六


「冷たいな……」
 楓は遠い眼をして呟いた。
 それが髪をなぶる風のことなのか、繋いでいる手の温度のことなのか判らない。
 漁港の光が、波間に反射して揺れている。
 静かで――心地よい波音のリズム。
 浜辺に積み上げてあった木材に寄りかかり、船着場にあった毛布を持ち出し、二人でわけあって膝に掛けていた。
 秋海の波は、荒く、風は冷たい。
「海が……呼んでるって感覚、判るか」
「呼んでる……?」
「子供の時からそんな気がしてた、おかしいだろ、魚が祖先なのかな、俺」
 冗談を言うには、儚すぎる声だった。
 初めて二人で夜を過ごした、桜場基地での一時のように。
「だったら、サメかピラニアだな」
 獅堂はわざと冗談めかして言うと、繋いだ手をいっそう強く握り締めた。
 本当は――このまま楓が、海に連れて行かれそうな、そんな不安を感じていた。
 けれど楓は、ただ楽しそうに笑う。
「ひでーな、もっと可愛らしい例えはないのかよ」
「お前は絶対、攻撃的な動物の生まれ変わりだよ、獣だったら狼とか……さ」
 ふと、その横顔から笑いが消えた。
―――楓……?
 波の音が高くなる。
 楓の目は、まっすぐ闇を見据えていた。
「……ベクターが、……たくさん死んでること、知ってるか」
 はっと息を呑む。
「うん………」
 手を握り締める、それしか獅堂には出来なかった。
「どんな狭い世界にも生態系はある」
 けれど、楓は唐突に明るい声になって、その手を解いて立ち上がった。
「楓、」
 楓は、すたすたと――波打ち際に向かって歩いていく。
「例えば、プランクトンだ。彼らは海に棲む魚達にとってはなくてはならないエネルギー源だ。でも、なんらかの環境の変化が、彼らを増殖させた時――」
 そして、しゃがみこみ、ひとすくいの砂を掌に載せる。
「魚達は、酸素を失い――死んでしまう」
 何が言いたい………?
 追いついた獅堂は、黙ったまま、真宮の華奢な肩を見つめ続けた。
「生態系には、絶対的なバランスというものがあるんだよ。ある特定の種の増殖は、従来の種を、滅ぼしかねない」
 ようやく楓は振りかえった。掌から、指の隙間から、乾いた砂がこぼれ落ちる。
「今の、ベクターが、そうだとは思わないか?」
 掌に残った小さな貝殻の欠片。楓は、それを、愛しそうに見つめた。
「俺たちは特殊な能力を持っている――地球の自己防御システムの一部だと、どっかの偉い学者さんが言ってたっけ。……意味、分かるか?」
「悪い……あまり」
「戦うことが人の性なら、やがて人という種は、地球ごと焼き尽くして滅びかねない。それに――歯止めをかけるために、ベクターという新種を、地球の意思が生み出した、という理屈だよ。でも滅亡の危機は去った。ベクターの能力が最大限に発揮され、かつ必要とされたのは――俺は、あの台湾有事が最初で最後だったと思ってる」
「………どういう、ことだよ」
「さぁな」
 楓は、苦笑を浮かべ、再び海へ視線を返す。
「俺たちの能力は……もう、この地上では、必要ないんじゃないかな」
「……なんで、でも」
「あれだけの教訓を生かせないようじゃ、人という種は、もう滅びるしかないってことだよ」
 風が、その髪を頼りなく揺らした。
「今……世界中で、ベクターが次々と死んでってる。俺にはそれが、役目が終わったからだと――そんな風に思えるんだ」
「それは、」
 それは、違う。
 即座に口を開きかけて、迂闊に話せないことに気づく。
 獅堂は――自分も楓の傍に膝をつき、その肩を抱いた。抱き締めた。
「ベクターは、国家間の利権争いに巻き込まれた可能性があると聞いている――お前の考えてるような理由で、――そんな理由で死んでいってるんじゃない」
「…………」
「絶対に、そんなこと、有り得ない」
―――だとしたら……余りに、残酷すぎるじゃないか……。
 哀しすぎるじゃないか。
 楓は答えない。
 ただ、無言で、風に髪をなぶられるままになっている。
「……俺たちの、この地上での役目は終わった……やっぱり俺は、そう思うよ」
 やがて、小さく呟いた。
「でも、持って生まれた能力は消えるわけじゃない――残酷なことだけど」
 楓は、砂を払って立ちあがる。
 獅堂は何か言いかけようとして、やめた。胸に、薄雲のような不安が広がっている。
「藍――10年後の俺たちって、想像できるか?」
 しかし振り向いた楓は、唐突に、きれいな八重歯を見せて笑った。
「じゅ……10年後?」
 獅堂は普通に驚いた。いきなり飛んだ話題についていけない。
「子供とか、いたりしてな」
「おっ…おい……どうしたら今のが、そんな話題に変わるんだよ」
「海外で生活したいな。そしたら、もっと、おおっぴらに一緒にいれるだろ」
「そりゃ……」
「春は花見に行って、夏は海、秋は温泉?冬はスキーだっけ」
「…………」
 絶句した獅堂は、楓の額に掌を当てた。
「……なんだよ」
「いや…熱でもあるのかと」
「あるよ」
 楓は微笑を浮かべ、獅堂の手をとって、自分の唇を寄せた。
「お前と会ってから――ずっと、熱があるみたいだ」
「楓………」
 すっと手を離した楓は、元の場所まで戻ると、木材に背を預け、そして腕で顔を支えるようにして目を閉じた。
 透き通った、貝殻のような瞼だった。
「……眠いのか」
「うん……」
 時計は、深夜三時少し前を指している。
 思えば長い――長すぎる一日だった。昨日の今ごろは、楓と一緒に同じベッドで眠っていた。それが――もう、すごく前のことに思える。
「そういえば……ペンダント」
 楓の肩に毛布を掛けてやりながら、獅堂はふと気がついて呟いた。
 いつもつけてくれているそれを、今日の楓は――いや、休暇が始まってからの楓は、一度も身につけていないようだ。
「鎖、切れてんだ、……部屋に置きっぱなしだな」
 薄く目を開けて、楓が、眠そうな声で答える。
「いいよ、自分が」
―――直しておくよ、と言いかけて、それ以上言葉が出なくなった。
 まるで――楓が、二度とあの部屋に帰れないことを、自分で認めてしまうような気がしたからだ。
「約束」
 けれど楓は、ペンダントのことは何も気にならないのか、そう言うと、獅堂の手を少し強く握り締めた。
「俺が寝るまで――手、離すなよ」
「わかったよ」
 子供じゃないんだから……。
 その言葉は飲み込んだ。
 安堵したような、穏やかな笑みの余韻を唇に残し、やがて楓の呼吸が正確なリズムを刻んで行く。
 本当に、子供のような寝顔だった。
「…………」
 ピピッと、微かな電子音が響く。
 腕につけたままの通信機。ずっと繋がらなかったそれが、唐突に動き出している。
 楓の額と髪にキスして、――獅堂は、そっと楓の手を離した。
 ここの居場所を伝えて――そして、鷹宮に事情を説明しなければならない。
 それが、今の、どうにもならない現実だった。


                  七


 フューチャーは、すぐ傍の浜辺に――、入り江を覆う木々の影に隠すようにして駐機させていた。
 腕時計型の通信機はどう操作しても繋がらないようだった。故障にしては、どこかおかしい。
 ふと不安を感じ、そのまま獅堂は、フューチャーに駆け寄った。
 ラダーなどないから、右翼を支えによじ登る。多分、整備士あたりに見られたら悲鳴を上げられかねないだろう。
 手動でファイターのハッチを開ける。
 シートに飛び乗り、コンピューターをオデッセイの母体にログインさせ、全ての機能が正常に起動するまで、約、30秒。
 自動追尾システムをオフモードからオンモードに切り替える。今まで、故意にオデッセイとの連絡を断っていた。――赤外線防御システムも、オフに戻す。
 そして、通信ラインを復活させる。
 やがてすぐに――雑音とともに、鷹宮の声が聞こえてきた。
『獅堂さん……獅堂さんですね』
 その、切迫した声に、さすがに胸を衝かれていた。
 この先は――全て自分が責任を取らなければならないとは言え、あまりに多くの人に迷惑を掛けてしまった。それだけは判る。
『楓君は?』
 せきこむような声だった。
「無事です。ここの位置は、」
『いい、それはこちらで今、把握しています。すぐに迎えを送りますから。それまで、楓君を――』
「楓は、明日になれば、自ら出頭すると言っています。ですから、」
 今夜は………。
―――さすがにそれ以上は言えなかった。
『いいですか。獅堂さん、よく聞いてください』
 普段冷静なはずの鷹宮の声が、まるで悲鳴のように聞こえた。
『楓君を――信じてはいけない』
 獅堂は、軽く眉をひそめる。
『今から2時間ほど前、防衛庁の母体コンピューターにウィルスが侵入。ほんの数分前まで、全ての衛星監視システムと、レーザーサイトが完全にシステムダウンしていました』
「……システムダウン……?」
 嫌な予感に、胸がざわめく。
『ウィルスは、……獅堂さん。今、あなたが乗っているフューチャーのコンピュータが、発信源なんだ』
―――何を、言ってるんだ?
 鷹宮の声が、どこかひどく遠くで聞こえる。
 それでも獅堂は理解した。
 その意味を。恐いほどはっきりと。
 自分が基地に着いた時、しばらく楓は姿を現さなかった――それは、何故だったのか――、その理由を。
「それを、それを楓がやったと……」
 その可能性は――いや、確信は、もう、否定できない。
 信じられない。
 信じたくない。
 さっきまで、抱き合い、愛を打ち明けたその裏で――。
 最初から、裏切り、利用するつもりで――。
『……獅堂さん。あなたがドイツで楓君に再会した時、彼の痩せ方が異常だとは思いませんでしたか』
 鷹宮の声が、容赦なく聞こえてくる。
 もう、聞きたくない。これ以上、自分の知らない楓のことを。
 自分を裏切っていた楓のことを。聞きたくはない。
『彼はね、獅堂さん。留学なんかのためにドイツに渡ったんじゃないんだ』
「え……?」
 それでも、顔を上げてしまう。
『もちろん、表向きは留学で……彼も平常は海洋学の研究に成果を出していた。でも、』
 胸が……ざわつく。
『夜になれば……彼の身体は実験台で徹底的に調べられた。ドイツに渡った本当の目的は』
(――そんなものは散々受けたよ。気が遠くなるほどね。何度も何度も何度も何度も――)
『本当の目的は、EURの科学者集団が、彼を欲しがったから』
―――え……?
『EURが、アメリカ合衆国と敵対してまで欲しがった"情報"とは――楓君の生きた肉体だったんです』
 
『どちらでも、よかったんだ。EURにとっては。二人の兄弟の――どちらでも』

 鷹宮の声が、かすかに揺れている。
『けれど、防衛庁は楓君を選んだ』

 辛いのか――
――別に、食事が合ってないだけだろ。

『楓君なら……逃げることも出来たはずだ』

――ここを出るとか出ないとか、俺の自由に決められないから。
 不自由なもんだな。天才は――

『けれど、防衛庁はそうはさせなかった。アメリカには右京さんが渡った。日本は、フューチャーの機密を知る嵐君を手放したくない。残る一体を差し出さなければ、世界の軍事バランスが崩れてしまう。だから――巧みに――嵐君の名を引き合いにだした』

――この地上で――判ってるのは俺と、嵐の二人だけなんだ。俺たちは魂の双子だ。あいつの苦しみは俺の苦しみで、俺の苦痛はあいつの苦痛だ。

『楓君は………嵐君に、全てを伏せておくことを条件に――それを引き受けた……』
―――自分が行かなければ、嵐が、行く。
 残酷な選択。楓なら迷うことなく、自分で行く道を取るだろう。獅堂にはよく判る。
「逃げることも出来たはずなのに――黙って――彼は苦痛の全てを引き受けたんです」

―――なんて……ことを。
 獅堂は眩暈を感じて額を押さえた。
 ひどすぎる。これが、これが命がけで、核の惨禍から人類を守った者への仕打ちなのだろうか。
 自分の手が、身体が、どうようもなく震えるのを感じる。
 そしてこれが――獅堂自身が命がけで守ろうとしたものの、人類というものの正体なのか。
『彼は、過酷な人体実験を何度も受けた……。獅堂さん、……EURの科学者、ヨハネ・アルヒデドという人は』
「やめてくれ!」
 獅堂は叫んだ。
「もう……聞きたく、ない……」
『楓君は……当時のことを、殆んど覚えていないんです……だから、彼が受けた苦痛は、記憶としては残っていないはずだ』
 違う。
 獅堂は額を押さえ、首を振る。
 残っていないはずはない。苦しまないはずがない。
 だから、あんな夢を見るのか。
 夜毎悪夢にうなされ、悲鳴を上げる楓。異常な汗。
―――なんて、ことを……。
『防衛庁が、楓君を拘束しようとした本当の目的は、……万が一』
 鷹宮の言葉がとぎれた。少しの間沈黙が続く。
『万が一………彼が…あの、青い光の力を復活させることがあってはならないから』
「光の……力?」
 あの――審判の日の?
 奇跡としか、思えなったあの姿に?
『あの力で……我々に刃を向けられる日が来ることを……それを恐れているんです。何故なら』
 あれは奇跡で、楓も嵐も、きっと二度とは、あんなものには――。
『EURの真の目的は光の力の復活だから。――復活させ、生物兵器として使用することだから』
―――なん……だって…?
『彼等はおそらく、復活へのなんらかの法則を見出したんです。だから、嵐君と楓君を――アメリカとの開戦覚悟で確保しようとしている。獅堂さん、今、楓君をEURに渡してはならない』
 もし、あの二人の持つ力が、悪用されるようなことになれば。
『楓君を信じてはいけない、彼の手を、――離してはいけない』


                 八


 獅堂はフューチャーを飛び降りた。
―――楓……!
 焦る思いが、足をもつれさせる。
「楓!」
 背後で激しい爆音がした。
 獅堂は足を止め、弾かれたように振りかえった。
 闇夜から浮き出したような――漆黒の戦闘機。胴体には、所属を表す記章も、国記さえもない。むろん、国産のものではない。
 獅堂は――悪夢でも見るような思いで、その機を見上げた。
 あきらかに垂直着陸したとしか思えない、ヨーロッパ製の特徴を有した軍用機を見上げた。
「……悪く思うなよ、獅堂さん」
 小さなラダー。その下に、楓の姿があった。
 別人のように冷たい――醒めた目をした男の姿があった。
「つか、思う資格もないよな、あんたには」
 微かに笑う。冷ややかな眼差し。
―――楓……。
「俺、あんたが俺にしたことを、そのままやっただけだから」
「…………」
「もっとも、この程度じゃお釣りがくるけどね」
 ラダーを駆け上がり、ひょい、と身を翻す。
 獅堂は、腰に携帯しているはずの拳銃が、――あの基地内での騒ぎの時に、闇に紛れてなくなってしまったことを思い出していた。
 楓の姿が、コクピットの後部座席に形良く収まる。
 前部の座席には、黒いヘルメットだけが見えていた。
「楓っ!!」
 キャノピーが閉まる。
 楓は一度も振り返らなかった。
 一気に上昇し、吸い込まれる様に闇に消えていくそれを――獅堂は呆然と見つめることしかできなかった。
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