五
どこまでもどこもでも、澱んだ水の中に引きこまれて行く感覚。
苦しい。
息ができない。――いや、とっくに呼吸は止まっているのだと気付く。
叫ぶことも、泣くこともできない。
――お前たちは、狩られてゆく獣だ……。
誰の声だ?
どこかで聞いた。でも、どうしても思い出せない。
――真宮博士……。
どこかで、聞いた。でも、どこで?
――私がまだ、判らないかな、真宮博士……。
助けてくれ、誰か。誰か、ここから引き上げてくれ。
「えで…、楓……?」
誰の、声だ……?
身体を抱いてくれている暖かな腕、密着している体温。顔にかかる息。
苦しい呼吸を繰り返しながら、真宮楓はうっすらと眼を開けた。動悸がする。胸が、軋むように痛い。
「よかった……気がついたんだな」
自分を見下ろす懐かしい顔。澄みきった黒い瞳。
一瞬はっと息を引いたが、すぐにそれは、別の驚きに変わっていった。
「…ら…ん………?」
楓は呟いた。
目の前の顔は間違いなく嵐だ。
自分を抱き上げ、抱えるようにして肩を揺すってくれていたのは嵐だ。
これは、現実か?それとも夢の続きなのか?
「なんだよ、幽霊じゃないぜ」
楓の、疑心に満ちた視線を受け、嵐は少し戸惑ったように近づけていた顔を上げた。
頭を振って、楓は身体を起こした。いや、起こそうとして、まず自分を抱きかかえる嵐の胸を押しやった。
柔らかなスプリング。白いシーツ。ベッドの上だ。ここは、では、病室なのだろうか。
関節が痛む。頭が重い。一体、今、何時なんだ?
「楓、何があった」
嵐の声――。
少し怒ったような目の色。
楓は、はっとして弟に向き直った。
「お、おい、楓?」
その肩をしがみつくようにして抱き、全身をチェックする。
着ている服は、四日前別れた時と同じだ。
衣食住は保障されているのか、清潔な身なりでいることだけは判る。健康状態に問題はない――多分。
額に手を当てようとしたら、その腕を押しのけられた。
「おい、なんなんだ、一体、いつから君は医者になった」
「……何、言ってんだ」
「それより君だよ、なんで楓がここにいる、どうやってここまで来た」
逆に、恐いほど真剣な目で見下ろされる。
楓は――呆然とした。
何言ってんだ、聞きたいのはこっちなのに。
連絡が取れなくなって――あんなメールまでもらって、狂うほど心配したのに。
なんなんだ、この言い草は。
「嵐、お前――」
腹立ちは、けれどすぐに安堵へと変っていく。
最後に会った時と、なにひとつ変らない嵐。
「お前――無事だったんだな」
そのまま楓は、脱力して額を押さえた。
嵐は、微かに笑って力強く頷いた。
「心配してくれたのか」
「当たり前だ、この莫迦」
「別に心配してもらわなくてもよかったのに、……俺は自分の意志でここまで来たんだから」
「…………」
―――自分の……意志?
楓はぼんやりと顔をあげた。
そうだ、そもそもここは――どこだ?
嵐は笑い、ひょい、と、逞しい肩をすくめる。
「ここへ閉じ込められた時は、さすがに閉口したけどね――テレビも、雑誌も、PCないし。でも、まぁ、それなりに快適。食事も結構美味しいよ」
「閉じ込められるって………お前、マジで状況、理解してんのか」
「少なくとも、楓よりはね」
妙な落ち着き。
「楓は、ここが何処かさえ判ってないんだろ。どうして俺がここに来たかも――何も知らずに、来たわけだ」
楓は唖然として弟を見上げた。そして少し不安になる。改めて、今自分がいる場所を見回す。
「ここは………」
モノトーンで統一された薄暗い部屋。白茶けた照明。
窓がないから朝なのか、夜なのかもわからない。
今寝かされているベット、小さな机、肱掛椅子。――置かれている家具はそれだけだ。後はなにもなく、がらんとしている。壁は一面灰色で覆われ、飾り窓さえない。
広いのに閉塞感を感じるのはそのせいだ。格子のついた鉄の扉が、寒々しい。
ぞくり、とふいに寒気が背筋に走る。楓は身体を強張らせていた。
「楓……?」
「いや」
たまらない不安を感じ、楓は自分の身体を抱いた。
なんだろう、この感じ――この感覚。
「ここは、何処だ、」
思わず口走っていた。
「どこだ、何処なんだ、劉青は何処にいる」
嵐が、けげん気な目をしている。
「……リュウ、セイ……?」
「お前をここに閉じ込めている奴じゃないか、言え、奴に何をされた、今まで、奴は何処にいたんだ」
「ちょ……、ちょっと、落ち着けよ、楓」
「莫迦野郎、落ち着いているお前が異常なんだ!」
「楓!」
がっと、肩を掴まれる。
楓は――ようやく、無様に取り乱している自分を自覚した。
「リュウセイって、共和党の劉青か、俺たちの家族を殺した」
「……そうだ」
喉の奥に、吐き気が込み上げる。
自分の手が、足が、細かく震え出すのが判る。
その身体を――大きな手で、嵐はしっかりと支えてくれた。
「だったら、そんな男はいない、落ちつけ、楓……ここには、劉青はいない」
「……いな、……い?」
「そうだ、いない……いないんだ、楓」
―――いない……?
だったらあれはなんだったんだ?
確かに劉青の声だった。
電話で――何度も、色んなことを指示されて。
嵐が、あいつの傍にいると告げられて――。
だから俺は。
楓は額を抑えてうつむいた。
また――記憶が何かと混同しているのだろうか、それとも、また、大切なことを忘れてしまっているのだろうか。
「明け方、君が運ばれてきたときは驚いたよ――死んだように眠ってるし……実際、本当に死んでるのかと思ったくらいだ」
「俺が……」
運ばれてきた。
はっきり覚えているのは、上昇する戦闘機から見下ろした暗い海の色だけだった。あの後、自分は意識を喪失したのだろうか。
判らない。
思い出せない。
混乱したまま黙っていると、嵐は場違いな苦笑を浮かべた。
「なんだか、間が抜けてんな、俺たち」
「なんだよ、それ」
「うかうかこんなとこまで来た俺も莫迦だったけど、楓も同類だとは思わなかった」
「莫迦、一緒にすんな、俺はちゃんと、」
「……ちゃんと?」
「…………」
楓は眉をしかめる。
思い出せない。はっきりと――覚えているのは――。
「どうやって、日本を出てきた、移住制限のある君が」
「…………」
「監視を振り切って脱出したか、それとも、強引に連れてこられたのか」
「…………」
どちらとも言えないし、また、どちらも正解だった。
そして、どちらにせよ、もう日本で、元の生活に戻ることはできないだろう。
犯した罪の重さは自覚している。実刑は間違いないし、相当長い懲役刑をくらうことになるだろう。
楓は目をすがめ、無言で床の一点を見つめた。
もう――二度と、後戻りはできない。
「獅堂さん、今ごろ心配してるんじゃないか」
今、一番聞きたくない名前。
とっさに、眉に嫌悪を表していた。
「悪い、あの女の話は、今後永久にしないでくれ」
「楓?」
「もう無関係だ、金輪際かかわりのない女になった。俺が説明するのはそれだけだ」
「……どうしたんだよ、なんだよ、あんなに」
嵐の声が戸惑っている。
楓は立ち上がり、吐き捨てるような口調で言った。
「思い出すだけでむかつくんだよ」
「…………」
唖然としている嵐。楓は――苛立ちを隠せないまま、再度ベッドに腰を降ろした。
「俺を怒らせたくなかったら、もう二度とその話はしないでくれ」
「…………」
けげんそうな目が――楓の胸元辺りで止まり、そして嵐は、苦笑した。
「じゃ、しない。夫婦喧嘩はなんとやらだしな」
「うるせぇな、言っとくが、そういうジョークもこれで最後にしといてくれ」
「はいはい」
笑みを消さない目。
楓は、はぁっと嘆息した。
「……お前といると、どうも緊張感がわいてこない」
「いいことじゃないか、苛々してもどうにもならないしな」
「とにかく、話せよ」
こみあげる不安を振り切り、楓はベッドに仰向けに倒れた。
「ここは、何処だ、今、俺とお前はどういうことになってんだ」
六
「楓、ここは、ドイツのバイエルンだよ」
少しの間黙っていた嵐は、やがて、かすかに溜息を吐きながら言った。
「……バイエルン……?」
楓はけげん気に眉を寄せる。
「忘れたのか、君が留学していた町と近いじゃないか。ここはな、ノイシュバンシュタイン城の中なんだよ」
「…………」
「もともとは国のものだったのが、今は、ロシアの富豪が買い受けて私有物になってる、今の、この城の所有者は、ヨハネ・アルヒデド」
―――ヨハネ……?
楓は嵐の顔を見る。
嵐もまた、何かを探るような目で楓を見ていた。
「ヨハネ……アル、ヒデド…」
口に出して呟いてみた。自然と出てくる――知っている名だ。もちろん知っている。ベクターで、高名な科学者だから――でも、それだけの理由だろうか。
「遺伝子工学の第一人者で、今は、EURの顧問科学者としていくつもの研究チームを持っている人だ」
嵐は続けた。
「バイオテクノロジーを使って、彼が、世界で初めてES細胞で癌治療を成功させたのは知ってるだろ」
知っている。バイオテクノロジーの世界では、常識化した逸話。
なのに。
なのに、何故。その名前から、――忌わしいイメージしか連想できないんだ?
「この城は、今じゃすっかり改装され、ヨハネ博士の私設研究所として使われている」
嵐はゆっくりと立ち上がった。
「俺たちは、今、その地下室にいる――判ってると思うが、もちろん、俺は、合法的な手段でここに閉じ込められたんじゃない」
楓は頷く。
「最後に君と会った晩、ホテルの部屋でメールを開いたら驚いたよ。例のメールだ、新種ウィルスHBHの報告書の続き……読んだろ、君も」
「……ああ」
「今回のメールは、名無しじゃなかった、差出人の名前があったのさ」
楓は、咄嗟に顔を上げていた。
―――なんだって?
「それが、ヨハネ・アルヒデド氏だった」
再び、混乱を感じ、楓は額を押さえる。
どういうことだ?あのメールは――メールは、劉青が送ったと……そう言っていたのに。そのはずなのに。
「ドメインから本人が公に使っているアドレスだと確定できたし、返信すると、即座に連絡先を付した返事が戻って来た。……電話で少しやりしりして、本人だと確信できた。俺は、ドイツに行く事に決めた」
「なんで……勝手にそんなことを、決めた」
「……悪い、楓は、絶対に反対すると思ったから」
「……」
嵐の横顔に、暗いものが落ちる。
「空港には、車が待っていた。乗ったとこまで覚えてる。――気がついたら、ここに閉じこめられていた」
「大間抜けだな」
「君ほどでもないよ」
「…………」
さすがにむっとする。
嵐はかすかに笑うと、疲れたように嘆息した。
「楓、博士は、例のウィルス――HBHのワクチンを開発したと言ってるんだ、俺は――どうしてもそれを、この目で確かめたかったんだよ」