十七


 楓は――全身が、小刻みに震え出すのを感じた。
「り……」
 舌が強張り、言葉がそれ以上出てこない。
「楓、」
 背後の嵐が、肩を抱いて支えてくれる。
「おはよう、真宮博士」
 楓を軽く見下ろすほどの上背があるその男。
 肩までの漆黒の髪と眼、細くつりあがった眉と、鮮紅色の唇。膝まで隠れる白衣を着て――左手だけ、白手袋をはめている男。
 表情のまるでない。壊れた機械人形のような顔。
―――劉……青……。
 フラッシュバックして蘇る記憶。
「楓……彼がヨハネ博士だ」
 嵐の声、それだけが支えだった。
―――ヨハネ博士……?
「……違う、」
 楓は力なく首を振った。
 この男は劉青だ。いや、劉青でもない、違う。
 劉青は、こんな顔をしていない、劉青の目は、髪は――。
「楓、」
「違う、違う……違うんだ」
 後ずさる。背が――壁に当たって止まる。まだ、身体の震えが収まらない。
 こいつは劉青じゃない、なのに俺は、俺の身体は、―――目の前のこの男が、まるで別の顔を持つこの男が、間違いなく劉青だと知っている。
 身体が――心が、心底、目の前の男を嫌悪し、恐れている。
「楓!」
 鋭い声に、その刹那はっと我に返る。
 楓は、強張った体を無理に捻じ曲げるようにして嵐を見上げた。
「楓……落ち着いてよく聞いてくれ。いいか、君が知っている劉青という男は、この世界の何処にも存在しない」
「…………」
「アメリカ政府が血眼になって探しても見つからなかった――中国共和党で科学者を率いていた男は、戸籍も過去も全て捏造された架空の人物だったんだ」
―――架空の……人物……?
「君の記憶に埋め込まれた彼の顔も、特徴も、全てフェイクだ。彼の本名はヨハネ・アルヒデド、ロシアの富豪の家に生まれ、十年前からこのバイエルンに居を移した。論文は出しても決してその姿を表に出さず、―――実際は、密かに中国に入国し、科学者として共和党内部に侵入していた」
 楓は――悪夢の続きでも見ている気分で、目の前に轟然と立つ男を見上げた。
 ゆっくりと溶け出していく記憶。
 鮮明になっていく映像。
「台湾有事の後、この男はすぐに古巣の城に逃げ込んだ。再び元の、ヨハネ博士として表舞台に出はじめた。どこをどう探しても、見つからないわけだ。そして今では、EURの中枢に、この男はいる」
 白衣の男の顔色は変らない。漆黒のガラス細工のような目で、じっと楓を見つめている。
「……楓……」
 背後の嵐の声が、どこか苦しそうに聞こえる。楓は、目の前の闇の男から目を逸らす事ができなかった。
「そして君は……ヨハネ博士に会っているはずなんだ」
 びくっと身体が震えていた。
 言うな。
「このドイツで、この城で……留学中、何度もヨハネ博士に……君の記憶するところの劉青に、」
 言わないでくれ。
 フラッシュパックして蘇る記憶。
 思い出させないでくれ。
 連夜見ていた悪夢の記憶。
「……会っているはずなんだ、殆んど毎日……毎夜のように」
「やめてくれ、嵐!」
 全身に絡み付くなまなましい感触。
 声。
 あの――無数の蛇に覆われて行く感覚。
「………っ」
 かがみこんで、楓は吐いた。
 胃液しか出ないのに、何度も繰り返し、咳いて、吐いた。
 あれは――夢ではなかった。
 ドイツで連夜見ていたあれは、夢ではなく、現実だった。現実に、自分の身体に起きた事だった。
「楓、」
「俺に、さわんな」
 それでも手が伸びてくる。
 楓はそれを振り払った。
「さわんなっつってんだろ!」
 汚い――極限まで汚れた身体に。
 動悸が苦しい。息が、止まってしまいそうだ。
 ヨハネ――劉青は、薄く笑って、かがみこむ楓の傍に立ち、冷たい目で見下ろした。
「ようやく魔法が解けたようだね、真宮博士」
 嘘だ………。肩で息をしながら、楓は自分に言い聞かす。
―――これは、夢だ、現実じゃない、夢なんだ。
「身体は痛くないかな、私の可愛いお人形さん、夕べは随分無理をさせてしまったからね」
「………………」
 白い指が、顎にかかって引き起こされる。
 じっと見据えている爬虫類の眼。
 全身に鳥肌が立つようだった。
「それにしても、君には珍しいことだ、真宮博士……私の言うことに逆らうとは」
「……なんの、話だ」
 悪寒と吐き気、楓は口を押さえ、迫ってくるヨハネから顔を背けた。
 くっと、男の唇から笑いが漏れる。
「どのみち、君は、私に抵抗する事などできやしないのに」
「…………」
 喉に何かつかえたように、声が出てこない。
 頭が、痛い。胸がむかむかして…手足がどんどん冷たくなっていく。
「楓、」
 たまりかねたような嵐の声がした。
 即座に劉青は、嵐の方に振り返る。その手には、一丁の拳銃が握られている。
 それは、ぴたりと、嵐に照準が向けられた。
 嵐が、緊張して体を強張らす。
「弟君、君には、少し大人しくしていてもらおう」
 今の劉青なら、背後から組み伏せる事もできるだろう――それが、わかっていても、楓は逆らう事もできず、ただ、その場に膝をつき、劉青の背中を見つめていた。
「さて、真宮博士、お仕置きの時間のようだ」
 そのままの姿勢で、なんでもないように劉青は言った。
 拳銃を嵐に向けたまま、片手を白衣のポケットにつっこみ、中から手の長さほどの細長いケースを取り出す。
 そして、ようやく振り返り、それをひょい、と楓の足元に投げた。
―――……これは?
「開けてみたまえ」
「…………」
 逆らう気力もなくなっていた楓は、ぼんやりと、白いケースを持ち上げて、それを開ける。中に収まっていたのは、透明な液体の入った注射器だった。
―――注射……?
 それを手にとった楓を見て、劉青は、心底嬉しそうに微笑した。
「今からちょっとしたゲームを始めようと思う、真宮博士」
「楓……よせ」
 それに嵐の声が被さる。
「その中にある液体、それを自分の腕に打ちたまえ、真宮博士」
「楓、よせっ、そんなこと聞くな!」
 嵐の声。それがもう、ひどく遠い。
「弟の命がかかっているよ……博士」
 劉青の、含んだような笑い声。
「真宮博士、現在、HBHと呼ばれ、世界中で猛威を揮っているウィルスを造ったのは確かに私だ。だから、私は、間違いなくHBHに効くワクチンを所有している」
「…………」
 楓は、ぼんやりと劉青を見上げる。
 それで?――それに、今、一体なんの意味があるのか判らない。
「その注射器の中には、HBHのウィルスが入っている」
「そんなこと、嘘だ、楓!」
 楓は、ただ、視線を嵐に向けた。――ぼやけた視界に映るのは、銃をつきつけられている弟の姿だった。
「それを君自身に打ちたまえ、真宮博士。心配ない、48時間以内にワクチンを投与すれば、ウィルスは確実に体内で死滅する」
「……だめだ、楓」
 震える声で、嵐が言った。
「打ちたまえ、弟の命が大切ならば」
「打つな、楓、そんなの――嘘だ、信じちゃだめだ!」
 楓は視線だけを動かしてヨハネを見て、嵐を見た。
 注射器を指先で摘み、持ち上げる。
「楓!」
 嵐の怒声と、銃声が弾けたのが同時だった。
 凍りついたような嵐の足元――その床から、硝煙が上がっている。
「私は本気だよ、真宮博士、私の性格は、君が一番よく知ってるじゃないか」
 嵐は――蒼白になって、恐怖というより怒りのために唇を震わせている。
 楓は針を覆うゴム製のケースを外し、それを自分の二の腕の静脈に突きたてた。
「―――楓!!」
「そう……いい子だ」
 劉青はかすかに笑うと、ようやく拳銃の照準を逸らした。
 楓はただ、黙っていた。
 この男を信じたわけではないが、逆らうこともできない自分に、今、これしか選択肢がないことだけは確かだった。
「ワクチンが、ここに、一回分だけ用意してある」
 劉青は笑って、白衣のポケットから、別の注射器を取り出した。
 それを見た嵐が、はっと息を呑む。
「嵐君、君は私がワクチンを開発したといっても信じてはくれなかった。今から証明しようじゃないか、君の大切なお兄さんの身体を使って」
 楓は黙って、薄く血の痕が滲む針跡を見つめた。
 今、身体に注入したものが何なのか、本当にHBHというウィルスなのか、それはもう、劉青にしか判らない。
「……ほっとけ、嵐」
 楓はベッドに背を預けて呟いた。
 どうでもいい気持ちだった。
 これで終わるなら、むしろ死に方としては楽な方だ。
 もう――どうせ俺は逃げられない。
 この呪縛から、地獄のような世界から、永久に逃げることはできないのだから。
「タイムリミットは四十八時間。臨床例でいけば、四十八時間を越えれば、このワクチンの効果はなくなる」
「……四十……八時間」
 呆然と嵐が呟く。
「はったりだ、聞くな、嵐」
 楓は言ったが、嵐はもう、楓を見てはいなかった。
 劉青もまた、もう楓を見てはいない。挑発するような目を嵐に向けている。
「今から私が言うことを、君たちがちゃんと実行できたなら、これを嵐君に差し上げるとしよう。できなければゲーム・オーバー。君の大切な兄さんは発症し………まず、助かる術はない」
「何をすればいい」
 咳き込む様に嵐が聞く。
「君は、真宮博士に特別な情愛を抱いているようだ。それを博士が拒否している、……違うかね」
 嵐はそれには答えない。
「まぁ、それには、私も責任を感じている……博士が男性恐怖性になったのは、私のせいでもあるのだからね」
「何が言いたい」
 初めて、嵐の目に、殺気ばしったものがかすめた気がした。
 劉青は、おおげさに肩をすくれる。
「何、そんなに恐い目をしなくていい、私はね、そんな君の切ない思いに、心から同情と哀惜を寄せているのだ」
―――……?
 楓は顔を上げた。
――― 一体劉青は、何が言いたいのだろう……?
 咄嗟に嵐を見る。
 嵐の眼は――怒りのせいか、黒目の部分が揺れているように見えた。
 劉青は、ゆっくりと、まるで手品の種をあかすように、両手を挙げた。
「その意味が理解できたら、四十八時間以内に、だ。嵐君。君は、ここで、君の欲望を成就させたまえ」
―――は?
 さすがに楓は唖然とした。
 ふざけてんのか、と思っていた。
 見上げた劉青は、ただ、薄っすらと笑っただけだ。
「わかった」
 即座に聞こえた嵐の声。
 楓は――ただ、唖然としたままだった。
 嵐の言葉が信じられなかった。


                   十八


「もう…私は………」
 耳元で、掠れた声がそう囁く。
「あなたを…離したくない……」
「鷹宮さん、」
 両手で、それでもまだ、無意識に男の体を拒否しながら、獅堂は胸がいっぱいになっていた。
 強く抱き締めてくれる鷹宮の腕も、肩も、今は――まるで別人のように、頼りなく思える。
「……獅堂さん、」
 もしかしてこれが、初めて聞く、この人の本当の声かもしれない。
 何年も一緒にいたのに、ずっと傍で支えていてくれたのに。
「あなたが背負っているものを、私に託してくれませんか」
「…………」
 鷹宮はわずかに身体を離し、額をあわせるようにして囁いた。
「これ以上、辛い思いをしてほしくない」
「………自分は」
 獅堂は目を逸らしていた。
 わからなくなる。
 自分はどうしたいんだろう。何を――選択すればいいんだろう。
「―――!」
 ふいに仰向けに倒されて、上に被さってくる身体。
「だ、……待ってください、鷹宮さん」
 さすがに狼狽して逃れようとした。
 腕を掴まれて、床に押し付けられる。
「迷いを消すには、どうしたらいいですか」
「…………」
「あなたも、それを望んでいるのだと思いました」
「……望んでいる……」
 獅堂は呟いた。
 自分を見下ろす真摯な眼差し。
 思わず、顔をそむけてしまっていた。その真剣さを受け止める資格が、今の自分にあるのだろうか。
「……望んでました……楓を……もう、忘れたいから」
「…………」
「やっぱり嫌だ、駄目です、あんな話を聞いたら、もう……そんなこと、自分にはできない」
「どうして」
「だって、自分は、やっぱりあなたに逃げてるんだ、そんなの――そんなの卑怯じゃないですか!」
「いくらでも逃げていい、私はいくらでも受け止められる」
「あ、あなたを好きだったとしても、結局自分は楓を選んだんです、それなのに」
―――こうやって、都合のいい時にだけ。
「それが、あなたという人です」
「や……、鷹宮さんっ」
 首に唇が落ちてくる。それを逃れて、顔を背ける。
「あなたは私が恐かったんだ、違いますか」
「…………」
「自分が弱くなるのが恐かった、あなたは、自分を庇護してくれる人間より、自分が守るべき相手を選んだ」
「…………」
「それが……あなたと言う人だと、私は知っていましたから」
「…………」
 全身の力が抜けていた。
「後悔しています、あなたを……諦めようとしていた自分を」
「鷹宮さん……」
「時間を戻したい……戻せるものなら」
「…………」
 ゆっくりと襟元がはだけられる。もう、それに逆らう気持ちはなかった。
「駄目……や……です」
 それでも、胸が露わになった時、思わず目をつむってしまっていた。
「あなたの中から、楓君を消したい」
「…………」
「忘れさせてみせる」
「…………」
―――本当、に……?
 忘れられるのだろうか――自分を置いて行った楓のことを。
 手を離したばかりに、掌から零れ落ちて行った大切な日々を。
 最初から偽りで始まった二人の日々を。あの冷たい目を、声を、振り返らなかった背中を。
――――忘れ……られる……。
 獅堂は眼を閉じ、もう一度被さってくる鷹宮の唇を受け入れた。
 

        
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