act11 「世界の果て」
一
払っても払っても、まるで残像のように目の前にちらつく影。
耳障りな音にも、すっかり耳が麻痺してしまった。
ここまで案内してくれた通訳の男が、防御マスクをかぶりなおすように、手で指示してくれる。
「マスター、これでもう、10軒目だ」
「チップは弾むよ」
「そんなことは、いい。無駄なことに時間をかける、日本人は理解できない」
溜息交じりの皮肉を聞き流し、青桐要は雑草が生い茂る木々の間に足を踏み入れた。
その音に反応してか、ぶーん、と唸るような羽音と共に、木立の中から黒の一団が舞い上がる。
「毒性の強い、最高の品種だ」
通訳の青年が、身震いするような仕草を見せた。
「刺されたらひとたまりもない、マスター、僕はこれ以上先に行きたくない」
「いいよ、では、車で待っていてくれたまえ」
片手を上げ、青桐はさらに奥へと進んだ。
空気を震わすような羽音は、ますます強く、高くなる。
視界一面に鉄柵が広がっている。その中に、網で覆われた巨大な檻があり、木製の大きな箱がいくつか並んでいた。
遠目にでもはっきりと判る。網の中には、蜂の大群が轟音のような羽音を立ててひしめいている。
目指す男はその中で、防御マスクにスーツという完全武装で作業をしている真っ最中だった。
「…………」
青桐は、用心深くその前に立った。
男がふと顔をあげ、こちらに注視しているのが判る。
軍を退役した男が派遣されている養蜂場。
たったそれだけの情報を頼りに、広い合衆国の、隅から隅まで電話して、探し上げた。
絞り込んだ候補の、最後から三つ目。
ここも――はずれかな、と青桐は思った。
つきまとう蜂を払いながら出てきた男は、明らかに、青桐に関心を持っていない。
が、
「懐かしい顔だな」
ふいに立ち止まった男はマスクの下の目をすがめ、唐突に、―――青桐の昔のニックネームを口にした。
「ハロー、ミスターサンダース」
青桐は手を上げた。
やっと、目的のものを見つけた感慨は、想像以上にあっさりしたものだった。
「私を毛嫌いしていた君が、訪ねてくるなんてどういう風の吹き回しだ」
煩げに蜂を払いながら、男はさっさと青桐の傍をすりぬける。
「相変わらず、日本語がお上手ですね」
青桐もその後を追った。
「プロフェッサー喜屋武、あの変人のおかげだよ」
あのラボで、誰よりも喜屋武リーダーに対立していた男は、そう言って肩をすくめた。
「よくここが判ったものだ、君の国の情報網がそこまで発達しているとは驚きだ」
「いいえ、ただ、米軍の格言を信じてみたまででして」
男はいぶかしげな眼差しになる。
「退役前に失敗するな、養蜂場が待っている」
「は……はは」
滅多に笑わない男の相好が崩れる。
「まさか、フロリダの田舎くんだりまで、皮肉を言いにきたんじゃないだろうな」
「私はね、希望を探しに来たんですよ」
青桐がそう言うと、灰色の髪を持つ男は、けげんそうに目を眇めた。
「Human beings'hope、ミスターサンダース。あなたなら知っているはずだ。今、ベクターを襲っている謎のウィルスの正体を、それに――右京奏という女性、いや、彼女をはじめとする四体のTFが、全く無関係だということを」
男の灰色の目は動かない。
「……あなたなら、証明する手段を知っているはずだ」
「…………」
「情報だけでいい、それを私にくださいませんか、咎は全て私が被る、あなたには絶対に迷惑を掛けないと約束する」
「私は何も知らないよ」
米国の闇に生きてきた男は、そう呟いてマスクを深くかぶりなおした。
「帰りたまえ、悪いが、まだ仕事の最中なんでね」
「ミスター、」
青桐は追いすがった。
「我々は罪をおかした、入ってはならない領域に足を踏み込んでしまった。なんの罪もない四人が――今、どんな目にあおうとしているか、あなたも知っているはずだ」
「無駄なんだよ、アオギリ君」
「……無駄……?」
「……事態はもう、我々の手を離れてしまった、そういうことだ」
「…………」
「ドクター真宮は何故殺された?ベクターなどを護ろうとしたからだ、余計なことに首をつっこんでしまったからだ」
「…………」
「私は真宮の二の舞を演じたくはない、失礼するよ、ミスターアオギリ、私は今、一介の養蜂場の経営者にすぎないのでね」
二
「よう」
桐谷がそう声を掛けると、男は、一瞬怯んだような目になって、そして曖昧な表情のままで、片手を上げた。
「こ、こんちはっす」
「ぱーか、何緊張してんだよ」
「い、いやぁ、条件反射っつうか、なんつうか」
桐谷徹は、多分、無意識に自分から逃げようとしている男――蓮見黎人の肩を捕まえ、ぽんと背を叩いた。
電話では何度か話しをしたものの、実際に会うのはほぼ一年ぶりになる。
かつて、いつも黒いスーツを着て、どこか目つきの険悪だった警察官は、今は――来ているカジュアルなシャツと、無防備な髪型のせいか、年齢より随分若々しく見えた。
桐谷は、その蓮見の耳元に唇を寄せ、囁くような声で言った。
「戸籍みて驚いたのなんのって、お前が、いつの間にか、俺の親戚になってんだもんなー」
「……は、はぁ」
「これから、末永くよろしくな、なっ、黎人君」
「ま、まぁ、よろしくっつうか、なんつうか」
蓮見は、こわごわと顔をあげ、そして、そそくさと逃げようとする。
桐谷はその腕を掴まえた。
「何逃げてんだよ、せっかく、親戚が、新婚夫婦の様子見にきてやったっつーのにさ」
「だから、その嫌味、もう勘弁してくださいよ」
荒げた声のせいか、行き交う看護士が振り返る。
桐谷は慌てて咳払いした。
「言っとくが、親戚連中を、一人で説得して回ったのは俺なんだからな、そこんとこ忘れんなよ」
「わかってますって」
ほれ、と桐谷は手を伸ばす。
蓮見は渋面を作りながらも、煙草のケースをジーンズのポケットから取り出した。
桐谷はそれを、当然のように箱ごと奪いながら、
「しかしあれだな、海外の病院ってのは初めてだが、看護士も全員外人なんだ」
「……当たり前のこと、恐い顔で言わないでくださいよ」
「英語オンチのお前が、よくこんなとこに滞在してるもんだと思ってな、原始人」
「ベクターってのは、言語能力がすごいらしくて、みんな日本語がぺらぺらなんすよ」
「ふぅん」
新設されたばかりの病院というが、エントランスからして凄かった。高級マンションも真っ青な豪華さだ。内部は――それを裏切るシンプルなデザインで、ただ、天井も床も手すりも、触れたら罰されそうなほどぴかぴかに輝いている。
スイス。ジュネーブの郊外に新設された、NAVIのメディカルセンターである。
広大な敷地の半分は、いまだ建設中なのか、工事車両がひっきりなしに出入りしていた。
「ベクターってのは、美形ぞろいだと聞いてるけどよ、ここの看護士なんかも、そうなのか」
「知りませんよ、ただ、確かに綺麗な人は多いっすけどね」
「目の保養だねぇ、蓮見ちゃん、どれ、一人二人、適当なの紹介してくれよ」
「…………あんた、マジで、今の状況わかってんすか」
蓮見は心底呆れたように嘆息し、そして「灰皿探しても無駄っすよ、ここは全館禁煙ですから」と、素っ気無く言った。
「煙草は、こっから200メートル離れた店に行かなきゃ手に入んないっすよ、貴重な一箱だっつーに」
「ひでぇな、オデッセイ並の不自由さだな」
桐谷は笑い、蓮見の肩をもう一度叩いた。
「で、てめぇの女房は何処にいる」
「…………」
蓮見が、初めてわずかに表情を強張らせる。
けれど、すぐに、なんでもないことのように肩をすくめた。
「なんすかね、警察辞めて以来、どうも寝起きが悪くなったみたいで」
「女はだいたい低血圧だからな」
「まだ、寝てると思いますけど、それでもよければ」
「何がよければだ、お前のもんみたいな言い方すんな!!」
条件反射で、桐谷は拳を出していた。いきなり後頭部を強打された男は、さすがに愕然とした顔になる。
「なっ、なな、何するんすか、ってー、こ、ここまで本気で殴んなくても……」
「うるせぇ、十年来の片思いを煙草一ケースで諦める、俺の身にもなってみろ」
乱暴にそう言って歩き出しながら、桐谷は――本当は、背後の男に抱きついてキスの雨でも降らしたいくらい感謝していた。
右京は――少なくとも、もう手の届く範囲にいる。
例え、意志の疎通はできなくても、それでも。
「……桐谷さん、今日は、何の用で来たんすか」
背中からどこか硬い声がした。桐谷は、口元から笑みを消した。
口調でわかる。蓮見も、もう、薄々気がついているのだろう。
桐谷は、火をつけない煙草を唇に挟んだ。そして、苦く舌打した。
―――嫌な役回りだよ、ったく……。
三
「……よく、寝てるみたいだな」
ガラス越しに見える顔に視線を落とし、桐谷は小さくつぶやいた。
「あれだけ寝なかった女が、不思議っすよね」
蓮見が背後で苦笑している。
「いいよ、寝かせてやれよ、きっといい夢を見てる、そんな気がするよ」
自分の声が、不自然に優しくなっている。
桐谷は、慌てて、女から視線を逸らしながら言った。
「こいつはさ、寝ない女じゃない、寝るのが恐い女なんだ」
「恐い……すか」
「こいつのよすぎる頭の中は、子供の頃からの哀しい記憶がずーっと残ってて、それが、夢の中に現れるんだよ。亡くなった右京総理に聞いた事がある。寝るのが恐い、夢を見るのが恐い、こいつは……そういう女なんだって」
「…………」
「今まで、頑張るだけ頑張ったんだ、いいさ、少しくらい休んでも、そうだろう?」
「……そうっすね」
蓮見が、ゆっくりとケースの傍に歩み寄る。
棺のようなケースで、首から上の部分だけが、透明なガラスになっていた。内部の温度が低く保ってあるのか、中に、水蒸気がこもっている。
「……こん中にいる以上、こいつ、年とんないんだって?」
「だから、説明したじゃないっすか」
呆れたような声が返ってくる。蓮見は元気だ――電話の声に張りがあったから安堵していたが、桐谷は改めてほっとしていた。
悔しいが、今は――今だけは、この莫迦が右京の傍にいてくれることだけが、唯一の救いだ。
「このケースは、ただ中を無菌状態に保ってるだけで、……年取らないっつーか、なんすかね、代謝が……新陳代謝とかが、とにかく低くなってんだそうで」
「判るよ」
「本当にわかるんっすか、正直、俺にはちんぷんかんぷんでしたがね」
「ばーか、要は冬眠と一緒だ、クマとかカエルが土ん中で、ずっと眠りっぱなしで冬を越すだろう。何も食わなくても死なないのは、代謝を極端に抑えてるからなんだよ」
「はぁ……」
「ま、冬眠ができる人間がいるっつーのも驚きだがよ。世界ビックリ人間に出場できんじゃねぇか?」
「クマとかカエルは、」
言いさして、そのまま蓮見は口をつぐんだ。
なんだ?と聞き返そうとして、桐谷も黙った。
多分――こう言いたかったのだろう。どうやったら、冬が終わったことを知って、目覚めることができるんでしょうね。
「……悪い知らせだよ」
桐谷は、蓮見を見ないままで呟いた。
「そうじゃないかと思ってました」
「右京の細胞から、同一のウィルスが検出されたそうだ」
「…………」
蓮見の横顔がさすがに強張る。
「……一回目の結果は、陰性だったのに、ですか」
「通常の倍の手間をかけて、執念で探し出したって話だ。確信がなきゃ、できることじゃないだろうがな」
「…………」
「なんだったかな……ただし、右京のそれは、リンパ球に結合してないんだそうだ。その……ウィルス」
「HBH-1……っすか」
「そう、それだ。HBH-1は、CD4+Tとかいうリンパ球に結合すると、ウイルスRNA遺伝子がリンパ球の中に取り込まれ、DNAに逆転写される。……らしい、よくは知らねぇんだが、エイズと似たような経緯を辿って発病するらしい」
「…………」
「右京から出てきたのは……結合してない状態の、言って見れば無害のウィルスだったわけだ。だからなかなか見つからなかった。―――それが、何かのきっかけで活性化すれば有害なものに変る可能性がある、というのが、結論で……つまり、あれだ」
「右京の中に、ウィルスの根源体が潜んでいたってことっすか」
「そういうことを言いたいんだろうな、で、そのきっかけを、国防総省の連中は、例の――光に変化した時ではないかと、みなしている」
「…………」
「活性化されたウィルスが放出されて――ベクターに感染したんじゃないかと見なしている」
「…………」
「国防総省は、NAVIを業務上過失致死で提訴する方針らしい。未知の、危険なウィルスを所有する人物を――知っていて、放置し、WHOへの報告義務を怠り、ウィルスを蔓延させた……ことが、そういう罪に当たるんだとさ、意味判るか、元警察官」
「まぁ、なんとなく」
「国防総省は、即刻、右京の引渡しをNAVIに要請すると思うぜ。……どうでるかね、カリスマ会長不在のNAVIは」
「…………」
「マスコミも動き出した。来週頭発売の週刊誌で、三面ぶち抜きの記事が出る。期限は一週間。米国政府はそれまでに、今回のベクターの大量死を、特殊な状況下で発生した、新種のウィルスが原因であるとして、発表する予定だとよ」
「特殊な……状況ってのは」
「お前ももう知ってんだろ、例の光の集合体に変化した三人だよ。嵐と、べっぴんの兄貴、それから右京だ。政府は、その三人から、未知のウィルスが発生したってことで、全ての片をつけるつもりなんだよ」
「…………」
「ま、実際、右京から、同じウィルスが検出されたんだ。何も言えないわな」
「それが――」
蓮見が呟く。多分、握った拳を震わせている。判っていても、桐谷には、慰めの言葉一つ言えなかった。
「それが、こいつが発生源だという、なんかの証拠でもあるんすか」
悔しさの滲んだ声だった。
「…………」
「何もかも推測じゃないっすか、俺はなんともない、ここにいる看護士や、医者が発病してるわけでもない。こいつは動けない、呼吸さえ殆んどしてない、ただ、じっと――ここにいるだけしかできないってのに!」
「感染ルートは、これからWHOが本格的に調査する……中立機関だ。疑いが晴れれば、右京もいつかは放免されるだろうよ」
なんの慰めにもならない言葉だ。
桐谷は言った自分に苦笑する。
国防総省が――いや、今回はアメリカ政府が、右京を始めとする三体を拘束すると決めたのは、何もウィルスが真の原因ではないからだ。
ウィルス騒動は――おそらく、体のいい口実にすぎない。
「……多分、今回はNAVIがどうごねようと、政府は強行手段に出ると思うぜ」
それだけ呟き、ぽんと、男の腕を叩いた。
「蓮見、お前、どうすんだ」
「……俺っすか」
「てめぇにもてめぇの人生ってもんがあるだろう。いい年して、プーになって、そんな甲斐性なし、俺は従兄妹のダンナとは認めねぇよ」
「余計なお世話っす」
蓮見は――不思議なくらい静かな笑みを浮かべ、軽く拳をぶつけてきた。
桐谷はそれを、手のひらで受け止める。
「俺、こいつの傍にいますよ」
「……いて、どうする」
どうなる。
なにができる。
なにもできないくせに。
何も――変りはしないのに。
「さぁ、ただこいつが目覚めた時」
「……春は、まだ当分先だぜ」
軽い皮肉を、蓮見は苦笑で受け流した。
「俺、傍にいてやりたいんです。仕事なんて、死んだ気になりゃいくらでも探せる。上手く言えねぇけど……こいつの手を、今、しっかり握っててやらねぇと」
「…………」
「今度こそ、手の届かないところに行っちまいそうな気がする。女々しいって笑ってもいいっすよ、何を言われても、俺は右京の傍にいる」
桐谷は、もう何も言えなかった。
負けたな、この青二才に――まさか、まんまと右京を持っていかれるとは思ってもみなかった男に。
「……まだ、諦めるのは早すぎる……この女が起きたら、そう言って叱られそうで」
「部下根性、染み付いてるな」
「最悪の上司でしたからね」
二人は、顔を見合わせて、初めて屈託のない笑みを交わした。
四
「ラウ――いや」
病室を出て別れ際、蓮見は言いかけて、言いにくそうに髪に手を当てた。
「右京のことをFBIに通報した――頭のいかれた男がいたでしょう」
「ああ、」
桐谷は眉を上げる。
その男のことは、別のルートからよく知っていた――とは、ここでは言えない。
「そいつ、どうなりました……逃亡したって聞いたんすけど」
「いや、そのまんまだ、いまだ見つかってないらしい」
「そうっすか……」
蓮見が珍しく沈んだ顔になる。
それはそうだろう、気持ちが判る桐谷も黙る。
実際、FBIを通じ、ホワイトハウスの介入がなければ、蓮見はあのまま、ラボの中で証拠ごと抹殺されていたに違いない。
アンディ・水城という男が、虚偽の婚姻届を出したとFBIに出頭し、右京の処遇について早急な救助を要請した。同時にNAVIの圧力がかかり――ある、重要な情報と引き換えに――、右京の身柄は劇的にNAVIに移されることになったのだ。
「ま、目端の利きそうな男だった、どっかで調子よく生きてるだろうさ、例の病気に罹ってなきゃの話だがよ」
「だといいんすけどね」
「じゃあな」
桐谷の出した手を、蓮見が握る。
右京を頼むぜ。
それは、言葉にせずに、握った手の強さで伝えた。
「次は、この腕に、ワッパでもかけられそうな気がしますけど」
離れた手を見て笑う蓮見、でも多分、半ば本気で言っているのだろう。
それには答えず、桐谷はポケットに手をつっこんで背を向けた。
頼むぜ、蓮見。
―――俺はもう、お前らとは。
別の道を行くと、決めたから。
――――いつか、この手を離れて飛んで行く翼。
自分の翼では、決して追ってゆけない空へ。
楓。
そんなこと、最初からわかってたんだ。 |