十四
いつの間にか、日もとっぷりと暮れていた。
即席の宴会場に――まぁ、パイロット連中が集まればいつものパターンなのだが、少なくとも、こんなことをしている場合じゃない面子が揃いながら、いつの間にか獅堂の部屋は即席の宴会場と化してしまっていた。
「まぁ、聞いてくださいよ、鷹宮さん、僕は三度この人に告白したんです。それ、みーんな、スルーされてるんですよ、右から左です」
完全に酔った相原がそう言うと、何故か隣の北條がげほげほと咳き込んだ。
「まぁまぁ、ありがちなパターンですよ」
鷹宮は楽しげに笑っている。
「こいつの耳は、都合の悪いことは、聞こえないようになってんだよ、な」
と、椎名に言われて、微妙に話についていけなくなっていた獅堂は、ただ、「はぁ」とだけ曖昧に答えた。
「コラ、北條、どこ行くんだよ」
「いや……ちょっと、煙草っす……」
「お前なぁ、現役の間はやめとけっつったろ」
獅堂は、ぼんやりと全員の顔を見回す。
この場の雰囲気が不思議だった。
椎名がいて、鷹宮がいて――そして、自分が信頼しているチームの仲間たちがいる。相原も、北條も、みんな、それぞれ、空でのわだかまりがあるはずなのに――まるで何もなかったように、和やかに談笑している。
「獅堂さん、食べてますか」
ふいに鷹宮に声を掛けられる。獅堂は戸惑って眼を逸らした。
「え、あ、はぁ」
「あなたは自炊が出来ないから、こう言う時にしっかり食べておかないと」
「…………」
普段通りに振舞っている鷹宮が、多分、一番この中で無理をしているのが獅堂には判った。
辛くないはずがない。自分が今、仮に楓の傍に引き出されたらどうだろう。魂の底から拒絶された相手の前で、果たして普通に振舞うことができるだろうか。ただ笑うだけのことに、どれだけの努力と精神力がいるだろう。
「……さて、そろそろ退散するかな」
椎名が静かに立ち上がったのはその時だった。
「おい、帰るぞ、謹慎三人組」
「えーっ、もうっすか」
「まだ早いですよー」
口々にあがる反論。
「莫迦、謹慎してる奴の自宅には、方面隊長から抜内電話が入るんだよ、そんなことも知らないのか」
ぎょっとした三人が、しぶしぶ帰り支度を始める。
三人の運転役は北條なのか、彼一人アルコールを口にしていないようだった。
そして、椎名も鷹宮も、それぞれ車できているようである。
「今日はありがとう、……本当に……すまなかった」
アパートの下まで送りに出た獅堂はそう言って、その場に並んだ全員に頭を下げた。
「いいっすよ、獅堂さん」
「オデッセイで待ってますから」
「必ず戻ってきてくださいよ」
それぞれが敬礼し、手を上げながら去っていく。
「―――鷹宮さん」
椎名と共に、最後にきびすを返した男に、獅堂は声をかけていた。
少し、驚いた顔が振り返る。
「……お話……がしたいんです。少し、いいですか」
十五
吐く息が、わずかに白く濁っていた。
鷹宮が、自分の上着を脱ごうとする。獅堂は手で、それを遮った。
「……車に、行きますか」
それも、首を振って断った。
言葉が――喉元まで出ている言葉が、どうしてもそこから先に出てこない。
うつむいて、足元を見つめた。
「……鷹宮さん、本当に辞めるんですか、空自」
「ええ」
返事は、不思議なほどあっさりとしていた。
何故か悔しさが込み上げた。
「……今、今、辞めるのは」
どうしてこんなことを言ってしまうのか、自分でも判らなかった。
「卑怯だと思いませんか、逃げるのと、一緒じゃないですか」
「逃げるのではありませんよ」
「…………」
「……あなたも声を掛けられたのでしょう、遥泉さんに」
はっとして顔を上げていた。
「私もですよ、獅堂さん、私も救出ミッションに同行することにしたのです」
「…………」
「遥泉さんに、なんとお返事をしましたか」
眼を――逸らしていた。
鷹宮がわずかに嘆息するのが判る。
「あなたが、行くと決めたのなら、何も言うことはありません、ただ」
「…………」
「私は、行くべきではないと思う」
耳をつんざくような音が頭上で響き、急速に遠ざかる。
百里から発進された演習機か、スクランブル機だとすぐに判る。
「返事はまだです。でも、断ろうって、……さっき、決めました」
獅堂は呟いた。指先が冷たかった。
「自分は……中途半端だった」
うつむく――視界が、ぼやける。いけないと思って、顔を上げる。
「あの時の自分は、楓を助けたい女の自分と、……国防を守らなければならない立場と……どちらも選べないまま、本当に中途半端だった」
鷹宮は何も言わない。黙って夜を見つめている。
「それが、結局は楓を傷つけてしまった。そんな気がします。あの時だけじゃない……ずっと、……結局自分は、最初からずっとそうだった」
「獅堂さん……」
「楓も、そのことに気づいたんだと思います。……自分が、救出ミッションに参加するのなら、どちらかの覚悟を決めなきゃいけない。でも――でも、やっぱり自分には」
「…………」
自分の声が震えている。獅堂は唇を噛み締め、こみあげる激情に耐えた。
「それが……できない、多分、また同じミスを繰り返す……また……みんなに」
―――迷惑を掛ける。
「……謝らせて、ください」
獅堂は言った。ようやく素直な言葉が滑り出ていた。
「……鷹宮さんを殴る資格なんて、自分にはなかった……自分が一番……あなたの立場とか辛さを、判ってなきゃいけなかったのに」
「もっと殴って欲しかった」
「…………」
「もっと、罵倒して欲しかった、気の済むまで、怒りをぶつけて欲しかった」
―――鷹宮さん……。
「私もどこかで、楽になりたいと思っていました……弱い人間ですから」
―――鷹宮さん……。
涙が零れた。
駄目だ、どうして自分はこの人の前だと、涙腺が簡単に緩むのだろうか。
肩を抱かれ、引き寄せられて抱き締められても、獅堂は、ただ、涙を流すだけしかできなかった。
「私が断った方がいいと思う理由と、……遥泉さんがあなたをミッションに加えようと決めた理由は、多分、同じです」
―――同じ……。
「獅堂さん、あなたが、今、自分で言ったとおりです。あなたは中途半端で、おそらく冷静な判断などできはしない」
不思議なほど素直な気持ちで、獅堂はただ頷いた。
「ただ、全てが計算通りに動いたとしても、楓君の心が動かなければ、救出ミッションは意味がない」
「…………」
「遥泉さんは、その可能性に賭けようとしているんだと思います。あなたが、楓君の心を動かす可能性に」
獅堂は黙って首を振る。横に振る。もう――無理だ。もう――そんなの、絶対に無理だ。
「……じ、自分は……」
嗚咽が零れる。
言葉が上手くしゃべれなかった。
「……獅堂さん」
「……弱虫です、……恐いんだ、……もう、恐い、……あんな風に拒絶されるのが」
(……つか、思う資格もないよな、あんたには)
かすかに笑う。冷ややかな眼差し。
―――楓……。
(俺、あんたが俺にしたことを、そのままやっただけだから)
(もっとも、この程度じゃお釣りがくるけどね)
もう怖い。
あんな楓を見るのが怖い。
「……逃げてるのは、鷹宮さんじゃない。自分なんです……」
「…………」
いっそう強く抱き締められる。
獅堂は、その背に腕を回した。
十六
あの時もそうだった。
獅堂は、目の前に立つ、男の顔を見上げながらそう思った。
数年前、はじめてこの人と夜を過ごしてしまった時も。
あの日も、自分はひどく落ち込んでいて――楓と嵐が基地を去り、椎名も――右京も姿を消し、どうしようもない寂しさと虚しさのままに飲酒して――。
鷹宮の自室にまで押しかけてしまったのだ。
色々愚痴を言って、鷹宮は、珍しくそれを迷惑そうにさえぎり、何度か、部屋に戻るように言われたことまでは覚えている。
気がつけば、ベッドの上で、もう――そこからは、どう拒否しても、言い訳しても無駄だった。
ただ――上半身が露わになった時から、もう抵抗する気持ちはなくなっていて、後は別の意味で心細くて、恐かったのを覚えている。
鷹宮は優しかった。多分、最初から最後まで優しかったのだろう。
今なら判る。
多分――あの時も自分は。
この人を利用したのだと。
「……腹、たたないんですか」
獅堂はうつむいたままで呟いた。
電気も点けない狭い室内で、こうして二人で向き合っている。
駐車場に別の車が入ってきて、どちらからとなく部屋に戻ることにした。
このまま帰って欲しいとは言えなかった。言えば、鷹宮は帰っただろう。でも言えなくて――むしろ帰って欲しくないという思いを、男は察してくれていたのかもしれない。
鷹宮から返ってくる返事はない。
獅堂は顔があげられなかった。
今も、自分はこの人を――その優しさにつけこんで、また、利用しようとしているのだろう。多分。
「……自分は、あなたのことを好きでもないのに、……なのに」
「…………」
「どうして……」
それ以上、何を言うつもりなのか判らなかった。
俯いた眼に、鷹宮の筋張った手が映っている。顔の雰囲気を裏切る、戦う男の無骨な手。
鷹宮の呟きが聞こえた。
「それくらい、判ってもらえていると思ってました」
「……判るって……」
「まだ、判りませんか」
そのセリフは、前も聞いた記憶がある。
判るようで――判りたくないようでもある。
思わず顔を上げた獅堂は、それを再び逸らしていた。
鷹宮が、わずかに苦笑する気配がする。
「あなたを好きだというのは……もう、当たり前の答えすぎて、面白くもなんともないでしょう」
「お、面白いとかって」
そういう問題だろうか?
それでも少し緊張が緩み、獅堂はようやく相手の顔をまともに見ていた。
「まだ、判らないですか」
「は……?」
「あなたはまだ判らないですか、あなたも私のことを好きなのに」
「………?」
「最初から、あなたは私を見ていたのに」
「…………」
何を言ってるんだろう。
これは、なんの冗談だろう。
冷たい手のひらに頬を抱かれる。
何故か、身体が動かなかった。
「私は知っていた。椎名さんも気づいていた。……あなた一人が、それでもずっと、私を拒み続けていた」
「な、何いってんですか、こんな時に冗談はよしてください」
頬を抱かれたまま眼を逸らす。
―――そんなこと。
ありえない。あるはずがない。
「あなたは、庇護される恋愛ができない女性で」
「…………」
「私も、一人でいなければならない男ですから」
額が触れる。
「このままでいられるなら、それでいいと思っていた」
獅堂は、わずかに後退しようとしたものの、それ以上身体は動かなかった。まるで、柔らかな腕で抱かれているようだった。
「……鷹宮さん……」
「…………」
「だ、駄目です、……まだ、」
わ……と、目を閉じる。
唇が触れている。
胸が――痛い。恐いくらい、痛い。
獅堂はそのまま抱きしめられた。大きな腕と、広い胸。
そして、思い出していた。
あの夜もそうだった。
初めて素肌で触れ合った時――恐くて、心細くて、一生懸命手を伸ばして、伸ばして――探して。
その手をしっかりと握り、そして、抱き締めてくれた腕。
その腕が、あまりにも心地よくて、それが――逆に恐かった事に。