「それで?」
 手にした書類をテーブルに投げ出して、レオナルド・ガウディは肩をすくめてみせた。
「僕らに何をお望みですか?申し訳ないが、こんな荒唐無稽な内容の資料を持って、わざわざあなたのような身分の方が」
 脚を組みなおし、対面に座る男に視線を向ける。
「敵地に乗り込んでこられるとは思えない。先に聞いておきましょう。一体目的はなんなんです」
「もちろん、これが全てではない」
 男は柔らかな口調で言い、レオが投げ出したペーパーを静かに拾い上げた。
 濃いグレーのスーツを着ている。その左胸に煌くバッジ。きれいな指をした男だった。リングはない、独身にしては奇異な年だが、妻に先立たれでもしたのだろうか。
 無意識に男を観察しながら、レオはテーブルの上にある、男の名刺に視線を落とした。正直今でも信じられない。このような立場の男が――たった一人で、NAVIの本部を尋ねてきたということが。
 拾い上げた書類を几帳面に揃え、男は抑揚のない口調で続けた。
「ミスター・レオナルド。私が持っているのは、くだんのパソコンそのものだ―――ここに打ち出してあるメールの作成者……仮にクマゲ氏とでも呼んでおこうか。彼が日本に持ち帰った、喜屋武涼二が所有していたノートパソコンそのものだ」
「…………」
 レオの、端正な眉がわずかに上がる。
 その変化に何か手ごたえを感じたのか、男は綺麗な唇を歪め、微笑のような表情を作った。
「私の手の内は、現時点ではこれしかない。私は取引にきたんだ、レオナルド君。君たちNAVIが、――いや、正確には君と真宮嵐君の二人が、ここ数年、血眼になって喜屋武涼二、そして真宮伸二郎氏が行っていたプロジェクトの全容を探っているのは知っているよ」
「…………それで?」
「君たちは壁にぶち当たっているはずだ。何故ならあんなプロジェクトは存在しないのであり、当時の研究者たちの名前は、記録には一切残されていないからだ」
 無言で笑みを作り、レオは指先を唇にあてた。
 男は抑揚のない声で続ける。
「そして私は、君らがなんの目的で、過去の遺物を掘り出そうとしているのか――理解しているつもりだよ。レオナルド君。私が持っている情報は、君らの要求に沿うものだと自負している。君は――真宮兄弟の遺伝子がどうやって精製されたか、彼らの遺伝子はもともと何処からきたものなのか――それを詳しく知りたがっているのではないのかね」
「……」
「喜屋武氏のパソコンの中身は、復元可能なものだった。あれは……彼の遺言だと私は信じる。断言してもいい、少なくとも、真宮嵐のルーツだけは、中のデータを見れば一目で判るだろう」
 軽く嘆息し、レオはぱちん、と指を鳴らした。この話題には、正直触れて欲しくない。
「もう結構。あなたの情報収集能力には脱帽だ――とだけ言っておきます」
 そして微かに笑み、わざと皮肉な口調で言った。
「あなたの御伽噺を信じるとして……、しかし、この文書に書かれていることが本当なら、日本は大変な騒ぎになりますね。元プレジデントのお嬢様が、ベクターであることを隠して公職についていたわけだ」
 男は表情を変えず、目だけを柔和に細くする。
 表情の掴み難い人だな、とレオは思った。先日訪れた遥泉という男も同じようなタイプだった。官僚や政治家というのは、この手の表情が腹芸のように染み付いているのかもしれない。
 男が黙ったままなので、仕方なくレオは言葉を繋いだ。
「先日……いや、もう半年近く前になるかな。日本の警察を名乗る男が、たった一人で僕を訪ねてきた。……ミスター遥泉、けれど、何故か、彼は話の途中で、曖昧に話を切り上げて退席してしまった」
「…………」
「ミスター遥泉に、携帯電話でストップをかけたのは、あなたですね」
 男の表情は変らないままだった。指だけを膝の上で組みなおし、少しだけ眉を上げた。
「遥泉君の熱意と、NAVIを頼ろうとまで思いつめた理由は理解できるがね……まだ、その時期ではない。君らが表立って動いたとして――それで、彼女がベクターだと公になっては何の意味もない。現行法では、公務員の経歴詐称は重罪だ。彼女は二度と表舞台に立てなくなるだろう」
「……どうやってミセス奏はDNA検査をパスしたのですか?それも父親の威光で押し切ったのですか?」
「レオナルド君、君はポーカーフェイスを装っているが」
 男はふいに苦笑して、仮面をはいだように人懐こい表情になった。
「実のところ、非常に動揺しているのではないかね――そうだろう?クマゲ氏のメールには、君らベクターの誕生にまつわる、重要で、しかも残酷なキーワードがいくつも記されている。私は正直、君がもっと怒るものだと思っていたがね」
「……にわかには、信じられませんから。信じるにはあまりに荒唐無稽すぎますよ、ミスター」
 やはり感情を押し隠したまま、レオは苦笑を浮かべてみる。
 男はさらに、探るような目になった。
「そうかな?けれど君は少なくとも、」
「…………」
「プロジェクトの存在と、喜屋武涼二の名前、そして四体の完全体の存在と――彼らの能力、加えて言えば、ベクターが誕生した理由までは掴んでいるはずだろう?」
 肯定も否定もしなかった。が、男の目は確信に満ち、言葉は確かな自信に裏打ちされているようだった。
「だとしたら、レオナルド君、君はすでに知っているはずだ。この文書がただの創作ではなく、信憑性のあるものだということをね」
 図星だったのが、多少悔しい。それを押し隠して、レオは苦い思いで呟いた。
「……四人の一人とは、ミセス奏のことでしたか」
 嵐の言っていた――最後の一人。
 これで判った。
 初めてレオは、薄黒い予感が、事実だったことを理解した。
 遥泉が言っていた事――。
 右京奏という女性が、がペンタゴンに拘束されている理由。
 嵐と楓の生体解剖が中止された理由。
「………ッデム」
 おそらく――この、右京奏という女性は、もう――。
 さすがに、その想像は、吐き気と、そして冷えた怒りを呼びおこした。
 仮に生きていたとしても、帰国できるような状況にないのだろう。そんな気がする。
 レオの心情を察したのか、男はわずかに眉を寄せ、沈鬱な目になった。
「……実のところ、私が四体の完全体のことを知ったのは、随分後になってからだがね。焦りだしたペンタゴンが、日本政府にDNA検査の義務付けをしつこく要求し始めてきて……その時はじめて腑に落ちたよ。今日ここに持参したクマゲ氏のメールの意味が。プロジェクトが急遽中止された意味がね」
「…………」
「喜屋武氏は、すでに完全なトランスジェニックヒューマンを四体、この世界に送り出していたのだ。研究は完成していた、だから彼は、自らの命を断った」
「成功したらハラキリするのは、日本の伝統文化ですか」
 まだ、先ほどの話の、胸クソ悪さが残っている――わざと揶揄するような口調で言うと、男の目が、初めて鋭いものになった。
「喜屋武氏が自殺した理由は、今となっては推測するしかない。けれど理念は君たちと同じなのではないかな。彼は、ベクターと命名された新種を、そして四人の完全体を、政府の犬にはしたくなかった。だから全ての秘密を焼却して死んだのではないかな」
「…………」
「一番の秘密が詰まった、彼自身の頭脳を道連れにしてね」
「そしてあなたは、その政府の人間でしょう」
 男の剣幕に飲まれそうな自分を奮い立たせながら――レオは冷たい口調で言い捨てた。
「最初の質問に戻らせてください。あなたは、何をしに、わざわざ敵地にお一人でいらっしゃったんです。僕は軍の人間を嫌悪しています。憎んでいると言ってもいい。これは、あなたがたも掴んでいることでしょうがね――僕は、NAVIを、ただの慈善組織で終わらせるつもりはない」
 男の目が、威嚇するように再びすがまる。
 レオはひるまずに、その細い目を見返した。
「僕は、同胞を狩る者たちを許しません。例え相手が国家だろうか、軍だろうが、徹底的に戦いますよ。そんなタフな組織に、やがてNAVIは変容していく。僕には巨大な資本と、そして多くの優れたブレインがいる。もう、楓やミセス奏のような犠牲は二度と出させはしない」
「NAVIが危険な組織になれば、私も徹底的に君らを潰しにかかるだろう。その意味で、確かに我々は敵同士だ」
 男は穏やかに切り返すと、はじめて恐いような目の色になった。
「ただ、今の私は、かつての恩人の娘を救いたい一人の男にすぎない。……ミスター、レオナルド。私の要求はたったの二つだ。一つは右京総理の娘さんを助けること。私にはそのためのブレインもいなければ、立場上自由に動く事も許されない――この件に関してだけ、君らの全面的な手助けが欲しい」
 その困難さは、この半年の調査結果から理解している。
 レオはわずかに眉をしかめながら問い返した。
「もうひとつは」
「遥泉君の口を通して伝えた通り、―――君がさきほど目にした文書、これから渡す事になるパソコン内のデータ、そして右京奏さんのことは、決して真宮兄弟には漏らさないでほしい。奏さんは、真宮君に自らの素性を明かさなかった。それは賢明なことだったと私は思う」
「……その理由をお聞きしても?」
「このメールに書かれた意味を――クマゲ氏の語る言葉を信じるなら」
 男のみけんに、深い皺が刻まれた。
「すでにそれは、君にも理解できているはずだ。レオナルド君。真宮兄弟には、普通の民間人として幸せな日々をおくってほしい。その願いは私も同じなのだよ。政治家ではなく、一人の人間としてね」



                  一


「よう」
 ふいに背を叩かれて、遥泉雅之は驚いて振り返った。
 考え事をしていたとはいえ、至近距離に近づく他人の気配に気づかなかった。それが――咄嗟に信じられない。
「警察官、失格ですね――って、そんな真面目な顔すんなよ、辛気臭い男だな」
 背後に立つ男――桐谷徹は、そう言って肩を揺すった。
 防衛庁の制服ではない、私服のスーツ姿だ。こう言っては悪いが、マルボウの刑事でもいれば、職質したくなるほどの悪人面。
「いつも思いますがね」
 眼鏡を指で押しあげながら、遥泉は男の顔を仰ぎ見た。
 自分もかなりの上背があるつもりだ。が、桐谷の背丈は人の域を越えている。
 体格も、いつレスラーに転向しても不思議はないくらいに逞しい。
 これで、航空自衛隊の、泣く子も黙るエリート官僚――制服組の一人なのだ。
 40に届いたかどうかの年齢だが、見た目は30半ばにしか見えない。  独身で――気だけが若い証拠なのだろうといつも思う。
「どうしてあなたと、右京さんの血が繋がっているんでしょう。遺伝子も罪な従兄弟を作ったものですよ」
 皮肉をこめてそう言うと、桐谷は鼻をならすようにして、わずかにその目を険しくした。
「てめぇ、会えば会うほど、嫌味がエスカレートしていくな」
「なんとでも、あなたには、散々な目に合わされてばかりですから」
 それだけ言い捨て、先に立って歩きだす。
 スーツを着込み、外の社会の匂いを運んできた桐谷に、今――入院中で、無防備な単を羽織っている自分が立ち向かうのは、ひどく歩が悪いような気がした。
 そして、階段を上がりながら気がついた。
 都内にある警察病院であるここに――。
 その外科病棟に、週末まで入院することになったのは、上司にしか伝えていないはずなのに、どうして防衛庁の奥深くにいるはずの桐谷が、唐突に尋ねてきたのだろう。
 思いつくことはひとつで、それは、胸の悪くなるような不快感を呼び起こすものだった。
 NAVIの本部で――ふいに携帯電話にかかってきた声を聞いた時のような。
 桐谷が後から追ってきて、階段途中で肩を並べられる。
「検査入院だってな」
「……三年前、胸骨をやられてますからね、……その時の後遺症があちこちに」
 答えながら、自然に眉をしかめていた。
 桐谷がそこまで知っているということは、間違いない。自分の動きは、防衛庁にマークされているのだ。
「言っとくが、マークしてんのは、俺らだけじゃない、あんたの身内もご同様だよ」
 その思いを見越したように、隣の男が囁いた。
―――公安。
 国家公安警察のことを言っているのだと、すぐに判る。
「NAVIに駆け込んだんだってな、お前」
 何気ない口調だった。
 遥泉は、脚を止めかけた。
「普通にしてな、……てめぇだけじゃない、俺だって監視されてる。それは承知してんだろ」
「…………」
 そのまま――階段を上がりきる。
 薄寒い風が、上空の踊り場から吹き付けてきた。
 開け放たれた扉を抜けて、遥泉は病院の最上部にある屋上に出た。
 花曇の空は、肌寒い陽気なのに、妙な生暖かさがあった。ただ広い屋上のあちこちに、入院患者や職員の姿が見える。
「私に、何を言いにいらしたんです」
 背後の男に、遥泉は苛立って声をかけた。
 振り返って見た男は、ポケットに手をつっこんで、ぶらぶらと世間話でもするように気安げな横顔をしている。
 そしておもむろに煙草を取り出し、それに火をつけながら言った。
「獅堂は、例の坊やと結婚したぞ」
「……あなたは、参加されたんでしょう?申し訳ないが、私はそんな気分にはなれませんでした」
「みんな幸せでハッピーだ、いいじゃねぇか。俺らオヤジは、その幸せを守ってやる義務がある、そうは思わねぇか」
「守る?あなたは、それを壊す立場にあるんじゃないんですか?」
 皮肉をこめて言い返した。
 桐谷は、静かな笑みを浮かべただけだった。
「遥泉よぉ」
 そして、深く、煙を吸い、それを吐き出しながら言った。
「てめぇが相手にしようとしてんのは国家だ、たかだか警察官のてめぇが、束になってかかってもどうにかなる相手じゃねぇ」
「…………」
「これはな、友人としての俺の忠告だ。もう右京のことは忘れろや。お前一人が騒いだところで、国家機密っていう分厚い扉の向こうに消えた女は出てきやしねぇよ」
「あなたは――それで」
 思わず、かっとして拳を握り締めていた。
 どこかでプロペラ機の音が聞こえる。それ以外は音もない――静かな午後だった。
 桐谷は、その静かな空に目を向けながら――続けた。
「なぁ、遥泉、てめぇにも恋人がいるんだろう?ひなのちゃんだって既に公安に監視されてる。……ベクターだし、真宮兄弟と親しかった。何かあれば、一番に彼女がしょっぴかれることになる」
「…………」
 国府田ひなの――その名前が出たことで、ぴくり、と自分の眉が震えるのが遥泉にも判った。
 恋人と呼ばれるのは心外だが、彼女が――オデッセイチームの解散以来、常に監視されているのは事実として知っている。
「お前の仕事も、社会的地位も、親兄弟も……ひなのちゃんもだ。そういうもんを全部犠牲にする覚悟があんなら、国連にでも人権保護委員会にでも訴えな」
 頭上から、威嚇するような怖い声が響いた。
 遥泉は何も言い返せなかった。
「右京がベクターだってばれちまえば、例え日本に戻れたとしても、あいつは懲役刑を免れない。それを知っていた俺も幇助罪に該当するらしいがね。まぁ、それはいい。で、遥泉、てめぇは違法捜査かなんかの罪を着せられて、懲戒免職だ。下手すりゃ懲役くらっちまう。――――警察ならその程度の結末はわかるだろう?それが国家を敵に回すってことなんだよ」
「……桐谷さん」
 どうしようもない。それは判っている。
 半年前、NAVIの扉をくぐってから、遥泉も初めて知った。自分の周囲に張り巡らされた監視の目。身内――同じ警察組織からマークされているという不快感。
(いいか、二度とNAVIの会長に単独で会うような莫迦な真似はするな、貴様が下手な真似をすれば、飛ばされるのは貴様ひとりの首じゃない、一課全員の進退問題にまで及ぶことを忘れるな!)
 帰国後、警視総監に呼ばれ、激しい叱責を受けた時に理解した。
 自分には何も出来ない――もう、あの人を救うことはできないのだと。
 それでも、激しい憤りを噛み殺し、遥泉は隣の桐谷に向かって言った。言う事しか出来なかった。
「僕はあなたを軽蔑する。あなたは――軍人である前に、右京さんの親族ではなかったのか……!」
「俺は軍人だよ、そして右京も軍人だ、階級は剥奪されてもな」
「…………」
 今日初めて聞くような、鋭い語気のこもった口調だった。
「そして、俺らには、俺らのやり方ってもんがある。てめぇを巻き込むのは右京の本意じゃないはずだ。あいつが、死んでも蓮見を巻き込みたくなかったように」
 その言葉に、遥泉は顔色を変えていた。
 桐谷の横顔が、陰りながらも苦笑を浮かべる。
「言葉のあやだよ、右京は死んでるわけじゃねぇ……生きてるよ。それだけは断言してやる」
「……蓮見さんは」
「結婚するんだろ?それでいいんだよ。右京もほっとしてるだろうよ。いいか、お前や蓮見、……そして俺だ」
 男は、分厚い胸板を苛立つように叩いた。
「俺らみたいな小物で―――ただ、右京の脚を引っ張るだけしか出来ないような存在はな。返って右京の足枷なんだよ。俺らがあいつに係われば係わるほど、あいつは身動きとれなくなっていくんだ。逃げようにも逃げられなくなっていくんだ。その意味が判るか、ああ?」
「…………」
「判ったら、二度とこの件に口出しすんな。――いいな」
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