四
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「遥泉さん、」
声を掛けられ、遥泉はテレビから顔を上げた。
「あら、部屋の電気は点けられた方がいいですよ」
担当の女看護士だった。
そのまま返事も待たず、室内の照明を点けてくれる。
「ニュースですか、今日はそればかりですねぇ」
遥泉の背後から、テレビを覗き込み、女看護士は露骨に嫌な口調で言った。
「ベク、……新生種でしたっけ、結婚の制限は違法だっていう最高裁の判決が出たんですってねぇ。どうなるんですかねぇ、プライバシーの自由とかで、誰がベクターだか判らない時代に、結婚の自由まで認めちゃったら」
それには答えず、遥泉は無言でテレビを切った。
「ああ、そうそう小児病棟の子どもさんたち、皆さん喜ばれてましたよ。あんな沢山のパンダのぬいぐるみ、子どもたちには初めてだったみたいで」
「そうですか」
求められるままに腕を差し出し、血圧計の中で圧縮される感覚を、ぼんやりと感じていた。
「あら、これは……ひとつだけ、残ってますけど」
血圧計をしまい終えた看護士の視線が、テーブルの上に向けられる。
「それは忘れ物なんです。本人に返さないといけないので」
「昼間来られた可愛らしいお嬢さんのことですよね、遥泉さんのご親戚か何か?」
看護士は、微笑みながら、柔和な眼差しを少し間の抜けたパンダに向ける。
先ほどまであからさまな敵意を向けていたベクターが、今日ここに来ていたおさげの少女だとは、夢にも思っていないのだろう。
―――そんなものだ。
遥泉はベッドに仰向けに倒れながらそう思った。
外見も、中味も、差異など全くそこにはないのだ。みんな普通の人間だし、善人もいれば悪人もいる。差を設ける意味も必要も――何もないはずなのに。
「今夜、外出しても構わないですか」
遥泉は自然にそう聞いていた。
「ええ、それは……明日の検査に差し障りのない程度なら構いませんけど」
看護士の声が戸惑っている。
遥泉はそのまま目を閉じた。
「……いや、いいです、すいません、外出はしませんから」
もう忘れよう。
恋愛感情がもてないと判っているのに――ずるずると優しくするのは、かえって卑怯な振る舞いになる。
ひなのの言う通り、可能性はゼロなのだ。
自分が出来なかったことを、自分より十も年下の女性にさせてしまった。そのことが――なんとも言えず、心残りで気が重い。
目を閉じても眠れなかった。
不思議な胸苦しさを抱えたまま、結局明け方まで、遥泉は眠る事ができなかった。
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五
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「なんだ、入院したって聞いたから来たんですが、もう退院っすか」
どうしてこうも――次から次へとヤクザじみた見舞い客が訪れるのか。
遥泉は苦笑しながら、まとめた荷物を持って立ち上がった。
「誰に聞きました?ああ……蓮見さんですか」
「そうっす。あいつ、自分が行きたくても行きづらいもんだから、俺に行かせたんっすよ」
男は、糸のように細い目をさらに細くして笑った。
愛内薫。
警視庁警護課警護係。蓮見とは係が違うらしいが、同僚に当たる。遥泉はかつて――この男が薬事対策課時代に顔見知りだった。
「蓮見君は結婚の準備で忙しいんでしょう」
「いやいや、全然家には帰ってないみたいっすよ、いっつも仮眠室ではち合うんです。いいんすかねぇ、同居してるっつー婚約者は、結構いらいらしてんじゃねぇかな」
「警備課は忙しいですからね」
「にしても、冷たいっすよ。相手は、まだ大学出たばかりのピッチピチっしょ。俺なら、毎晩でも帰りたいとこっすけどね」
「…………」
右京の真意がわからないように、蓮見の心情もまた、遥泉には判りようがない。
右京が結婚して一年足らず――故郷から上京したという従姉妹の女子大生が、無理矢理蓮見の部屋に押しかけてきて――それが始まりだったと聞いている。
同居が、相手の親の知るところになって、なんとなく押し切られるままに結婚、ということになったらしい。
蓮見らしいと言えばそれまでだった。
遊び人を気取っている割には、生真面目で義理堅い男である。いや、根がまじめだから、真剣なつきあいをするのを敬遠していたのかもしれない。
こんな奇縁でもなければ、一生独身でいただろう。右京が――離婚でもして戻ってこない限りは。
右京はほっとしてるだろうよ――。
桐谷の言葉が、胸をよぎる。
そうだろう。右京はきっと、蓮見の幸せを喜んでいるに違いない。自分という存在が、いかに男の負担になるか、あの人はそれを知り抜いていたに違いない。あるいは、それで結婚を決めたのか、蓮見の心から、自分への未練を断ち切らせるため、そのためだけに。
「…………」
遥泉はやりきれない気持ちになって、足早に病室を出た。
心で泣いても、それを絶対に表情に転化させない女――それが判るから、余計に切ない。
「今日は、どうすんですか、仕事に戻りますか」
所在無くついてきた愛内が、背後から声を掛けてくる。
「いえ、たまの休暇ですから、部屋に帰って休みます」
「はは、部屋っすか、自分の部屋は汚くて休もうにも休めない、同じ男の一人暮らしでも、遥泉さんの部屋は綺麗なんでしょうね」
「いえいえ、ひどいものですよ。だからハウスキーパーを頼んでるんです。今日も来てくれてますから、帰ったら寝るだけです」
「優雅だなぁ、さすが、高級取りは違いますねぇ」
たわいのない話をして、そのまま玄関ロビーまで降りると、愛内は敬礼して去っていった。
会計を済ませ、少し躊躇したものの、乗り込んだタクシーに告げた行き先は自分のマンションではなかった。
鞄の中には、自分が持つには不釣合いなぬいぐるみが納められている。
それを――先に、返してしまわないと、どうにも穏やかな気持ちにはなれそうにない。
―――ラッキーアイテム……ね。
遥泉は皮肉な気持ちで苦笑した。
とんだ不幸を呼ぶアイテムだ。あの――垂れ下がった不吉な眼差しが、妙に気になって眠れないほどだったのだから。
もうすぐ正午になる。
今日は朝から、秋晴れの一日だった。
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六
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「ひなのお嬢様なら、今日は大学の方にお行きですよ」
そうですか。
玄関でよかったのだが、勧められるままに、居間にまで通されてしまった。
―――ひなの、お嬢様。
正直、飲みかけの紅茶を零してしまいそうだった。
それをかろうじて堪え、遥泉は鞄から、くだんのぬいぐるみを取り出した。
「こちらをお返ししたくて、伺いました。お嬢さんには、大切な思い出のある物のようなので」
あ、いえ、たまたま忘れ物をされたのを偶然拾っただけなのですが――。
と、言わなくてもいい言い訳をしながら、そのぬいぐるみを、対面に座る婦人に差し出した。
大柄で、骨ばった顔をした中年女性は、「わたくしは、こちらの方々のお世話をしている者でございます」と、最初に玄関先に出てきてくれた女だった。
黒のブラウスに薄紫のスカート。家族とも思えず、かといってハウスキーパーにも見えない。こういった金持ちの家というのは、どういう家族構成になっているのか、遥泉には検討もつかなかった。
こちらの方々――というのは、ひなのを含め、養子縁組されているベクター――新生種のことをさすのだろう。
高級住宅街の中心に建立された洋風の邸宅で、門は高く警戒は厳重を極めていた。確か、自動車会社の会長か何か――そんな、日本でも有数の大企業の縁故にあたる家のはずだ。
「忘れ物、でございますか」
女は表情も変えずに呟いた。
遥泉がテーブルの上に置いたぬいぐるみのパンダを、みじろぎもせずに見つめている。
「…………」
この状況にこの雰囲気。
二人の間に鎮座しているものが、こんな滑稽なパンダでなければ、火曜サスペンス劇場の一場面のようなシーンなのだが。
溜息をつきながら、遥泉は言葉を繋いだ。
「それだけです。たまたま近くまで寄ったものですから――これで、失礼させていただきます」
自分の年とか、立場を考えると、こうして――現役女子大生をしている女の実家を訪ねるのが、いかに奇異なことかというのは理解している。
幸い、オデッセイ時代の上司――ということで、あらかじめ認識されていたようで、だからこそ客間にまで通されたのだが、それでも、話しにくいことこの上なかった。
そもそも何故、こんな所にまで来てしまったんだ――自分は。
そう思うが、来てしまったものは仕方がない。
「これは、どこで落とされたものなのでしょう」
立ち上がりかけた遥泉に、女はそのままの姿勢で声をかけた。
「……どこと、言いますと」
質問の意図が判らない。というか、どう誤魔化していいか判らない。
「……いえ、結構でございます。というより、これは落とされたものでなく、棄てられたものなのだと思います」
「…………」
女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「こちらは、私の方で処分いたします。お疲れ様でございました。玄関までお送りいたします」
それだけ言うと、女は静かに立ち上がった。
「処分……というと、棄てられる、ということですか」
「言葉どおりの意味でございます」
今度は逆に、遥泉が立ったまま動けなくなっていた。
「……事情をお聞きしても、……あ、いえ、こちらのお嬢さんは、何か大切なもののような言い方をなされていましたから」
「……大切なもの」
女は感情のこもらない声で繰り返す。
遥泉は少し苛立った。この女は――人の言葉の意味が理解できているのだろうか。
「ひなのさんの、実のお母さまの思い出の品とお聞きしましたので」
「……思い出」
女の口調は変わらなかった。
「思い出といえば、確かにその通りでございますが、ただ、それはよい思い出ではないと思われます」
再びソファに座りなおしながら、女は言った。
遥泉も、わずかな躊躇の後に、同じように腰を下ろした。
「ひなの様のお母様は、あの方を金銭でこちらにお売りになったのでございます。こちらのご主人は、そういった形で手当たり次第にベクターと呼ばれる方々を集めておいででしたので」
遥泉は眉をひそめた。そんな話は――初耳だ。
「こちらは、自動車関連企業をしております。新製品の開発のため、常に優秀な頭脳を必要としているのでございます。ベクターとは、金を生む卵だと、それはこちらのご主人様の口癖でございますから」
そんなことが、許されるのだろうか。
いや、許されていたのだろうか。
遥泉は自分に自問した。これがこの社会の現実だったのか。警察官である自分さえ知らなかったもうひとつの社会の暗部。
いや、いずれこれは、社会が立ち向かわなければならない現実になるのかもしれない。ベクターと呼ばれる、ずば抜けた能力を持つ子どもたちが、暗黒面に利用される時代は、もう、すぐそこまできているのかもしれない。
だからこそレオナルド・ガウディは、何かを――今よりさらに大きな力を手に入れようとしているのだ。
「ひなの様が、ここに来られたのは十の時でございました。物心のついた年ですから、さすがに母親を恋しがっておられました」
「…………」
十の頃――。
小学四年生、か。
遥泉は、自分の甥のことを思い出していた。その年で親と離れる事がどういうことか、それは簡単に想像できた。
「それでもじっと我慢され、泣き言ひとつお言いにならない明るい方でございました。それが、こちらのご主人様のお気に召したのでしょう。翌年のお誕生日――でしたか、一日、実家に帰ってもよいと許可が出たのでございます」
抑揚のない声で女は続けた。
「けれど、母親という方は、面会を拒否されて、代わりに届けられたのが、このぬいぐるみでございました」
「拒否?」
咄嗟に出た遥泉の問いに、女は表情を変えずに頷いた。
「ひなの様の母親は再婚されていたのでございます。再婚した家族に、ベクターの子どもがいるということを、お隠しになっておられたのでございましょう」
変わっためいぐるみでしたから、私もよく記憶しております。
女は、そこで初めて溜息のようなものをついた。
「……ひなの様は、以来、一度も母親にお会いしておりませんし、会いたいとも仰りません。このぬいぐるみが、まだお手元にあった事自体驚きでございました……ずっと、この種のたぐいの玩具は、お部屋に飾らないようになさっておいででしたから」
そうですか。
遥泉は、立ち上がった。これ以上聞くべきことも、自分が言うべきこともなかった。
「それは、お棄てになられますか」
同じように立ち上がった女に、遥泉は重ねて聞いた。
そして、無言で頷く女に、
「それでは、やはり、僕がもらっておいてよろしいでしょうか。……ひなのさんは、それを棄てられたのではなく、僕に預けられたのだと思います。このような形で廃棄されるのは、彼女の本意ではないと思いますので」
それだけ言って、少し意外そうな目になった女を真直ぐに見つめた。