七


「獅堂さん」
 顔を上げた獅堂は、そのまま、言葉を失ってしまっていた。
 古巣の百里基地だった。
 連行された警察から、直近の基地に搬送された獅堂は、そこで二日間拘留され、取調べを受けさせられた。
 まだ当分拘束されそうな雰囲気だったが、何故か唐突に今日の朝打ち切られ、そのまま開放されることになったのである。
 処分決定まで自宅待機。
 言い渡されたのはそれだけだった。
 多分、即日懲戒解雇は免れないだろうと覚悟していた獅堂には、少し合点のいかない処遇だったのだが――。
 オデッセイから送られてきたわずかな身の回り品だけもって、基地を出ようとした時、エントランスホールに立っていた長身の人影が、ふいに自分の名を呼んだ。
「遥……泉さん」
 獅堂は呆然と呟いた。
 かつて空の要塞で副長を務めていた遥泉雅之。
 男は、怜悧な目に微笑を浮かべ、獅堂の傍に歩み寄ると、柔らかな口調で言った。
「迎えに来ました、車が用意してありますので、どうぞこちらへ」
「え……?」
 正直声も出ないほど驚いてしまっていた。
「あの……自分、もしかして」
 これから再び、警察に連行されたりするのだろうか。しかも警視庁捜査一課とかに。
「僕はもう、警察の人間ではないんですよ」
 獅堂の戸惑いを察したのか、男は困ったように苦笑した。
「驚かせてしまいましたね、実は今、こういう仕事をやらせていただいているんです」
 差し出された名刺。
「……幕僚……調査室?」
 自衛隊幕僚庁情報調査室 特務官 遥泉 雅之
 初めて目にする部署だった。ますます戸惑って顔をあげる獅堂に、
「青桐長官が独自に作られた機関です。公式には存在しません。陸、海、空の情報を一括して収集し、危機管理に備え、超法規的措置を取る事ができるよう――防衛庁長官に全権が置かれています」
 それだけを簡単に説明して、遥泉は歩き出す。獅堂も――とりあえず、その後を追った。外来者用の駐車場。すすめられるままに車の助手席に乗り込んだ。
「……すいません、助かりました」
 実際、これからどうしていいのか、獅堂自身にも判らなかった。
 遥泉は、かすかに微笑し、車のエンジンにキーを差し込む。
「獅堂さん、申し訳ないですが、今は、ご自宅には戻れない。あの部屋は、現在立ち入り禁止になっているので」
「……はい……聞いてます」
「いくあては、ありますか」
「…………いや……どっか、ホテルとかに」
 言い差して、どこへ行けばいいのかな、と思った。
 どこにもない。どこにも――もう、自分の居場所はなくなったのかもしれない。
「あなたが、以前住んでいたアパートのことですが」
 黙っていると、緩やかに車をバックさせながら、遥泉が言った。
「部屋の借り手がいまだにないそうです。急なことで、ガス電気などは間に合わないかもしれないそうですが……管理人さんが、是非にと」
「…………」
 トシちゃんが……。
「……ありがとうございます、遥泉さん」
 獅堂には、それだけしか言えなかった。
 トシちゃんが、ここ数日の騒ぎを知るはずがない。おそらく、遥泉が、先回りして相談してくれたのだろう。
「でも……やっぱ、いいっす。自分はその前に回らないといけない所がある。どっか、この辺のビジネスホテルか何かに」
「処分された三人の家を回るつもりですか?謝罪しに?」
「…………」
「……あなたの気持ちは判る。でも、今は、やはりアパートに戻りましょう」
 優しい声が、胸の底に染みていく。
 この二日の取調べで――様々な言葉で踏みにじられた楓との関係。自分の信念。傷つかなかったといえば嘘になる。辛くなかったと言えば強がりになる。
「……か、」
 獅堂はうつむき、こみあげる思いを押し殺した。
「真宮楓は、どうなりました」
「依然、消息不明です。あなたが目撃した戦闘機は、那覇から出撃した要 撃戦闘機を振り切って日本領空から姿を消しました」
「……嵐は」
「……同じです。いまだ、消息は掴めない」
 予想していた答えが返ってくる。
 獅堂は黙った。どうしようもない無力感がおしよせる。
 自分は――一体、何をしに軍規違反まで犯して楓を追っていったのだろう。
 なんのために、何を――信じて。
「―――真宮楓君は、そもそも一年の期限付きでEURの本拠地のひとつ、ベルリンに身柄を移される予定でした」
 交差点で車が止まる。
 遥泉がふいに口を開いたのはその時だった。
 楓が、ドイツ留学していた時のことを言っているのだと判り、獅堂はわずかに顔を強張らせる。
 それは、留学のためなどではなかった。そのことが、当時の楓の言葉が、表情が、痛く胸に蘇る。
「EURの目的は、再度楓君を変化させることにあったと聞いています。彼等は様々な角度から変化のプロセスを研究し、彼の身体を徹底的に調べ上げた。そして、それは同時にアメリカでも、日本でも行われていた」
―――右京さんのことだ……。
 そして、嵐。
 獅堂は無言で唇を噛み締めた。
―――自分は何も知らなかった。何も知らずに……ただ。
 今は憔悴している場合ではないと判っている。それでも、自分の足元から、どうしようもなく力が抜けて行くのを感じる。
「あたかも第2次大戦後、各国が核の開発にやっきになったように――日米と、その同盟関係から離脱したEUR、かねてから貿易や資源問題で利害が対立する組織同士が、審判の日に現れた『光の巨人』の研究に火花を散らしていたんです」
「…………」
「でも、結局は、誰も――どの組織も、彼等が変化した原因も理由も掴めず、もう一度変化させることもできなかった。解明不可能。そして、彼等は開放された」
 遥泉はそこで、苦しげに言葉を切る。
「……ただ、一人、右京さんをのぞいて」
「右京さんは……」
 獅堂は口を開きかけ、力なく言葉を失った。
 ピースライナーで鷹宮に聞かされたこと。
 右京が――今、ベクターを襲うウィルスの発生源だとみなされているということを思い出す。
 再び走り出した車のステアリングを握る男は、かすかに嘆息して目をすがめた。
「獅堂さん、嵐君と楓君は、ある意味、今の世界の均衡を握る鍵だった」
「……鍵、ですか」
「断っておきますが、右京さんのことは、―――あなたもご存知だと思いますが、彼女がベクターで、しかも真宮嵐君、楓君と同じ能力を持っているということは、いまだ公にはなっていません。そして公にならないゆえに、右京さんだけは開放されなかった」
「…………」
 それは――どういう意味だろう。
「彼女のことは、現在、日米の関係者のみが知りうることなのです。これ以上、世界に混乱を起こさせないために」
―――混乱……。
「彼等―――真宮兄弟の存在は、ある意味核より恐ろしい可能性を秘めています。生物兵器として利用できる余地があれば、各国が彼等を所有したいと願うでしょう。ゆえに、彼等は普通の人間でなければならない。二度と、絶対に彼等は変化することが出来ない。日米政府が、様々な形でそれを内外にアピールし、彼等に普通の生活を続けさせていたのはそのためです」
「…………」
 意味が判るようでもあり、判らないようでもあった。
「それが、鍵……なんですか」
「そうです。彼等はあくまで、普通の人間にすぎない。生物兵器などではあり得ない。それが日米の公式な見解で――だから、彼等を特別には扱わない。つまり、日米が彼等に手を出さない以上、EURも、北も、中国も、中東も、……ソ連も、手が出せない。出す口実がない。出せば、そこで均衡が崩れることになる……判りますか」
「……つまり、どこかの国が真宮たちに手を出した時点で、……極端に言えば、国際紛争に発展しかねないと、そういうことですか」
「そういうことです。台湾有事以降、そういった形で、世界はバランスを保ってきたのです」
 獅堂は、眉をしかめていた。
「じゃあ、その均衡を破ったのが――EURということになるんですか」
 鷹宮がそれを示唆していた。
 そして獅堂も理解している。
 NAVIを頼って各国のベクターが次々米国へ移住するという事態が起こり始めた。北や中国、ソ連邦のように亡命するのが困難な国と違い、欧州には移住の自由が認められている。
 EURは、ベクターの返還を米国に求め、米国は人権規約を盾にそれを拒否した。
 それが――今の、両組織の深い溝に繋がっている。
 獅堂の目の前に、見慣れた景色が広がっていく。懐かしいアパートは目の前だった。
「……EURは、今、まるで戦争に向かって突き進んでいた頃の中国共和党のように、ここ数年、猛烈な勢いで軍備を強化し続けています」
「……そうなんでしょうね」
 獅堂もそのことは知っている。
 最前線にいれば、世相の空気はおのずとわかる。増加する一方のスクランプル。オデッセイの再起動。この緊張感が、危険な兆候を示しているということくらい、さすがに察しはついている。
「それがベクターが原因だとしたら皮肉なものです。人類を新しいステージへ押しあげるはずの才能が、今は人類にとって、諸刃の剣になろうとしているのだから……」
(――……俺たちの、この地球上での役目は終わった…)
 儚すぎる楓の声が蘇り、獅堂はたまらず眼を閉じる。
「……それで、結局、EURが均衡を崩して嵐と楓を拉致したってことなんでしょうか、でも、楓は――」
 あの夜現れた、ヨーロッパ型の戦闘機。
 楓は、間違いなく自分の意志で日本を捨て、それに乗って行ってしまった。
 あれが――あの確かな怒りを宿した眼が、催眠暗示を受けていた者のそれとは思えない。
「いいえ、先に崩してしまったのは、日本政府です」
 けれど、遥泉の声は厳しかった。
「政府は年内には、真宮楓君を拘束することに決めた。そのことはご存知でしょう」
「…………」
「楓君だけではない、同様に――彼らはいずれ、嵐君の身柄も拘束し、アメリカに引き渡す計画をたてていました。ウィルス騒動を利用してね」
 獅堂は、鷹宮の言葉を思い出していた。
 ウィルスの元凶として――そうか、あれは、ただの口実だったのか。
「EURが真宮兄弟を取り戻そうと決めたのは、その情報を掴んだことが原因ではないかと僕は思う」
―――そんな。
 獅堂はわずかに混乱した。
「……判らないです、どうして政府は……そんな莫迦な決定を」
 均衡が崩れるとわかっていて。
 国際紛争に発展する可能性があると判っていて――。
「獅堂さん、日米両政府は恐れているんです、EURなどではなく、彼等の存在そのものを」
―――彼等……?
「彼等がその牙を、いずれ自分たちに向けることを」
 それは、嵐と楓のことなのだろうか。
「……獅堂さん、右京さんの身柄が、NAVIに移されたいきさつは聞きましたか」
「……鷹宮さんに、」
 自分が裏切ってしまった男の顔を思い出し、獅堂はさすがに眼を伏せる。
 そういえば、鷹宮も同じことを言っていたような気がする。
「その時、NAVIは、ある情報をアメリカ政府に提供したのです。それは日本政府にも報告された。非常に……ショッキングな情報でした。日本政府が、真宮楓君の身柄拘束を決定したのは、何よりもその情報によるところが大きい」
「…………なんなんです、それは」
「正直言えば、どこからあなたに説明していいのか判らない」
「…………」
「ベクターが、真宮兄弟のような力を持つ者がどうしてこの世界に誕生したか――、まずはそこから、お話しなくてはならないのでしょうね」
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