
「長官が就任以来独自にコンタクトを取り、人柄と実績を見込んで情報調査室の特務班に任命した者たちです」
「……元、陸自っすか」
 その時、獅堂は驚きを隠せずに集まったメンバーを見回した。
 元、という割りには全員が若い。どうみても、自分とさほど年が変らないように見えたからだ。
「元というのは、獅堂さん、全員、すでに所属に辞表を書いているからですよ」
 獅堂は、はっとして顔を上げた。
「ご心配なく、ミッションが成功すれば辞表は却下される。ただし、失敗すれば」
「俺らはそのまま、首を切られて、自衛隊とは無関係な一ゲリラとして処分されるっつー寸法だよ」
 一番年かさの、萩原と名乗った男が、そう言って、むさくるしい髪をかきあげた。
「姉ちゃん、俺らは、あんたの恋人を助けに行くわけだけど」
 その顔に見覚えがあった。陸自では有名な男だ。台湾有事で最前線に立ち、何度か新聞に出ていたことを思い出す。
「俺らは、日本を出る時全員腹を括ってる。あんたに、その覚悟はできてんのか」
 舐めるような目に見下ろされる。
「覚悟……っすか」
「いざとなったら」
 試すような眼差し。さすがにむっとして、獅堂は男を睨み返していた。
「あんたの目の前で、俺らは、恋人の兄ちゃんを射殺するよう命令を受けてんだ。その覚悟があるのかっつってんだよ」
「…………」
「最後の最後になって、仲間から足ひっぱられるのだけはごめんだからな」
―――再び走り出した車の中で、その時の会話を、獅堂は苦い気持ちで思い出していた。
 それは、最初に聞かされていた。遥泉に、全てを打ち明けられたその日に。
(―――最悪の場合、我々は、真宮君を射殺するよう、命令を受けています)
(―――これも、無益な血をこれ以上流させないためなのです。あくまで最悪の場合です……理解、できますね)
 黒い作業着のような繋ぎの服と共に手渡された小型のライフル。そして携帯用の拳銃。
 それは――楓を守るためのものであり、また、葬るためのものでもある。
 獅堂は毛布の下で、その冷たい塊を抱き締めた。
―――楓……自分が、引き金を引く。
 それが、お前に――自分が出来る、唯一のことだ。
 そう自分に言い聞かせ、獅堂は再び眼を閉じた。


                  二


 いつのまにか、まどろんでいた。
 だから、これは夢だと、――楓には判っていた。


 叫んでいるのは母さんだ。助けを求めて苦しんでいる。
 天音が――泣いている。呼んでいる。俺を。
 助けてやりたい。
 連れ出してやりたい。
 でも身体が動かない。
 漆黒の炎が二人を包み――やめてくれ――叫びすら届かない。
 焼き尽くす。
 悲鳴も涙もかき消される。
 やめてくれ。頼むから。やめてくれ。
 力が欲しい。もう一度、もう一度あの力が。
 力が。
―――そうしていつまでも、届かない悲鳴を上げ続ける。



 掌ににかすかな力を感じ、楓は苦しみの底から引き上げられた。
「はぁ……っ」
 汗が額に滲んでいる。
 嫌な夢だった。
 夢だと――判っているのに、その悪夢から逃げられない。
―――嵐!
 はっと現実に立ち返る。
 嵐を寝かせたベット。その傍らに頭を伏せたまま、いつのまにか眠ってしまっていたようだった。
 手だけは、しっかりと握ったまま離してはいない。
 その繋いだ嵐の手に、微かな力が蘇っていた。身体を起こし、慌てて弟の顔をのぞきこむ。
「楓……」
 うっすらと眼を開く嵐。
「嵐、」
 楓はほっとして、さらに強く手を握り締めた。
 外部から遮断され、時の感覚を麻痺させる部屋。
 あれから、どのくらいの時が流れたのか判らない。
 何度か瞬きを繰り返した嵐の眼が、ふいにぱっちりと見開かれた。 
「俺……寝てたのか」
 思いのほか、しっかりした瞳と、そして声だった。
 ようやく安堵して、楓は長い息を吐いた。
「どれくらい寝てた……?」
「知るか、結構熟睡してたぜ」
「睡眠不足、解消って感じだな」
 嵐は、穏やかな笑みを浮かべて、軽口を叩く。
「言ってる場合か……」
 ほっと――全身から、張り詰めていたものが消えて行くような気がした。
――熱は……。
 額に手を当てると、嵐はくすぐったそうに顔をしかめた。
「じっとしてろよ」
「やだよ。子供みたいじゃないか」
 ああ、昔もこんなことがあったな、と楓は思い出していた。
 嵐が熱を出して――こんな風に、二人で。
「…楓………?」
「いや……」
 ふっと眼を逸らしていた。
 これ以上、嵐の顔を見続けていることが辛くなりかけている。
「……楓、何も心配しなくていいんだ」
 優しい声。
 何を心配するなと言うのだろう。額はまだ熱かった。熱は――まるで引いてはいないのに。
「俺は違う」
「………本当か」
 確かにただの風邪かもしれない。
 ただ、海外を回っていた嵐が、どこかで感染した可能性は捨てきれない。
 それに――劉青の、意味深な言葉も気になる。
「自信がある……ウィルスは、人から人へ感染する可能性が極めて低いんだろ……感染とかじゃない……自信がなかったら、」
 少しだけ、嵐は咳き込む。楓はその肩を抱いた。
「なかったら、君を俺に近づけたりしない、昨日みたいに……」
 嵐は、その時のことを思い出したのか、かすかに笑った。
「抱きついたりなんて、絶対にしない、そうだろ」
「………そうだな」
 そう言いながらも、仮に嵐が、ウィルスに感染しているのなら、いっそのこと移して欲しいとさえ思っていた。一人では、もう――この世界で。
「楓……」
「…………」
 もう――生きていくのは、辛すぎるから。
「楓……頼む、……しっかりしろ」
「してるさ」
 眼を逸らしながらそう言うと、強く手を握られた。
「君は、絶対に生きて、ここを出ろ」
「…………」
「そして、獅堂さんの所へ帰らなきゃいけない」
 真剣な眼、そして恐いものを含んだような声。
「…なに、言ってる……」
 楓は眼をそらしていた。
「帰るんだ、君には帰る場所がある。そのことだけは、忘れちゃいけない」
「あの女とはもう別れたんだ」
「それでも、君の帰る場所は、獅堂さんの所だ」
 嵐は、何故か強い口調で断言した。
「……この先、俺たちがどうなろうと……それだけは忘れるな、楓」
「やめてくれ」
 楓は、眉をしかめ、力なく呟いた。
 今、その話題には触れたくない。
 今は、そんなことを考えたくもない。
「それは俺の問題だ。俺のことより、お前は自分の体を心配してれば……」
 そうだ。
 そこまで言って、楓はっとして顔を上げた。
―――俺の。
「嵐、俺の体に打たれたワクチン――あれが、もし、本物だったら」
 嵐は、はぁっと溜息を吐いた。
「俺は君が心配しているような病気じゃないよ。本当に、前から少し風邪ぎみだったんだ」
 そして、むくっと半身をベッドから起こす。楓は慌てて手を差し伸ばした。
「おい、嵐」
 が、嵐は、その手を振り切るようにして、両腕をあげて、伸びをする。
「あ―、良く寝た。ここへ来て、こんなにぐっすり寝れたのって久しぶりだよ」
「嵐………」
「ん?」
 屈託のない笑顔。
 そうなのか……?本当に、安心していていいのか……?
 安堵と不安が入り混じる。
 何もできない、病気の原因を確認することさえできない、もどかしさだけが募る。
 そんな楓の表情を感じ取ったのか、嵐は緩やかな苦笑を浮かべた。
「安心しろ。劉青は俺たちを殺しはしない」
「………」
「だから――もし、奴の言う通り、ウィルスを生成し、蒔いた犯人が奴だとしたら、俺が発症するはずはないんだ」
「あいつは……お前が信じていいような男じゃない」
 楓は、苦いものを吐く様な口調で言った。
 全ての記憶、全ての暗示にあの男の影があった。
 ドイツに居た頃繰り返し見ていた夢。思い出すだけで吐き気のする悪夢。――それは、全て現実だったのだ。
 が、嵐は静かに首を振った。
「信じる、信じないの問題じゃないんだ。劉青は僕らを死なせない。死なせたくない理由があるからだ」
「理由……?」
「だから、夕べ、君に皮下注射したものがなんであれ、ワクチンは、少なくとも効果があるものを渡されたはずだ」
 死なせたくない。理由……。
「判らないか?」
 頭のいい、君らしくないね。
 嵐は微かに笑って、
「彼は、唯一変体していない完全体だ。あいつはね……、自らが変化する力を、欲しているんだよ」
 吐き捨てるように、そう言った。


                   三


「連鎖だよ、楓」
 戸惑ったまま黙っていると、嵐はそう言って、腕を組んだ。
「覚えているか?まず、君が変化して、コンマ差で俺が変った。多分――その時、右京さんも殆んど間を置かずに変化しているはずなんだ」
「……それが」
 連鎖か。
「そう、連鎖だ」
 嵐は頷く。
「それが唯一解明された変化のプロセスであり、原因とも言える。つまり、四体の完全体の――誰か、一人が変化したら」
「……それが、呼び水となって、全員がああなるのか」
「あくまで仮説だ。……実際、劉青は変化していないだろ?」
――そんなこと……。
 楓は眉をしかめて口ごもる。
「悪いが、にわかには信じられない、話が突拍子すぎるじゃないか、非現実的にもほどがある」
「では、これはどう説明する。俺は君の意識が時折読めるし、君もそれは同じはずだ」
 嵐の口調は揺ぎ無かった。
「そして、……一時だが、俺は確かに、右京さんの意識と同調していた時がある、不思議なことだが、意識がどこかで繋がっている以上、そういうことも有り得るんじゃないかと思う」
「…………」
「楓……」
 どこか――空の一点を見たまま、嵐が言った。
「君は、もう一度、あの時のように、光に変化できると思うか?」
 少し厳しくて、どこか優しい声だった。
 楓は、その言葉にも、嵐の口調にも戸惑った。
「できると思うかって……悪いが、できるなんて、一度も思ったことがない」
―――ていうか、できない。
 そもそも当時の記憶もないし、やり方?だって判らない。あれは、性質の悪い夢だったのだと思いたいくらいだ。
「俺は、出来る」
 嵐は言った。
 楓は思わず顔を上げ、その静かな横顔を見つめていた。
「連鎖はただのきっかけにすぎない。あれは俺たちの力なんだ。俺たちは、――そもそもそういう力を、遺伝子に組み込まれて生まれてきたんだから」
「待てよ、でも遺伝子なら、さんざん調べられたじゃないか」
「楓、人が、人体の全ての謎を解き明かしたと思っているなら大間違いだ」
「…………」
「誰にも解き明かせないものはある。人には踏み込めない奇跡という領域が、この世界には絶対に存在する」
「………あれは……奇跡でも、神秘でもない」
 楓は、眉をしかめたまま、苦痛を噛み殺して呟いた。
 劉青の言葉が本当なら、あれは。
「……俺たちは……何のために」
 判っていること。でも、口にせずにはいられなかった。
「この世界に生まれたんだ、それが実験の結果なのか、ただの実験の成果なのか――だとしたら、そんなの」
「楓、それは違う」
「もういいよ、全部聞いたんだ、父さんがそれに関係していたことも、全部」
「楓!」
 腕を、強い力で握られた。
「人に、人は作れない、絶対にだ」
「…………嵐」
「俺たちが生まれたのも、……ベクターが生まれたのも、必ず何かの意志に導かれた必然に違いないんだ、そう、それは地球の意思――だと、俺は思いたい」
「…………意思」
「地球の、本能――自己を守るための」
「………」
 嵐はそこで、かすかに笑う。楓の肩を抱き、自分の方に引き寄せる。
「俺たちは活躍したじゃないか、核から世界を救った、いろんなものを発明した。ベクターは人を進化させる。父さんの予言通りだったのかもしれない。進化は相互作用から始まるんだ。……最後の審判という場を作り出したのは……やっぱり、ベクターだったと俺は思う」
「…………」
「――そして、その役割はもう、終わったのかな、とも思う」
 暗い沈黙が、二人の間に影を射す。
 楓は何も言えなかった。
 無言のまま、熱い――弟の手を握り締めていた。
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