二


「だめです。防ぎきれません。このまま、ウィルスは母体コンピューターに侵入します」
 オペレーターが悲鳴のような声を上げた。
「発生源を特定しろ!」
 阿蘇が、額に青筋を浮かべて激昂している。
 オデッセイ−eのオペレーション・ルームは混乱の極みにあった。
 せわしく行き交う人の中、壁際に立つ鷹宮は、眉根を寄せ、じっと一点を見つめ続けていた。
 案の定、阿蘇はすぐに一旦解雇だと啖呵をきった部下を呼び戻した。当然だろう、と鷹宮は思う。
 見事にレーザー網をかいくぐって追跡を振り切った獅堂が――万に一つも連絡してくるとすれば、それは、自分しかいないのだから。
 メインコンピューター画面が、赤く点滅を始めた。
 キーボードを叩く慌しい音。阿蘇の――何の役にも立たない怒声。
 そして警告メッセージの点灯――電子音。
「……信じられない」
 呆然とした声が響く。
「全ての………衛星監視システムが、ダウンしました」
 力無い声がした。
「……国内の全レーザーサイトも、同時にダウンしています。早期警戒機も、バッジシステムも……海上のイージスも……こんなこと……初めてだ……」
 死のような静寂が室内に満ちた。
 その意味は、軍人であれば誰にも分かる。
 今――領空侵犯機はおろか、例え大陸弾道弾ミサイルがぶちこまれたとしても、国内ではそれを撃墜することはおろか、発見することさえ不可能だということだ。
「電話回線を確保しろ、なにをぐすぐずしている、至急米軍基地に応援を要請するんだ」
 おそらく――地上の、洋上の、全ての駐屯地が、基地が、監視艇が、今、想像も出来ない規模でのパニックに見舞われているはずだ。
「すぐに復旧作業に当れ!今、すぐだ」
 足音を荒げ退室しようとした阿蘇は、ふと足を止め、鷹宮の前で立ち止まった。
「何を、考えている?」
 鷹宮は薄く笑った。
「あなたも、――私も終わりだと思いまして」
「何だと?」
 阿蘇の血相が変わる。
「莫迦げたミッションの、結末がこれだ」
 組んでいた腕をほどき、鷹宮は阿蘇に背を向けた。
「一足先に失礼します。睡眠不足は肌の大敵ですからね」
「たっ、ただではすまんぞ鷹宮。この責任の所在の全ては――」
 耳に入ったのはそこまでだった。
 オペレーション・ルームを出た鷹宮は、眉をしかめて乱れた髪をかきあげた。
―――獅堂さん……。
 あの人を、もう一度空へ還してあげたかった。
 でも、それも、もう叶わない。もう――自分の力ではどうしようもない。
「鷹宮三佐」
 背後から響いた声。
 鷹宮は、はっとして顔を上げていた。懐かしい、耳に慣れ親しんだその声。
 振り返る――廊下の向こうに、すらりと立つ長身の影が目に飛び込む。
「よ……」
 引き締まった端正な顔。隙のないスーツにネクタイ。どんな時にも冷静な、理知的な光を持つ瞳。
「遥泉、……さん」
「お久しぶりですね」
 咄嗟に敬礼したものの、まだ鷹宮には、状況がよく掴めなかった
 警視庁を退職したと聞いたのは、もう随分前になる。以来、一度も会う事のなかった遥泉が、どうして――ここに、と思う間もなく、
「あなたの役目は、まだ終わってはいませんよ」
 思わず息を呑むほど、それは厳しい口調だった。
 鷹宮は思わず目を伏せる。
「今までの経緯は、全て聞いています」 
 その手に、肩を優しく叩れた。
 まるで――あなたのしてきた仕事も全て知っています、その手はそう言っているようにも思えた。
「たった今、阿蘇室長は今回の失策の責を問われ、オデッセイの任を解かれた。後任の決定があるまで防衛庁長官の命により、臨時に私が室長を代行する――鷹宮三佐」
 鋭い一括。鷹宮の背筋が引き締まる。
「あなたには、引き続き真宮嵐の救出、及び真宮楓の確保の任についてもらいます」
「はい!」
 鷹宮は、背筋を伸ばした。そして、手を下ろし、ふと眉をひそめる。
「不思議そうな顔をしていますね」
「はい、……いえ」
 思わず正直に頷いた鷹宮に、遥泉はかすかに笑みを返した。
「警視庁をやめ、ずっと青桐さんの下にいました。民間登用というより、元オペレーター副室長の実績――ということで、今回の人事も、きちんと総理の許可を得ています」
「…………」
 退任間際の長官に、もう力がないのは判っている。
 今になって、こんな思い切った策に出るのはどういった事情なのだろう。
 それでも、鷹宮は、体の底の方から――何かが湧き出してくるのを感じていた。
 旧知の男を見て、不思議なくらいほっとしている自分を感じていた。
 ああ――やっと。
 やっと、オデッセイに、帰って来れたのだと――初めてそう思っていた。
「まだ……諦めてはいけない」
 その肩を力強く叩き、遥泉は囁いた。
「諦めてはいけない、あなたが諦めてどうする、誰が、帰ってきた獅堂さんを支えるんです」
「…………」
「諦めるのは、まだ早いんですよ」
 まだ……諦めては、いけない。
―――空へ、
 あの人を還してあげるまでは――。
 

               三


 こんな風に、楓からキスを受けるのは初めてだった。
「……楓……」
 息が出来ない。
 わずかに離れた唇はすぐに塞がれ、獅堂はそのまま身体ごと壁に押しつけられた。
 今までも、苦しいくらいのキスをされたことは何度もある。
 でも――それも、今の激しさと情熱に比べたら、まるで子供同士のキスのようなものだった。
 互いの呼吸の音だけが、廃墟に響く。
 むきだしになった肌に、熱い手のひらが触れている。
 その、痛みさえ伴う愛撫に、たまらず声を上げていた。
 唇が触れ、離れる度に、首に、胸に、赤い痣が次々と刻まれていく。
「口、開けろ」
「………」
「もっとだよ」
 乱れて、昂ぶる吐息。絡み合う唇が立てる音だけしか聞こえない。
 こんなに深く、楓を感じたのは初めてだった。
 こんな――状況で。
 こんな莫迦な真似をしている場合ではないとわかっているのに。
 なのに、まるで、命ごと注ぎ込むような激しい腕を、唇を、拒む事ができない。
 身体が自分のものであって、そうではないような気がする。
 こんな感覚も、初めてで、もう――苦しくて、切なくて、何も考えられなくなりそうになる。
「藍……」
 耳元で囁く声。
「かえ…で…」
「我慢しなくて、いい」
「っ……あっ…」
「藍、」
 ただ頷き、きつく、楓の肩を掴む。
 抑制をなくしているように見えても、最後はいつも理性を取り戻す楓。
 なのに――今、初めて、楓は最後まで抑制を欠いていた。
「……楓……」
 指を絡め、求め合う。本能のままに、男のままに、女のままに。
 こんなに好きなのに。
 苦しいくらい好きなのに。
「藍、」
 声も、髪も、目も、鼻も、唇も。
 狂ってしまうほど大好きなのに。
 それでも、この身体の繋がりが離れれば、自分は――楓を、捕らえる側に回るんだ。
 この腕が――離れてしまえば。


               三


「獅堂一尉に、真実を打ち明けようと思っています」
 オペレーション・ルームはダメージを受けたコンピューターの復旧作業に追われていた。
 各地の民間飛行場、及び各国政府に、通信衛星システムがダウンしている間の補足追尾、状況報告を全て依頼し、ようやく一息ついたところだった。
 受話器の向こうかららは、沈黙しか返ってこない。
 口を開くのが遅いのは、この男の特徴だな――そう思いながら遥泉は続けた。
「彼女は――余りに、真宮楓を」
 言いながら、胸苦しさに眉根をしかめた。
「信じすぎています」
 背後には鷹宮が立っている。腕組みをして――じっと、眼を閉じている。
 何もしてあげられないもどかしさだけが、共有された想いとして伝わってくる。
『……彼らのような、若い世代を』
 ようやく、声が返ってきた。
 テレビで聞く、歯切れの良い爽やかな声ではない、どこか疲れた、張りのない声だった。
『どこまで、我々大人は苦しめ続けなくてはならないのだろうな』
 この人は今、――何時を見つめ、何処にその想いを馳せているのか。
 遥泉には判る気がした。
 ベクターと言う種がこの世界に誕生した時から――。
 彼等の頭脳が、人類を新たなステージに押しあげてしまった時から。
 この地上に棲む人類の命運は、まだ十代、二十代のうら若い少年たちの手に委ねられることになってしまった。
 その象徴が、中国共和党で、中国をアメリカに匹敵する軍事国家に変容させた真宮楓であり、フューチャーという夢の新型エネルギーを開発し、軍用機に革命的な変化をもたらした真宮嵐である。
 彼等は、人類の同胞であると同時に敵であるとも言えた。
 はからずも、その可能性と脅威は、台湾有事という場を借りて顕著になってしまった。
 大国主義とマイノリティーの戦い。それは、黄色人種と白人の戦いという場から、在来種とベクターの戦いに、実にあっけなく転換されてしまったのだ。
 たくさんの犠牲を出した末、核による人類の破滅――という脅威は去った。
 けれど、人類が抱えた問題は、何一つ解決されてはいない。
 異文化への無理解、差別、排除、報復に報復で返すという負の連鎖。
 その矛先が――今は、全てベクターという新種に向けられようとしている。
『結局、我々は……』
 電話の向こう、青桐要の声がわずかに途切れる。遥泉は受話器を持ち直した。
『右京奏一人、守ってやることができなかった』
「………」
『防衛庁首脳陣が真宮楓を恐れ、監視までつけたのは、彼ら自身が真宮楓という青年に対し、潜在的な後ろめたさを抱いているからだ』
 それだけのことを、我々はしてきた。
 青桐は重い口調で付け加えた。
「それを――もう」
 遥泉は唇を噛んで続けた。
「獅堂さんに、お話する時期ではないかと思います」
『君に任せてある、……もとより、隠す必要はなにもないよ』
 苦笑と共に、穏やかな声が返ってくる。
 その――声の背後で、奇妙な音がした。
「……今、どちらにいらっしゃるんですか」
 聞きなれない音に奇妙な胸騒ぎを感じ、遥泉は目をすがめた。
『何、嫌味な男がくれたヒントに気がついてね、昔の同僚がやってる養蜂場を探し歩いている所だ』
「……養蜂場?」
 さすがに遥泉は驚いた。
 国会は休会中だが、基地委譲問題の最中に立たされている長官が、旅行に出ている暇などないはずだ。
『Human beings'hopeだ。遥泉君』
「は……?」
『言葉どおり、人類の希望だよ。それが最後のヒントだ。今、私は、それを探しているんだよ』


               五


「着ろよ」
 楓が脱ぎ捨てた黒のシャツを投げてくれる。
「……いいよ、お前の方が寒いだろ」
 そう言うと、振り返った男は、いたずらっぽい目で笑顔になった。
「俺が駄目にしたんだから、いいんだよ」
 その、変らない笑顔にほっとする。
 実際、夜の浜辺は、身震いするほど寒かった。
 ジャケットの下は、破れて、前を合わせることも出来ないシャツだけだ。まぁ、確かにこんなことになってしまったのは、楓のせいなのだが――。
「藍……」
 楓の腕が肩にまわされ、頭に頬を寄せてくる。
 そしてまた、名を呼ぶ。
「お前、さっきから、やたら名前を呼ばないか」
「呼びたいんだ――藍」
 楓は笑った。
「何回でも、ずっと、呼びたい」
「そ、そんなもんかな……」
 赤面してしまう。そんなセリフ、楓でなくても、普通言うか?――と思う。
 頭の後ろを抱かれ、そのまま額にキスされる。
 目蓋に、耳にくすぐるようなキスが続く。
「おい……くすぐったいから」
 これではまともに歩けない。さすがに閉口して手で遮ると、楓はかすかに笑って手を離してくれた。
「ごめんな」
「うわっ」
 その代わり、腿の辺りを抱かれて持ち上げられる。
「か、楓」
 自分の目線が――少しだけ上になる。
 こん、と下から額が合わされた。
 覗きこむように見つめられる。その目が――何故か、ひどく幼く、まるで子供のそれのように心もとなく見え、獅堂は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「俺……」
 もどかしいキス。
「ん……」
「いつのまに…俺………」
「………」
 降ろして欲しいのに、降ろしてくれない。もっと深く唇を重ねたいのに、その距離は埋まらない。
「……こんなに、好きになったかな」
「えっ?」
 驚きは、ようやくしっかりと重なった唇で塞がれる。
「自分でも驚いているよ」
 最後にそう言い、楓は、ポケットに手をつっこんで歩き出した。
―――楓……。
 痩せた背中、それが――胸が詰まりそうなくらい痛々しく見えた。
―――自分は、
「楓、」
「何、」
 背中から、声だけが返ってくる。
「聞いてくれ、……自分は、お前に、ずっと隠してきたことがある」
「…………」
「自分は、」
 多分、楓は知っているのだろう。そんな気がした。
 でも――それでも、自分の口から言わなければならないと思っていた。
「自分が、……お前と再会したのは」
「パトカーの音、大分近くなったね」
 なんでもないような声が、獅堂の言葉を遮った。
「……どうすんの、俺のこと」
「…………」
 現実が、――胸の中に、静かに冷たく広がって行く。
「楓、自分は……」
「わかってる。俺を、オデッセイに連れてくんだろう?」
 膝についた砂を払いながら楓は言った。穏やかな表情だった。
「もう、何処にも逃げ場なんてないしな、一緒に出頭するよ、別に命まで取られるわけじゃないし」
「………」
「でも、今夜だけ、二人でいたい」
「……楓、」
 胸が痛い。
 どう答えていいか、なんと言っていいか判らない。
 ひとつ判るのは、どうしようもないということだけだった。
 このまま――楓を逃がすことはできない。相原に、北條に、大和に、取り返しのつかない泥を被せる事だけはできない。
 心が引き裂かれるようだった。
 楓の顔が――まともに見れない。
 楓はしゃがみこみ、打ち寄せる波に指をかざした。
「俺にはなんとなく判るよ……今日別れたら、まずまともに会う事はできなくなる。判るだろ、……お前だって、――右京さんって人に、一度も会ってないんだろ」
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