七
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―――結局、持って帰ってきてしまった……。
ということは、また今夜も不眠が続くということか。
何をやってんだ、僕は……。
溜息をつきながら、遥泉は自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ。
あの不吉な垂れ目が忘れられない。何がラッキーアイテムだ。不幸を呼ぶパンダ、それが判っていて、結局、自分の手元に取り戻してしまっている。
それは、今までの国府田ひなのと自分との関係に似ていなくもない。
今日まで、一方的に災難を被っている――とばかり思っていたのだが、実のところ、自分の性格が呼び込んでしまった奇禍だったのかもしれない。
―――忘れよう。
遥泉は首を振って思い直した。
彼女がどんな人生を辿ってきたとしても、それは――究極には、自分とは交わらない別のものだ。同情しても、心配しても――どうしてやることもできない。中途半端に係わるくらいなら、何もしない方がいい。
―――その方が、あの子のためだ……。
帰りに買ったワインとチーズで、久しぶりに静かな時間を過ごすつもりだった。そして――考えなくてはいけないと思っていた。
まだ、遥泉は、自分が辞表を書く可能性を棄てきってはいない。
上司への反発――というより、自分が何のために警察官という職務についているか、それが判らなくなりかけていた。間違いなく、右京奏の件を黙秘することと引き換えに戻された出世コース。
そのコースに乗せられて、いいように操られている自分が、なんだかひどく滑稽な存在に思えていた。
―――辞める、か。
辞めたところで、右京を助けることなどできはしない。かえって中央の情報から遠ざかるだけだと――それが判っていても、この砂を噛むような虚しさだけは、どうしようもない。
溜息をつきながら鍵を差込み、扉を開けて――気がついた。
部屋の中が焦げ臭い。
「―――……?」
火事?
咄嗟に思ったのがそれだった。ハウスキーパーが、火の不始末でもしたのだろうか。慌てて靴を脱ぎかけて、そして気づく。
玄関に揃えて置いてある、見覚えのあるショッキングピンクのブーツ。
「…………」
「あ、遥泉さぁーん」
誰だ?
「ごめんなさい、ひなの、お料理失敗しちゃって」
誰だ?
もう会いませんとか言った女は。
さようならとか、しおらしげに言った女は。
虚ろな気持ちで廊下を抜けて、異臭漂うリビングに入った。焦げ臭い匂いはますます強くなる――というより。
焦げ臭いどころの騒ぎじゃない。
「国府田さん……」
「はい?」
国府田ひなのは、対面キッチンの中にいた。
いつも通りのブルーの髪をひょこひょこさせて、桃色のエプロンを身につけている。
そして悪びれない、天真爛漫の笑顔で振り返った。
「ハウスキーパーのおばさん、帰ってもらったんです。せっかくだから今日はひなのがお掃除しようと思って」
「…………」
掃除?
このひっくり返った部屋の、―――どこをどうとったら、掃除したという言葉が出てくるんだ?
「丁度、ばったりお部屋の前で会っちゃったんです。ひなのが遥泉さんの恋人だって言ったら、あらあらって笑ってくださってぇ、鍵預けて、帰っちゃいました」
クビにしよう。
即座にそう決心していた。
プロに頼んでいたわけではなく、母親の縁故の関係でお願いしていた人だった。こんな簡単に初対面の女に鍵を預けるようでは――。
―――ああ、そうか。
「遥泉さん?」
「……いえ、少し立ちくらみが」
「大丈夫ですか。まだ、身体が本調子じゃないんなら」
「頼むから、黙っててください」
遥泉は頭を抱えた。初対面ではないのだ、一度、マンションの玄関前で、一緒のところを見られている。その時も妙に意味ありげな笑顔で見ていたっけ。
そして、気づいた。部屋の前で――と、この女は言ったが。
「……マンションのエントランスは、ロックがかかっているはずですけど」
「ああ、あのくらいなら、簡単に、ちょちょっと」
女はしれっとした顔で答える。
もはや、溜息すら出なかった。
「…………国府田さん、その行為をなんて呼ぶか、ご存知ですか」
本気で眩暈がしそうだった。
「……ハッカー?」
「違います。住居不法侵入です!あなたは――自分が監視されていることを知っているでしょう。なんだってそんな莫迦な真似をするんですか!」
思わず大きな声を出していた。
「……不法侵入ですか」
ひなのは、少し小さな声で呟く。そして、指を頬に当てて、少し考え込むような顔になった。
「最新の判例では、住居侵入罪とは、住居者の意思に反して立ち入ることを言うと定義されていますよね。……ひなのは、遥泉さんの意図に反した立ち入りをしたのでしょうか」
「どうでもいいですが、後ろ、また煙が出ています」
「――――あっ」
慌てて、コンロに向き直る背中。
「お菓子とかは得意なんですけどぉー、ご飯とか作るのは初めてで」
言い訳のような声を聞きながら、遥泉は溜息をついて、床に落ちた新聞を拾い上げた。
どこから――手をつけていいものやら。
棚にしまっておいたDVDが、全部出ているのは何故だろう。
「あ、そこ、整理してあげようと思ったんです。ほら、シリーズものって、一巻から並べないと気がすまないことないですか」
「……気にいった巻しか買ってないんです」
「あっ、そうなんだー、それで一巻がないんですね。ひなの、すっごく探しちゃいました」
そうですか。
自分の声が虚ろだった。
ああ――ワイン、冷やさないと。いや、もう無理か、飲む気さえ消えうせてしまっている。
気がつくと、背後に、女が立つ気配がした。
「ごめんなさい……ひなの、最後のつもりで、あの、ちょっとだけお会いしたくて」
「もういいです、あなたの最後があてにならないのは良く判りましたから」
「あの……片付けなら」
伸びてきた手を、咄嗟に振り払っていた。
「勝手に触らないでください」
「…………」
言い過ぎたな、と即座に気づく。が、込み上げた怒りは抑え切れなかった。その感情をもてあましたまま、遥泉は投げ散らかしてあるDVDを乱暴に拾い上げる。
「……ごめんなさい……」
「…………」
声が、完璧に萎れている。
「ひなの、本当に……遥泉さんに、……最後にお話したいことがあっただけなんです」
なんなんだ、一体。
イライラが――頂点に達しそうだった。
なんだって、被害者である自分が、こんなに罪悪感を感じなきゃならないんだ!
「……怒って、ますか」
普通の人間なら、怒るだろう。
黙ったままでいると、背後の女もまた、しばらく押し黙ったまま、その場に立ち尽くしているようだった。
「帰ります。……ごめんなさい……」
ああ――もう!
「帰るんなら、この部屋をなんとかしてからにしてください」
遥泉は、わざと冷たく言って立ち上がった。
「リビングも台所も、全部綺麗にしてください。それまでは嫌だと言っても帰しませんから」
・
・
八
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「遥泉さん、お料理上手なんですね」
「……一人暮らしが長かったですから」
ありあわせの食材で作った単純なパスタで――お料理上手もないだろうと思ったが、それを言う気力も萎え果てていた。
一体自分は何をしているのだろう。
貴重な休日は、沈み行く夕陽と共に終わろうとしている。
静かに過ごすどころか、思索に耽る時間さえなかった。
「ごちそうさまでした」
ひなのは、丁寧に手を合わせてから、皿を抱えて立ち上がった。
「片付け――」
「いいです。僕がしますから」
これ以上、仕事を増やされてはたまらない。
「ううん、本当に得意なんです。……ひなの、別に掃除が下手とかじゃないんです」
テーブルの上のものを、手際よくトレーに乗せながらひなのは言った。
「ただ、いったん、全部出してから片付けるのが癖なんです。棚の中に何があるか、片付ける前に全部確認しないと気がすまない性格だから」
そうなのだろう。
それは、一緒に部屋の片付けをしながら気がついた。
いったん要領を得ると、ひなのの手際は別人のように早くなる。的確に、そして無駄なくスペースを埋めていく。
確かに、以前より使い勝手のよくなった棚を見ながら、遥泉は内心驚いていた。
料理も初めてだから、こんな有様だっただけで、慣れれば――きっと、手際よくこなせるようになるのだろう。
なにしろ、この子の頭脳には、はかりしれない才能が詰まっているのだから。
「ごめんなさい……ひなの、また計算してました」
キッチンに立ち、背を向けたまま、ひなのは続けた。
「病院で、あんな別れ方をすれば、遥泉さんのことだから、色々悩むだろうと思ってました。……ホント、自分でもやになります。こうゆう性格」
肘を付き、手の甲で顎を支えながら、遥泉はその背中を見た。
「どうして、そんなに僕につきまとうんです」
自然に漏れた言葉だった。
「判りませんね、理解不能です。僕は君よりとても年が上で、明るい発想とは無縁の男です。婚約者にふられて、裏切られて、その上、好きになった女性を助けることもできない、そんな情けないオヤジですよ」
「……右京さんのことですか」
華奢な背中から、声だけが返ってくる。
遥泉はそれには、答えなかった。
「右京さんは、今、コールドスプリングハーバーの州立衛生研究所におられます」
思わず顔を上げていた。
今――今、この女はなんと言った?
「微生物危険レベル4、……右京さんは、未知のウィルスに感染した疑いをもたれています。施設の深部にある、レベル4の気密室で、もう―― 一年以上も前から、治療を受けておられるみたいです」
「国府田さん!」
声を荒げ、立ち上がっていた。
「君は――どうして」
「ハッキングしたからです。ペンタゴンのデータベースに」
振り返ったひなのは、薄っすらと笑みを浮かべていた。
「言ったじゃないですか。ひなのは、遥泉さんの好きな女性のタイプも知ってるって」
―――ハッキング……。
「でもそこまでが限界でしたけど。意外にガードが固くって」
「なんて……」
莫迦なことを。
遥泉は、拳で、自分の額を押さえつけた。
どうするんだ。発覚でもしたら、実刑をくらう可能性もある。ただでさえ――国府田の存在は、政府筋からマークされている。それなのに。
「行きますか、遥泉さん、右京さんに会いに」
ひなのの声は優しかった。
「…………」
「ひなのには、もう何もできませんけど、……遥泉さんのことは、応援してますから」
「…………」
「蓮見さんに負けちゃ、駄目ですよ」
額を抑えたまま、遥泉は目を閉じた。
思考が――まとまらない。何を考え、何を優先したらいいのか、見当さえつかない。
ただ、まるで雷鳴が落ちたように、刹那に理解させられたことがあった。
黙示録を突きつけられたように――理解したことがあった。
「忘れ物です」
玄関で靴を履いていた女に、遥泉は追いついて――声をかけた。
振り返ったひなのは、驚いたような顔を上げる。
遥泉は、手にしていたパンダのぬいぐるみを差し出した。
どうして今まで、気がつかなかったのだろう。
どうして今まで、目を逸らし続けていたのだろう。
「その髪型、なんとかしてください」
「…………は?」
「青は好きじゃありません。三編みも年相応ではありません。ミニスカートも苦手です。僕は、君に合わせられるほど器用じゃないし、若くもない」
「…………」
「君が僕にあわせてください。そうじゃなきゃ、一緒になんかいられない」
「…………」
「君が、僕のところまで来てください」
極限まで見開かれた大きな瞳が――戸惑ったように、差し出されたパンダの上に落ちる。
ひなのは、そっとそれを受け取って、両手で包むように抱き締めた。
「……ラッキーアイテムです、遥泉さん……」
うつむいた女の目から、光るものが零れ落ちた。
「パンダが、運んできてくれたんですよね……」
そうかもしれない。
肩を抱いて、引き寄せながら、遥泉も同じことを思っていた。
パンダが――、あるいは、この子の本当の母親が。
愛していないわけがない。
辛くなかったはずがない。
人間だから――ベクターも、人も。みんな同じ感情を抱いて、この地上で生きているから。
「……今のは、ひなのからしましたか」
唇を離した後、ひなのは小さく呟いた。
「いいえ、僕からです」
涙を溜めた目で、にっこりと笑う女に、初めて強く抱き締められて、―――遥泉は、再度、同じ強さで理解した。
僕は、この子を守らなければならない。
この子を守るために、僕はもっと、強くならなければならない――。
―――忘れるな、遥泉
どこかで、右京の声が聞こえたような気がした。
お前にもう一度、生きる希望を取り戻させたのは、私ではない。お前の隣にいる女性だということを。
あれは――右京独特の、嫌味かジョークなのだと思っていた。
あの人は、真面目そうに見えて、時々とんでもない時に、とんでもないことを言う人だったから。
今思えば、あの人は、鋭い感性で見抜いていたのかもしれない、いや、それとも、無意識に予言してくれたのかもしれない……。
―――右京さん。
僕には彼女がいる。僕は、気づいてしまった。何もかも棄てることなどできないということに。まだ、守るべき人がいるということに。
沈鬱な思いで、この頼りない、けれど確かな生の証を抱き締めながら、遥泉は思う。遠い空の下、たった一人で生と闘っている女のことを。
―――でも、あなたには、誰がいる。
何が――あなたを支えているんだ……右京さん。