二
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たまらない無力感にさいなまれながら、遥泉は病室に戻るために階段を降りていた。
「私なら大丈夫だ」
二年と少し前、右京は、別れ際にそう言った。
―――あの人なら、大丈夫だ。
遥泉も、そう信じていた。
おそらく、自分一人だけが打ち明けられたこと。―――無論、そのことがあるから右京は身柄を拘束されることになったのだろうが。
最初は信じられなかった。まさか――右京が、真宮嵐や楓のような、未知の能力を持っていたとは。
オデッセイ撃沈に係わる調査の中で、それは公になってしまったのだろうか。戦後、彼女は、自分の未来が決して明るくはないことを、あらかじめ覚悟していたようだった。
「おそらく、私に係わった者全員が、しばらくは厳しい監視下に置かれる事になるだろう。それだけが心残りだが、……余計なことはしない方がいいし、言わないことだ。それが私のためにもなると思ってくれ」
空港まで送ったのは遥泉だった。気丈な女は、旅立ちのことを――結ばれたばかりの恋人にさえ一切漏らしてはいなかった。
「蓮見には私から連絡する。それまで黙っていて欲しい」
そう言い残し、右京は機上の人となった。そして一年後、その蓮見に、右京がした連絡とは、自らの結婚を告げる報告だった。
それが何を意味するのか、遥泉には理解できなかった。無論八方手を尽くしたし――右京の実家や防衛庁に手を回して調べようとした。
けれどその時点で、すでに右京に連絡を取る事はできなくなっていた。公式に文書を送っても、返って来る書式は「妻は長期療養中につき、ご迷惑をおかけします」というものだけ。
代理人として、彼女の夫となった男の署名があった。
アンディ・水城。
米国立衛生研究所に所属する第一期ベクター。年は右京と同じで、戸籍上の父親が日本人らしい。公式プロフィールが一切公表されていないので、遥泉が掴み得たのはそれだけだった。
右京家では、一切ノーコメントを貫かれた。
唯一、電話に出てくれた、家政婦のような老婦人だけが、「お嬢様の結婚など、私は信じておりません、結婚証明とやらが送られてきましたけれど、右京の者は、誰も認めてはおりません」
そう言ってくれた、それだけが――救いであり、絶望でもあった。
右京は幸せなのだろうか――真に愛して、そして結婚を決めたのなら、遥泉に何も言う事はない。でも、そうでないとしたら。
沈鬱な思いを抱いたまま、病室の扉をくぐろうとした。
「ちょっと……遥泉さん」
中年の女看護士に呼び止められたのはその時だった。
「困るんですよ、いくら個室だからって、あんなもの持ち込まれちゃ……、お気持ちは判りますけど、少し行き過ぎてますよ」
「…………?はぁ」
けげんに思いながら、扉を開けて――凍りついていた。
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三
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「……国府田さん」
「はい?」
あどけない声が返って来る。
「僕の年をご存知でしょうか」
「はいっ、知ってます、年も誕生日も干支も星座も血液型も動物占いも趣味も好きな食べ物も好きな女性のタイプも知ってます」
「………………」
聞くんじゃなかった。
強張った首を何とか動かし、逃げるように窓辺に向ける。しかし、その窓辺も、白と黒のコントラストで埋め尽くされていた。
「パンダなんですよ」
国府田ひなのは、真剣な眼差しになって、じっと上目遣いに見上げてきた。
色白の頬に、くるくるとよく動く黒目勝ちの大きな眼――それは少し下がり気味で、確かにパンダに見えなくもなかった。
―――じゃなくて。
「パンダは今月のラッキーアイテムなんです。遥泉さんの星座占い、あっ、ちなみにひなのも同じなんですけどぉ」
ひなのは、さっきと同じセリフを繰り返した。
「……そうですか」
と、遥泉も同じ受け答えしか出来なかった。
一体どれだけの数があるのだろう。大小さまざまな形のパンダ――の、ぬいぐるみが、病室の壁際から棚、窓際、テレビスタンド――とにかくあらゆる場所にぎっしりと敷き詰められている。そう――それはまさに、敷き詰めた、という表現が相応しい状態だった。
「これ、どうやって運びました」
「あ、ここまではタクシーでぇ、あとは袋に詰めて三往復」
「…………」
頭の中身はどうなっているんだろう。
一応天才のはずなのに――。いや、天才ゆえに凡人には一生かかっても理解できないのかもしれない。
相変わらずブルーに染めて六つに編み分けた素っ頓狂な髪型。大学生をやっているというが、腿剥き出しのミニスカートに編み上げのブーツ。
桜庭基地で別れて――いや、遥泉の方で、これで縁が切れたと思ってほっとしたのは、単なる勘違いにすぎなかった。
携帯に、ほとんど毎日のように入るメールはまだいい方で、自宅の前や仕事の帰りに待ち伏せされたことも何度もある。仕方なく付き合うのがいけないのだろうか――とも思うが、そこをはっきり拒否できないのが、自分の悪いところなのかもしれない。
なんにしても、一生かけても恋愛対象としては見ることが出来ないだろう。妹――というのも少し違うし、正直、どう扱って言いか判らない――自分が教師だったら、まさに手におえない生徒という感じだ。
なにしろ、年が十以上も違うのだ。何を考えているか判らないし、相手も、自分が何を考えているか判らないだろう――というか、そもそも判ろうとさえしていないような気がする。
「ひなの、もともとパンダ大好きなんです。だから遥泉さんのラッキーアイテムがパンダって読んだとき、あっ、これって運命って思ったんです。お見舞いだと思ってもらってくださいねぇ、そいで、早く元気になってくださいっ」
手にしていた「ハッピー乙女の占いブック」というピンク色の雑誌でぱっと顔を隠しながら、一気に言う。
もらってくださいと言われても。
遥泉は途方にくれて室内を見回した。
看護婦が嫌な顔をするわけだ。ここまで数があると、可愛いというよりは不気味である。なにしろどこを見ても、黒白黒白黒白黒白黒白……なのである。
「……好きなら、持って帰られたら」
無駄だと知りつつ言ってみた。
「それじゃ、ラッキーアイテムの意味がなくなるじゃないですかぁ、もうあげたものですから、遥泉さんの好きにしてくださいっ」
自分がいかに困惑しているとか、役所の者が来たらどうすればいいんだとか――そういうことを理解してもらおうとしても、無駄だろう。
溜息をつき、いつものように、遥泉は全てを諦めた。
「……遥泉さん、ちょこっと相談……してもいいですか」
けれどひなのは、彼女には珍しく神妙な声で言った。
十四畳足らずの病室で――別に病人、というわけでもないので、遥泉はベッド脇の簡易椅子に腰掛けている。ひなのは、その傍にある来客用のソファに座っていた。
「ひなの……実は、引き抜きされそうなんです」
「…………は?」
女は、もじもじと膝の上で組み合わせた手を動かしている。
「こないだから、誘われてるんです、大学出たら、NAVIに入らないかって」
「…………」
遥泉の頭に浮かんだのは、数ヶ月前、間近で見たばかりの、金髪碧眼の美青年の顔だった。
「では、ロスに行かれるんですか」
今度こそ、本当に縁が切れるな、そう思いながら遥泉は言った。
「……ううん、スイスなんです。今度、スイスに本部を移すんだって……そこに世界中から優秀なベクターを集めて、病院とか、ラボとか、色んな複合施設を作るって、レオ様がそう言ってました」
「…………」
―――レオ様。
まぁ、なんと呼ぼうが構わないが。
「ご家族はなんと仰っておられるんです」
「あ、行きなさい行きなさいって、オデッセイの時と同じで、うちのはみんな楽天家だから」
「…………」
ひなのは養女なのだ。
それは遥泉も知っていた。
両親は裕福な篤志家で、他にも何人かベクター――今では新生種と呼ばれているが、施設で育ったベクターを引き取っては、学資等の援助をしているらしい。
楽天家というよりは、放任に近いのだろう。いい言い方をすれば、個人を束縛しないということなのかもしれないが。
「だったら、行けばいいじゃないですか」
いずれにしても、悪い話ではないかもしれない。
遥泉は逡巡なくそう思った。
国内のベクターには、何か大きな後ろ盾が必要だ。遥泉は以前からそう思っていた。それがないから、真宮楓や嵐、そして右京のような被害者が生まれる。
もし――右京がアメリカ国籍を持っていたら、NAVIの存在が邪魔になって、アメリカ政府もあそこまで強行に事を進めたりはできなかったはずだ。
アメリカであれば、在来種とベクターの結婚も自由だし、公職につくことも出来る。日本のように詐称が問題となって刑事裁判になるようなこともない。
そしてそれも、NAVIの功績のひとつなのだ。
ひなのにしても、公安に監視されながらの学生生活は窮屈に違いないし、NAVIに入れば、政府も簡単には手が出せなくなるだろう。なにしろ相手は、未曾有の資産と頭脳を有した天才集団なのだから。
「何を迷っているか知りませんが、誘われているなら、お行きなさい。その方が、あなたのためだと思いますよ」
「……そ、ですよね」
はは、と、ひなのは笑い顔になった。でもどこか彼女らしくない笑い方だった。
「遥泉さんも、一緒なんですよねぇ」
そして、言った。
「何がです」
立ち上がりながら遥泉は答えた。もうすぐ午後の検査の時間だ。それまでに、このやっかいな代物の始末を考えないと――。
「……うちの家族と、同じこと言うんだなぁと思って」
「…………」
「……寂しいとか、ないですか」
返事が出来ないまま、窓辺に立って、窓を閉めた。
少し風が冷たくなりかけていた。
背中から伝わる女の沈黙が重かった。今まで、数え切れないほど困った目にあわされたものの、こんなに重苦しいものを感じたのは初めてだ。
困惑しながら――遥泉は振り返ろうとした。
その時。
「キスまでした仲なのに」
その言葉で、脚を滑らせかけていた。
「ま、待ってください、まだそんなことを、君は」
薄寒い陽気なのに汗が出る。振り返ったひなのは、しれっとした顔で、唇を尖らせてこちらを見上げていた。
「だって、したじゃないですか」
「あれはですね、君が無理矢理」
「そうです、無理矢理したのに、ひどいです」
「だーっっ、違うでしょう!」
どこをどう解釈したら、そうなるのか。
まだ、オデッセイにいた頃だった。オペレーションクルー室で、椅子に背を預けたまま仮眠していたら――本当にいきなりだった。
ふと気配を感じて、顔を上げたら、そこに顔があって、口がぶつかった。
キスというよりは、歯が激突したという感じだ。
「わーっキスですね、キスしちゃいましたね」
それを無理矢理キスだと言い張ったのは、ひなのなのだ。
どう言い訳しても無駄だった――というか、言い訳しなくてはならないのはひなのの方だと思うのだが――顔をのぞきこんでいたのは、明らかに彼女の方だったのに。
「……これねぇ、ひなのが子どもの頃、好きだったものなんです」
今度こそ、この論争にけりをつけようと意気込んだものの、女はあっさりと話題を変えて立ち上がった。
彼女が手にしているのは、小さな――遥泉の手のひらサイズのパンダのぬいぐるみだった。
そのデザインだけ、他のものと少し違う。眼が必要以上に垂れ下がり、全体的に間が抜けた感じの造りである。
「昔流行したなんとかパンダってやつの復刻版なんですって。ママが好きでぇー、あ、ママって、ひなのの本当のママのことなんですけど、ひなのが小さい頃、買ってもらったものなんです」
遥泉は目をすがめた。
そんなシリアスなエピソードには不釣合いの間が抜けた顔のパンダ。泣いているのか笑っているのか、その中間のような、曖昧で不思議な表情。
それは、ここにいる少女そのもののように思えた。真面目なのに、ふざけてみえる。ふざけて見えるのに、真面目になる時がある。
「てか、そんなこと、ひなのは全然覚えてなくてぇー、ママって言っても死んでるわけじゃなくて、時々会ったりもしてるから、別に遺品ってわけでもないですけどね」
「…………は?」
がくっとくる。
くすっと笑うと、少女は、そのパンダを自分の顔の横に持っていった。
「似てるでしょ、ひなのに?」
「……どうでしょう」
「これ、置いていきます、ひなのの形見」
そう言って、いたずらっぽい仕草で、ひなのは、人形を放り投げた。
咄嗟に遥泉は手を伸ばす、それは過たず、きれいな放物線を描いて手のひらの上に落下した。
女は笑ったまま、遥泉は手のひらにぬいぐるみを抱いたまま、お互いしばらく無言だった。
やがて女は、その顔から笑顔を消してうつむいた。
「やっぱ、止めてくれないですか」
「…………」
「もしかして、迷惑かなぁって、ずっと思ってました。ひなの、こう見えても頭いいんです」
「……知ってますよ」
「今だって、放り投げる時、無意識に計算してるんです。放射角度とか、空気抵抗とか――同じように、遥泉さんの性格とかも、それなりに計算してました。けっこう、ひなのはずるい女ですから」
あどけない顔に、その形容詞は不釣合いのような気がした。けれど、遥泉は何も言えなかった。
「さよならです。……えーと、もう、会いません」
この展開に、何を言っていいかさえ判らなかった。
「NAVIに、行きますか」
出てきた言葉はそれだけだった。
「それはまだ……考え中、まだ色々計算しないと」
ひなのは顔を上げ、少しいたずらめいた仕草で唇に指を当てた。
「今も、計算してますから……遥泉さんが引きとめてくれる可能性」
「……答えは出ましたか」
「今、出ました」
女は笑う。でもそれは、ぬいぐるみのパンダと同じで、少し泣きそうな笑顔に見えた。
「ゼロみたいです。……さよなら、遥泉さん」