十一
 

 時の流れが止まったような部屋の中。
 嵐と楓はベッドに腰掛けたままだった。
「じゃあ、ヨハネ博士は、今ベクターを襲っているウィルス性感染症を、予防することができるって。そう言ってるのか」
 信じられない――そう想いながら、楓は呟いた。
 信じられないのは、そのことの真偽より、そんな突拍子もない放言を――うかうかと真に受けた嵐の神経だ。
「だから、それを確かめるためにきたんだよ」
 そう言って、嵐は煩げに前髪を払う。
「莫迦か……お前は」
 楓は、溜息をついて膝を叩いた。
「そんなはったり真に受けやがって、常識で考えたらわかるだろ、ウィルスが検出されてから、まだほとんど時間がたってないってのに、いきなりワクチンの開発か」
 新種のウィルスが出た場合、どれだけ早急にワクチン開発に取り掛かったとしても――それを人に投与できるまでには、少なくとも一年から二年はかかる。
「いくらヨハネ博士が天才でも……有り得ないだろ、普通」
「普通はね」
 嵐の声は、それでもどこか、淡々としていた。
「ウィルスが自然発生したものなら、そのとおりだ。でも、そうでない可能性もあるじゃないか」
「…………」
 真剣な目に気おされるように、楓は言葉を失っていた。
 嵐はたたみかけるように言葉を繋ぐ。
「楓、君も言ってたじゃないか、ペンタゴンか政府が、ウィルス開発をしていたんじゃないかって。ヨハネ博士は、アメリカと対立するEURの顧問科学者の一人だ。援助を受けて、ウィルス開発に携わっていたとしても、不思議じゃないだろ」
「……ベクターだけを……狙ったウィルスか」
「……それを、人口的に生成した」
「ベクターでもあるヨハネ博士が、か」
 ワクチンを所有しているということは――その所有者が、ウィルスを生成した可能性があることを意味している。
 ようやく楓は理解した。
 嵐は――ある意味、敵の懐に、それと判って飛び込んでいったのだと。
「…………莫迦か……お前は」
「…………」
 無防備にもほどがある。
 無用心にもほどがある。
「それが、得体のしれない罠だってことは判ってたんだろ」
「まぁね」
「でも、お前は行ったわけだ、他の誰にも相談せずに」
「相談してどうする、相手は、俺一人に話しがあると言ってるんだ。防衛庁に余計な首をつっこまれて、それで冗談だったと一蹴されれば、何もかもそこで終りじゃないか」
「じゃあ、現実はどうなんだ、お前はこんなことに閉じ込められて、どうすることもできないじゃないか」
「判ってるよ!」
 嵐の口調は厳しく、その顔色は暗かった。
「……それでも俺は、……行かなきゃならなかったんだ」
「……どういう意味だよ」
 しばらく黙り、嵐はわずかに苦笑した。
「……楓、本当のことを言えば、俺には彼を信じたい理由があった」
「彼って、ヨハネ博士のことか」
―――信じたい……理由?
「……彼も、俺にだけは真実を話してくれるかもしれないと思ってたんだ……迂闊だったことは認めるよ、あの男は、俺が思っているような奴じゃなかったから……」
―――嵐……?
 何か言いたい楓を、嵐は笑顔で遮った。
「ま、今、すんだことをあれこれ言っても仕方ない、大切なことはこれからだ」
「……そりゃ……そうだが」
「いずれ、ヨハネが来ると思う、それまでは、せいぜい体力を温存しとくさ」
 ベッドに腕枕をしたまま横になり、嵐は天井を見上げ、そして呟いた。
「……で、楓、君も、ヨハネ博士に誘われて来たのか」
「……俺は……」
 楓も――、嵐の隣に、仰向けに身体を預けた。
「別ルートだよ、多分、……上手く説明できないが」
 曖昧な言い方になってしまっていた。
 正直、自分の記憶の欠落が恐かった。そのヨハネという男と、劉青は裏で通じているのかもしれない。そうは思ったが、それさえ口にしたくなかった。
「ふぅん」
 何故か嵐も、それ以上追求しない。
 不思議なくらい静かな空間。世界から孤立した場所、刻む時も止まったまま。
「今、何時かな」
「さぁな」
 ここが世界の果てかな、と、楓はふと思っていた。
 現実なんてこんなものだと思うと、苦笑いが漏れてくる。
「お前の――恋人って…」
 何故、そんなことを聞く気になったのか、自分でも判らなかった。
「どんな、子なんだ」
「うん……」
 嵐の横顔が、遠くを見る。
「きれいな、人だ」
「ふぅん……」
「顔もきれいなんだけど、心が、とてもきれいなんだ。傷つきやすくて、優しくて、純粋で――」
 そんなに、好きなのか。
「大切で……命に代えても守ってあげたい、そんな風に思える人だ」
 また、少し胸が痛む。
 それを振りきるように、更に聞いた。
「旅行先で、知り合ったんだろ?ひょっとして、外国の女?」
 ゆっくりと、嵐の顔がこっちに向けられる。
 穏やかで、優しい眼。口元に浮かんだ苦笑。
 楓は少し動揺して、その視線から眼を逸らした。
「ネパールで――山に登ったんだ。まぁ……散歩の延長っていうか……ごく簡単なハイキングみたいなものだけど」
「………?」
「梺の村から案内の子を頼んで、一緒に登った。そしたら、途中ではぐれちゃってさ」
「お前らしいな」
 頭がいいくせに、整理が苦手でそそっかしい。
 楓のつっこみに、嵐はわずかに眉を上げる。
「いや、冗談で落とす話じゃないからな。――ていうか、マジで死ぬとこだった。3日間、山の中をさまよい続けて、食料も、水もなくなって、」
「………」
「這う様にして、ただ、山頂を目指した。上に出ればなんとかなると思ってさ」
 普通、下を目指すだろ、と思ったが、それは言わなかった。
 ただ、嵐らしい――と思っていた。
 嵐は、遠い眼で空を見上げる。
「ようやく山頂に着いた時は、早朝だった。真っ赤な朝日が――大地から誕生していく瞬間だった。生きている、この地球に生きている。自分の命の愛しさを、煌きを、心の底から、俺は初めて実感した」
「…………」
「初めて……心から、自分を産んでくれた人たちに感謝した」
「………」
「そしてようやく理解したんだよ、自分が一体、何者なのか」
「何者……なのか?」
 それには答えず、眼を閉じて――嵐はしばらく無言だった。
 楓もまた、何も言えなくなっていた。
「その時、その景色を………」
 顔だけ、こちらに向け、嵐は笑った。
「俺は、その人と一緒に見ていたのさ」


                十二


「それは――つまり」
 楓は眉をひそめた。どう考えればいいのか?
「つまり、その案内してくれた子が、恋人って言うオチなのか」
「………」
 嵐は軽く額を押さえ――嘆息する。
「どうしてそうなる?確かに彼………言っとくが、彼だ。彼とは、山頂で再会して、それで命が助かったわけだけど」
「だって一人で登ったんだろ。じゃあ、なんで山頂にお前の彼女がいたんだ」
「いいだろ、いたんだから」
「観光客……?お前、まさか、そんな呑気な場所で遭難したわけじゃないだろうな」
「………もういいよ」
 そう呟き、何故か嵐は笑い出した。
「楓、獅堂さんの悪い癖がうつったな」
「なんだと?」
 思わず額に青筋を浮かべて、起き上がりかけていた。
「ああ、悪い悪い、禁句だったよな」
 嵐は笑って、そして、やはり遠い目で天井を見上げる。
「ネパールは不思議な町だ。生と、死が、当たり前のように同居している。町の一方で孤児が死に、そのすぐ傍の往来を、裕福な観光客が談笑しながら通りすぎて行く」
 顔を背けたまま、嵐が静かに口を開いた。
「アジアって、そんなとこだ。死んでゆく子供たちにとっては…彼らを見て、笑いながら去って行く人たちこそ、悪夢そのものなのかもしれない」
「………観光客なら、金くらい落としていくだろ」
「そう、金と文明という争いの種をね。必要悪だ、そして」
「…………」
「そして、今の人類にとっての、必要悪は、」
 嵐の手に、ゆっくりと手を握られる。
 熱い――。その熱さに、一瞬どきっとする。
「天才的な能力を持つベクターと、不思議な力を持つ俺たち」
 はっと、胸を衝かれ、思わず嵐の顔を見あげていた。
「急激すぎる進化の果てに破滅があるなら、人類にとっては諸刃の剣になる、危険な者たち」
「嵐………」
「楓……君もずっと、そう思ってたんだろ」


                  十三


「楓………」
 手の熱さが――黒い瞳に伝染したのかもしれない。
「どうして、君はここに来た…?」
「嵐、」
 楓は、その眼に射すくめられて、動けなかった。闇よりも深い翳りと――哀しみを抱いた眼。
「俺は、君が来なければいいって、ずっと思ってた。でも」
「………」
「それと同じだけ、君に来て欲しいと思ってた」
「来るさ、約束したろ」
―――何があっても、地球の裏側でも飛んで行くと。
 嵐は黙って、首を左右に振る。
「いや……、君は、やっぱり、来るべきじゃなかった」
「何言ってんだ」
 戸惑って楓は視線を逸らす。
「お前が、俺だったら………逆の立場だったら、お前だって」
 そう言いかけた刹那、突然反転した嵐の腕に抱きしめられていた。
 楓は当惑して身体を固くさせる。
「嵐……」
 すごい力だった。
「嵐、莫迦、痛いだろ」
 胸が圧迫されて、息ができない。
「今ごろ気づいた、……俺は、獅堂さんに、感謝しなくちゃいけなかった。あのひとは………本当に、君を幸せにしてくれていたのに」
「何言ってんだ、だから、もうあの女のことは」
「なんで、そのまま獅堂さんの所にいなかった?何故こんな所まで来てしまったんだ――君さえ、来なかったら………俺は………」
「嵐?」
「……俺は、一人で……」
――― 一人で?
 何故かひどく動揺している嵐の背に、楓は思わず手をまわした。
 嵐は、さらに強く抱き締めてくる。
 不思議なほど嫌悪感も、恐怖もなかった。
 まるで――自分の子供を、分身を抱いているような気持ちだった。
「……落ち着けよ、……とにかく、落ち着け」
「楓、」
―――嵐………。
「楓、……楓、」
―――嵐……。
 何があったんだ。
 どうしてこんな――子供みたいに怯えてるんだ。
 背後で、金属の触れ合う音がしたのはその時だった。
 咄嗟に嵐から身体を離し、楓は身構えていた。
「………ヨハネ博士だ…」
 嵐が呟く。
 カチャカチャと鍵の触れ合う音が響く。
「……楓、覚悟しといてくれ」
 その言葉の意味が判らず、振り返ろうとした時に、
 灰色の扉が開いた。
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