十九


「待て、嵐、本気なのか」
 肩を抱く強い力に、楓は驚愕して身をよじった。
「楓、我慢しろ、こうするしかないんだ」
 部屋の中。楓は、再び嵐と二人だけで取り残されていた。
「ふざけんな、ばっ……一体、何考えてんだ、お前!」
 激しく嵐の手を払いのける。
「君を助けるためだろう」
「いい加減にしろ、そんな莫迦な取引があるか、おい、嵐」
 それでも嵐はひるまずに押し倒そうとする。
 それを肘で押しのけて、楓は部屋の隅に後ずさった。
――嵐が、判らない。
 こいつ、気でも狂ったんじゃないか。
 そう思わずにはいられない。
「莫迦でもなんでも、それが要求なんだ、楓」
「そんなもん、信じるな、あの男のはったりだ」
「はったりじゃない!」
 嵐が再び、距離をつめる。
 楓は仕方なく、再び逃げた。
「楓、頼むから」
「嫌だ」
「楓、」
「俺は嫌だ、死んだって拒否する、そんな目に合うなら、死んだ方がまだマシだ」
 嵐の顔が一瞬歪み、それがひどく哀しそうに見えた。
 しかし、すぐに楓は追われ――、部屋の隅に追い詰められる。
「楓、できるできないは僕の問題だ。君は、受け入れてくれさえすればいい」 
「そういう問題か?とにかくあんなこと、こんな状況でできるもんじゃないんだ」
 楓は、また嵐の脇をすりぬけ、逃げる。
 嵐は辛抱強くその背中を追う。
「じゃあ、黙って死ぬのを待つのか?生存率10%の可能性に賭けてみるのか?」
「その方がまだいい」
「獅堂さんが悲しむ。そうは思わないのか」
「だから、その名前を出すなっつってるだろ」
「楓!」
「第一、俺が打たれたのが本当に例のウィルスかどうかなんて判らない。それに、あいつが、あっさりワクチンを渡してくれるとも限らないんだぞ!」
 信じられない。
 今まで――何度も劉青のやり方を目のあたりにしている楓には判る。
「俺たちは遊ばれてるんだ、あいつの変態的な趣味にお前がつきあう必要はない」
「そうじゃない、楓、俺には判る」
「何が判るんだ、あの男のやり口なら、俺の方がよく知っている」
「……楓、」
「嫌だ、なんと言われても、できないものはできない」
「……楓、頼む」
 楓は、再び部屋の壁際に追い詰められた。
 嵐も、さすがに息があがっている。
「僕が嫌なら、獅堂さんのことを考えればいい、獅堂さんに抱かれてると思えばいい」
「…………莫迦か、お前は」
 さすがに気が抜けた。
 この狭い部屋で――大の男二人が、まるで実験用のマウスのように駆け回っている。
―――ああ、漫才やってる場合じゃないんだが……。
 楓は首を振る。
 いっそ嵐でなければ、覚悟も決められた。割り切って考えられた。
 嵐だから出来ない。それを、どう言って理解してもらえればいいのだろう。
「楓」
 一瞬の逡巡――その隙をついて、嵐は楓の身体を抱きすくめ、ベットに押し倒した。
「ばっ、だめだっ…嵐!」
「判ってくれ、楓」
 近づいてくる嵐の顔を、楓は咄嗟に肘でブロックする。肘が口に当り、痛みに嵐の唇が歪むのが判った。
「あ、ごめ……」
 顔を背けた嵐の、その口の端から血が滲んでいる。
「……悪い、思いっきり、はいっちまった」
「いや……」
 嵐も、それで気が抜けたのか、少し疲れた顔で起き上がる。
 そのままベッドに背を向け、立ち上がる嵐。
 楓も起き上がり、ベッドの縁に腰かけた。
「落ち着いたか」
 そう聞くと、溜息とともに嵐の背中が呟いた。
「……楓、俺はなにも、理性を失ってるわけじゃない」
 実際、その声はひどく落ちついて、冷めて聞こえた。
 振り返り――嵐は、楓の傍に膝をつく。
 じっと見降ろしている真剣な瞳。
「今現在、例のウィルスに対するワクチンの存在は誰も知らないんだ。あのワクチンに本当に抗力があったとしよう。君がここを生きて出られれば、君の抗体を検査出来さえすれば――」
「………」
「多くの仲間たちの、命が助かる。そんな風には考えられないか」
 楓は顔を上げ、ゆっくりと嵐を見上げた。
 信じられなかった。
「冷静だな……」
 ふいになにもかも可笑しくなった。楓は笑った。
「楓………?」
「なるほどね、考えもしなかったよ、悪いが俺はお前ほど冷静じゃなかったみたいだ」
「…………」
「言っとくが、お前、そういう経験あんのか?」
 冷たく嵐を一瞥する。嵐は、無言で、楓を見つめ続けている。
「抱けよ、お前の好きにすればいいだろ」
 楓は吐き捨てるようにそう言うと、そのまま嵐から目を逸らした。


                 二十


「……鷹宮さん…」
 鷹宮の唇が、喉元から、鎖骨の当りに下がろうとしている。
 指先で乳房を包まれている。
「……獅堂さん」
 被さる唇が声を塞ぎ、求められるままにキスを交わす。
 両胸を同時に抱かれ、そのもどかしい感覚に背を逸らす。
 男の呼吸が、わずかに乱れている。それが、不思議なくらい愛しい。
―――それでも。
 楓。
 それでも。
 楓。
 心の中で、別の名前を呼んでいる。
 判っている、今だって――結局は、楓を思い出している。
 楓の――指や、唇や、温かな腕を思い出しているから……。
「…………」
 思わず、唇を両手で覆っていた。
 それでも嗚咽が溢れ、涙が零れた。
 楓。
 楓、楓――楓。
 莫迦だった。
 こんなに好きなのに。
 こんなに――愛しているのに。
 どうしてあの時、自分は手を離してしまったのだろう。
 どうして――最後まで、あいつのことを好きな女でいてやれなかったのだろう。
「……ごめ……なさい」
 泣きながら、目を閉じ、獅堂はただ繰り返した。
「……ごめんなさい、……ごめんなさい」
 鷹宮は何も言わなかった。
 ただ、黙って、開いた胸元を併せてくれた。
「……自分は、やっぱり……」
「…………」
「こんな……逃げ方はもう、二度としたくない……」
「………」
 鷹宮の顔を見ることができなかった。
 暖かな腕だった。抱かれているだけで安心できる胸だった。このまま何もかも委ねて、楽になってしまいたかった。
 鷹宮は優しい。きっと何もかも包み込んで癒してくれる。振りかかる苦痛は全て引きうけ、振り払ってくれるだろう。
――まるで、自分が楓にそうでありたかったように。
「……鷹宮さんの……言う通りです」
 涙を拭い、獅堂はようやく起き上がった。
「……自分は、あなたが、きっと好きだった。でも、あなたといると」
「…………」
 鷹宮は、じっと自分を見下ろしている。その眼は、もういいんですよ、と言っているように見えた。
「あなたに甘えて……、頼ってしまいそうになる自分が怖くて……、だから…、逃げたのかも、しれない」
 自分の気持ちと向き合うことに。
――それが、自分の生き方ではないと判っていたから。
 そして、楓と再会した。もう一人――自分が心を引かれた男と。
 鷹宮とは正反対の、放っておけばどうなってしまうか判らない危うさと、そして脆さを抱いた男と。
「そうやって…あなたは………」
 鷹宮は、静かに微笑した。
「また、苦しい道を、選んでいくんですね」
「鷹宮さん……」
「判っていました」
 鷹宮は立ち上がる。その腕には、脱いだ上着が掛けられていた。
「最後に……」
 優しい眼が、沁みるような暖かさで見つめている。
「いい話を教えてあげましょう、可愛い胸を見せていただいた、ささやかなお礼ですが」
「はぁ??」
 獅堂は、ばっと赤面して顔を上げる。おかしそうに笑う男は、すっかり元の鷹宮だった。
「正直、楓君は、あなたのフューチャーを奪って国外へ出るものだと思っていました」
「…………」
「その気になれば、驚くほど容易だったはずです。なのに。何故か彼はそうはしなかった。応援機を呼ぶという――実に手間のかかる、かつ危険な方法を選択した」
「…………」
「オデッセイでも、彼はそうでしたね。右京室長を人質に取りながら、目の前にあったフューチャーには手をつけなかった」
「鷹宮さん、それは」
 思わず立ち上がっていた。
「獅堂さん、ボタン」
「えっ?」
 指摘されて、慌てて胸を合わせる。
 顔を上げるとすでに鷹宮は玄関で靴を履いている所だった。
「フューチャーは、最大の国防機密だ。ERUも、独自に開発を進めていますが、現時点の性能では、日本の国産機が世界をリードしている」
「…………」
「仮にそれが奪われていたら、あなたは間違いなく幇助犯として刑事告発されていたと思います。……楓君にかけられた催眠暗示は、我々が思うほど、強力なものではないのかもしれない」
「……どういう、意味なんでしょう」
「それが、一筋の希望ですよ。あとはあなたの判断に任せます、では」
 鷹宮はそう言うと、微かに笑って敬礼する。
―――鷹宮さん……。
 獅堂は何も言えず、ただ、階段を降りるその背中を見送った。
 闇に紛れ、小さくなっていく背中。
 ふいに――胸が締め付けられるような寂しさが込み上げる。
 この別れは、いつもの別れとは違う。それが――鷹宮との、出会いから始まったひとつの関係の終わりなのだと、それがはっきりと自覚できた。
「鷹宮さん!」
 階段の途中で、男は静かに足を止める。
「……ありがとう、ございました」
 それだけしか言えなかった。
「あなたにお礼を言われる覚えは」
 言いかけて、鷹宮が苦笑する気配がした。
「さようなら、獅堂さん。でも、あなたを見るのは私の趣味ですからね。すぐにはやめられませんよ」
 獅堂は、笑おうとして、できなかった。
 いつもひょうひょうとして掴みどころがなかった男が、今は、こんなにも儚く感じられる。
「……ありがとう…」
 遠くなる足音を聞きながら、獅堂は小さく呟いた。今、この瞬間、確かに別れた男が愛しいと思っていた。


               二十一


「楓……」
 嵐の声。
 かつてはその声が、宝物のように愛しかった。
 でも今は聞きたくない。今は、耳を塞いでしまいたい。
 両肩に、そっと手のひらが乗せられる。
 楓は唇を引き結んだまま、ただ床の一点を見つめていた。
「……僕は、君を傷つけてしまったんだな」
「…………」
 別に。と言おうとして言えなかった。
 自分でも、なんでこんなに虚しくて、なんでこんなに哀しいのか判らない。
「……怒ってんのか」
「…………」
「その理由を聞いても……いや、」
「…………」
「俺が言ってもいいか」
「…………」
 楓が黙っていると、嵐はそのまま、楓の隣に腰を降ろした。
「……君を……まるで実験動物かなにかのように言った事が気に障ったのなら謝る」
「……もういいよ」
「じゃあ、君は、俺がどう言って自分の気持ちを説明すれば満足だったんだ」
「もういいっつってんだろ」
「理屈も理由も抜きで、ただ、求めればよかったのか」
「うるせぇ!」
 我慢の限界だった。楓は激しい憤りと共に立ち上がった。
「お前はいつも理屈ばかりだ、お前に何が判る、俺の何が判るってんだ」
「判るさ」
「ああ、そうだろうよ、優等生、お前にわかんねーことなんて、何もないよな!」
 自分の感情が溢れ出す。抑制できない。
「仲間の命を助けるために男を抱くのか。お前が、そこまでご立派な人間だとは思っても見なかったよ」
「楓………」
 嵐が、堪りかねたように立ち上がる。
「それとも俺の命を助けるため――?どっちにしても、俺には惨めすぎるんだ。そんな理由でお前とそんな、薄汚い」
「楓!」
「離せっ」
「何が惨めなんだ、何が薄汚いんだ」
「判ってるだろ、俺は死んだって男同士の恋愛なんて出来ない男だ、想像しただけで、吐きそうになる、俺にとっては、死ぬより辛いことなんだ」
 必死で腕を振り解こうとする。
 けれど嵐もひるまない。
「知ってるよ。じゃあ、俺が女だったらどうなんだ、いや、お前が女だったら、俺たちが異性同士だったら」
「ふざけんな、お前、頭おかしいんじゃないのか?そんなこと、考えたこともない!」
「じゃあ、考えろよ、男とか女とか考えずに、楓は俺をどう思ってんだ!」
「好きに決まってるじゃないか!」
 言って、自分で驚いていた。
 驚いても、もう爆発した感情は収まらなかった。
「…………」
 嵐は、虚をつかれたような顔で、呆然と手を離す。
「それは……弟とか、人間としてって意味で」
「そうじゃなかったらどうなんだ、そうじゃないっつったら、どうなるんだ!」
「…………」
「俺がなんで、こんなところまで来たと思う。殺したいほど憎い男がいると判って――いままでの生活も、」
―――あいつも。
「何もかも捨てて、なんで、こんなところまで来たと思う!」
「…………」
「お前はそんなことも判らないで、今まで散々俺に迫ったり苦しめたりしていたわけか。俺がどれだけ辛かったと思う、俺だってお前が好きだ、身体じゃない――お前の心が欲しかった、最初からだ、最初からずっとだ」
「…………」
「お前だけが……俺の、救いだったから……」
―――空っぽだった俺の、一人きりだった俺の全てだったから……。
 一人の女が、その隙間を埋めてくれるまで。
「……楓……」
 抱き締められる。
 感情を全て失って――楓はただ、忘我したように、その腕に身体を預けた。
「―――今……判った……」
 嵐が呟く。
「もういいんだ、楓、もう……、いい、これでいい」
「……何がいいんだ」
「楓、身体はいい、気持ちだけ俺にくれ、今だけでいい――今だけ、君の気持ちを、開放してくれ」
「…………」
―――気持ち……?
「それでいいんだ……あの男もそれで満足するはずだから」
「…………」
「楓――、世界の果てだ」
 楓は嵐の顔を見上げた。
 不思議なほど素直な気持ちになっていた。
 額をあわせ、嵐は静かに微笑した。
「ここが、きっとそうなんだよ」


    
 生まれる前から決まっていた、還っていく場所。
 それが、今、ここにある。
―――嵐……。
 自分の身体の中にあるものが。
 髪が、肌が、血液が、細胞が、遺伝子が、
 濁流のように嵐の身体に流れ込んでいくのが判る。
 そして、嵐の中にあるものが、自分の中に流れ込む。流れて――溢れて、満たされる。
―――楓……。
 この身体の、小さな細胞のひとつひとつが歓喜の声を上げている。
 ようやく待っていたものに巡りあえた至福。
 暗黒の宇宙、爆発するエネルギー、無数の流星、幸福と絶望。不安と希望。絶え間なく輪廻する生と死。
 手を伸ばす。たったひとつの光を求めて。
 愛しい魂の半身を求めて。
 ようやく楓は理解した。
 そうだな、嵐、俺もお前と見ていたんだ。
 大地を照らす、地球の夜明けを。
 離れていても、肉体は結ばれなくても、そんなことは、最初からどうでもいいことだったんだ。
―――やっと、会えた。
―――やっと、会えたな。
 手を伸ばす。
 探り合って握り締める。
 漆黒の闇の中、知っている、苦渋に満ちた永遠の輪廻から逃れられない生の――、その手がたった一つの希望だということを。
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